波をとらえて共に行く 問題。どこへ行くのか。ヒントその一夏に来た。ヒントその二屋外。その三。
「僕とではない」
にっこりと笑う唇が本心からでないことくらいは解る。
いつも何も言わずに自分を連れていく男が珍しく一週間前には予定を聞いてきたものだから、ちょっと油断していた。まさか朝一だとは。そのうえ大移動、ヘリコプター、乗り継ぎそして乗り継ぎ。途中で買った着替えやタオルの意味は教えてもらえず、濡れていいか確認されたのも含めずっと不安だった。この見晴らしの良い道路に着くまでは。
正直ここまでされれば、自分だって薄々答えは解る。けど言う必要あるだろうか。だってもう時間切れだ。それにぼんやり見えてる答えよりこっちの方がよっぽど正解らしい。そんな言い訳で解答を放置し、窓越しの景色へ目を向けた。
はっきりと映るそれが前回来た時となんとなく違って見えるのはと気持ちの問題でも連れが変わったからでも無いらしい。違うよ、と愛抱夢がこちらを見もせず言う。
「流石に全く同じにするのは癪でね。……まあ似たところは選んだが」
こだわりの理由自体はよく解らないけど、彼がそうしたいならそれで良いだろう。自分はどちらでも構わない。というか別に今日来たかったわけでもない。来ると聞いてもいない。改めて言葉にすると何だか変な気分になってくるので意識を景色へ飛ばした。切り替えていこう。
それにしても、ここに越してきてから何度も思ったことだが、海とは、海岸とは本当に不思議で面白いものだ。常に動き続けているし、一分一秒で印象が変わる。
半年も経っていればそれはもう大違いだろう。きらきらと光っていた水面は静かに、かわりに夏にはなかった風がひゅうひゅうと鳴く。そしてあれ程青かった空にはとっぷりと雲が――。
「寒い!」
いや寒い、寒過ぎる。この感じだと、多分どこかで雨が降ってる。
「本州では初雪だそうだよ」
「なるほど……じゃなくて、愛抱夢」
「なんだい?」
「帰らない?」
「まさか!折角ここまで来たんだ。思い切り遊ばなきゃ」
この気温で、この海で何をするというのか。
「泳ぐとか言わないよね」
「どうだろう。君に選んでもらおうかな」
目前で立てられた指。また質問らしい。
「二つ。どちらにする?泳ぐか、僕と楽しいことをするか」
「……楽しい方で」
「僕と楽しい方だね!この僕と!いいだろう!」
当然誰も居ない海に向け、海デートだと彼が声を放った。知らなかったがまあ彼が言うならそうなのだろう。ともかく今日は海デートなのだそうだ。早くも聞いていないことばかりだがどうなるのやら。
「お手柔らかに」
「任せて。それじゃあ」
ぱちんと片目を瞑った愛抱夢は、いきなり身を翻すと。
「追いかけっこしようか」
走り出した
「は?」
「捕まえてごらん!ははは……」
遠くなる背中にようやく脳が動き出す。
えっ、そういう感じなのか。
とりあえず後を追いかけるため足を踏み出し、砂浜を蹴ろうとして
「……わ」
爪先が沈んだ。身体が傾く。慌ててもう一歩踏み出すとそちらもずるりと沈み、危うく躓きかけた。
「……よ、っ、わわ……っ」
歩いている時はさらさらとまとわりつく感覚が気持ちいいと思っていたが、それはあくまで歩く時の話だったらしい。今わかった。砂浜は走るのに一切適していない。足裏がいちいち嵌まるし踏みしめようとすればバラバラに逃げていく。それを無理やり使うから一歩ごとの体力消費も激しい。そのうえ、
「どうしたの?早く早く」
「ま……っ、待って。はやいって……」
「充分待ってるんだけどなあ」
捕まえなきゃいけない相手が、それはそれは煽ってくる。
走り、追い付けないと見るや止まり、近づけば突き放す。そんなことをずっと繰り返されているから身体もだけど精神がキツい。もうこれ追いかけっこってよりトレーニングと言うか。マラソンみたいなものだろ。
「ほらほら、頑張らないと離れてしまうよ?」
