Du bist so schön! ──救えなかった記憶、というのは、嫌に脳に残る。
は、と目が覚めた時、そこはいつもと恐ろしいほどに変わらない天井だった。気怠げに息を吐いてのろのろと起き上がれば、ちょうど父の側仕えの悪魔がハーブティーを淹れているところで、起きるには何もかもが素晴らしいタイミングだったらしい。
「おはようございます、お嬢様、お加減は?」
「……おはよう、何ともないわ、ええ」
ちらりと窓際のカレンダーを見やる。
1890年7月末日。
二度目の入学案内が届いて数日、時を繰り返しているという現実は変わらない。逃げる事は許されず、向き合わなくてはいけないのだと無情にも告げるように鳥が鳴いた。
Du bist so schön!
時を繰り返していることに気付いたのは、最初のループでふくろうが来た時だった。ふくろうは一度目の人生と同じように手紙を運んできて、それはホグワーツ魔法魔術学校への入学案内だったからだ。そこでレイは気付いたのだ、このループに。
いかんせん彼女の実父は人ならざる存在であり、母はゴーントと呼ばれる家の人間だった。マグルの世界で育てられた彼女にあったのは、父譲りの時を操る力、それに付随したものであり、いわゆる魔法族らしい魔法というものとは無縁の生き方をしていた。何しろ指をぱちんと鳴らせばそれだけで大抵の望みは叶うので。
だから魔法魔術学校の入学案内が今更来たことも、今住んでいる日本ではなくイギリス──それもハイランド地方の──魔法魔術学校のものだと知った時は大層驚いて手紙を取りこぼしたものだった。一度目の時、父は好きなようにすればいいと言っていたが、それと同時に母のルーツを知りたいならそこが最適だろうとも言っていた。実父は悪魔なので人の親の感情など実際分かるものでもないし、娘に構っているほどの暇もなかったのだろう、今思えば叔父の癇癪を宥めるのに手一杯で仕方なかったのだと分かる。
そうして恩師と出会い、恩師の自宅のあるイギリスで基礎的な手解きを受け、ランロクやルックウッド達と対峙したのが一度目の流れだった。
その中で出会った同寮の友人達を救いたくて、古代魔法と彼女の権能が共鳴して──今再び同じ時を繰り返している。それに気付いて、逃げられないと分かって思わず実父に打ち明ければ、実父は微塵も驚きもしなかった。
「それは、魔法で解ける呪いのようなものです」
「呪い──?」
「ええ。今まで誰かを何とも思わなかったあなたが、時を歪めるほどに誰かを想うとは思いもしませんでしたが……それを解く事ができるのは、お前と、お前の大切に想う人間だけです」
時の王は何てことのないような声で告げた。
「ですが、このままではこの世界が壊れてしまうのでは」
「まさか! 私が時を止め続けるのとは訳が違う、時には、お前の望むままに動く事も大切ですよ」
そう言った父の目は、まるで新しい玩具を見つけた子どものような光を宿していた。
その娘が産まれたのは、ある意味、悪魔にとっては気まぐれに等しかった。悪魔にとってこれは既に何度目かのループであり、兄を宥めるべく生物クロン研究計画を発足させるためにも、マグルの世界で生物クロン技術を提唱されるべくあれこれ根回ししている最中のことであった。その過程で、マグルではない存在との間に産まれた混血はどうなるのかを知りたかったのだ。当然ながら、実験に協力した魔法族の女に対して何の感傷もない。
女はヴィオレッタ・ゴーントと名乗り、魔法族でありながらマグルとの交流を望んだが故に出奔したと言う。徹底的なまでの純血主義の家系にあって、女は異端児であったのだ。闇の魔術を遊び半分に扱うことも、純血にこだわる事も嫌で、何もかもが家族と考えが合わなかったらしい。
「でも──これであの子達も私を追うことはできないわ、だって正十字騎士団は魔法省とも関わりが深いもの、ここなら私には杖の一振りだって手を出せやしない」
正十字騎士団へと逃げ込んで実験台として子を孕み、魔揺籃が張られて誰一人ろくに手出しできない状況で女はからりと笑ってみせた。
「その結果が、これでも?」
「ええ、一向に構いやしないわ。それに……私、占い学が一番得意だったから、いつかこんな日が来るって分かってたの」
悪魔は決して笑みを絶やさない。心を揺さぶられることもない。けれど、ほんの少しだけ、不思議だと感じる。
「この子の名前はね、レイヴィニアって付けるの。女の子だし、うんとかわいいに決まってるわ」
未来を語る人間の何と眩しいことか。
「あなたは悪魔だから何とも思わないかもしれないけれど、お願い、この子のこと、大事にしてあげて」
「悪魔に約束を求めると?」
「死にゆく人間のお願いくらい良いじゃない」
あっけらかんとした物言いと豪胆さに、悪魔は少し呆気に取られた。そして、なるほど、と納得する。母親は強いと人間は言うが、確かに強い。子を守るためなら悪魔にさえお願いという名の強制をしようというのだから!
