嗚呼、愛しき工房の日々 2なぜ彼は限界まで身を削り取り組むのか。現状をどう思っているのか。動機や望む方向性がわからなければ効果的な対策もできないと、ダンテは書類の引き継ぎ終わりにさっと質問を滑りこませて彼を探る。
<ねえ……君もグレゴールのように、お金が必要だからたくさん仕事を引き受けているの?>
「いいえ。ただそこに仕事があり、私はそれらを片付けられるのでそうしているだけです」
なんの感情もこもらない無機質な声。向けられた顔の中にある彼の目は特に何かを結ぶこともなく壁へと投げられており、相変わらず時計を見ない。
ダンテは他人に見えることのない口を開き、しばし逡巡の後、音が出る前に首を振った。
ひとまず彼は現状、仕事を押し付けられていること自体に不満を感じているわけではないようだ。正義感や義務感、或いは必要とされることへ無意識化での依存。動機の候補はそのあたりだろうか。
十分に絞りこめているわけではないが、今ここで不躾に否定する必要もない。
<そっか。頼りになるんだね>
「ただすべき仕事をしているだけです」
突き返された賞賛が針に当たりはねるイメージがふと湧いて、誰にも見えない顔で苦く笑う。
褒めて距離を縮める、というものが全く通用しない相手は昔から苦手だ。敵意のないだけましではあるが、無関心を貫かれるのも辛いものがある。
<……仕事をいくつか君に教わりたいけれど、引く手数多で難しそうだ>
それでも諦めるわけにはいかない。用件が終わったならともう既に次の仕事のことを考え始めたらしい大きな背中へ、ダンテは負けじと褒め言葉を投げつけた。
2.
わからない書類のことを聞こうとすれば、何番後に対応しますのでそれまでお待ちくださいとこちらも見ずに無機質な声が返ってくる。机に積まれた書類の束からただの口実程度で手を止めさせていい業務量ではないことは明らかで、適当に濁して撤退するのが数度。
ドリンクの補充に席を立ったわずかな時間に休憩を促し話しかけても、ぼんやりとした返事と共に濁った沼のような目がこちらに焦点もあわない一瞥を投げるのみだった。
<そのエナジードリンク、好きなの?>
「別段好んではおりません。効率よく疲労をとれるのがこれであるだけです」
<えっと……じゃあ何か好きなものはある?>
「……そうですね。カフェラテでしょうか」
ようやく一つ好みを聞き出せた。内心ガッツポーズをして、ダンテはさらに会話を進める。
<カフェラテだね。今度差し入れするよ>
「いえ、結構です。疲労回復や眠気覚ましの効能上、エナジードリンクを摂取する方が高効率ですから」
<そ、そう……>
糸口を得たと思ったのも束の間、瞬時に断ち切られてしまえばすごすごと撤退する他はない。
<ううん、難しいな……>
事務室からの音が小さく反響して届く廊下の奥で、ダンテは一人壁にもたれて手帳へガリ、と線を引く。書き出され、そして打ち消された項目はもう二桁を超えていた。
ムルソー自身に改善を要求しても、不可能である理由が返ってくるのみだ。そしてそれは基本的には他者の行動や環境に由来する。工房全体を変えなければ、彼の改善も見込めなかった。
規模の小ささもあるのだろうが、この工房は人の育成面に関するものがあまりにも乏しい。何せ会長が営業と現場の特化型で、そこの整備にはとんと向いていないのだ。
勤勉で向上心のある者は自力でどうにかしていくが、そうでないものやトライアンドエラーを重ねる根気のない者はいつまで経っても何かを身につけるということがない。
目的を達成するためにも、まずは底上げが必要らしい。幸いここの最高責任者は、必要な経費も含め改善に必要な全ての判断を管理人へと放り投げていた。
そこからダンテは数週間かけて基盤を整え、周囲への働きかけを重ねていった。
