ミラーリング #5(カルデア編) 初めて会ったときのおまえは、小さな小さな子犬だった。
だが、子犬はあっという間に俺が望んだ全てを手に入れた。
そんな子犬が、俺は憎くて憎くて仕方なかった。
だが、嗚呼、そんな俺の心の内も知らず、おまえはなんと無邪気に笑いかけてきたことだろう。
その小さな体が抱えるものの大きさを知り、どれほど心傷んだことだろう。
二人で競い、技を磨き合う一瞬が、どれほど楽しかったことだろう。
あんなに懐かしく輝く日々が、今はなんと遠いことだろう!
空はこんなにも晴れているのに、俺の顔には雨が止まない。
さあ、そんなに泣かないでくれ。
愛しい愛しい、俺の妹。
✳︎✳︎✳︎
種火を与えられて強くなったランサーは、髪の毛をバッサリと切ってしまった。
マスターは驚いたが、「でも短髪もかわいいよ〜」とへらへらと笑った。
一番ダメージを受けたのはスカサハだ。
それというのも、スカサハは毎朝ブラシを握り、「槍のセタンタ! 私が髪を梳いてやろう!」とランサーの部屋に押しかけていたからだ。
同じことをしようとすると他のクー・フーリンたちは嫌がるが、ランサーだけは喜んでいた。
ランサーはとにかくスカサハになついていた。
スカサハが言葉をかければ子どものようにはしゃぎ、頭をなでてやれば幸せそうにはにかんだ。
こんなに純真に慕ってくる弟子が可愛くないわけがなく、プロトに「人が変わったみてえだ」と言われるほど、スカサハはランサーを溺愛した。
その目に入れても痛くない可愛がりっぷりに、キャスターが「婆さんと孫……」とつぶやき、スカサハに床に沈められていた。
そんなランサーが髪を切ったものだから、スカサハは周りが引くほどの剣幕で「その髪型はどうした!? 敵にやられたのか!?」と詰め寄ったくらいだった。
笑顔の弟子に「気分変えようと思って」などとかわされ、何も言えなくなった彼女は、「槍のセタンタが……セタンタの髪が……」と落ち込んでいた。
テーブルに伏せる師の姿に、キャスターたちは同情の目を向けていた。
なお、なぜかエミヤまで「ランサーの美しい髪が……」と頭を抱えていたため、その後しばらくは食堂で酒を酌み交わす二騎の姿が見られた。
ランサーはレイシフトにもよく出るようになった。
戦場で暴れ回り、勇ましく槍を振るう姿は「さすがアルスター1の戦士」と周囲を納得させるものだった。
戦場を俯瞰する能力にも長けていたので、斥候として動いたり、マスターたちに戦略をアドバイスしたりすることも多かった。
だが、一番マスターが助けられたのは、ランサーのしぶとさだった。
他のメンバーが動けなくなっても、ランサーだけはなんとか立っており、敵にとどめを刺してくれた。
マスターは涙目でボロボロのランサーに飛びつき、「うわ〜〜〜ん! 槍ネキーーー! ありがとう!!」とぎゃんぎゃん泣いた。
その度にランサーは「おう!」と笑い、マスターの頭をなでてくれた。
屈託のない笑顔で気さくに話しかけるランサーは、スタッフたちにも好かれていた。
他のサーヴァントたちにも積極的に絡み、一緒に手合わせをしたり、娯楽に興じたりして共に過ごした。
子どものサーヴァントたちの面倒もよく見たので、「槍のお姉さん」として慕われていた。
「クー・フーリンは男のはずだ」という認識は薄れていき、ランサーはすっかりカルデアに溶け込んだように見えた。
そんな中で、マスターを悩ませる問題はただ一つだった。
「ねえ、槍ネキ……」
「なんだ? マスター」
「オルタニキのこと、その……」
その名前を聞いただけで、ランサーの眉間に皺が寄る。マスターはおそるおそる続けた。
「やっぱり、嫌いなの?」
