Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    関東礼

    @live_in_ps

    ジュナカル、ジュオカル、ジュナジュオカル三人婚
    成人済

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💐 🍣 🍰 🎆
    POIPOI 24

    関東礼

    ☆quiet follow

    10月発行予定の短編集に収録するサキュバスカルナさんのジュナカルの作業進捗です
    サンプルで出せるところまで

    #ジュナカル
    junacar

    万華鏡暮らしのかわいい悪魔 完璧な日没を済ました空が薄手のジャケットを着た肩へ懐かしそうに接し、幅の広い影を生んでいた。カルナにはさいしょ、それが誰かわからなかった。若い男だ。後ろ姿では年齢は曖昧になるが、膝から腿にかけての発条が入っているかのような力強さでおおよそ察した。凜々しさの種類も―三十歳を超えた青年には特有の迫力が宿る―まだ柔和で、癖のついた黒髪は僅かな明かりを吸って天使の輪を浮かべている。はっと思い出した。アルジュナだ。四つ年下の従弟がカルナの部屋の前に立っている。褐色の指がインターフォンのボタンを押した。その後しばらくじっと動かなかったから、もう一度ボタンに指を伸ばすと思ったけれど、彼は物言わずドアを見つめ、アパートの階段を廊下の向こう側からおり始めた。カルナがそっと後ろについていき、見下ろすと、アルジュナが一歩道へ踏み出した途端、雨が降り出した。九月生まれの、まだ十九歳の従弟は、六月の雨ののろまな銀糸を振り切って走り出した。会社から帰ってきたばかりのカルナの鞄の中には、バーバリーチェックの折り畳み傘が入っている。鍵をあけ帰る部屋の傘立てに、モスグリーンのラインのプリントされた物が一本。差し出せば良かった。思って、祈るようにカルナは躊躇った。昔、彼を襲ったことがある。しかし、彼は彼に会いに来た。ドアを開け内側から施錠する仕草に、アルジュナの見たかっただろう光景が重なった。カルナが顔を出すのを期待していた筈だ。その通り。本当はもうキッチンで夕食を作っている時間だった。五歳のアルジュナがカルナの髪みたいと言ったとうもろこしのひげを切り、皮を剥き小さな身を芯から外している筈だった。全部彼の顔を見ないままやる。うがいの合間に洗面台の鏡に視線をやれば、舌がじんと疼いた。ウォールナット材の枠に囲まれた真四角の反射面に、カルナの模様がひりひり光っている。薄い舌は生き物の肉にぴったりとはり付くよう細やかにひらつき、神経が通っている。そいつはアルジュナをとてもよく覚えている。白熱灯によって青みを帯びた黄色に変わった光が、カルナの口内に侵入し、粘膜をつやめかせた。模様は口を開きすぎた彼が発した溜息に従弟の名前に含まれるものと同じ音を見つけて痺れ、熱をもつ。そいつはアルジュナを愛している。いや、愛してなんかいない。
     ひどいやつだから。
     閉じた口が異様に熱く、うんざりする。なにもかもをやめてしまいたい。アルジュナは、カルナのなにもかもと密接に結びついている。何年越しに見つけてさえ。

     平等に降り、粉めいて舞い踊る雪が真っ白に均した庭を喜んで、カルナは毛糸の帽子を被った。母親の精神は珍しく安定している。干していた防水手袋を洗濯ばさみから外し、カルナの小さな手を両手で守る風にして嵌めた。アルジュナがつけてきた手袋はすっかり濡れてしまい、年上の従兄と張り合って外で遊ぶには冷えすぎている。カルナの物を貸した。未就学児の頃に使用していた衣類はプラスチックのチェストにひとまとめにし、五人いる従弟達に分けたり貸したりしていた。アルジュナは三男坊で、この子の長兄は嫌がらず従兄の衣類を着たが、次兄は頑なに拒絶した。カルナが悪魔だったからだ。父方の家系の隔世遺伝で、すでにとびきり美しかった。すらっと背が高く、色白で骨格がなだらか。髪は日差しを受けて淡い金色に光るが、影に入れば桃色を帯び、耳に沿ってしんなりしている。肩に向けておりる襟足はふわっと広がり、つむじの辺りは大胆に纏まりクリームのように束になってはねていた。唇はまっすぐで、瞳の輝きは澄んでいる。懸命になると目と眉の間が狭まり、怖ろしい印象になるから、美々しさはいっそ鋭かった。両親はかわいいカルナを喜ばしく思うばかりで、悪魔の性質をさして気にとめていなかった。将来パートナーを選ぶとしたら、選択は悪魔の指向によるかもしれない。人間の男性を雌と感じる、そして人間の女性を雌の幼体と感じる、同床異夢の悪魔だ。しかしカルナの家族には、そのとき、彼が悪魔であることより差し迫った問題があった。母親が乳房を切除するという。