いつもムルソーが報告書の作成を代行している年配フィクサーには、音声入力のツールや初歩的な操作方法のマニュアル、より簡単なはめ込み式のテンプレートを用意した。相応しい文体に修正するためという名目で最後に見せてもらう約束をとりつけて、心理的な報酬を与えると共に新しい技術を身につけることへの動機づけを繰り返し行なっていけばいいだろう。ドンキホーテにでも頼んでおけば、努力する姿を輝く目で褒めちぎってくれるはずだ。
恋人とのデートを理由に仕事を押しつけて帰っていた若いフィクサーには、やや背伸びした店の優待券をチラつかせてまずは自身の仕事に最後まで取り組ませた。その中でダンテを含めた他の所属員とわからないところを教えあい、階段を一歩上ったところでつい最近年俸が倍額になったらしいある者の話をした。仲間意識に加えてできる仕事が増えれば収入が上がる職場という認識を与え、仕事への努力と恋人との暮らしに正の相関があると考えさせることが重要だった。
ついでに会長にも改善を要求した。重要な書類の承認まで放り投げてしまい、意欲の高いフィクサーが一人困り果てていたからだ。<私ならいいように利用して責任だけとってもらうのに真面目だよね>と笑えば、「問題ないでしょ、あなたなら」だなんて随分と信用されたものだ。それでも投げるなら投げるで『あなたを信じて任せたのは自分。何があっても責任はとる』という点を最低限はっきり言うよう促せば、盲点だったと目を見開きそのフィクサーの元へと向かっていった。きっと美味しいケーキでも振る舞い、可愛がりながら話をするのだろう。自分が悪いと思えばきちんとする人だ。
周りを変える目処がたったところで、一旦は傍に置いていた直接のアプローチへと立ち返る。
あまりにも他と同じ手が通用しないため、ついにダンテは考え方を変えた。
ターゲットは職務上の命令には驚くほどに忠実で、管理人としての目的は彼の勤務環境を改善することだ。必ずしも私的な事柄からの働きかけにこだわる必要はない。ダンテ自身が身につけてきた対人スキルとは大きくかけ離れていたし、本来は忌避すべき『立場を利用する』方法に躊躇いもあるが致し方なかった。
デスクに座り黙々と作業をこなすムルソーの後ろに立ち、ダンテは大袈裟なほどに背筋を伸ばす。
<ムルソー。手を止めなくていいからそのまま聞いて>
「はい」
<今からお菓子を君の口に入れます。食べなさい>
かさり、と手の中の外袋を鳴らしてみせれば、パーテーションに薄らと反射した彼の眉間に皺の寄ったのが確認できる。
「…………衛生上好ましくありませんが、上司命令でしょうか」
<この通り未開封だ。そして私はビニールの手袋をはめているのでなんの問題もないと思うけれど>
難色を示すのは想定内。提示される拒否の理由を理屈で折り、積み重ねる。
<適切な間食の摂取は作業効率を向上させるから、仕事も早く終わるんじゃないかな>
律儀に返事をしてくれるのは耳と口が空いていたからで、自ら食事を摂らないのは文字通り手が塞がっているからだ。『今使っていない部位』だけで効率を高められるのなら、彼はそれを拒まないだろうという確信があった。
「…………………………わかりました」
<ありがとう>
待ってましたと言わんばかりに菓子を剥いてくっつける。ムルソーのかさついた唇が渋々薄く開かれたところに、ナッツとドライフルーツたっぷりのそれを押しこんでやった。
背中越しに見えるもごもご動く頬にダンテは小さなガッツポーズをきめる。また一歩前進した。食いつきがよく次も求めやすいチョコレートでできたものを、迂闊に持ち運べばとけてしまうこの外気温の中でどうにか工夫し用意した甲斐があったというものだ。
食べさせる量を増やし、足りない栄養を補いながら食欲を引き出し、段階を踏みながらいずれは自発的な昼食や間食を摂るようになるまで持っていく。
腹が膨れ糖類過多になりやすいエナジードリンクも並行して減らしたいところではあるが、作業効率の低下ごと許容させるための理屈も代替品も用意できなかったためにやむを得ずの先送り。
