風呂(ワンライ)「悟そっち行った!」
「わかってる、つーの!」
傑が呪霊を使って囲い込み、追い詰めて悟がとどめを刺す。概ねその通りに進んでいたはずの任務は、呪霊が攻撃を避けたことで難航した。どうやら素早さに特化した呪霊のようで、攻撃を躱してはちょこまかと逃げていく。ほとんど反撃はしてこないが、捕まえられないのでは意味が無い。
悟も傑も、あまり気が長いほうではない。静かに青筋を立てた傑はかつてないほどの大量の呪霊を操って逃げ場をなくし、悟は呪霊の逃げる方向を予測して先回りした。そのうえで蒼を最大出力で放つ。多少逃げても無駄なほどの威力で放ったので周辺まで時空が歪んだが、そんなこと悟の知ったことではない。
捕らえてしまえばあとは簡単だ。いつもなら傑が呪霊を取り込むので祓わないが、今回ばかりは自分の手で祓わないと苛立ちは払拭しそうにない。傑が追いついてくるよりも先に呪霊を祓い、さっさと亡き者にした。それでも苛立ちは収まらない。
「……どーすんだよこれ」
悟は自分の全身を見下ろして思わず呟いた。呪霊と鬼ごっこをしている間に服は汚れ、さらにはしとしとと雨が降り出したことで水が跳ね、いまや全身泥だらけだ。そう言っている間にも止まない雨が服に染み込み、全身を重たくしていく。
今日は泊まりではなく日帰りの任務だ。着替えなど持ってきていないが、このままでは帰れそうにない。どうすっか、と考えている間に傑が追いついてきた。状況を確認した傑が息を吐く。
「祓ったのか。お疲れ」
「あーごめんムカついて祓った」
「いやいい。それよりも、泥だらけだな」
「どっか風呂ないかな」
「いいね探してみよう」
傑も悟と大差なく泥だらけだ。服を買って着替えることは出来るが、泥と雨で汚れた体をどうにかしたい。悟が提案すれば傑も了承し、周囲を探した。
そうして見つけたのが萎びた小さな銭湯だった。とはいえ、いまのふたりには天国のような場所で、早速汚れを洗い落として湯船に入る。指先が徐々に解けていくような安堵感があって、雨で体が冷えていたのだと、いまさらになって気付く。
「はー……最高……ここが天国」
「おっさんくさいぞ悟」
「ウルセー」
真昼間という時間のせいか、銭湯に他の客はいない。気兼ねせずに大きな風呂に入れるという心地良さはなかなか得難い幸福だ。思わず息を吐いてしまう。
いままでの不快感がなくなれば、いろんなことを思考する余裕が生まれた。例えば、隣にいる傑のことだとか。
じっと見つめていると、それに気付いた傑が落ち着かないと言いたげに眉根を寄せた。反応があまりにもわかりやすい。
「……なに?」
「いや、傑体鍛えてんなと思って」
術式があるとはいえ、体術が出来るに越したことはないし、術師に基礎体力は必須だ。悟もそれなりに鍛えてはいるが、傑とは骨格や筋肉の質が違うのか、同じトレーニングをしても傑とはまるで違う体つきをしている。自分と比較するように観察していれば、傑はさらに不快そうな顔をした。
「いまさらだろう。普段から見ているのに」
思わぬ傑の発言に悟は目を丸くし、意味を理解したあとニヤリと口角を持ち上げた。寮が同じとはいえ、基本的に風呂は別々に入っている。だからこそ傑の意味する「普段」が、ベッドの上であることは明白で。思わず口元の締まりがなくなるというものだ。
「えー?だっていつもは電気消えてるし。こんな明るいとこで見るの、滅多にないじゃん」
揶揄う色を多分に含めて悟が言えば、傑はようやく自分が不用意な発言をしたことに思い至ったらしい。苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、傑の表情が険しくなるに比例して、悟の表情は緩んでいく。だって、こんなに楽しいことはない。
「俺はそんなつもりなかったんだけど、傑クンがエッチなこと言うからしたくなってきちゃった。さっさと寮帰ろ」
風呂に入る前の不快感なんて、いつのまにか綺麗さっぱりなくなっていた。思わず鼻歌を歌いながら湯船を出る。今日は悪くない日だ、なんて柄にもないことを思いながら、悟は軽い足取りで銭湯を後にした。
なんていう昔のことを悟が思い出したのは、生徒たちの付き添いで向かった任務が、その銭湯だったからだ。
数年前に廃業したあと誰も近寄らなくなった銭湯には低級の呪霊が住み着き、解体作業の邪魔をするようになったと報告を受けた。低級なので生徒たちの経験値を積むにはもってこいだと宛てがわれた任務だ。頼もしい生徒たちが術式を駆使し、さっさと祓う様子を悟は黙って見ていた。
「五条先生、どうかした?」
元気ないよ、と生徒のひとりに声を掛けられる。悟は緩く首を左右に振って、それを否定した。
「いや?君たちが優秀で僕の出番なかったなと思ってね!連携も取れてたしこの前言ったことも出来てたし、優秀優秀!」
帰りにアイス買ってあげる、と言えば素直な生徒たちは喜び、はしゃいでいた。
特にどうかしたわけではない。一度来ただけの銭湯で、悟自身この場所に思い入れがあるわけではない。ただ、傑と積み重ねた場所が、またひとつなくなってしまうのだなと思っただけだ。
傑はこのことを知っているだろうかと考えて、知っているわけがないとすぐに自分自身で否定した。むしろ、この銭湯のことさえ覚えていないかもしれない。
せめて、悟だけは忘れないようにしよう。ここに銭湯があったことと、傑とふたりで来たことを。そう思えば、少しだけ呼吸がしやすくなった気がした。