花の浮橋 サンプル②「そうですか。沖縄に」
「ええ、乙音くんのおばあさん、乙音くんや私たちはおばあと呼んでいるのですが、近くで演奏すればいいのでは?と提案してくださって」
もう一度スタオケとして活動しよう。
そう決めた矢先にたまたま乙音の祖母から電話が掛かってきた。そして、すんなりと演奏の予定ができた。
沖縄に行くとなれば必要なものも多くなる。このあと香坂と買い物に行く予定だ。
そして、その前のわずかな時間を縫って浮葉と会うことにした。彼ともしばらく会えなくなるから。
ただ、お互いのスケジュールを考えると、カフェを探す時間すら惜しく、こうして山下公園で落ち合うことにした。
先に着いていた浮葉がクラリネットを演奏しており、それが以前より艶めいていたのが印象的だった。
山下公園のベンチに腰を掛け、アイスティーの缶に口をつけながら唯はそう話す。
この間までホットが欠かせなかったが、最近だとアイスでないと暑いくらいだ。
そして、桜も人々に惜しまれているうちに花を散らせてしまった。自分を取り巻く環境と同様、花の変化のスピードにも今年はついていくのが精一杯な気がする。
それにしても、肌を重ねたからだろうか。ベンチで座っていても、隙間ができることが惜しいと思ってしまう。
一方で恥ずかしさゆえ浮葉の顔を直視できない。
彼から漂ってくる伽羅の香りを感じ取りながら唯はもどかしい気持ちになっていた。
「ローカルといえばいいのでしょうか。地元の方しか集まらないけど、でも再出発にはそれがいいかと思いますし、クラシックに詳しくないからこその純粋な反応もあるかと思うので」
「そうですね」
そう言いながら浮葉は優しく唯の頭に指を差し入れ、自分の方に引き寄せる。
「でも、寂しいものですね。あなたが離れてしまうというのは」
その言葉を聞いて唯は思う。
そんな浮葉だって自分を置いてスタオケから去り、そして今だって黒橡として全国各地を飛び回っている。
だけど、それは彼の意思だけではどうしようもなかったこと。
それを理解できた今はその言葉をそっと飲み込む。代わりに口にするのは決意の言葉。
「私、もう一度頑張りますね。スタオケがもう一度輝きを取り戻すために」
隣の浮葉の顔は直視できないため、空を仰ぐ。晴れた空に太陽が輝いている。
「それに浮葉さんとの幸せを掴みとりたいから」
そして口には出さないけど唯は思っていた。黒橡としての浮葉は嫌いではないけど、もっと彼らしく生きられる道があるのではないかと。
選ぶ余地は限りなくなかったとしてもそれでも本人がその道を選択した。だから先ほどと同様、そのことは呑み込む。
彼と想いが通じ、肌も重ねた。
それだけで満足できず、この幸せが未来永劫続くことを無意識に願ってしまう。彼がどう思っているか確かめもせずに。
「おやおや」
隣の浮葉からは面白がるような声が聞こえてくる。
決して嫌がる様子でないことに唯は安心していると、彼から小さな小箱が渡された。桐で作られており、それだけでも高級なものだとわかる。
「先日、京都の家に帰ったとき、見つけたものです」
「開けていいですか?」
「もちろん」
自分が本当に手にしていいものなのだろうか。
ドキドキしながら箱を開けるとそこにあったのは漆塗りの櫛であった。
「あなたのその髪に合うかと思いまして。私はともに行くことができませんが、その代わりとして過ごしていただけたら」
「ありがとうございます」
浮葉からこぼれ落ちる言葉を何とか受け止めながら唯は感謝の気持ちを述べる。
彼は日々あちこちを飛び回っている。そして、立ち止まらざるを得なかった自分もこれからは似たような状況になるだろう。
だけど、この櫛を持つことでともに過ごすことは叶わなくても、彼を感じ取ることができる。そんな気がした。
「それにしても可愛らしいお方だ」
そう言われたかと思うとふいにくちびるを塞がれる。温かい感触が浮葉のものだと気づいたのは少ししてから。
その甘さに酔いそうになると、くちびるは離れてしまう。
寂しい気持ちで彼を見つめると、浮葉は唯の髪をそっと触れてくる。
「これ以上はよしておきましょう。離れがたくなる」
浮葉の瞳の中に宿っているものが自分と同じ気持ちであることに唯は気がつく。
だけど、これ以上彼を見つめていると自分もやはり離れがたくなる。
心が引き裂かれそうな気持ちになりつつも、唯は浮葉から離れ、そしてその場から立ち去ることにする。片方の手を振り、そしてもう片方の手には浮葉からもらった櫛を握りしめながら。
「綺麗な櫛ね」
沖縄での演奏会が始まる前、唯は香坂に髪のセットをしてもらうことにした。
おしゃれで、そして、自分にはない視点を持つ先輩のアドバイスは唯に新鮮な気持ちを与える。
今日も髪の毛をとかしてもらいながら、唯はどんな魔法をかけられるのか楽しみにしていた。
「御門さんからいただいて……」
同性の目から見ても魅惑的なこの先輩に対して浮葉とのことはまだ話していない。
だけど、勘の鋭い彼女のことだ。おそらくある程度は察しているだろう。そもそも自分が御門に初めて会った直後の様子を香坂は見ている。
ふーん。最初にそれだけを話す。そして、頭の上から少し面白がるような声が聞こえてくる。
「男性が櫛を送る意味、わかっているかしら?」
思わず振り向くと、そこには嬉しそうだけど、どこか寂しげな様子も兼ね備えた香坂の瞳が見えた。
その反応が気になり、唯は演奏会直前だということも忘れ思わずスマホを取り出す。
「男性 櫛」
これらを入力して出てきた内容を見て、思わず唯は目を丸くする。そして、マインの画面を開き、浮葉に電話する。
『もしもし……』
今、浮葉はどこにいるのだろう。
それは定かではないが、彼は呼び出し音二回で出た。
静かあることを考えると、もしかすると今日はオフで部屋にいるのかもしれない。
「浮葉さん、櫛を送ったことに深い意味はないですよね!?」
単刀直入にそう聞いてみる。
すると電話の向こうで少し間があき、そしてクスッとした声が聞こえてくる。
「気づかれたのですね」
電話越しの声は笑っていたが、直後にキリッとした声に変わるのを唯は感じる。
「今ははっきりとした約束をできる立場ではありませんが、また来年も、そしてその先も、あなたと桜を眺められたら……」
その言葉に唯はドキリとする。
先ほど検索で引っ掛かった言葉と今の浮葉の言葉、それらを重ね合わせて浮かぶのは『求婚』の二文字。今までの彼の言動を考えると軽い気持ちで言ったとは思えない。
少し前まで存在すら遠く、そして近づいたかと思ってもどこか実感が湧かないでいたが、急に浮葉との未来が近づいてきたように感じる。
「沖縄のお土産、買っていきますね」
照れ隠しもあり、それを早口で伝えると唯は電話を切る。
すると背中から「よかったわね」、そんな言葉が聞こえてきた。
今の会話を全部香坂に聞かれたことに唯は焦るが、それと同時にじんわりと彼が自分との未来を考えてくれている幸せが浸透してくる。
離れていても心はひとつ。まだ確固たる絆には程遠いかもしれないけど、自分たちは少しずつその関係性を築こうとしている。
唯は沖縄の空を見上げた。この遠い空の下には浮葉がいる。離れていてもきっと気持ちはひとつ。
まるでそんなことを伝えてくるような眩しい空の色であった。