     庭は玄関を抜けて右手側、ジューンベリーの枝のまろやかな撓みに、乾いた雪が降りかかっている。カルナの赤い帽子の生地を、雪片はするすると滑り、膝下の高さでそっと留まる。ズボンの裾をすっぽりと長靴に入れ、履き口の部分のリボンをぎゅっと結んだアルジュナが、よたつきながら近づいてくる。一歩進むごとに、足の周りに雪がけぶって、彼の足跡をほんの少し埋める。カルナがじっと待つ。この子にとって、カルナが待つ姿勢をとってくれるというのは、どうも特別に嬉しいらしい。大人だと思って好意を向けているのだ。急かさず、視線を反らさずアルジュナの辿り着くまで待ち、
    「カルナ!」
    と呼ばれたら目を覗き込んで頭を撫でる。年下の子との遊びはおもしろい。なにをしでかすかわからずハラハラする。カルナの好きな遊びは天使だ。雪に寝転んで、手足を横にばたばたやる。跡は羽根とスカートになり、頭から首にかけてがカルナの、雪影の天使ができあがる。ラベルを書いても良い。アルジュナに名付けさせてあげても良い。楽しみは最後にとっておくべきだ。雪玉を作り始めた従弟にならい屈み込んだ。冷気が鼻の下をくすぐる。
     玄関の扉が開き、母親が息子を見やった。水色のセーターは乳房に押し上げられて、カシミヤの光沢が目立っていた。手に持った盆にティーセットが一組、コジーをかけ忘れてポットから湯気が立っている。客人をもてなす合間に、カルナの様子を見に来たのだ。彼は手を止めて彼女を見つめた。親密さの壊れつつある際に引き絞られる、緊張の弓が、静かに鳴いていた。雪玉を両手に握ったままの彼が彼女の方へ身体を近づける。背中に冷たいものが当たった。雪玉だ。アルジュナが足下に並べた雪玉を次々に投げてくる。振り返って投げ返した。触れればすぐにぼろぼろと崩れ、風に流れた雪が口に入る。二人の子どもの喉に雪片が張り付き、呼吸をぜえぜえ言わせて、苦しさから体温があがる。高揚は火照りを起点にした。たった今までの微かな気がかりは修正が可能な間違いに思えてきた。ボタンの掛け違いとか。書き損じた文章に修正テープを貼るとか。
     カルナにとって、病気になった母親をどう慰めるかはつねに重い課題だった。かわいい女性だ。裕福な家庭の末っ子だった彼女の茶目っ気はかなり老成していた。その一面しか知らなかったと言って良い。なにせカルナはまだ十歳で、自分以外を相手にした適切な気遣いを考えつくには幼く、観察力も足りなかった。病の進行による苛立ちを抑えようとふとした瞬間表情を失う母親に怯えた。息子の顔を見た彼女がはっとして笑顔を作り、カルナの子どもらしい潔癖と本来の我慢強さが相互に作用して湖のような目で深く見つめてくるのを受け止め、黙りこくる。親子の会話は時計の秒針であり、風の音であり、シンクに零れる滴の音だった。二人は一度も投げ出さなかった。投げ出しても大したことは起こらないとこのときカルナは初めてわかった。夢中から醒めて振り返ったときには彼女はすでに家に入っており、踏み固められた玄関前に残っているだろう足跡もわからなかった。アルジュナはカルナの集中と興奮を見てとってきゃらきゃら笑い、庭を一周した後にぶつかってきた。長い前髪に水滴が沿い、赤く染まった頬へつるつる滑る。用心深い猫のような目つきのこの子が喉を開いて笑っている。カルナのコートに掴みかかり、胸に顔を埋めぐりぐりと押しつけた。
    「カルナ」
     鼻筋に垂れる髪が耳にかかり、瞳が輝いた。彼を見下ろしながら、カルナはどうしても顔を寄せなければいけない気がした―無上の喜びを感じるために。とびきりのケーキからセロファンを剥がすときのように、カルナはアルジュナの耳へ指先をあて、頬をそっと持った。
    「カルナ」