既に教育の効果で彼へと回る仕事の量を僅かだが減らせつつある今、他が育つのを待てば待つほどに彼が早く帰れる日も増える見込みがあった。適切な睡眠時間さえ確保できるようになれば、眠気覚ましや疲労回復に必要な量そのものが減っていき、解決できるはずだ。
だから今はまだ大丈夫、と。
思って、いたのに。
その朝出勤した時に過ぎった僅かな違和感。
なんだろうと周囲を見回して、その正体にはすぐに気がついた。
──彼がいない。
外勤の勤怠が書かれたボードは、ある一つの隊が昨日の夜の仕事を終えていないことを示していた。いくつかの名前に、グレゴール、そして色の違うマグネットで付け加えられた応援のムルソー。
以前から予定されていたその厄介な現場には、現場でも優秀だったらしい彼が必須だという。せめてそのまま帰れるようにといつも以上に手を尽くして調整したのだ。
直帰したのなら終了報告の反映が遅れることもあるが、その日の夜間担当が連絡を受けた記録すらデータベース上には存在しなかった。
<……おかしいな>
ダンテがこの工房に来てから、翌朝までかかる夜外勤の例はなかった。ごく稀にそういうこともあるとグレゴールから聞いてはいたし、実際報告もない以上は待つほかないが不安が募る。
最悪を考えるなら。増援を呼ぶ暇すらなく、全滅した可能性。
駆け寄ってきたロージャがぽんと肩を叩く。
「大丈夫よダンテ。相手が逃げて閉じこもっちゃったから、夜明けを待って突撃するんだって。工房からそんなに離れてもいないみたい。……メールがきてたの」
<……うん>
本当に不思議な人だ。ダンテは少しだけ安心した。青ざめた顔が認識阻害で映し出された時計頭へ反映されることはないはずなのに、彼女は正確に感情を読み取って手を差し伸べる。初めて出会ったときもそうだったけれど。
やきもき上の空で仕事をすること数刻。
太陽が高く昇る頃ようやくポケットの端末が震え、表示された名前にほっと胸を撫でおろす。
<もしもし? ムルソー、終わったの?>
電話の向こうは相変わらず静かで、持ち主の代わりに重い音がひとつゴツリと返事をするのみだった。
<ムルソー? ねえ、ムルソー!>
認識阻害機の映しだす時計のふちへと沈みこむほどに端末を押しあてれば、遠くから微かに声が聞こえる。
耳障りなノイズのような音がして、そして。
『……ソー、おい! ……ああ、旦那か?』
<う、うん。グレゴール?>
聞こえてきたのは電話の主ではなく、同行していたグレゴールの声。
嫌な、予感がする。
『……ムルソーのやつ、ぶっ倒れちまった』
ああ、やっぱり。
合理的な理由なんか見つからなくたって、やめさせてしまうべきだったんだ。
ダンテはよろめいて壁にもたれ、ずるずると滑るように崩れ落ちた。
かたく握りしめた指先が冷えていく。
息が上手く肺へ入らない。心臓は早鐘をうち,パソコンも、デスクもぐにゃりと歪んで見えた。
頼まれていたのに、間に合わなかった。
私のせいだ。
『あんやぁ、飲まないか……。ダメだ旦那、水も飲ませられない。どうすりゃいい』
<────!!>
グレゴールの助けを求める声でぐるぐる沈む思考から引き戻され、ダンテはもたれていた壁で体を支えながらゆっくりと身を起こす。
<水……その水、ムルソーに頭からぶっかけて!>
そうだ。
今すべきことは後悔でも自責でもない。
<それから……君のところの隊長、大きくて力自慢だったよね。その人に頼んでムルソー担いで私の家まで連れてきて。早く!>
カフェインの日常的な過剰摂取。食事を満足に摂らないことによるナトリウムの不足。
慢性的な睡眠不足による血圧の低下、そして今日のこの暑さ。
倒れたのは十中八九熱中症だ。それが失神ともなれば、もう一刻の猶予もない。
電話を持たない方の手で隠れた頬を叩き、ダンテは一度、強く息を吐いた。