視界に広がるのが彼の顔ではなく、見慣れた寝室の天井であることを脳が認識するよりも早く耳をついたのは己の荒い呼吸音だった。夢と現実の境目が曖昧で心臓が嫌な音を立てているのが分かる。
無理矢理深く息を吸って吐く、を繰り返しようやく少し落ち着いたところでベッドの中の隣が空っぽなことに気が付き、どくりと再び心臓が跳ねた。
勢いよく起き上がって一人分空いているスペースを震える手で撫でる。
そんなわけない、あれは夢だ。ケーキだフォークだなんてものは存在しないし、俺は三井さんを食べたりしない。
動揺を現すように、どくり、どくりとだんだん大きさを増しながら耳元で鳴っているように感じていた動悸の隙間にふと生活音が飛び込んでくる。息を詰めて耳をすませば、寝室の向こう――おそらくキッチンから物音が響いてきて、何度も聞いた耳慣れたそれに一気に脱力した。まだ胸中にわだかまる不安を全て押し出すように大きく息を吐く。
大丈夫、ここは日常の延長で、俺と三井さんは普通の恋人同士で、おかしい世界なんてものはない。
ゆっくりとベッドから降りて寝室の扉へ向かう。早く彼を抱きしめてその存在を感じて、あれは夢だったのだと確かめたかった。ドアノブに手をかけたところでふと違和感に気が付く。懐かしいけれど嗅ぎなれない匂いが隙間から漂ってきていた。
なんだっけこれ、この家には不釣り合いな、でもいつだったか分からないくらい幼少期に感じたことのある香り。
意を決してドアを開ける。キッチンからあふれリビングにまで充満しているそれは足を踏み入れるとすぐに鼻に飛び込んできた。一般的なイメージでいえば幸せの象徴のような香りだというのに、夢の既視感にさぁっと血の気が引く音がした錯覚を抱く。前へ進む足取りが覚束ない。俺の立てる物音に気が付いたのかキッチンに立っていた三井さんが振り返った。
「おう、おはよ。なんか早く目が覚めちったから朝飯作った。ほら、ホットケーキ」
きっと綺麗に焼けたのであろうそれが乗った皿を嬉しそうに見せてくる笑顔は朝の光に似つかわしくきらきらと輝いていて、だけど夢の最後に見た顔と重なって見えた瞬間、俺はトイレに駆け込んで吐くものの無い胃から胃液をぶち撒けた。