     アルジュナがもう一度呼ぶ。この子はカルナの様子に気付き、澄ました態度で目を閉じた。ふっくらとした唇が意思によってつんと尖る。これは雌蕊だ。なんてかわいい雌だろう。大人びた顔を見せるけれども、まだ子どもの雌。カルナに栄養を与えることはできない。せいえき。雌の噴水を搾り取り汲み尽くし胎で味わう。カルナはすべての予感を忘れ去っていた。つまりすべての後悔の前徴。カルナが人と接するときにいつもある躊躇い。それらは引っかかりの少ないカプセルに包まれ、ごくんと息を飲むと同時に情熱の奔流に混じった。唇の触れ合いを感じたアルジュナが後ずさり、左の踵がむすっと雪を踏んづけてバランスを崩す。カルナが後ろ頭を支えた。皮膚は歯がぶつかって破れ、アルジュナの体液を取り込んだ。もう我慢できない。
     舌がひりつく。思春期を迎えつつあるカルナのそこは、雌に刻むための紋を宿している。血が騒ぎ、粘膜はたっぷりの唾液にまみれ爛熟し、アルジュナの舌に吸い付いた。舐め、しゃぶり、アルジュナの血と唾液を啜り、舌全体に掻痒感が走る。カルナに降った雪がアルジュナの身体の横に落ちて積もり、彼の形をした寝台に、アルジュナはされるがまま寝かされていた。コートは濡れて重くなり、二人の身体を冷やす。ぶるっと身震いし、口を外した。
    「カルナは私を嫌いだと思っていた。いつもうざったそうにしているから……」
    「そんなつもりはなかった」
    「うん。でも私のこと好きになってくれたんですよね。だからキスしてくれたんですよね。うれしい」
     アルジュナが泣き出した。カルナの作った寝台を、アルジュナの涙が溶かしていく。
     ううん。前から好きだったよ。好きでかわいいからキスをしたんだよ。そう言ってあげるべきだとわからないほど脳味噌は茹だっていた。
     三角形の屋根を覆う雪に裂け目が入り、地の濃緑色がみるみる広がった。ジューンベリーの葉が落ちる。アルジュナの腕を引いて起こすと、潤んだ目のその子が呻きながら向かってきた。カルナはさっと避けて眉を寄せる。なにか言わなければいけないが、正しい言葉が出てこない。アルジュナを思いやる、アルジュナを喜ばせるなにか? その言葉を「正しく」してしまったのは、悪魔の舌だ。
     青いセーター、母親の胸が思い起こされた。あの膨らみを見なくては。あの膨らみに顔を埋めなければ。
     口を噤み母親の元へ戻るカルナに、彼女は指を一本立て首を振った。
     静かに。ここにきてはダメ。
     それでカルナはようやく、自分が取り返しのつかない間違いを犯したと気付いた。

     誤解による不仲から出て行った恋人を探す気持ちでカルナを求めていることに、アルジュナはこっそりと苦笑した。叔母の家のカーテン―次兄が贈ったガラス玉の連なった物―を手で分け出てリビングに行き、ソファに腰掛ける。サマーセーターに隠された彼女の胸は片側だけない。短く切った髪を襟足、前髪と触れ、彼に向き直った。
    「貴方は気立ての良い子だったからずっとお気に入りの髪型で過ごしていられたのよ。カルナは美容院にいる猫を気にして動くから、幼稚園にいる間は後ろ髪を伸ばしていたの」
     彼女が彼の前で息子の昔話をするようになったのは四年前からだ。わかっていた。甥が週一回掃除を手伝いにくるのは別れて暮らすカルナの話題を聞き出したいがためだ。アルジュナの顔には「いつも知りたいと思っています」とでも書かれているような好奇心と懸念があって、それはガールフレンドについて尋ねたときやテレビに映る女優を肴に好きな女性のタイプを当てようとしたときに沈黙する。彼女は冴えていたし、率直だった。別れた夫を仲介にして息子から連絡をもらったとアルジュナに打ち明けて、彼の顔の輝きを見てとった。アルジュナはカルナにキスをされたことは隠していた。それは切り札で秘め事。いつも素っ気なかった従兄の薄い唇が唇に触れ生じた混乱は、夏、グラスに入れた氷が溶ける速度よりずっとはやく甘い驚きに変わった。響き渡る。誰かとの触れ合いの感覚が音楽めいて胸を渡っていくと初めて知った。寒さに縮んでいく手足は知覚できなくなり、絡みついてくるカルナの舌の柔らかさと、開いたり閉じたりする唇の滑らかさが熱感と合わさる。ダッフルコートは硬い、とぼんやり感じた。叔母と同じテーブルを前に膝を突き合わせ、アルジュナはガムシロップ入りのアイスコーヒーを気まずく啜った。ストローを軽く噛む。貴方の息子に恋をしている。わかりやすく言い表すのならば確かにそうだ。ただあのキスがあるゆえに、カルナの脅威になりうる彼の恋は、彼自身にとっても一種のカルトだった。なんともオカルト的な。
