美味しい悪事「ショートケーキの正しい食べ方を知ってる?」
言葉につられて目の前のテーブルを見る。
雪のように真っ白なクリームと、つやめき主張する赤い苺。正統派の苺ショート。
ケーキの王様は今日も堂々とシンプルで美しい。たとえ出身がコンビニで、敷いているのがプラスチックの容器だったとしても。
「知らない」
ビニールを漁って使い捨てのフォークを取り出した。
悪いことがしたい。
突然会いに来た男が言う。
「何をすればいいと思う」
珍しいことに笑顔はなく、据わりきった目をしていた。
悪いこと。聞かれたからには一応考えてみる。
「……買い食い?」
高校生の考える悪なんて校則の範囲を越える程度だ。
男の眉がわずかに動く。
「……どこで」
食いつかれると思わなかった。
「コンビニとか」
「じゃあ、そうしよう」
手を掴まれる。反転した男が歩きだした。
「一番近い所まで案内して」
踏み出す一歩が大きい。腕を引っ張られながら小走りで後を追った。
買い物を終えてようやく手が解放された。かわりに男二人、それぞれ両手にビニール袋を持って歩く。
それはもうよく買った。
大量の商品が次々男の手に取られてはカゴに入っていくのは壮観だった。総額も。
大人はすごい。
「これだけ買ってどうするんだ」
聞けば「君が食べてよ」と返ってきた。
「僕一人じゃこんなに食べられない」
どうして買ったんだろう。
食べ物を手をつけずに破棄、というのも悪にはなると思うが多分男にそういう意図はない。
勿論喜んで手伝うが、不安もある。
「二人でも難しいかも」
袋の中身はほとんどが菓子棚にあった物だ。ビニール四つに詰めに詰められていては完食できるか怪しい。
「家の人にあげたりしたら」
「家……」
「……あ、でもそうしたら買い食いにならないか」
「いや、いい。帰ろう」
男の手が丁度通りかかったタクシーを止めた。ドアを開けて言う。君もおいで。
「お茶会しよう」
ビニール袋は無事半分になった。これなら問題なくいただける。
通された部屋は午後のあたたかな陽気で満ちていた。差し込む光が気持ちいい。
「ここに置いて」
高級そうなローテーブルに慎重に荷物をおろす。それでも慣れたマークのビニール袋はガサガサと耳障りな音をたてた。
「じゃあ、もう食べる?」
「お好きにどうぞ」
許可が出たので手を合わせる。袋の上部は適当に入れていい焼き菓子が多い。ひとつ手に取る。
「本当に好きにするけど」
ビニールを破いて出た部分を直に食べる。こぼさないことを優先した食べ方で、行儀は良くない。
「いいね」
だが男はそれを待っていたと言わんばかりに笑った。
飲み込む。
「美味しい?」
「うん」
久しぶりだからか味をハッキリ感じる。最近は甘味が欲しければ安くて大きい菓子パン類を選んでいたから、繊細な甘さが嬉しい。あっというまに食べきった。
「たくさん食べて、マナーなんて気にしないで」
返事代わりに二つ目の封を開けた。
三つ、四つ。食べ進めるごとに自然に口数は減ったが、男も喋らせようとはしてこなかった。
棚の端から端まで買ったから種類は豊富にある。飽きずに食べられそうだ。
一息つくふりをして外を眺める男を見ていた。自分の言葉に感化され買ってはみたものの、彼は本当に菓子に興味が無いらしい。たまにチョコレートなどつまんではペットボトルで流している。
彼とこの部屋は調和していた。もしかしたら、普段からここで紅茶を飲みくつろぐのかもしれない。口に運ぶ動作がいちいち優雅だ。慣れている証拠だと思う。
一方で黙々と食べる自分と増えていく空袋は、部屋にある正しい空気を乱していくように感じた。
「不安そうだね」
見透かすように声をかけられる。
声が続いた。心配しないで、君のせいじゃない。
「僕がさせてる」
楽しそうな顔とは裏腹にテーブルを擦る指先が気になった。あれは衝動を抑えるための動きだ。
何も返さず袋を漁る。
底が見えてきた袋の中は、あとは転倒防止のためきれいに敷き詰められたパックのケーキばかりだ。その内からひとつ、無難なタルトを選ぶ。力任せに蓋を開けた。
二等辺三角形の端二つを右手の指先で掴んだ。立ち上がり腕を伸ばす。目標は向かいの男の口元。
「何を……」
「食べて」
戸惑っている。直接触れないにしても、手から口へ、なんて経験が無いのかもしれない。あるいは、心のどこかでブレーキをかけているか。
嫌がる人に食べさせるなんて最低のマナー違反だが、今日の自分は男に頼まれている。好きにしてくれ、マナーは忘れろ。悪いことをしてくれ。できない自分のかわりにやってくれ。
