南風 この街にはよく風が吹き溜まる。
地面を裂くように突き上がったいくつものビルに風が遮られ、束ねられる。ビルの谷間に育て上げられた風は勢いよく髪を乱し、時には向かい風となったり人のバランスを崩したりと悪戯ばかりしていた。
今日も、アスファルトの温度を存分に吸った熱風がスクランブル交差点を吹き抜けている。その風の中に彼は立って、白い花を植え込みに預けた。薄い長袖の裾がバタバタと煽られては心細げな音を立てる。それを気にもかけず、犬の像の近くでただ立ちすくんでいた。
— 2ヶ月、くらいになるか
「そだね、一応少し元気になったぽい?リンちゃん」
— 俺さ、この前まで犬飼ってたんだよ。知らないだろうけど。
「えっマジ!?リンドウの家って犬オッケーだったんだ!?なんの犬種?」
— おまえに似た犬だった
「いやいやいや!俺に似たイヌってどんなよ!」
— ……そいつもこの前交通事故で死んじゃったんだ
「……それは、ご愁傷様」
リンドウが心の中で植え込みに声をかけている。それは自分に宛てたものだと分かっているから精一杯声を上げて答えているのだけれど、勿論届くこともなくただ風の音に拐われて消えてゆく。時折すれ違っていくヴァリーの仲間に「お疲れ」と手を上げて、放心したままのリンドウを眺めていた。
手の中に赤と黒のバッジをふたつ、握っていた。
「これさぁ、お友達の落とし物じゃないのォ?」
ギョロリと目を剥いたスーツの男が、小さなピンバッジを摘んで俺に見せてくる。たまに街で見かける死神の一人だ。浮いた感じのする人物だった。他の死神たち — 黒猫帽子の女の子や赤と黒のパーカーを羽織った青年たち、それからよく朝の放送で現れる金髪ホスト — 彼らとは年齢層も喋る雰囲気も全く異なっていた。チーム死神に馴染めていないような違和感を感じさせるのに、本人自身がそれを気にもかけていない様子なのが、なんとも怪しい。
んっは、と男は変な笑い方をした。んは?と笑い返してやると、んーっはっ!と更に高らかな声でタメ笑いを溢す。おかしな奴。
「せっかく買ってあげたのにさぁ、落として探しもしないとか薄情なお友達だよなぁ?」
「あの時はビックリしてたししょうがないんじゃない?」
「分かってないね」
チッチッ、と男はわざとらしく指を振った。
「形見なら尚更大事にするモンなの。オマエ、お友達に愛されてないんじゃない?」
「いやぁ、リンドウが俺のことどう思ってたかは流石に知らないわ」
頭を掻いて言い訳する俺を見て男はんっはっ、と楽しげに笑った。前言撤回。嫌な奴だコイツは。
「……アイツさぁ、よく渋谷に来てるじゃん。お話したいとか思わない?」
「でも俺死んでるし話せないんじゃん?」
「それがなぁ、できるんだよ。— コイツを持たせれば」
そう言って、男は摘んだバッジを俺の目の前に突きつけた。コーティングされた表面が日光を反射してキラリと光った。
「参加者バッジ?」
「そーぉ!こいつを持ってればRGにいる人間も一時的にUGと交流できるようになる。ま、ちょっとした……オマジナイ?」
そして猫撫で声で、手ェ出しなよ、と促した。そっと差し出した右手に参加者バッジがぽとりと落とされる。んは、と男が嗤う。
「目の前に落としてやって…ま、あとはオマエも使えるでしょ?インプリント」
「はぁ」
「わざわざ落とし物渡してあげに来たんだからさぁ、お礼ぐらい言ってもいいんじゃない?」
「まぁ、ありがとー?……ゴザイマス?」
一瞬凄みのある眼光で睨まれたので、急いで敬語を付け足しておいた。可愛くねーの、んっはっとだけ言い残したが男はそのまま靴を鳴らして歩み去っていった。
あの男の言っていたことが本当なら、声を届けることができるのかもしれない。ポトリと落として、『足元、バッジ』と吹き込んであげるだけで — 落ち込まないでリンドウ、とちゃんと言えるだろうか。声を届けてあげられるだろうか。
逡巡を断ち切ったのは、風の中に聞こえてくる彼の心の声だった。
— ここにいるとさ。たまに、おまえの声が聞こえる気がする
「え?」
表情を少しも変えず、鼻の上まで引き揚げたマスクで口元を隠したまま、リンドウはその場から動かない。動かないままに心の中で声を紡ぎ続けていた。
— ここに来るたびに、前向けよっておまえの声が聞こえる気がするんだ。それで、俺は俺で生きないとな、って思う
「リンドウ」
— これ俺の勘違いっていうか、妄想だったら悪いけど
「リンドウ……」
思わず手を伸ばしてしまう。決して触れないと知っていた。ただ一筋、寄り添うようにそよ風が吹いて彼の前髪を揺らす。涼しい風を受けたリンドウはふわりと目だけで微笑んだ。
俺の方を見ていた、気がした。
— 今も何となく、おまえがそこにいる気がしてるんだ
その言葉は互いの心の中にだけ響き、カタリと落ちた。
掌の中に握りしめていたバッジに力を込め、そして……青空に向かって思い切り振り被り、投げる。青空と入道雲を背景に赤いバッジはしばらく目立っていたが、やがて小さくなり、空中の一点になって、やがて見えなくなった。遠投が得意でない割には、絵に描いたように綺麗な消え方だった。
トラックが落ちてきて、死ぬ。それはよくよく考えれば当たり前のことだ。飛行機が落ちたら死ぬ。ビルの屋上から飛び降りれば死ぬ。人の身体というのは脆いもので、イレギュラーがあればたやすく死んでしまう。
それから、生きている人間と幽霊は互いに話せない。それも当たり前のことだった。
だから、望むこともない。
この手で触れることはできないけど、代わりに君を追いかけて背中を押す。再び声を交わすことはできないけれど、たまにはそっと心の声を風に乗せて届けよう。前みたいに親しく言葉を交わし、肩を組んで戯けることはできないけれど、構わない。追い風になれればそれでいい。
自分用の参加者バッジを握りしめる。しばらくじっとしているリンドウに、二つの単語だけでそっと呼びかける。
『デスマーチの、新盤』
リンドウがハッと顔を上げる。そしてスマホを立ち上げ、受診メール画面を操作した。
— そうだ。予約してたんだった
リンドウはようやくスクランブル交差点の方へと向き直り、明治通りを登っていく道へと足を向ける。後ろから吹く風が頭頂の髪の筋をスッと揺らした。彼が交差点を渡り、向こう岸へたどり着いてタワレコの自動ドアの中に吸い込まれていくまで、俺は街の誰にも見えない足取りでそっと彼の隣を歩いて行った。