     ある日の午後。カルナとの出会いは小説でそう書き出されるような人生の岐路だった。
     空港で出て快速列車に乗り、駅ビルの中にある寿司屋で叔母夫婦と一人息子のカルナに会った。カウンターではなく座敷を借りて、中心に青い模様の編み込まれたい草の座布団に座った。双子の弟たちはまだ生まれていなかった。冬のキスも、出会いも七歳になる前の記憶で、成長とともに薄れてもおかしくない筈が、アルジュナの心臓に焼き付いて離れない。カルナが見せた。座敷で待つアルジュナとその家族の前に、母の妹である叔母夫婦と、カルナが現れた。叔母とはビデオ通話で話した覚えがあるが、叔父と従兄は初めて見る。美しい私の夫―叔母は冗談交じりにいつもそう話した―美しい私の息子。美しい、という言葉の似合うのは叔父の方だった。カルナといえば、新鮮な、というか、眩しい、と言いたくなるように髪も肌も白く、青い目の色も底に反射板を挟んでいる風に明るかった。
    「オレの腹と同じような模様がある」
     彼は座布団を指さし、服の裾を捲った。顔よりも青っぽく白い腹の、臍の影の下を、従兄が何度か摩った。赤紫色の繊細な、ハートマークを基調にしているだろう模様が浮かび上がった。
    「息子はサキュバスなの。隔世遺伝のね」
     アルジュナの母も父も、眉をひそめさえしなかった。
     人間と交配する、人間と同じ社会構造に適応可能な植物。カルナの正体はそれだった。花の類いに容貌が優れ、繁殖力の強さに起因する人間への高圧的な態度から悪魔と呼ばれる。数は少なくなったといえど法で保護される、人類と近しい一種だ。瞬きを繰り返すアルジュナの目に、険のある容姿の従兄の微笑みは鮮烈だった。子どものふっくらとした下腹が赤っぽいハートを拡げている。
    「お寿司の前だから、お腹は隠しなさい」
     叔父を見上げさっと下着をズボンに入れた。
     新鮮な従兄が美しい従兄に変わるまでそう時間はかからなかった。変化は劇的でなく、日差しによる陰影の濃淡の変化のように行われた。アルジュナは一時期まで涼しかったし、子どもながらに平常心を保ち理性的だった。けれどカルナは眩しく、暑く、彼を見ると全身がじりじりと灼けるようで、身悶えしたくなった。彼の傍に立った途端、生命の活動がビビットに鼓動する。キスによってまなうらに見えたものは、血流だった。心臓が脈打ちながら全身と肺へ血液を送り、動脈がその荒々しい奔流を隅々に広げる様をスクリーンに映す。
     あの瞬間を思い起こすたび、あるいはあの瞬間の記憶にふいに襲われるたび、アルジュナは人前であってもベッドの中でも身体が強ばる。彼のそれは多くの人々にとって原因不明の発作に見えた。さりげなく気遣ってくれる。
     心配いらないよ、アルジュナ。君が畏まるような脅威はこの世には一つもない。君は良い子だから。
     叔母が果物入りのゼリーを菓子皿にあけ、デザート用の銀スプーンを添えてテーブルへ出した。
    「貴方の好きなさくらんぼのゼリーよ」
     じっさいには、アルジュナが良い子であることと、彼の脅威の間にはなんの関係もなかった。脅威とはカルナだから? それも違う。
     皆が彼を安心させたいがために、深く考えず、彼の心を幻視し言いたいことを言っているだけだからだ。アルジュナは孤独だった。カルナが孤独にした。

     梅雨のない土地に住んでいるカルナには、夏の雨の来客は啓示に思えた。とはいっても、人智には饒舌なほど明らかな罪の警鐘を鳴らしている。向き合うときがきた。肌寒い早朝と深夜を数日過ごし、また家路への行進に加わった。