「あいつだって、オレのことは嫌いだろ」
ランサーはつんとそっぽを向いた。あ、かわいい。じゃなくて。
「プニキやキャスニキとは仲いいのに」
「あっちのほうから突っかかってくるんだろうが。だいたい、あの野郎は初対面のときから……」
くどくどとはじまる愚痴に、マスターはため息をついた。
最近のランサーは、露骨にオルタを避けていた。
食堂で他のクー・フーリンたちと喋っていても、オルタが入ってくれば黙ってしまう。
レイシフトで隣に並んでも、戦いの邪魔こそしないものの、頑なに無視をする。
オルタは気にしているのかしていないのか、ランサーをちらりと一瞥するだけで何も言わない。
二騎が顔を合わせるとその場の空気がギスギスしたものに変わり、それがマスターの頭痛の種だった。
オルタはランサーが来る前からカルデアの主戦力のため、ほぼ毎回レイシフトに参加していた。
そこに新たな戦力のランサーが加わり、二騎が並ぶ機会が格段に増えたのだが、毎回この調子のため、マスターはいい加減胃が痛かった。
始めからいまいちうまくいっていない二騎だったが、ここまで仲が悪くなるとは予想外だった。
「じゃ、オレ、レオニダスたちと約束あるから」
ランサーはひらりと手を振って行ってしまう。マスターは再び大きなため息をついた。
「おまえなぁ、何が気に入らねえんだよ」
オルタは窓の外からキャスターに目線を移す。
「何の話だ」
「しらばっくれるんじゃねえ。ランサーの話だよ、ランサーの」
オルタの表情は変わらない。そんなオルタに、キャスターは少しだけ苛立った。
マスターの困り顔や、気まずそうな他サーヴァントたちを見かねたキャスターは、何がなんでもオルタを問い詰めてやろうと心に決めていた。
「おまえとあいつのこと、マスターたちも気にしてんだぞ」
「…………」
「なあ、オルタ」
「おまえは気にならねえのか」
「あ?」
「あの女」
「あの女って……」
「あいつは本当に『クー・フーリン』か?」
キャスターは一瞬目を見張った。だがすぐに表情を消し、低い声で言う。
「……何が言いたい」
「おまえだって薄々感づいてるんじゃねえのか」
オルタは再び窓の外に目をやる。キャスターも窓に近寄って見下ろした。
昨夜は荒れていた吹雪は止み、雲間から青空が見えている。
何人ものカルデアスタッフやサーヴァントたちが外に出て、久しぶりの晴れ間を楽しんでいた。
その中にはランサーもいた。ジャンヌ・リリィやナーサリーたちが雪だるまを作るのを手伝っている。
走り回ってほどけたバニヤンのマフラーを直してやっていると、その腰にジャックがまとわりつく。ここからは声までは聞こえないが、みんな楽しそうに笑っていた。
思わずキャスターの口元がほころぶが、同じ光景を無表情で眺めている男の姿に、その笑みも一瞬で引っ込む。
「あいつは性別こそ違うが、オレたちと同じ魔力パターンを持ってる。なら、同じ存在ってことになるじゃねえか」
「あいつがクー・フーリンの一側面なら、成り立ちは俺たちと同じはずだろ」
「ああ」
「だったら、『クー・フーリン』が生きて死ぬまでの記憶があるってことだろ」
「……そのはずだ」
オルタは振り返った。
「あいつが俺たちと『同じ存在』だなんてありえねえだろうが」
「…………」
キャスターは黙り込んだ。言葉を選ぶように一度目を閉じ、再びオルタを見据える。
「おまえ、それ、ランサーに言ったか?」
「いいや」
「マスターたちには?」
「……いいや」
「絶対言うなよ。いいな?」
オルタは反論しようと口を開きかけた。
だが、いつになく厳しい面持ちのキャスターを見て言葉を飲み込む。そして、しぶしぶと言った様子でうなずいた。
