淫魔はおなかを空かせてる 職業淫魔の夜は早い。いや大概の淫魔はもう少し余裕があると思うけど。自分の場合は別だ。真夜中行ってなんて悠長なこと考えてたら待っているのは残念な結果だけ。だからまだ始まりたての夜、暗いだけで妖しさも何も無い中をこうして全力ダッシュしてる訳で。
汗だくの顔で淫魔ですよろしくお願いしますと言ったところでターゲットが喜ぶとは思っていないがそれでも走らずにいられない。四度の失敗を重ねいよいよ五度目の初仕事だ。今夜こそ絶対成功させなければ。
「着いた……!」
指定のマンションはうっすら霧に包まれている。その中唯一霧のかかっていない部屋、あそこにターゲットが居るに違いなかった。エレベーターを待たず非常階段を駆け上がれば目的の部屋はすぐそこ。勢いをつけて扉へ跳ぶ。アルミも無事すり抜けられたことだしさあやるぞと気合いを入れた身体がしかし一歩目で動きを止めた。続いて頭が事前に確認していた情報との差異に気づく。
「……」
何か様子がおかしい。妙に静かだし室内に満ちた精気の量が想定より大分多い。加えて生きたものの気配がしっかり二つ。
ああこの感じ、嫌な予感がする。
もう走る気にはなれなかった。とぼとぼ歩いてリビングへ続く扉を開けばまあまあ予想通りの光景。全開の窓が特徴的な室内には男が二人。うつ伏せで床に倒れているのがおそらく本日のターゲット。そしてその横で寛ぐ一人――人と数えるのは若干おかしいかもしれないが、ともかくあれが“同業者”だ。
「遅かったね、淫魔見習いくん」
「……またあなたか。愛抱夢」
こちらを見るなり笑みを浮かべた本人曰くハイパー淫魔の男、愛抱夢はターゲットを踏み越えつかつかと距離を詰めてくる。目の前で止まられつい身体に力を入れた。男の目は仮面に隠され正確な位置こそ分からないが、向き合うだけで謎の緊張感をこちらへ与えてくる。出会ったときもそうだった。本来の意味での初仕事に向かった自分へターゲットを爪先で送り待ちくたびれたと欠伸したあの日。あれから必ず仕事場には先にこの男が居てその下には屍のようになったターゲットが転がっている。
「何度も言うけど俺はもう見習いじゃない」
「まだ一度だって人間の精気を吸えていないのに?」
「それは愛抱夢が先回りするから」
「先回り?嫌だな。その言い方だと僕が君の獲物を横取りしているみたいじゃないか」
ぐいと更に近付く顔に気圧されながら「違うの」と訊けば愛抱夢は「違うよ」と。
「良い匂いがしたから味見に来たら偶然君のターゲットだった。それだけ」
つい目に力が入っていたらしくそう怖い顔をしないでと笑われた。一応そちらが原因なのだがどうも理解されている気がしない。
「愛抱夢。あなたにだって自分のターゲットが居る筈だ。そっちを吸って欲しい」
「居るけどさあ……分かるだろ?あれっぽっちじゃ足りないんだ」
顔に寄せられた手が頬へ。そのまま指先が耳に触れたなら勝手に口から小さな声が。
「……君。何か仕込んでる?」
「あ、うん。薬飲んだ。支給された瓶のやつ。だからあんまり触らないで」
「ああ成程……また悪趣味な……」
「……触らないでって……」
「聞いた」
露骨になっていく動きにじりじりと身体が熱を帯び始める。意気込みとして軽く準備など整えておいてあるのが良くない。触れてくる指がターゲットのものかどうかなんて身体には関係ないから。
「ぁ、愛抱夢、やめ」
「……薬くらいでそんな顔見せて、それで淫魔のつもり?変な人間に引っ掛かる前に君こそ辞めておいた方が良いんじゃない」
何も言い返せないでいればうなじ、服で覆っていた筈の素肌にひやりと何かがあてられた。多分指だ。愛抱夢の。少しだけまずいかもしれない。
「辞めるって言えばやめてあげる」
ほんの少し考えて、唇を噛んだ。自分がどう思ってもそれを口から出せないように。すると何故だか指が離れて行った。冗談だったのだろうか。ともかく身体は安心してしまったようで座りかけたところをやんわり愛抱夢に押さえられる。
「辛そうだね。僕ので良ければ分けてあげようか?」
「いい」
開かれた口の赤さにどこか誘われていることを自覚しながら突っぱねた。自分だって淫魔のはしくれだ。これくらいの飢えならどうにか対処出来る。
「食べて何とかする」
「……精気を人間の食料で賄う淫魔なんて聞いたことがないんだけど」
「そう?意外と出来るよ」
「……やはり君、根本から淫魔に向いてないのでは?食べ物ならいくらでも用意してあげるから一回辞めてみない?」
「辞めない」
自分の足で立ち言うと男が奇妙な表情を浮かべた。感情の掴みにくいそれを観察するべく目を凝らした途端、視界がもわもわと煙で埋まる。
「なっ……!?」
「今夜はここまでにしておこうか。次は良い返事を期待しているよ」
「次も来る気なのか……!?待……、ッ……!」