     車を駐車し、鍵をかける。ダイハツのウェイクは入社前にアルバイト代で買った。母親と父親はカルナが十二になる年に別居し、時間をおいて離婚した。彼女の精神的な不安定さが理由だった。一軒家は母親の相続したものだったから、父親と暮らすことになったカルナは新しくマンションへ住まいを移した。いまでも思い返す。庭付きの一戸建て。カルナと母親が二階に自室をもち、浴室も二階にあった。父親の居室は玄関を抜けリビングと繋がる六帖。以前は彼の書斎で、趣味の園芸関係の本や自然科学の本が棚に並んでいる。それぞれの部屋にベッドがあったが、バルコニーと繋がる二階の洋室に布団を敷いて川の字になり眠ることがあった。夕食を終え、母親にせっつかれ風呂に入り、乾かしたばかりの髪を靡かせ階段を下りた。リビングで過ごす両親はぴかぴかのカルナを大げさに喜んだり、労うようにソファを譲ったりした。それも十歳の春までのことだ。書籍のデザインを仕事にしていた母親が、出入りする出版社で乳房の違和感について話した。勧められて区の乳がん検診と健康診査を受け、がんが発見された。しこりは彼女の自覚していたより広範囲に広がっており、薬物療法でも小さくならなかった。父母の様子は大きく変わらなかったが、それは形だけのものだとカルナにもわかった。ほんの些細なことで―グラスを落としたとか、そのグラスに罅が入らなくても―母親は唇を結び、身を守るように部屋で一人になりたがったりした。なにができただろう? カルナにも父親にも。なにも起こらなかった。彼女は泣き出さなかったし、弱音も人並みにしか漏らさなかった。周囲の誰が想定するより、彼女は聡明だった。
     行雲流水。されど私は頑迷固陋。たかが乳房の片方のことで夫と息子にあたるなんて。そうしたら私は深く傷ついてしまう。
     分別のある人間が、分不相応だと思う願いを抱くとき、秘密ができる。そしてその秘密はカルナの家族にとって裂傷だった。カルナは自分の母親が大人であり、カルナを拒絶していると感じるほど冷静であり、孤高であると感じ取った。怖ろしかった。彼女のかわいさはどこに行ってしまったんだろう? 以前の母を思い返すと、未知の感情が霧となって胸を立ち上る。お母さんの愛嬌。あの少しうんざりするような。居心地の悪くなるような。
     いまにして思えば、この頃からカルナは大人になり始めたのだ。父母にはカルナの親という以外にも様々な側面があり、それらすべては彼らが築いてきた品位に裏打ちされている。
     カルナがアルジュナにしたことは、四歳年上の大人から子どもへの性的な暴行だった。けれど彼は彼に真実惹かれていたのだろう。アルジュナはあのことがあって次の集まりのとき、カルナにもう一度キスをされたいような仕草をした。カルナは知らない振りをした。この子は彼が性欲と支配欲に負けた事実を告げる妖精だ。従兄の素振りにアルジュナは傷ついた顔を浮かべ、兄たちの元へ戻った。興ざめした。愛していても、いなくても、一時の情動は落ち着くものだ。恋をしていないのならなおのこと、相手の顔は見たくもなくなる。そういう態度をとった。自分の心を捏造したような気がした。それでもそれは、ときにはどうしても必要になるものだ。
     扉の前に立つアルジュナは濡れ鼠だった。彼が傘を持ってこなかった理由が理解できない。まるでカルナとの再開に、雨なんて降るはずがないと思ってでもいるかのような迂闊さだ。違う、彼はぼんやりなんてしていなかった。すっくと背を伸ばし、コンクリの床に靴底の砂利を軋ませるみたいにして力んでいた。
    「アルジュナ、どうしたんだ」
     振り向いた彼の目がカルナを撃ち抜き、後ろ手はドアノブを握った。逃がす気はないらしい。悲壮な決意のあらわれ。カルナがもう降参した気分でリュックの肩紐に触れると、彼は両手を身体の前に持ってきて壁へ視線をやった。
    「こんばんは」
    と彼は言った。
    「濡れているじゃないか。あがっていけ」
     白旗をあげ続けているには、アルジュナのくしゃみはノイズだった。土間に黒く水溜まりができるのを見て、カルナは彼をそこで待たせ、新しいタオルとバスタオルを持ってきた。
    「全部脱げ。この時間には風呂は沸かしてある」
    「ぜ、全部……」
    「靴を脱いで左手の突き当たりが風呂場だ。貸せ。洗濯をする」
     ダイニングのソファにリュックを置き、上がり框から籠を差し出した。アルジュナはカルナを見上げながらシャツを頭から脱ぎ、腰にバスタオルを巻いた。見下ろす上半身は肩に筋肉の膨らみがあり、それにそって関節まわりの影が濃かった。胸よりも背中が厚く、腹はなだらかだが硬そうだ。籠に濡れた衣類を受け取りつつ、カルナは黙りこくるしかなかった。口内に溜まりつつある唾液は疼きだした紋に熱されて湯の温度になり、ばれないよう少しずつ飲み下すたび喉が痛んだ。カチャカチャとベルトの外れる音がし、息があがりかけるのを知られまいと俯く。
