愛を語るには始まったばかり シアにとって、それは敗北を意味していた。どんな状況下でも臆することなく、自分のフィールドで美を証明する。ストレートでスマートな立ち振る舞い。
「今日は、バレンタインらしいですよ」
ああ!なんて美しくない!
*
「あなたって、本当にオクタンのことが好きなのね」
戦場に似つかわしくない言葉を聞いて、シアは横を向く。室内の出入口にフェンスを立て、次のリング内の戦闘に向けて籠城の準備を整えているワットソンは、二コリとしてシアに笑顔を送った。
シアは苦笑する。
「あぁ。まるで忙しなく辺りを走り回って、元気が有り余る子供だなと思いまして」
物資を調達してくる、と言って周辺のサプライボックスやレプリケーターの材料を集めているオクタンの姿をずっと見つめていた。
「そうね。ゲームも中盤戦なのにずっと元気で!付いていくのに精一杯だから、彼の足手まといになってないといいけど」
皮肉めいた言葉を真摯に受け取る彼女を見て、シアは笑みを溢した。
「いいえレディー。貴女の立ち回りは素晴らしいですよ。聡明な頭脳を以って武器を構える貴女の姿はまるで、敵を射落とすアルテミスのように気高く、美しい」
「月の女神ね!ギリシャ神話ならよくパパと読んでいたわ。とても面白くて興味深い話ばかり」
「ええ。神のお話ですが、人間と同じく怒ったり、悲しんだり。私達と何も変わらない」
「恋をしたり?」
ワットソンはシアの隣に座り、どこまでも透明な瞳でシアを見上げていた。
シアは少し戸惑いながらも、観念して彼女の隣に腰を下した。
「神話といえば恋愛は欠かせません」
「青い蝶々さんはどんな贈り物をするの?」
「え?」
ワットソンの言葉に、シアを目を丸くした。
「だって、ずっとオクタンを見ていたから」
「お恥ずかしい」
「どうして?とっても素敵なことだと思うわ。私は、あまり素直になれないから」
「とんでもない。貴女の瞳はいつも朝の空のように透き通っています」
「……私、どうしても仲直りしたい人がいるの。でもいざその人の前に行くと素直になれなくて、酷い事を言ってしまう」「貴女が?とても信じられない」
ワットソンは困ったように笑った。
「私も、よく分からない。パパと一緒にいた頃はこんな気持ちにならなかった。出会ったらいつも心にもない言葉が出て、その人を傷つけてしまう。いつも後悔してるわ、何であんなこと言っちゃったんだろうって。だけど、その人がいると思うだけで心が安心する。私は一人じゃないんだって思える。でも、ちゃんとその気持ちを伝えられないの」
シアは彼女の横顔を静かに見つめた。
「だからね、もうすぐバレンタインデーがあるでしょう?その時にちゃんと想いを伝えようと思うの。いつも私を心配してくれてありがとうって。でも根を詰めすぎるのは体に良くないから、適度に休息は必要だって言うの。私以上にいつも研究ばかりで、カフェインしか飲まない人だから、たまにはゆっくり紅茶でもいかが?って」
「……貴女は、その人がとても好きなのですね」
シアの言葉を聞いて、ワットソンの頬が綻んだ。
「うん、大好き」
*
バレンタインデー当日の朝。
シアはいつものように身支度を整え、白湯を口に含んだ。
一か月以上前から、シアの戦場は既に始まっていた。己の熱情を告白するのに相応しいレストランや、見晴らしの良いホテルを貸し切り、オクタンに似合うエメラルドのイヤーカフを手に入れた。
シアはケースを開け、碧のベロア材質に映えるエメラルドを朝日が差し込む窓際へ持っていく。光を反射して輝くプレゼントは、興奮剤を胸に突き刺して軽快に戦場を駆ける煌めきを思い出し、胸が熱くなった。
シアは一つ、この待ちに待った今日のイベントに条件を課していた。
自分からは決してバレンタインデーだと言わない事。
―――いつもサプライズをするのは私の方でしたから
彼は御曹司なのだ。無謀を顧みないジャンキーとはいえ、芸術センスは微妙だとはいえ、腐っても鯛。腐っても常識の『常』の字くらいは知っている。なら今日が恋人にとって特別な日だということも勿論把握済みのはず。
たまにはオクタンの方から先にサプライズをされたい。自分からのプレゼントを渡すのは、その後からでも良いだろう。
ジリリリ……
部屋のベル音が鳴り、シアは手早くプレゼントを引き出しの中へ入れて扉へ向かった。
「よぉオビさん」
愛しい緑髪を見て一瞬息が止まりそうになった。念のために隠しておいて良かった、と安堵する。シアは落ち着いた口調で尋ねた。
「なんですシルバ」
「…昼飯食いに行かね?」
「ええ、いいですよ」
シアは期待で膨らむ胸の高鳴りを抑えながら、オクタンと共に町へ下りて行った。
―――何もない!!
シアは自室の椅子に座り本を開きながら一人心の中で絶叫していた。
昼食を食べ、ゲームや最近の仕事など他愛のない会話を交わし、オクタンはシアの部屋にポータブルゲーム機を持ち込んでソファーに寝そべってプレイしていた。
シアは液晶画面に釘付けな恋人を恨めしく睨む。
―――絶好のタイミングだったでしょう!何のんびりと足を上げてゲームしているんです!無防備な貴方も十分魅力的ですが!?
