浴衣(ワンライ)「夏油さま、わたし浴衣が着たい」
「……わたしも」
服の裾をちょんと握られた感覚がして夏油が振り返ると、美々子と菜々子がそんなことを言った。顔を伏せているので表情まではわからない。けれど言いにくそうな声色で、おずおずと言葉を紡いだ彼女たちは、もしかしたら我儘を言っているとでも思っているのかもしれない。
彼女たちはあまり自分のやりたいことや意見を言わない。最初は夏油に遠慮しているのかと思ったが、育ちが育ちなのでもとから抑圧されており、言うこと自体に慣れていないようだと察したのは、彼女たちを引き取ってすぐの頃。あれから幾度かの季節が通り過ぎて、こうしてやりたいことを自分から言ってくれるようになったのは、夏油にとって喜ばしいことだ。しゃがみこんでふたりに視線を合わせる。
「いいよ。どこかに行きたいのかな?」
「夏祭り……あるって……」
「夏油さまと行きたい」
「わかった。用意しておくよ」
夏油がそう言えば、ふたりはわかりやすく破顔したのでこちらも思わず目尻が下がる。祭りなどという人間の多いところは避けたいのが本音だが、ふたりの可愛い申し出を無碍にするつもりも夏油はなかった。
用意した浴衣は三人分。自分は普段着でいいよと夏油は言ったのだが、三人で浴衣を着たいと強請られてしまえば断ることは出来ない。仕方なく自分の浴衣も買って夏祭りの日を迎えた。
「えっ夏油さまが着付けてくれるの!」
「あ、いやだったかな。それならどこかにお願いして」
「やじゃない!です!」
彼女たちに嫌われているとは思わないが、着替えを手伝われるのは抵抗があるのかと思えば即座に否定された。少女たちの心はときどきわかりにくい。期待したような目で見上げられ、その勢いに負けた夏油は、嫌じゃないなら、とそのままふたりに浴衣を着せていく。人に着せたことはないが、子供用の浴衣はそこまで難しくない。夏油はふたりに順番に着せ、その後に自分で浴衣も着た。普段の袈裟に比べたら正直浴衣のほうが随分と楽だ。
「夏油さま、似合う……」
「ありがとう。ふたりも、似合っているよ」
「浴衣の着付け、どうして出来るんですか?」
「うん、そうだな……」
夏油は昔を思い出すように、視線を斜め上に向けた。けれど、思い出す必要などないほど、明確に覚えている。
数年前、夏。五条とふたりで花火を見に行ったときだ。
花火大会があると知った五条が行きたがり、何故か夏油の分まで浴衣を用意していたのだ。まだ行くって言ってないのに、とは思ったが、せっかくの好意を無駄にするのも忍びなく、結局ふたりで花火を一緒に見に行くことになった。
「……きみが浴衣着られるとは」
「傑、俺のことなんだと思ってんの。うちにいたら自然と覚えるっつの」
五条に浴衣を着せてもらいながらつい出た軽口は、五条が一蹴した。確かに五条の家であれば、浴衣など簡単なのかもしれない。和装など滅多にしたことがない夏油は、そのへんの感覚がわからないが。
「浴衣なんて簡単だし。傑もすぐ覚えるよ。傑は和装似合うし着れるようになったら?」
そう言った五条の声は鈴が転がるように弾んでいて、見るからに上機嫌だった。嬉しい、と全身で叫んでいるようだ。何故そんなに楽しげなのかはわからないが、あまりにも屈託なく笑う様子に、少し気まずいような、気恥ずかしいような、背中がもぞもぞするような不思議な感覚を夏油は持った。五条にされるがままになっていた夏油は、それを誤魔化すように「機会があったらな」と曖昧な返事をして。
そのあと浴衣を着る機会も、着付けを習う機会もなかったけれど、間近で見た五条の仕草は覚えていたらしい。あれから何年かの時間が経ち、五条が隣にいない今になってその機会が巡ってくるとは思わなかったけれど。
「……夏油さま?」
少女の声にはっと意識を戻せば、ふたりが不思議そうな顔で見上げていた。誤魔化すようににこりと笑って、夏油は再び口を開いた。
「うーん、忘れてしまったな」
「そうなんですか?」
「うん、まあいいよ。行こうか」
そう言って手を差し出せば、ふたりが無邪気に片手ずつ繋いでくる。小さくかわいらしい手を握ると、自分が選んだのはこの手を守ることなのだと実感する。
何年も前のことなのに、いまだに鮮明に覚えているのは五条がやたら嬉しそうだったから。ふたりで出掛けるなんて珍しいことでもなかったのに、浴衣のせいで少し特別なことのように思えたから。その日に初めて、五条とキスをしたから。
自分から切り捨てたことだ。自分の選択は間違っていないといまでも断言できる。そう思っているのに、ちょっとしたことで昔のことを思い出し、大事に胸に仕舞ってしまう自分に嫌気が差す。
自分のために仕立てられたと後に知った浴衣が、いまどうなっているのだろうかなどと考えながら家を出ると、湿度を含んだ重たい空気が肌に纏わり付く。からん、と鳴る下駄の音が、五条と過ごした夏を連れてくる気がした。