何でそんなにひょいひょい走れるんだろうか。
わざとらしく出された袖を必死で掴んだ。
「……っ、つ、かまえ、た!」
「はい捕まった。ご苦労様」
「どうも……」
ぜいぜいと揺れる背中を軽く叩かれる。労いかと思えば、
「それじゃあもう一セット行こうか」
爽やかな笑顔が目を閉じてしまいたいほど眩しい。
というかその言い方やっぱりトレーニングなのでは――気配を感じたのか、聞く前に駆け出した背中は相変わらず遠い。休憩してからでもいいだろうか。少し誘われたが、振り返ってこっち見てるから駄目だろう。諦め走り出す。
確認以外にも、愛抱夢は振り返る毎に足の置き方から何からアドバイスらしき何かを投げてきた。都度なんとか調節しながら追いかける。投げられるものは言葉だけでなく、時には飲み物まで。水分補給は重要だよ、なんて優しさ添えで。
そんな配慮をしてくれるなら徐々に波打ち際に近づいていくのもやめてほしい。砂が濡れてて足をとられるし跳ねる水が冷たい。そもそも水の近くってなんか寒い。
「……はっ、はっ」
それでも段々やり方は解ってきた。と同時に迫るチャンス、狙って狙って――。
「……っ!」
やった。今度こそ手加減なし。おめでとうと祝う声にどうだと顔をあげた先、愛抱夢の表情は。
「なに、その顔」
「いやあ……ふふふ」
肩が震えるほど笑っている。これは知ってる、何らかの計画がうまく行ったときの奴。つまり自分はそれに良い感じに乗ったのだろう。おそらく彼の、思いどおりに。
「必死に追いかけてくれてありがとう。実に良かった、いや本当に……」
はあ、とやけに鼻にかかった溜め息に昼の海には相応しくないものを感じ取り、思わず袖を離した。
「おや、離してしまうの?ずっと捕まえていてよ」
「掴んでればもう走っていかない?」
「ふふ」
肯定は無し、否定も無し。
こういう人だと解って聞いたのが悪い。だから全然気にしてない。
「今度は随分強いね。愛の重みかな?」
「あれ」
ぱっと離した手は、確かに少し赤いかもしれない。どうしてだろう。呟いた独り言に愛抱夢は眉を下げた。ゆるく吐く息に混じり、ぽつりと声が。
「いいのに」
それだけ置いて彼は足を進める――海の中へ。
「え、ちょっと……」
じゃりじゃりと響いていた足音をすぐさま波が消し去った。靴どころか裾まで濡らした彼がもう一度同じ表情のまま、同じ言葉を投げる。
「捕まえたっていいんだよ」
「そんなことしない」
「……残念」
フラれてしまったと肩をすくめる男に変な言い方をしないでと近寄った瞬間ばしゃりと音が。そして、
「っ!?」
一秒もしないうちに身体を何かが襲う。背中をかけのぼるゾクゾク。これは――水だ。さっきのが追いかけっこならこれはただのかけっこ。もっとも今自分は一方的に掛けられる側だし、掛けている彼はまったく楽しそうではないしで遊びとしては成立してないけど。
それにしても
「つめた……っ!?濡れる、っていうか濡れてる、一旦止めて……!」
「何で?彼らとはしたんだろう?」
「温度が違う!」
止めに走った一歩目。
「あ」
爪先が沈む。忘れてた、砂浜はこれだから。
らんがくんと手が伸ばされていた気もするが、間に合うことなく激しい飛沫に視界が包まれた。
水は冷たいがもうそんなのはいい。ここまでくると色々ありすぎて逆に冷静になってきた。ゆっくり起きる。全身からぼたぼた滴る海水。スマホは車で良かった。拭くものも積まれていた気がするから後で見てみよう。今は目の前の事態を優先しよう、まずは一番危なそうな彼から。
「愛抱夢」
「ここまでする気は……」
「大丈夫、俺が勝手にこけただけ」
「……」
しばらくして、波の音より少しだけ大きな声がかすかに聞こえた。別に謝らなくてもいいのに。
表情を固くしたままの彼に尋ねる。
「今濡れても平気?」
頷いたので、手を。
「なら、隣」