思い切り咳き込んでいるうちに愛抱夢は消えていた。残ったのは荒れた部屋と精気のひと欠片も残っていないターゲット。そしてそれらをさぞ長い時間をかけ片付けるのだろう淫魔が一匹。要は自分だった。
どうにか痕跡は消せたものの五度目となる初仕事も敢えなく失敗。こうなると何を言われるか予想もつき報告は躊躇われたが。
「……あの」
「うん。何?」
「怒ったりは」
「されたい?」
慌てて否定すると向かいの男がほんのり笑ったように見えた。
「しないよ。僕にはそんな権限無いからね」
そう言いつつその手元のPCから連絡はするんだろと思うと安心は出来ない。
「それはまあ、義務?」
「……神道さん」
「大丈夫大丈夫。今回もちゃんと甘めに説明しておくから」
「……それはそれでちょっと……」
「ランガくんは真面目だねえ」
淫魔にとって重要な人間が二種類居る。ターゲットと協力者。この人は協力者の方。本来は家探しなど手伝ってもらうのだけど訳あって初めから普通にこちらで暮らしている自分にはその必要は無かった分色々と世話を焼いてくれている。親切過ぎるほどに親切な人で気も回るので、少し手伝ってもらうだけのつもりがいつの間にやら連絡報告その他全て丸投げしていた。こうして支給のPCなど渡しもっぱら自分はその隣でお弁当を食べているのが常だ。今日は目一杯大きくしたおにぎり。
「それでどうにかなりそう?」
「うん」
「……すごいな」
朝から結構な量食べたので昨日手に入らなかった分の精気は充填できた。とは言え今後どうしたものか。今までの4回はこの人の説明が巧みなのか注意さえ受けなかったけども今回そしてこれからもそうとは限らないし。何より愛抱夢、あの男がいつまで邪魔してくるか。
先のことでこちらが悩んでいるのを見透かしたように男の目がPCからこちらへ向く。
「……これは提案だが、君さえ良ければ」
「ごめんなさい」
長い前置きの時点で内容は察せられたので即断った。
ターゲットから精気を吸えなかった淫魔が代わりに協力者を使ったり練習台にすることは珍しくない。相手からの申し出なら甘えたって罪悪感も無し。けれど駄目だ。
「僕では駄目?」
「駄目。神道さんだけは絶対駄目」
「どうして?……まさか足りない訳じゃ」
「それだけは無い」
わざとらしく肩の力を抜く男。その周囲を覆う気配に思わず目をぎゅっとすがめる。初めて会った時はそれはもう驚いた。この濃さに量、何もかも規格外だ。
「神道さんの精気は本当に強い」
「褒められているのかな……」
「すごく褒めてる。ここまで生きる意思に溢れた人はなかなか居ないと思う。上級淫魔並み。誇れるレベル」
彼の精気ならどんな淫魔でも、それこそあのハイパー淫魔だって満足させられるだろう。
「でもだからこそ駄目。強すぎて俺には耐えられない」
どんな良質な品だって慣れていない身には毒のようなもの。新米淫魔の自分が彼の精気をいなせるかどうかなど試さない方が懸命だ。こうして近くに居るだけで既に若干影響を受けているのだから直なんて、試せば間違いなく痛い目を見る。
「ちょっとでも吸ったら絶対やばい。ひ……っどいことになる」
「ひどいこと」
「吐く」
目の前にまで迫っていた手がぴたりと止まった。
「……は、言い過ぎかもしれないけど。とにかく体調に悪そうだから遠慮しとく。ありがとう」
手を下ろし良いのだと呟く男の顔の微妙なこと。最近似た顔を見たような。いつだっけ。
「それじゃ俺そろそろ行かなきゃだから。またパソコンお願いして良い?」
「ああ任せて。6度目が決まったら連絡する」
「よろしく。……あのさ」
吐かないだろう。でも身体の中は多分吐くよりずっとひどいことになる。たった一回の気まぐれ。善意からの親切。それだけで中全部めちゃくちゃにしてこの人のことばかり考えるようになって、果てにはあなたの精気でなければ足りないのだと縋るようになったりして。淫魔業どころか人としての生も終わり。そんなのってあんまりだ。
折角なら丁寧に進めたい。こんなに美味しそうな人が自分に心から精気を与えたいとそう思ってくれたなら。一体どれだけ腹が膨れるか考えただけで高揚する。だから。
「俺早く立派な淫魔になるよ。神道さんにお願いできるくらい」
「……そう来たか……」
「うん。頑張る」
「……解った、頑張ってね……僕も頑張るから……」
回数をこなして精気に慣れたらその時はぜひ本気の味見を、例えばあの淫魔がするような暴力的なのをさせてもらいたい。
けれどあれのやり方は少し特殊で吸うというより精気の生まれる余地を根こそぎ失わせる感じだから参考にはしにくいか。あんなやり方でちゃんと精気が手に入るのかと疑うけれどいつ会っても本人のまとう精気はたっぷりだから不思議だ。6度目も現れたら訊いてみてもいいかもしれない。何せ自分には余裕が無い。我慢するのもすぐ難しくなりそうなので。