カレーのまほう。 ツグミの心に巣食うノイズを祓い、その心を覗き終わる頃には日が傾きかけていた。長い一日だった。それぞれに想い人を象った偽物と戦い、その身体を抉り、消滅させるというミッションに、ツイスターズのメンバーたちは明らかに傷ついていた。少年少女たちと知り合って間もないネクだったが、彼らのソウルの生々しい痛みが伝わってくるほどに理解できた。
彼らは言葉少なのまま、キャットストリート周りの路地を散策していた。ゲームにおける「一日」が終了するまではまだ時間があるらしい。手持ち無沙汰でチームリーダーに「どうしようか」と声をかけると、
「いつもはショップ巡りしたり飯食ったりしてました、することも無いですし」
と説明される。なるほど、自分も3年前は自由時間はだいぶリラックスして過ごしていたように思う。ミッションが終わって時間があれば、渋谷の街を眺めているかマブスラの練習をするか、トワレコでCDを試聴しているうちに一日が終了したこともあった。
新人たちは行くあてもなく、足が進むのに任せてぶらついているようだった。ネクはビイトと共に彼らの後ろについて歩く。メインストリートこそ商業テナントが軒を並べているが、一本路地を入り込めばコンクリート造りのマンションが林立している。渋谷全体で見れば長閑なエリアである。
そのうちの一件から漂う香りがネクの鼻腔をくすぐり、足を止めた。
気取ったところのない、型通りの匂い。香辛料と脂と果実を組み合わせた、家庭用のカレーの匂いだった。
面白みのない家庭用カレーの匂いは、ネクが世界から切り離されていた3年間をそっと差し出すように記憶を蘇らせた。思い出と風景が一気に頭の中に描き出される。整理された玄関。多少の生活感がありながらも、木目調で統一され感じよくまとめられた居室。ダイニングの脇に置かれたテーブルには4人分の椅子が設えられている。
父も母も家を開けがちで自分も塾通いで日々を過ごしたため、家族揃っての夕食は決して多くなかった。両親とも家に居ないような日にたまたま塾がない日が重なれば、かなりの頻度で大鍋にいっぱいのカレーが用意されていた。家庭用のルウを使い、包装のレシピの通りにニンジンやジャガイモや豚肉を入れたカレーで、ネクはそれと冷凍の白飯を温め直して一人で黙々と食べた。黙って皿を洗い、必要があればカレーの残りをタッパーにしまった。
その時は何とも思わなかったが、今思えばそれは両親との言葉なき交流だった。
新宿での3年間と渋谷に来てからの1日というもの、ネクの食生活は大変不安定だった。UGでも腹が減ることは減るが、厳密に言えば食事をしてカロリーを補給する必要はない。モノを食べることはできるがあくまで気分転換のようなものだった。
新宿での生活(放浪の毎日を生活と呼べるのならば)においては、ココが気まぐれで渋谷から持ってきてくれる物が「食事」の全てだった。大抵はグミや飴玉やビスケット、気が向けばレストランのテイクアウト弁当の時もあった。瓦礫とソウルの残骸の中、ネクとココは場違いなお食事会をした。ココの声だけが不自然にはしゃいでいた。
裏通りに漂い、満たしているのは家庭そのものの匂いだった。それは、3年間与えられてきた菓子や外食とは明らかに異なる物だった。
「……おい、ネクどうした」
心配げに声をかけられて、初めて自分がぼんやり足を止めていたことに気がついた。ビイトがまじまじとこちらを見つめ、表情を伺っている。先を歩いていたメンバーたちも振り返り、何かあったのか、というように足を止めた。
家に帰りたい。自分の部屋に帰ってベッドに身を休める安らかさが欲しい。家族の声を聞きたい。……そんな甘えは振り払ってしまうべきだし、胸を焦がす懐かしさを話したところで全てを分かってもらうことはできないだろう。何より、少年たちにこれ以上気を遣わせてしまうのは心苦しかった。
「……いや、何でもないよ」
「もしかして……」
ビイトが後の句を継ごうとする。
「……腹減ったのか」
予想外の言葉に一瞬頭が白くなった。言葉に詰まったが、そういうことにしてしまおうと思った。胸の奥に染みる痛みを封じ込めて、無理やりハハ、と笑い声を作った。
「そうだな。ハラ減った」
「やっぱりな!」
ビイトが調子良い声で応えた。歩み寄ってきた少年たちも明るい声で後を続けた。
「カレーの匂いですね」
「腹減るよねー!魔法みたいにカレー食べたくなっちゃう」
「どーする?今からでもカレー食べに行こっか」
「この辺の店舗事情は分かりかねますが……確か道玄坂なら2件ありましたな、カレーの店」
違う、違うんだ。どの店に行っても俺が欲しいものはきっと無いし、ゲームをクリアした先でしか決して手に入らないものなんだ。……そう言いたかったが、ただ笑顔を繕って答えた。
「……そうだな。間に合えば良いけど」
「よっしゃ、早速道玄坂いこ!」
通りを早足で戻ろうと、中心街の方向に向き直った。6人の影が少し伸び始めていた。