ボックス席 ベビーカーを畳み、一瞬でも目を離せばどこかへ行ってしまいそうな息子を抱えて電車に乗った。平日の午前中は思ったより人出があった。
ボックス席に空きを見つけ、畳んだベビーカーを押し込んで座った。息子の靴を脱がせ、窓側の座席に座らせる。ふう、と息を吐いて電車に興奮する我が子に目をやった。ドアが閉まり、出発する。
「しゅっぱちゅー!」
大声を上げた息子の口を塞ぎ、シーッと指を口元にやった。
「しーっ?」
そのシーッもボリュームがでかいんですけどね。にこにこ嬉しそうな息子に笑ってしまう。久しぶりに乗った電車は、息子には記憶に残る初めての電車になるのだろう。
次の駅で数人が乗車した。ドサッと目の前に座ったのは派手な服装の男の子だった。大学生かな? と思い、息子の方に気を戻す。いかにも雰囲気が良い男ぽくて、私はそれ以上見るのをやめようと思った。赤い。それになんかチャラい。
ふと見ると息子はその男の子に興味を持ったのか、じーっと見つめている。
「みみのやつ、なに?」
「え?」
「きらきらしてるやちゅ」
「あ、あー……なんだろうねえ?」
思ったことを口にする息子に慌てて注意を逸らそうと外に目を向けた。やめてくれ。良い男と関わるなんてここ最近無いんだから、本当にやめてくれ。心臓に悪い。見た目通りの人だったらどうしてくれる、息子よ。
「イヤーカフって言うんだぜ」
その、男の子が言った。返事をしてくれると思っていなかった私は心底ギョッとして固まった。見ていたスマホをゴソゴソとポケットに入れると体を前傾させて、息子にほら、と耳を見せた。
「いやー……? かっこいいーじゃん」
一丁前な口を利くようになった息子に焦り、すみません、と男の子に謝った。ちらと見た顔は……本当の良い男だった。え? もっとしっかり見たいんですけどちょっと息子くん頑張って? と思ったのは内緒。
「見るか?」
ひとつ外すと右手でつまんで息子の目の高さまで上げた。長い指。薬指に金の指輪。恋人が、いらっしゃる。そりゃそうだわ。そして優しいな⁉︎
「みる!」
男の子はチラリと私を見ると、確認する様にわずかに首を傾げた。寄越された吊り目は鋭くて、でも怖いなんて思わなくて、その仕草にキュンとしてしまう。ねえ、と息子に言われて腕を掴まれ、ハッとして、
「あ、……じゃあ、ちょっとだけだよ」
と声を掛けた。会釈をして、すみません、と言うと両手を差し出してそのイヤーカフを受け取った。
「無くさないでよ、お兄さんの大事なものなんだから……ほらそーっと触って、食べないっ!」
つまんで口に持って行こうとした息子を全力で止めた。やめてやめてやめてー! なんでも口に持っていく癖やめてぇー! くくっ、と笑い声が聴こえる。
「ねえ、どうやってつけるの?」
興味津々で質問する息子に、男の子は、付けるか? と尋ねた。またもや驚き、息子と男の子を順に見た。あ、やっぱりかっこいい。息子ありがとう。ロン毛似合いますね。そのチョーカーエロいです。
「いーの? ちゅける!」
「えっ……」
「いいぜ〜」
なんでそんなノリノリで相手をしてくれるのかと済まない気持ちになりながら、すみません、ありがとうございます、と小さく言った。わくわくして体を乗り出す息子に、長い腕を伸ばしてそっとイヤーカフを付けてくれる。まじか……まじで心も見た目も良い男って居たんだ……と額に手をやり天を仰ぎそうになった。息子もこんな風に育って欲し……いや、うーん、中身がね。
「ほら、付いた」
「おかーしゃん、しゃしんとって!」
「ええ〜……」
言い出したら聞かない息子にスマホのカメラを向け、イヤーカフを見せつつピースサインをする姿を収めた。楽しそうだな、息子よ。母も楽しいぞ。
「ほら」
写真を見せると、わーっ! とまた大声を上げた。すぐさま周りの反応を案じて口を覆った。
「ちょっ、シーッ!」
椅子に立ち上がって万歳する息子を座らせる。
「カッコいいじゃん」
「でちょー? きらきら!」
男の子のノリの良さに、息子はますますテンションを上げる。なん……なんなんですかね? 子ども慣れしてるというか分け隔てがないというか……良い子だなぁ……。でも。
「ほら、もうお兄さんに返そう? 無くしたら大変だから」
「うん」
息子はじっと男の子を見つめ、それから、
「とって」
と言った。
「お母さんが取るから」
「ちわうー、このひとが! とるの!」
もう! と憤慨し、妙なこだわりを見せる息子の耳を触ろうとすると、両足をバタつかせてイヤイヤをし出した。閉口していると、
「……取りますよ」
男の子は笑いながらそう言ってくれた。
「ほんと……すみません」
と謝り、私は息子を膝に乗せるとぐいと顔を横に向け、耳を差し出した。
「いっぱいある」
取ってもらいながら男の子の耳を指差す。返したイヤーカフを付ける様をまじまじと見つめながら言った。
「いいだろ」
ニッと笑って息子を見る。見つめていた息子は、視線を男の子の耳からだんだんと下げていった。そしておもむろに私の左手を掴むと持ち上げ、
「おなじだ」
と言った。え? と首を傾げる私に、ああ、と言うと彼は右手をひらりと返して、
「指輪」
と言った。
「いっしょ」
と言う息子に、
「そうだね」
と答える男の子。
「色がちょっと違うね」
と息子に向かって私が言うと、交互に見て、
「ちわう!」
と嬉しそうに言った。
「かして」
手を差し出した息子に、男の子は指輪を指した。頷いて尚も受け取ろうと手を伸ばす息子に私は慌てた。
「だめ、それは止めて? 大事なものなんだからそれこそ無くしたら大変だから」
宥めるように言うと、えー、とむくれた。
「これはごめんな。タイ……大切なものだから貸してあげられない」
息子の目を見つめ、そう言った。真摯な姿勢に私は心の中で言葉にならない声で叫んでいた。最高だな、この子。見た目チャラいのに全然真逆じゃんか。ギャップあり過ぎ。ほんとありがとうございます。
えー? と食い下がる息子に彼は笑顔を向けると、
「それ、かっこいいね」
息子の靴を指差した。新幹線の靴。
「こまち! いーろくけい!」
見事に意識を逸らされ、そして褒められた嬉しさに息子が手を叩いた。
「こまち好きなの?」
「うん! かっこいいから!」
「ありがとう」
男の子が口にした言葉に思わず顔を見てしまう。彼は気にしていない様子で、こまち赤いな、と息子に話しかけていた。どんな意味なのか考えようとしていると電車が停まった。
男の子は立ち上がり、じゃあね、と息子に手を振る。私に軽く会釈をしてホームに降りた。
「ばいばーい!」
とまたもや大声で言う息子を黙らせながら、手を振り返してくれた男の子の行く先を見た。電車のドアが閉まり、ブレーキの緩解音が聞こえる。目の端に、小走りで彼に向かって来た青い服の男の子が見えた気がした。電車はゆっくりとホームから離れた。