    「脱ぎました」
    「靴下」
    「あ、はい」
     夏物のメッシュ編み靴下が籠の中にぽんと追加された。
    「では……」
    「ああ、行ってこい」
     あとは全部助けて欲しいと思いながらやった。洗濯も食事作りも衣類を貸し与えるのも雌をもてなすための前戯だ。カルナはここが自分の、自分だけの家だとつよく意識している。両親と暮らした一軒家でも、父と暮らしたマンションでもない、カルナだけの1DKのアパート。カルナの家。
     巣。

     傍へ寄って感じ取る前に、アルジュナはいまのカルナの身体の匂いを知った。六歳のキスの思い出は雪の香りばかりが強い―その後何年も雪を嗅ぐたびに上書きされていった。恐る恐るシャンプーとコンディショナーを手に取り洗い、次にボディタオルを借りて良いものか迷った。この桃色の羽衣のようなもので毎日、カルナが身体を擦っている。洗面器に湯を張り、手の中でソープを泡立てた。到底無理だった。同じ湯船を使うよう求められていることも耐えがたい。アルジュナは唯一神を信仰していなかったが、この瞬間、頼りにしたい神は人間とはかけ離れた、群れない神だった。そう、祈るだけ。名前を借りたい。湯に身を沈めるための呪文が欲しかった。
    「カルナ」
     足の先が冷たくなり、土踏まずが綿を踏んだような軽い抵抗に震えた。狭い浴槽に浸かりながら、アルジュナは水流に透けるペニスを見て、カルナとのセックスを想像した。挿入と摩擦の具体的なそれじゃない。つまりこうだ。彼と一つの布団をすっぽり頭まで被ってしまって、顔を寄せ合い摩られる熱。彼を抱き締め、あまりの細さに驚く代わりに肩口に額をつけ、滑らかな肌が汗を浮かべ蝋みたいに温もるまで瞼を閉じている時間。熱がったカルナが腕を差し伸べ、アルジュナの前髪を二本か三本の指で撫でつけてからぎゅっと抱き返してくる。覚えがない細部を鮮明に期待してしまう理由はなんだろう? アルジュナは希望をもっていた。雪の日のキスはアルジュナにカルナ以外への愛を薄れさせ、子どもゆえ緊張を欠き瑣末を気にかける心に道筋を彫った。直後彼につれなくされ、また砂を被っても、ふとした際に可能性が光り、その光を忘れられなくなる。再会したカルナはアルジュナに気を遣った。アルジュナがカルナにかける上手い言葉を思いつく前に、彼はごく簡単に、アルジュナのこれから数時間を決めてしまった。六歳のアルジュナがいじましい恋の同意を求めていたと、記憶力の良いカルナは覚えているだろうに。
     濡れ髪のままダイニングへ行くと、エプロンをつけたカルナがキッチンで立ち竦んでいた。
    「なにが食べたい?」
     言って、流し台に手をつき呆れた風に息を吐く。
    「すまない。手料理が食べたくてきたわけではないだろう。待っていてくれ。お前の好きな物を買ってくる」
    「では、スーパーに一緒に買いに行きましょう。私も半分出します。靴は……」
    「オレのサンダルを貸そう。髪を乾かすといい」
     アルジュナはカルナの食べたいだろう物について考え、それをそっくり自分の食べたい物だと思い込んで話してしまった。夏で、仕事の後だ。麻婆茄子とか口当たりが滑らかで辛いもの、冷や奴、そうめん、トマトのマリネ。まち付きのエコバッグへ順に詰めていった。再びカルナの家の扉の前で、鍵を開ける彼の横顔を眺め、ゴム底を足から剥がして廊下を歩く。器に移そうとする手を押しとどめパックへ箸を伸ばした。麦茶を出される。モスグリーンの地の下方から黄身色の鋭い波形が刻まれ、菊籠目模様へと繋がる切り子グラスだ。もちろんアルジュナは模様のことなんて少しもわからない。しかしグラスの美しさは、カルナの美しさをより高めた。このガラスでできた鈴蘭を、彼はたった一人でも惜しみなく使っている。叔母の話だけではわからなかった部分だ。改めて、アルジュナは目の前のカルナをつくづくと眺めた。十歳の彼の姿を隣に並べようとして、自分が九歳のカルナも八歳のカルナも覚えていると思い出した。焦がれる相手に新鮮さを求め、未知によって執念を一層掻き立てる、その傲慢を、アルジュナは意外にも持っていなかった。かつては求めつつ、同時に捨てられているように捨てようとしていた。叔父とカルナに別れて以降の叔母は、病の番のまわりをうろつく白鳥めいて、数ヶ月間、誰からも距離を置いていた。親類との復縁の切っ掛けはアルジュナだ。父子のいない一軒家に電話をかけた。
