ひとときの、白 雪が降る。東京の街を白く染めるほど積もる日は珍しい。
それは忙しなく行き交う電車の車輪を阻み、路面を凍らせて運転手を困惑させ、道行く人々の足を捉えて地面に倒れ込ませる。だから成人の多くは雪を好まない。雪にはしゃぎ回るのはせいぜいが大学生まで。
高校一年生 — ボーダーラインよりもまだだいぶ年齢が低いフレットは、未だに雪を歓迎する側の一人である。しかし同級生のリンドウは既にもう片方、雪を面倒がる側に足を踏み入れていた。寒さのせいか、隣ではしゃぐ友人の方を見遣る目がぼんやりと虚ろになっている。
「雪、けっこう積もってる!」
「……足滑りそ」
「雪合戦しようぜ!」
「しない。寒いし」
そう言って、彼は灰色のマフラーを顎のすぐ下まで引き上げる。凍った白い息が柔らかな生地を飛び越して煙のように辺りを漂う。誘いを断られたフレットは不満の声を上げた。
「リンドーウ、ノリ悪い」
「悪かったな……てかフレットは寒くないのか?」
「寒いけどさー、こんなの滅多にないから勿体ないじゃん?コレが最後かもよ」
ぴくり、リンドウが僅かに動きを止める。それを見たフレットはチャンスとばかりに畳み掛けた。
「ホラさー、温暖化?って言うし?東京じゃ積もるとかもう一生ないかもしれないし?雪遊びなんてもうずっとできないかもしんないし」
「……」
「今だけかもじゃん?」
リンドウは何も答えない。しかし、渋々ながらと言った様子ではあるが手袋を外してそっと雪を掬い、掌の上で丸め始めた。その様子を目に収めながら、茶髪の少年はしめしめとほくそ笑む。
「お!やる気なった?」
「……雪合戦は寒そうだからやらない」
そう言って再び雪を掬っては掌の雪玉に貼り付けていく。雪だるまを作るつもりらしい。よっしゃ俺も、と応えてフレットも自分の雪玉を育て始めた。
身を切るような寒さのためか、校庭の片隅で雪遊びに興じている生徒はちらほらとしかいなかった。空はまだ薄暗く灰色の雲を垂れ込ませており、二人が時折ぽつぽつと交わす会話の声も、しんしんと降り続く雪に呑まれてすぐに立ち消えてしまう。重くべたつく雪は掌の中で簡単にまとまった。二人の持つ雪玉はあっという間に握り拳よりも大きな程度の塊へと育っていく。
フレットは掌の中の小さな球形をリンドウに差し出した。
「これ使う?」
「ん、使う」
受け取った雪玉を自分のものの上に重ね、そっと地面に置く。校庭の一角の杉の木の下に小さな雪だるまがちんまりと現れる。何か手になるような枝や目になる小石はないか、そう思って地面の雪を所々掻き分けてみると、水気を帯びた雪が手に纏わり付き、指先がじわりと湿って冷たくなった。
フレットが再び二個目の雪玉を丸め始めている。
時折指先が硬く小さな何かに触れた。雪から引き上げたそれは石ころだったり小さな棒切れだったりした。雪だるまの装飾にふさわしい1ピースを探して、しばらく栗鼠のように地面を探り回っていた。
「……できた」
完成した雪だるまはふっくらと丸く、つぶらな瞳でリンドウをまっすぐ見つめていた。形がいい枝や小石を念入りに選んだおかげで整った顔立ちになってはいるが、それだけに何となく没個性で物足りなくも感じられる。恰幅の良い体型、目の部分に貼り付けた小石の楕円。連想に現れた人物を象るように、平たい丸い石を胸元のあたりにくっつけ、首飾りの形になるように枝で線を描く。
「できたんだ?リンドウ」
少し離れたところから友人の声に呼ばれ、顔を上げる。
「ん、フレットも?」
「おう、できた!」
向こうも完成したらしい。彼は紡錘形の塊を雪ごと掬い上げて雪だるまの隣に置いた。小ぶりだが滑らかに整えられたボディに、同じく雪でできた一揃いの耳がピンと立っている。顔であろう部分には少し吊り目気味の目と可愛らしく結ばれた口が彫ってあった。
「雪うさぎ」
「うまいなフレット」
「でしょ?リンドウのも……あ、」
胸元に抱え持てそうな大きさの雪だるまを眺めていたフレットが、その胸元の丸い平石に目を止めた。その口許がニヤリと笑みの形を作る。
「……モトイさんでしょ」
「ん、まぁ」
「アハハ、ぽっちゃりしてて似てる」
「そうか?……てか、フレットのそれもだろ?」
そう言ってリンドウは雪うさぎの背中を指差した。目や口を描いたのと同じ太さの筆跡で、中央に亀裂の入ったハート模様が描かれている。顔に見立てたマークが涙を流している絵は、かつて彼が慕っていた女性 — 立花果遠の身に付けていたものとよく似ていた。
フレットが少し恥ずかしげに頭を掻く。
