名残にやみつき　月を見ながら楽しいことをすると言うから進んだ行事があるのだなあと思っていたのだけど。
「滑りは……しない……？」
「うん。当たり前にな」
「じゃ、じゃあこのスケボーは」
「置いとくしかないだろ。これは許可取ってても、店の周り使って滑るのは後で店長にどやされそうだし。帰りにあっち寄ってこうぜ、それじゃ駄目か？」
　駄目じゃない。言えば押された体は瞬く間に屋上に辿り着いていた。暗い空光る月に恨み言は吸い込まれ、買ってきた月見用のあれこれと一緒に不満も大体胃の中へ。ただし大体。全部ではない。折角誘ってくれたのに悪いし美味しくて楽しいから口には出さないけど、スケボーがあって滑る相手が居てなのにスケート抜きというこの状況をどうにも心は呑み込めていなかった。楽しいことと聞いたらスケート以外思い付けなくてここ数日楽しみにしていた分切り替えられないのもあるだろう。けどそれ以上に、ううん、多分比べられないくらいはっきりしている理由がひとつ。
　唇に残ったソースを舐めとる。しっかり濃い味付けは好みだけどこればかり食べていたら普通の濃さでは満足出来なくなりそうで、つまりはそういうことらしい。夏休み期間中寝ぼけ眼でスマホを取るなりやあランガくんお休みのところ失礼ところで今夜は久しぶりに過ごしやすい気温だねこれは愛し合うしかないと相槌も打たせない速度で一時間後の約束を取り付けてくる人やいきなり現れてたむろしている連中が面白そうだから少し遊んでみようと全く知らないパークまで連れ出してくる人、自分より他の何よりスケートが優先される状況などなどを大量に体験した結果。自分はそういう若干危険ですごく楽しい状態に慣れ過ぎたようだ。
「どうしたランガ、手も口も止めて。苦手なもんでも入ってた？」
「ううん、美味しい……でも俺はこれ以外も美味しいって思いたいんだ……」
「別のが食べたいのか？俺も飲み物追加欲しいしちょっと行ってこよっかな」
「あ。俺も一緒に」
「いいからそこで待っとけって。さっきからお前変な顔してるぞ、後で滑るなら無理しない方がいい」
　背中を見送って空に視線を戻す。対象を改めて見つめ、思わず溜息を吐いていた。きっとまだこの顔は変なままに違いない。明るくてまん丸いもう充分見応えのある月を前にもっと近く、もっともっと高いところで見たらどれだけ綺麗なのだろうと考えて、その為には飛ばないとなあとスケボーを引き寄せて。今夜の主役をより強い刺激を得るための言い訳にしようとしている。たった一月未満でこの身はどれだけ贅沢ものになったのだろう。
　それでもまあいいかなんて思わない今のうちに気づけたのは幸運かもしれない。この夏自分をたっぷり付き合わせた人はすごいスケーターだけどすごく良い人ではなくスケートが大好きで一番なようだから、いつまでも一緒に滑れると当たり前に思い込むのはあぶない気がする。しばらく会うのは控えめにするべきだ。その間に少し薄めの味を沢山含んでその美味しさで満たされるようになれば元通りの筈で。
　だから。
　今会うのだけは、嫌だったのに。
　階段を上がってくるさっき聞こえたのとは全く似ていない足音。頭がくらくらして心臓がどっどっと騒がしい。
　振り向きも、挨拶に返事もしないで訊いた。
「何で来たんだ」
　本心であるそれに彼が訊き返す。会いたくなかったかと。そしたらもう堪えられなくて、固まった身体をどうにか動かし背中側、声のする方を見て、
「あ」
　会いたくなくて、滑りたくて、今は顔を見るだけでも駄目だからいやで、また頭も体も変になるくらいの楽しさを味わいたくて。
　それら全部の文字と気持ちがごちゃ混ぜになった言葉は本心と言えるのかわからなかったけど、
「会いたかった」
　言った瞬間彼が見せた顔の意味も、それに自分が抱いた感情のかたちもわからなかったから、ああもう仕方ないのかなって、大体のことは全部どうでもよくなってしまったのだった。