    「こんにちは、叔母さん。カルナは?」
    「私がアルジュナだと、よくわかりましたね」
    「なぜわかったのか、オレにもわからない。出し抜けに話しかけて、お前が気分を害していないようで良かった。従弟との再会は喜ばしいと思う」
     麦茶のポットを引き寄せた途端、ぼたぼたと水滴が落ちた。テーブルの隅から黄色い布巾を滑らせると、木目の上に細かい粒々が銀河のように走った。私もそう思います、とアルジュナは言い、慎重に話を進めるよりも率直さを好みます、十九歳のアルジュナは、と続けた。
    「昔からそうだった」
    「貴方に対してだけですよ。カルナ、売りに出されている貴方の実家を、いま、アルバイトの一環で私が手入れしています。一目だけでも見に来ませんか。バイト先には許可を貰いますので」
    「ふむ」
     食べるのをやめ、カルナが茶碗に箸を置く。率直を口にしつつ、アルジュナは意図的に話す順番を割り振り印象を操作しようとしていた。快活を装いたかった。
    「無論、私が誘いにきた理由は、愛する貴方にもう一度会い、役に立ちたいと思ったからです」
    「愛……?」
    「私がカルナを愛していようと、なかろうと、カルナに責任を負わせることはしません。食べましょう。私はきょうなにをするか、しっかり決めてきています」
     じつのところ意地にすぎないアルジュナの彼への率直さを、厄介がらず「そうだった」と肯定したのは、カルナが当惑し、なにかに辟易しているからだった。アルジュナのすることはほんとうに決まっていた。彼は性欲が―ただ性欲が燃え上がり、カルナから目を反らしたくなる気持ちを、口いっぱいに食べ物をかき入れ飲み込んでしまいたい気持ちを宥めようと、そうめんの緑色の一本を長く口内へ留めていた。
    「決めているって、キス、でもするのか……」
     とても小さな声で彼が言った。そして早々に食器もグラスも洗って水切り籠に伏せた。

     まず彼はカルナに彼の耳朶を触らせた。灯りを落として。窓辺にはドロップ状のワイヤーベースに緑色と紫色がまだら模様になった紫陽花と、月色のアマランサス、実付きのヘデラベリーをリーフリボンで巻いたボールが吊されている。すべて最高級の造花。花を好む息子に父親が毎月一度宅配便で送り、カルナが前の物を送り返して部屋の色彩としている。窓はダイニングと寝室を繋ぐ大きな両開き。雨は変わらず降り続き、雨は降らずとも月は見えない。濡れた外壁が飴のような照りを肌に浮かべ、土埃に汚れて皺を刻む。週末のソファは一週間働いたカルナの腿と背中の形に微妙に萎みあたたかい。丸見えのベッドも。麻に替えたばかりのソファカバーを右手で揉み込み、アルジュナが距離を詰める。彼の肌はバタースカッチみたいに滑らかで、頬も耳朶も肉付きが良い。精々が珈琲のフレーバーだと皮脂の匂いを嗅げば、剃り終えたばかりのように髭の跡が焦げ臭かった。目ばかりが輝く闇夜では子猫の頃と大差ない顔だが、煙草を吸っているらしい。キスは正解。アルジュナの瞳はこれからカルナを誘惑する、という高揚でいっぱい。彼はあんまりにも馬鹿みたいで、下手にでて懇願することがカルナの気に入ると思っている。でもそれは彼の上辺でしかなく、証拠に声も手も震えていない。触れ方が手慣れていない。アルジュナの耳にはピアスホールが開いており、慇懃な素振りの割に、指は断固とした意思でそこへカルナの指を誘導する。
    「大人になりました。でしょう?」
    「オレのことを考えて開けたのか? お前のペニスでオレの穴をこじ開けると?」
     アルジュナが乙女のように目を見開き、きつくカルナの手首を掴んだ。「悪かった。暗くしたのは失敗だな。オレは目が悪い。興奮しない」。
     常夜灯をつけ、カーテンを結わえ付けた。雨音の上を歩きベッドへ戻る。カルナは余剰なものが嫌いだった。完全に相手にしなだれかかり、指を組み合って体温を聞く、抱擁する、誰かに身体の大部分をくっつけることは、隠しもっていた自尊心を取り出しどかっと預ける感じに似ている。心に隙間が、空洞ができる。アルジュナの性欲はそこに届かない。掴まれた手をぶらぶらとやり、見下ろしながら再び腰掛けると、彼は憤慨していた。ありふれた表情だ。カルナにはよく向けられる。