キャスターは「絶対に言うなよ」と念押しのようにくり返すと、部屋を出ていった。
苦い顔でそれを見送り、オルタは再び窓の外を見る。
ランサーがプロトとフェルグスに肩を組まれて笑っている。オルタの表情がますます苦くなる。
「ほい! じゃ、レイシフト行きます!」
マスターの声に、サーヴァントたちが威勢のいい声を上げる。
今日は素材集めだ。前衛にマシュ、アーサー、バーサーカーのクー・フーリン。後衛にメイヴ、キャスターのクー・フーリン、ランサーのクー・フーリンが選抜される。
「なんだか、僕は場違いな気がするね」
アーサーが苦笑した。
「違うんですぅう! もうすぐ絆レベルが上がって石がもらえるだなんてそんなゲホゲホ」
「ああ、大丈夫だよマスター。わかっているから」
「オレも行きたかったなー。オレの分まで頼んだぜ、聖剣使い!」
「もちろんさ! 任せてくれ」
見送りにきたプロトが歯を見せて笑い、こぶしを突き出す。
アーサーも微笑み、二騎は互いのこぶしをゴツンとぶつけ合わせた。
「久しぶりにクーちゃんたちとレイシフトできるなんて嬉しいわ! お互いに熱〜〜〜い汗を流しましょうね!」
「ああ……お手柔らかに頼むぜ」
メイヴがキャスターの腕に絡みつき、形のいい胸を押しつけた。キャスターは焦点の合っていない目で明後日の方向を見上げている。
「おい、キャスターのセタンタから離れんか」
プロトと同じく見送りに来ていたスカサハの言葉にも、メイヴは動じない。
「ふふーんだ。これから私とクーちゃんたちでじ〜っくり濃厚な時間を過ごすんだから! お年寄りは邪魔しないでよね!」
「何を言われても気にはせん。だがその口に仕置きは必要なようだ」
「二人ともやめろっつーの!」
あわや一触即発となるところにランサーが割り込んだ。
「ったく、レイシフト前に何やってやがる。くだらねえことで魔力無駄づかいすんなよな!」
「む……」
「むう……」
ぷりぷりと怒るランサーに、女王二騎が黙り込む。
「ここはおまえの国じゃねえんだから少しは自重しろ、メイヴ。師匠もいちいち反応すんな。大人げねえぞ」
「む……すまん」
「ごめんなさい、槍のクーちゃん。でも、うふふ、怒った顔もとってもチャーミングね!」
「メイヴ!」
「いやん、そんな怖い顔しないで!」
三騎は再びぎゃいぎゃいと騒ぎ始めたが、先ほどまでの刺々しい雰囲気は収まっていた。マシュがほう、と息をつく。
「ランサーのクー・フーリンさん、すごいです。あのお二人を仲裁できるなんて」
「まったくだ。オレたちには真似できねえよ」
マシュの驚きと尊敬が入り混じった声に、キャスターは苦笑した。オルタは相変わらず黙ったままだ。
「それじゃあ、行くよ! みんな準備して!」
マスターの声に、それぞれコフィンに収まる。ダ・ヴィンチの軽やかなアナウンスが響く。
「今回の素材回収先は寒いからね! 風邪引かないようにいってらっしゃーい!」
システムが起動し、レイシフトが始まる。
青い光が幾重にも重なって、マスターたちを包んでいく。
「さむーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!」
マスターは叫んだ。ビュウウウウ、と容赦無く寒風が吹き付ける。
見渡す限りの銀世界。白を被った渓谷。灰色の空。極寒。
立っているだけでガチガチと歯が鳴り出す。
「ううううう、ダ・ヴィンチちゃんたちがやたらと厚着をさせてきたのはこういうわけだったのか……」
「大丈夫ですか、先輩?」
「大丈夫……大丈夫じゃないけど……っていうか、マシュたちこそ大丈夫なの。そんなうっすい霊装で」
「私たちはサーヴァントですから」