「あー、バレた?なんかプレーンで面白みないなって思ってたら、つい」
「雰囲気出てると思う」
「ススキっちとフウヤさんのも作っちゃう?」
「いいよそこまでは……いい加減手が冷えたし」
広げた掌は雪に冷やされ、じわりと濡れて赤くなってしまっている。俺も手冷たーい、と言いながらフレットはリンドウの頬に手を当てた。冷たっ、と振り払われながらもしばらく戯れついたのち、一息付いて彼が提案する。
「この後俺ん家来ない?」
「今から?今日は原則帰宅って言われなかったか?」
クラスのHRで告げられた言葉をリンドウは繰り返した。雪のため交通機関に乱れが出る恐れがありますので、本日は午前授業とします — 担当はそう告げた途端、教室は湧き立つ歓声でいっぱいになった。帰宅困難とならないよう、寄り道をせず可能な限り真っ直ぐ最寄り駅まで帰ってください。そう告げた教師の言葉を、友人は無視させる気でいるらしい。
「そうなんけどさ、今帰っても暇でしょ、どうせ」
「それは確かにそうだけど」
「こないだコタツ出したから暖かいよ、うち」
リンドウの肩がぴくりと持ち上がる。
「……行く」
少し間を置いて返され、フレットはにっこりと笑った。リンドウは寒さに弱い。帰り道を共にする際はいつもマフラーと手袋で素肌を覆うし、エアコンの点かない図書室で過ごす際には決まってヒーター近くの特等席に居座っている。ぬくぬくとした環境を好むだろうと出した単語に、目論見通りに友人は食いついた。
「今日さ、弁当?持ってきてる?」
「いや、学食のつもりだったから持ってきてない」
「俺も。帰りスーパー寄ってこーぜ」
「了解」
白く染まった道に足を取られないよう、少しゆっくりとした歩調で二人は校庭を去る。校門に差し掛かったあたりで、フレットは「あ」と思い出したように口に手を当てた。
「折角上手くできたんだし、写真撮ってくれば良かったかも?」
彼は少し名残惜しそうに来た道の方を振り返る。その袖の下のあたりをリンドウがくいっと掴み、引っ張った。
「もう結構来てるし……明日の朝まだ残ってたらにしよう」
「そっか……そだね」
少しの逡巡ののち、彼らはそのまま戻ることなく雪降る帰り道を辿ってゆく。仲良く並んだ二体の雪像が、校庭の隅、杉の木の下に残された。
しかし結局、そのちっぽけな雪像が写真に収まることはなかった。
東京に雪が積もるのは珍しい。仮に積もったとしても、長く残らずあっという間に溶けてしまう。二人が觸澤宅でぼんやりと過ごしたその日の3時頃までは静かな雪が続いていたが、リンドウが自宅に向かう5時頃には雪はすっかり上がり、夜分には少し気温が上がりさえした。
翌日、確かめるように杉の木の下に向かった彼らが見たのは、無残に溶けてべたりと広がった白い雪の塊だった。もはや形は残っておらず、雪玉を作る際に紛れてしまったのだろう土が表面を茶色く汚している。それを目にしたフレットはしばし何も言わずにただそこに立っていたが、やがて長く静かな息を吐いて言った。
「溶けちゃったか〜」
「溶けてるな……」
リンドウが調子を合わせる。隣にいる友人はつまらなさそうな表情のまま、雪うさぎだったものを見下ろしている。
「すぐ溶けて消えるって分かってたのにな。変に飾んない方良かったかも……これじゃまるで、」
「フレット」
決して大きくは無い、だがはっきりとした声。遮られたフレットは素直に口を噤んだ。リンドウが続ける。
「……写真撮らなかったのは残念だけど、雪珍しかったし、思い出になった……それでいいだろ」
「……うん」
「雪うさぎ、上手く出来てた」
「うん」
ぱしん、とリンドウは隣で俯いたままの友人の肩を叩く。
「寒いし、あんまりぼーっとしてるとHR遅れるし……そろそろ、行こう」
「……そだね、行こーか」
名残惜しむように小さな雪の塊を目に収めてから、二人は歩き出した。普段交わされる軽口もテストや授業への文句も口に上ることはなく、ただじゃくじゃくと湿った雪を踏んでゆく。校舎に入り、それぞれの教室へと別れる直前で、リンドウは「フレット、」と再び声をかけた。
「なに?」
「俺には思い出になったし……写真とかなくても、俺は多分覚えてるよ」
それだけ、じゃな、と言って手を振る。その姿を見て、少し迷ったのちにフレットも「ちょい待ってリンドウ、」と呼びかけた。
「……ありがとう」
「何がだよ」
「何でも!じゃな!」
ん、とリンドウは再び軽く手を上げて応えた。そのまま互いに背を向け、それぞれ自席に向かっていつもの時間 — 学校生活が始まるのを待っていた。