    「お前がオレに自由にしてほしがるように見せかけながら、オレを操作したがっているのはわかっている。機嫌をとりたいんだろう? 性に合わないんだ。悪魔の気性にな。恋愛も性欲も獲物を縛ろうとする欲求だ。相手の幸せを願うのは、その関係の中で主体性を手に入れたいからだ。神を崇拝する者が神の幸福を祈るか? 幸せを願ったゆえの行動に主体性を見出したいんだよ。お前はオレに搾られたがっているだけだ」
    「お前は私に借りがある。違いますか?」
     カルナの口が怖ろしいまでに乾いた。「そうだな」。彼は応じ、
    「その通りだ」
     目の前の男はやはり子どもなのだと感じる。「その通りだ」。もう一度口にすると少し冷静になった。子どもの雌だ。カルナの覚えているアルジュナは小柄で、内巻きの癖毛のせいでちんちくりんにも見える猫の王子様といった印象だった。気まぐれだったのだ。カルナはこの子を目にするのがいつも嬉しかった―すぐに面倒くさくなった。母親は「あの子はカルナを好きよ」と言ったが、父親は違った。「あの子は君に勝ちたいんだよ」。
    「君の気持ちをざわつかせることが好きなんだ。相手をする余裕のないときはパパが助けてあげる」
     余裕がないわけじゃなかった。カルナは自分が確実な安全圏にいる自信があった。アルジュナの貸しは本当は貸しじゃなく、カルナによる強奪だったからだ。
    「すまない。へとへとなんだ。その顔、怖いからやめてくれないか。その気になれなくて心からすまないと思っている。怒っているのか? 謝ろう」
    「いいえ。面食らっただけです。私が貴方に良い話をもってきたのは事実なので」
    とアルジュナは言った。
    「そうだろう。十三年ぶりに、ましてや雨の日に何度も訪ねてきてくれるだなんてとても大事な話をしにきてくれた筈だ。わかっている。お前は怒って当然だ。オレの疲れなんて関係ない」
    「いいえ、カルナが苦悩しているのは疲れからだけじゃないと思っている。いまもまだ灯りを小さくして……舌が疼きますか?」
    「なんだって?」
    「サキュバスは舌で番の紋を刻むんでしょう。私はカルナの番じゃないんですか?」
    「違う。許してくれ。あのときはまだ第二次性徴が終わっていなかったから紋は完成していなかったんだ」
     カルナがふいに涙声になった。必死に否定した。アルジュナは頷くようなまなざしで彼を見つめた。
    「良い話ですよね? 貴方に実家を見せたいというのは……。私がカルナと会うときはいつも貴方の家でした。母に、それは貴方が家を離れるのが嫌いで、家族とのレジャーならともかく、親戚の家に遊びに行きたがらないからだと聞きました。まだジューンベリーの木がありました。実がなっています」
    「良い話だ。行きたい。あの家をもう一度見たい」
     乾燥機が止まった。彼は灯りを点けようと躊躇い、アルジュナに尋ねた。
    「キスはするのか?」
    「いいえ」
     黒い目が近づき見上げる。細められ、光が閉ざされた。
    「けれどもう一度耳朶を触ってください。私は穴を開けるとき、確かにカルナのことを考えました。私の知ってる、十歳や十一歳のカルナですよ。私はよく貴方のことを考えていたんです。これまでずっと。朝も昼も夜も貴方のことばかり。私の知っている子どものカルナはたまに言うんです。お前はいつもオレのことばかり考えているな。私は答えます。そうだね」
     脱衣所で着替えて、アルジュナは帰った。カルナとLINEを交換した。アルジュナの中にいる子どものカルナは、アルジュナにとって「私」あるいは「私たち」なんだろうか? さっきまでの二人は彼にとって「私たち」だったのか? おやすみを告げて見送るアルジュナの背に、月光が粉末のように降り注いだ。深い紫色の夜だ。通りの生け垣に咲く本物の紫陽花が露を滴らせる。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ❤🌠💖💖💖💯💒👍☺💕
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    related works

    recommended works