迷子の迷子の数学者 油を引いて生地を広げて引き上げる。
油を引いて生地を広げて引き上げる。
もう優に百回を超える反復動作を繰り返しながらナギは長い長い溜息をついた。
「な、何でワイがこんなことに……」
空は青く高い。爽やかな秋晴れの一日。木漏れ日が揺れるエントランスには名物の立て看板が立ち並び、サークルや語学のクラスごとに出店しているフードの屋台で大学構内が埋まっていた。見学に来た高校生や単に酒を飲みに来た近所の中年まで、学園祭の時だけは普段とは全く異なる浮ついた雰囲気が学内を覆う。
ナギが選択した文学のクラスの出し物はクレープ。カスタードとチョコとイチゴ、それぞれ400円。それが代々伝わる伝統で、毎年それなりの集客を誇っていた。ナギはそういったイベントに積極的に参加する方ではなかった。だが、クラスメイトたちは友人のバンドを聞きに行くためとか後輩が来てるから案内するとか適当な理由をつけてシフトを抜けてゆく。結局、時刻が13時を回るまでナギは働き通しだった。自らの腹も切なげに鳴ってきているが、手を止める間も無く次から次へとオーダーが飛んでくる。逃げ出す暇もない。
「イチゴ味一つお願いしま〜す!」
「はっはいぃ……おや」
微かに聞き覚えがある声がナギの注意を引く。そっと視線を上げるとやはり見覚えのある顔がそこにあった。どピンクのふわふわロングヘア。フリルのついたスカート。決め手は白い花が連なったトポトッポのカチューシャ。
「ナギちゃん久しぶり〜!」
「ココ女史」
再びクレープ生地を錬成しながら、お久しぶりです、とナギは続けた。
「ナギちゃん大学ここなんだぁ〜」
「そ、そうですな…」
「渋谷も近いしいいとこだよね!」
「はぁ……」
ココが苦手、或いは嫌いな訳では決してない。ないのだが、何しろ彼女のプリンセスファッションは悪い意味で目を引く。早くも感づいたクラスメイトが「なになに?あの子ナギの知り合いなん?」と声をかけてくる。ココには悪いが……非常に、恥ずかしい。
それでも彼女の出現はナギにとって一つの脱出口になった。
「友達来てんなら話してくれば?ナギ朝からずっとシフトだったでしょ」
「で、できればそうしたいですな……お腹も減りました」
「はーい、じゃバトンタッチで!」
バンダナを巻いた女子がナギからフライ返しを受け取り、サッと鉄板の前に立つ。鮮やかな手つきで焼き掛けのクレープをひっくり返した。彼女であれば安心だろう、と謎の責任感を持って見届け、ナギはココの元へと歩み寄った。
「……RGに遊びにいらしたので?」
苺クレープを頬張ったココが顔を上げ、キラキラと目を輝かせて答える。
「そうなんだー!面白い展示とかいっぱいあるってミナミンが言ってたから、ついてきてみたの」
「なんと。ミナミモト様がご興味をもたれたので?」
「そうなの!なのにミナミンったらはぐれてどっか行っちゃうし!女の子を一人にするとかあり得なーい!」
彼女は頬を膨らませてぷりぷりとむくれていた。二人であればどちらが逸れた……というのも可笑しな話である。実力者だと伝え聞いてはいても、こうして学園祭を楽しむ姿はただの子供のようにしか見えなかった。
「ねーナギちゃん、ミナミンがどこ行ったかとか分かんない?」
「ミナミモト様が行きそうな場所……ですか」
「アート?とかヘクトパスカル?とか好きそうだけど、私その辺詳しくないから全然知らないの……」
「ははぁ、なるほどですな」
構内はかなりの広さで、スマホで連絡を取り合わない限り一度はぐれたら再び会うのも難しい。地図を持っていても迷ってしまうほどであり、方向感覚がない人間が初めて訪れるときは、まず、迷ってしまう。
「ナギちゃん見当つかない?」
「ミナミモト様がお好きそうな場所……」
3秒だけ考えて、すぐに心当たりにぶつかった。「ありますな」
ココは満面の笑顔で言う。
「やたー!ナギちゃん探してきてよ!私はここでお買い物してるから!」
「は、はぁ……」