くつくつと喉を鳴らすように笑って、悪魔は口を開く。
「いいでしょう──ですが、私は悪魔ですから、人間として育てられるかは確約しかねますよ」
「あら、あなたはきっとこの子を人間として育ててくれるに決まってるわ。私、悪魔でも何でも見極められるもの」
それが、悪魔と女がまともに交した最後の会話だった。
二度目のループで、レイヴィニアは一度目の時と同じようにあちこちへと奔走してみせる。ランロクやルックウッドよりも先に手を打つべく、守護者達や恩師を言葉巧みに動かし、常に一歩先を行き続けた。
基本的には一度目のループと変わりはなかったが、違うところも当然ある。それは友人達についてだ。
「おはよう、きみは今日も綺麗だな、レイヴィニア」
恐ろしく歯の浮くような台詞を、レイヴィニアは一度目の人生ではただの一度も──誰からも──聞いたことがなかった。
強いて言うなら、今回の人生ではリアンダー・プルウェットがギャレス・ウィーズリーに真実薬に近しい変な薬品を飲まされてうっかり告白紛いの発言をレイヴィニアにしてから、リアンダーが熱烈なアプローチを掛けてくるようになったくらいか。そしてなぜかそれに対抗するように同寮の友人まで熱烈なアプローチをし始めたので、レイヴィニアは毎回頭を抱える羽目になっているという訳だ。
「おいおい、僕の目の前で口説こうなんてグリフィンドールの騎士道精神ってのは随分と熱烈なんだな。バジリスクに噛み殺されるとは思わないのか?」
「ふん、お前達スリザリンのようにコソコソと動き回るのは小賢しいと言うんだ。僕のこれは至極正当なものだ」
「お願いだから私を挟んで朝から喧嘩しないで!」
大広間に着くなりこれなので、レイヴィニアとしては堪ったものではない。
グリフィンドール生からはリアンダーを応援するような野次が飛ぶし、スリザリン生からはセバスチャンへの野次が飛ぶ有り様で、正直なところを言えば穴があったら入りたいくらいの心地である。こればっかりは全部ギャレスのせいだ。そしてそのギャレスも野次を飛ばす側なので、本当に酷い話である。お前のせいだぞ。
「ああ、ごめんよレイ、きみがあんまりにも可愛らしいから、僕としては獅子なんかに取られたくなくてね。それとも、きみはああいうのが好みなのか?」
「ああもう、そんなんじゃないのに──オミニス!」
熱っぽい視線を向けられた挙句、ひどく甘ったるい声で愛称を呼ばれるのがむず痒くて──そもそも愛称で呼んでいいなんて言った記憶もないけれど──近くにいたもう一人の友人に助けを求めれば。
「この状況で俺を巻き込まないでくれ」
あっさりとオミニスに裏切られ、レイヴィニアは少し半泣きになりながらセバスチャンを寮のテーブルに引き摺っていくことにした。リアンダーは名残惜しそうに髪にキズを落とそうとしてきたが、セバスチャンがしれっとガードして防ぐ。
「粘着質な蛇に飽きたらいつでも僕のところに来るといい」
「お願いだからもう勘弁して……!」
糖蜜パイを食べたいので本当に勘弁してほしかった。どうせこの後またナティやイメルダ、ポピーから誰が好きなのか根掘り葉掘り聞かれるに決まってるし、セバスチャンは見かける度に口説きに来るのだ。一度目の時はこんな事一度もなかったのに!
朝から既に少し疲れながら朝食をどうにか済ませ、セバスチャンをオミニスに押し付けて大広間を後にする。オミニスからは物凄く文句を言いたげな目を向けられたが、レイヴィニアは黙殺した。
リアンダーとセバスチャンの様子がどう考えてもギャレスのせいでおかしい以外は、一度目と大差無い。クラヴクロフト付近にある城へと先回りしてシルバヌス・セルウィンを始末し、着実にアッシュワインダースの力を削ぎ落としていく。時には魔法を使わず、己の拳と剣だけで切り抜ける事さえあった。魔法使いというのは杖を使い、魔法で戦う以外をしないので、そういった意味ではレイヴィニアは非常にやり難い相手なのだろう、簡単に制圧できた。
踊るように剣を振るい、杖ごと切り捨てる。小鬼には魔法を、魔法使いには剣を、それだけで後はいとも容易い。
祓魔師という職業柄、荒事はもちろんだが戦場にも慣れている。しかし返り血まみれの体では城に帰れない。いっそ野宿でもいいのだが、それをするとウィーズリー先生からありがた〜いお言葉を貰うことになる。
「どうしよっかな……」
清めの呪文はあいにくとまだ覚えていなかった。寮の風呂場──シャワーもないのにそう思いたくはないが──では桶に水を張り、軽く火で温めてぬるま湯にしたそれで清めている。