叩いた隣は、砂は逃げるし水ばかりでぴちゃぴちゃ言うしでろくな場所では無かったがすんなりと埋まった。少しだけ空いた距離がよそよそしい。つい自分から近づき、肩に顔を埋める。
「お返し」
シャツにじわりと染みた水にそう言うと彼は数度瞬きし、甘んじて受けようと笑ったので、まあ少しはフォローできたのだろう。
波が寄せ、引き、二人がまぜた砂を丁寧に戻していく。ようやく間近で見られた海は、
「きれい」
透き通る水のなか、ゆらめくミント色。遠くまでグラデーションが続いていて、光がなくてもふんわりと輝いて見える。
この時期が一番透明度が高いと話す男の表情は穏やかだ。気に入っているのかもしれない。
「確かに美しい。僕も好きだ」
「似てるもんね」
眼差しがよく似ている。薔薇の花束。レース観戦中。そして自分をみるとき見せる、やわらかいそれに。
だが言葉が足りなかったようで、彼は不可解そうに首をかしげ、
「……僕が海に、似ている?」
勘違いではあったがなんとなく首を縦に振った。
「海ってより波だけど」
「波……」
言われてみれば、近いものを感じる。
追いかければ逃げ、かと思えば寄ってきて。何処にも行かないようでいて、こちらに捕まってくれるわけでもなく。なのにずっときれいなまま誘い続けるからつい追いかけてしまう。
波ねえ、と繰り返した声が思ったよりずっと近くで聞こえこっそり息を飲んだ。距離を置くのはやめたらしい。波と彼は似ていても、彼の方がよっぽど難しい。なんと顔があり、表情がある。話ができて、心を知れる。こちらで遊びに遊び尽くすけど想定外のやり過ぎには落ち込んだり、掴み所がなさそうでいて実はひどく人間らしかったりするところを見せられてしまう。何より自分が近づかなくても向こうから接近してくるから、目を離すことさえできない。ほんとやっかいだと愛抱夢を見れば、
「ずっとこうしてたい。どうしたらいいかな」
疲れた大人の顔で子供のように呟き、
「……壊そうか。車」
ビックリするほど低い声で子供みたいな発想を提案してきた。いやダメだろと慌てるこちらを、どこまで予想したうえで話しているのだろう。楽しそうな顔では何も解らない。
「帰れなくなる」
「いいさ、ホテル代くらいはある。それに一日程度なら問題無いだろう。……と強く言いきれば真実になる気がしない?」
「つまり嘘か」
「信じる者は救われるんだよ」
それ、どう見たって信じてない人はつまり救われないのではないだろうか。言うかどうか迷っていると、身体をぞわりと走る寒気とは違った感覚。出所は見なくても解る。どうやらこちらが頑ななので、やり方を変えることにしたらしい。
「君と他の奴らには特別な思い出がある。君と僕にはない。それは寂しいことだ。とても」
「……」
「さみしいよ。……ね、いいだろ」
顔を見ないで立ち上がった。見たら絶対男の言いなりだ、こういう時それはもうあざとい表情で待っていることを自分はよく知っている。
ただその表情も今の言葉も全部が嘘でないことだって知っている、だから手を出した。立てる指は一本。一番小さな約束の指だ。
「なら、また夏に」
ゆっくり伸ばされた指へ強引に絡めぶんぶんと振る。勢いが付きすぎたのか、離した途端彼の腕ごと上へ。
いつもの笑みが外れた顔は少し寂しそうだが、そんなことより見たことがないほど白いのでやっぱり早く車に戻るべきだ。そしてまた夏に来ればいいと思う。
愛抱夢が特別にこだわっているのは何となく伝わってくる。けれどこんな季節を狙わなくたって彼と来た海のことも自分は忘れない。それでは駄目なのだろうか。
知っていることが増え、解らない感情も増えていく。追いかければ開く距離――彼は本当に、波に似ている。
下がってきた腕。袖を掴み、引いた。
「だから帰ろう。始まっちゃうよ」
すぐに夜になる。もっと楽しいことが待つあの場所へ行こう。山の上は寒く向かい風は冷たいが濡れはしないし、二人が追い越し追い越されながら隣に居続けられるのはきっとあの瞬間だけだから。