可愛い顔をして人遣いが荒い。見つけたら教えてねー、と臆面もなく押し付けてくる彼女とメッセージアプリのIDを交換してから、ナギは大学の西側へと足を進めた。
中心部から外れると歩道沿いの木々が厚くなり、ちょっとした森のようだった。ここまで訪れる人間は数少ない。枝を揺らす風や鳥の声が聞こえてくるほどの、穏やかな静けさ。その奥に白い建物がある。市民スペースのようにも病院のようにも見えるその施設も大学の一部 ー 数学棟なのだった。
普段は訪れることのないその自動ドアをそっとくぐり、心の中で”おじゃまします”と挨拶する。
タイル張りの廊下が長く長く続く。両側に教室が並び、窓がない代わりに中央の吹き抜けから光が差し込んでいた。外と比べればひっそりしているがやはりこの空間にも学園祭は存在するらしく、大学生らしくはない年配の二人連れがチラホラとポスター展示を見ていた。
その人影に混じって探し人は案外簡単に見つかった。
「……ミナミモト様」
105番教室近くの掲示板、相変わらずフードを目深に被った姿の男が大きく貼り出された研究発表ポスターを見つめていた。時折ブツブツと何事かを口の中で喋り、ほうほうとしきりに感心している。
声をかけるには少し勇気が要った。
「ミナミモト様」
気付いていない。
「み、ミナミモト様っ!」
「?」
校内で上げるには少々憚られる音量で注意を引くと、ようやく不機嫌そうな声がナギに向けられた。
「……ゼプトグラム」
「こ、こここココ女史がお探しでしたぞ……」
「あー……」
面倒臭そうに頭を掻いて、そしてナギに向き直った。頬の辺りに血が上るのを、ナギは感じる。
「……見なかったことにしろ」
「まさかのシカト宣言」
「まだ帰らん」
まだ帰らない。そう言って再びポスターへと向き直ったミナミモトがまるで子供のようだった。遊園地や動物園から帰りたくないと駄々をこねる子供と、同じ。推しの可愛らしい一面を目の当たりにしたナギの頬が思い切り緩む。
「……ゼプトグラム、お前はここの学生か」
「ですな……文学科1年です」
「それはどうでもいいが」
数式をなぞりながらミナミモトは話し続ける。
「案内しろ。物理と、天文と、それから図書館だ」
「えっと……全般サイエンス?」
「ゴミどもの思考よりは面白ぇ」
「ココ女史がお困りでしたが……彼女は良いのです?」
「適当な時間になったら帰る。……別に退屈はしねぇだろ」
「それはそうやも」
出店も出し物も無数にある。はしゃいで遊びまわる姿が目に浮かぶようだ。
「見なかったことにしておけ」
少しの罪悪感を覚えたが、それはナギの手を止めるほどの強さではなかった。言われるがままにスマホを取り出し、「見当ハズレでした……残念ながら見つからず」とメッセージを送る。間をおかずに帰ってきたとっぽちゃんのお怒りスタンプに内心で謝罪する。申し訳ない、ココ女史。多分午後いっぱいくらいミナミモト様は見つかりません。
スマホをしまうとミナミモトがじっとこちらを見下ろしていた。
「わ、ワイの顔に何かついていましたか……!?」
「ゼプトグラム……何か甘いモンでも食ったのか」
「た、食べた……というか午前中ずっとクレープを焼いていたので……」
「ほう?」
悪くねぇな、と彼は無駄に不適な笑みを浮かべる。何なら案内してあげましょうか、と言いかけて急いで押し留めた。クラスのレガ友に何と説明したら良いか分からない。それに……この時間を二人だけのものとしてしまいたい。
「それもいいですが……天文教室の近く、チョコサンデーの屋台が出てるので」
「……」
「毎年評判良いそうですし、そちらでいかがかと」
「……いいだろう」
案内しな、と彼はナギに先導を任せた。ココ女史には悪いが、地の利を活かして思いっきり見つからない道を選んで歩かせてもらうことに決める。二人だけの時間をこっそり楽しませてもらおう。午後の時間はまだたっぷり残っている、天文と化学とシミュレーション棟を回って……
数学棟の白い廊下を渡り再び静かな森へ向かう途中、彼女は忙しなく理系的なデートプランを思い描いたのだった。