一つ一つ指摘するが、オクタンに届くはずもない。シアは焦りと不安で熱くなった頭を冷やそうと立ち上がった。
「少し出かけます…」
「?どこ行くんだ」
「風に当たりたいだけですので、ご心配なく」
―――貴方のバレンタインプレゼントが死ぬほど欲しいですなんて言えない。
シアは自室にオクタンを残して出て行った。
自分の計画が空回りしている気がする。シアは頭を抱え込んだ。
―――どうしたらいいのでしょう?
オクタンからの言葉が欲しいだけなのに。
―――私だけが浮かれているようで
廊下を歩いていると、明るい声が響いた。
「待ちなさい、ミス・パケット」
金色の少女は自分よりも大きな手を引いて嬉しそうに笑っている。大柄の男は困りながらも確かに小さな手を大切に包んでいた。
幸せそうだ。シアは純粋にそう感じた。心音を聞くまでもなく、穏やかな時間が二人の間に流れている。
シアにとって、それは敗北を意味していた。どんな状況下でも臆することなく、自分のフィールドで美を証明する。ストレートでスマートな立ち振る舞い。
シアは自分の瞳に似た空に向かってぼそりと呟いた。
「今日は、バレンタインらしいですよ」
ああ!なんて美しくない!
―――……いいや。
少なくとも、あの時博士と一緒に歩いていた彼女は、いつにも増して輝かしい笑顔だった。目が眩むほどに、ただただ美しい。
「……はは」
全く私はこらえ性が無い。結局彼を追いかけてこんなところまで来てしまったのだから。
「すみません、ただいま帰りましたよシル…」
シアが自室に入ると、オクタンがシアの胸に向かって飛び込んできた。いきなりの出来事に困惑して、反射的に心音を探ろうとするがぐっと耐えて、オクタンの肩を優しく抱いた。
「どうしたんです?」
「……どうした?」
オクタンは一言呟いてシアの安らかな胸に顔を埋めた。
「いつもはセンスやら戦闘スタイルやら口煩く言ってくんのに」
シアはむっとして反論する。
「そんなに言ってませんよ、失礼な」
「シャンプーが合ってないとか、俺に似合う香水を見つけたとか……」
オクタンは顔を上げ、シアの手を掴んで自分の頬へ持っていく。
「調子狂うんだよ……くそ」
そういえば、今日はオクタンの頬に触れていないことに気が付く。いつもはオクタンに嫌がられながらも行う、何のことはないささやかなスキンシップ。
「……あぁ。寂しかったですか?」
「うっせ」
悪態をつきながらもオクタンの表情は柔らかく、シアの手のひらにすり寄った。
―――今日は自分のことばかりで、彼のことをちゃんと見ていなかった
どれだけ愛し合っていようと、私達は人間で、互いに向き合って確かめなければひたすらに孤独なのだ。
「シルバ、こちらへ来てください」
シアはオクタンの腰に手を添えてソファーへ座らせる。引き出しの中にあるプレゼントを取りに行こうとシアはオクタンから離れようとすると、オクタンはシアの裾を掴む。
「オビさん」
「……分かりました」
しょうがないと言わんばかりにシアはオクタンの手を優しく包み、デスクの方へ誘った。
「目を閉じて」
「ん」
言われた通りにオクタンは目を閉じた。長いまつ毛にと少しあどけなさが残る目元。思わずキスしてしまいそうになる衝動を抑え、シアは引き出しを開けた。
「シルバ、そのまま」
「何してんの?」
「もう少し」
シアは器用な手つきでオクタンの右耳にイヤーカフを付けた。
「いいですよ」
シアの声を聞いて、オクタンを目を開けた。シアは左耳のイヤーカフが入ったケースをオクタンに見せる。
「イヤーカフです。ピアスにもできますので、貴方の使いやすいように」
「俺の?」
「そう。私からシルバへの証です」
オクタンは右耳にはめられたイヤーカフに触れる。
「何だよ、急に……」
「シルバ。今日は何の日か知ってます?」
オクタンは首を傾げた。
「あ?…………あぁ」
「貴方忘れてたでしょ」
「忘れてねーよ!ただ、アンタがいつもみたいに絡んでこねーから……」
オクタンは恥ずかしくなって口を紡ぎ、視線を下に落とした。シアはオクタンの顎に手を添えて、俯いた顔をゆっくり上へ向けた。
「たまには、貴方からの言葉が欲しかったんです。プレゼントやそういうイベント事はいつも私の方からでしたので」
オクタンはむすっと不機嫌な顔つきでシアを睨む。
「……だって、俺が何あげたって嬉しそうに受け取るだろ」
「当り前じゃないですか、貴方からの贈り物ですよ」
「それになんでも似合っちまうから、プレゼントし甲斐がないんだよ」
「私を褒めても"美"しか生み出せませんよシルバ」
ふぅ、と風雅に息を吐く。
「もー!!だからしたくねーんだよ」
「でも本当に嬉しいんです」
ニコリと微笑むシアに、オクタンは赤くなった頬を左手で隠した。
「あ、シルバがプレゼントでも一向に構いませんよ。寧ろ快く受け取りますので」
「急に雰囲気を落とすな」
「そうですか、残念」
眉を下げて子供っぽくすねるシア。オクタンは言いにくそうに言葉を漏らした。
「だから、モノじゃねーんだけど」
「?はい」
「いつも……あー…夜、さ。耳の奴とか、ドローン飛ばさないようにしてるだろ」
「ええ。探られているようで嫌だと貴方が言いましたからね」
「だから……いいぜ、今夜は」
煽情的な緑の瞳は、内に秘めた青い火を焚きつけるには充分だった。