勝手な願いだ。だから叶え方は好きにさせてもらう。
ぐりぐりとタルトを押し付ける。挑発だ。
更にもう一押し。
「したかったんでしょ、悪いこと」
男の目が大きく開く。数回強く瞬いた後、徐々にまぶたから力が抜け、目尻がやわらかく下がった。
男の手が差し出したほうの手首をつかむ。あ、と思うより早くタルトは手首ごと口元に持っていかれ、次の瞬間にはその一/五ほどの質量が男の口内へ納められていた。
勢いよく噛み砕かれた底面の破片がわずかに落ちて膝を汚す。気にもせず男は更に食い、飲み込んだ。みるみるタルトが減っていく。
やがて唇が指先に触れた。意図しない接触に心臓が跳ねる。
思わず手を引けば、男の手が器用にタルトの残りを持っていった。そのままぽいと口に投げる。最後まで食べ方は乱雑だった。この男が。
「……どう?」
「嫌いじゃない」
答えは早かった。口周りのかすを拭い、堪えきれなかったようにくすくすと笑みをこぼす。
「罪の味だ」
それだけ言ってまた小さく肩を震わせ笑った。
男はすっかり満足したらしい。残りは全て食べていいと言うので、なら自分もとケーキをてきとうに取る。貼られた表示を破りテーブルに乗せ蓋を開けた。ショートケーキだった。
上機嫌の声がこちらの名前を呼ぶ。
「ショートケーキの正しい食べ方を知ってる?」
「知らない」
やわらかい生地にフォークが沈む。丁寧に取り分けた一口分を舌に乗せるとミルク感の強いクリームが溶けた。
「そもそも正しい食べ方なんてあるんだ」
「全ての物に正解はあるさ。誰が決めるにしろ」
興味を持ったと思われたのか、解説が始まってしまった。仕方なく聞く。フォークは止めない。
手元を見つつ話をなんとなく流していたが、やがて気づいた。
今自分がしている食べ方が、男の話す正しいそれと一致している。
「……気づいてた?」
言ってからすぐそれは無いと思い直した。もしそうなら自分が食べ進める姿を見てから話を持ち出すだろう。
「いや。ただ見れると思った」
「なんで」
「僕が願ってた」
男が真顔で言う。冗談ではないらしい。
「今日の君は何でも正解してくれたから」
「正解、なんて」
何もしなかった。ただ男に付き合って菓子を食べていただけだ。
「していたよ」
ひときわ眩しい夕日が差し込む。オレンジの光が陰影を作り男の表情を際立たせた。
「ずっと正しかった」
眠りにつく前のような安らかな顔。あたたかく見えたのは夕焼けが彼を照らしたから、だけでは決して無いと思う。
こんな時にかける言葉を自分は知らない。逃げるようにフォークを下ろした。優しい甘さが焦る心をほぐす。
いつだってケーキはご馳走だが、ショートケーキは中でも特別だ。小さな頃、大事な日の食卓には真っ白なホールケーキがあった。
ショートケーキを食べるとたくさんの特別を思い出す。数字型のロウソク。一緒に写真を撮った一等賞の旗。お祝いをしなくちゃね、と手を叩く母。きらきらのリボン。仄かな灯り。砂糖菓子でできたような、甘い思い出たち。
けれど、次はどうだろう。次にショートケーキを食べたとき、思い出すのは。
思い出す、特別は。
「ねえ」
男がもう一度名前を呼ぶ。
「僕に何か願ってみせて」
夕日は落ちるのも早い。照明を付けていない室内が、瞬きする度暗くなる。影に沈む手が洒落っぽく差し出された。
「なんでも叶えてあげる。その代わり――」
わざとらしく濁された続きは、君も僕の願いを叶えてくれ、で合っているだろうか。きっとそうだ。彼が言うには、今日の自分はずっと正しいのだから。
返しかたもわかる。微笑んで頷けばいい。
なのでまず相手の目を見て名前を呼び、そして。
「また何か買おう。そっちの好きな食べ物がいい」
返事の代わりの提案に男が完全に意表を突かれて固まった。見えなくても伝わるうろたえっぷりが可笑しくて笑いを噛み殺す。
正解が解ったって選びたくない時もある。そのほうが断然面白そうとか、こっちが正解なら嬉しい、みたいな自分勝手な時が。
「ショートケーキ、今度は二人で食べたい」
紐付けられる想い出の味を、一番素敵な食べ方を、この男に知ってほしい。
それが終われば次は男の番だ。突拍子もないことを言い出しても少しは我慢しよう。彼が動けないなら自分が飛び込むのもいい。
けれど、たまには出せない足を踏んづけてでも一緒に悪いことをしよう。今日みたいに何度でも。
共に行くことを、正しいと決めつけて。
なんていけない二人だろう。