「マスター、私のマント羽織る?」
メイヴが自分の毛皮のマントを脱ごうとするが、マスターは首を振った。
「ううん、メイヴちゃんが寒そうだからいい」
「あら。サーヴァントだから平気よ。それに雪なんて見慣れたものだし」
「見た目が寒いから……気持ちだけありがとう」
「そうお?」
メイヴがマントを羽織り直すと、キャスターが杖に火を灯した。
「とりあえず生身のあんたは火のそばにいな。多少はましだろ」
「うう、ありがとう、キャスニキ……」
マスターがキャスターの杖に両手をかざしたところで、ランサーがパッと顔を上げた。
「おい! ……客だ」
サーヴァントたちが一斉に身構える。
オォオン……と唸り声のようなものが聞こえた後、いくつもの影が猛烈なスピードでこちらに向かってくるのが見えた。
獣人のエネミーだ。
「戦闘態勢!」
マスターの叫びに、前衛組が展開する。
先頭を走ってきたエネミーがクワッと口を開く。殺気に満ちた目が爛々と光る。
「行きます、先輩!」
マシュが盾を、アーサーが剣を、オルタが槍を構える。そのまま、凄まじい咆哮と共に突っ込んできたエネミー群を迎え討つ。
「ハァッ!」
「やあ!」
襲いかかってくるエネミーを跳ね飛ばし、打ち払い、斬りつける。
いくつもの断末魔が上がっては消える。
後衛組も、マスターの背後を守りながら、向かってくるエネミーを迎撃した。
「アンサズ!」
飛びかかってきたエネミーを杖で打ち倒し、キャスターが炎を放った。
「おい、あっぶねーな! 気をつけろって!」
間一髪で炎の巻き添えを避けたランサーが叫んだ。後ろから嚙みつこうとしたエネミーを一瞥もせず朱槍で突き殺し、そのまま払い落とす。
「おっと、悪ィ悪ィ。わざとじゃねえんだ、よっと」
キャスターはぶんと杖を振り、ホッケーのようにエネミーを打った。
「きゃっ!」
盾を振り上げた隙を突かれ、マシュにエネミーが飛びかかる。
オルタが素早く手を伸ばしてマシュを突き飛ばし、槍を投げた。勢い余ってなだれ込んできたエネミー三体を一気に串刺しにする。
ぬちゃり、と音を立てて槍を引き抜き、尻もちをついたマシュの腕を引っ張って立たせた。
「あ、ありがとうございます、オルタのクー・フーリンさん」
「ああ」
「…………」
ランサーは思わず二騎に目をとめた。
「あっぶない!」
バシッと音がして、目の前まで迫っていたエネミーをメイヴの鞭が叩き飛ばした。
「うわっ」
「ちょっとお、槍のクーちゃん! 戦と恋愛によそ見はダメよ!」
「わ、悪い」
ランサーは自分を叱咤し、槍を構え直した。
戦場で気を抜いたと知れたら、スカサハにどれほど叱られることか。
「はっ!」
最後のエネミーをアーサーが斬り倒した。あたりが一気に静かになる。
マスターは、倒れたエネミーたちから急いで素材を拾い集めた。
「首尾はどうだい?」
「上々!」
キャスターの問いにマスターが両手で円を作る。不足素材がいくつか補充できた。これで、停滞していたサーヴァント強化ができる。
「マスター、鼻水出てんぞ」
「えっまじで? 恥ずい」
マスターが手袋をはめた手でごしごしと鼻をこすっていると、散らばっていたメンバーたちが素材を抱えて戻ってきた。それぞれが、マスターが持っている袋に素材を入れる。
「どうする? もう少しいくかい?」
ランサーの問いに、マスターはうーんと唸った。回収素材を入れた袋には、まだ余裕がある。
「いけたらいきたいな。これとは違う素材も集められたはずだし……。みんな、疲れてない?」
「私は問題ありません、マスター」
「僕も大丈夫だ」
「構わん」
「ありがと! じゃあ、あとひとふんばり、って……おおおおお!?」
不意に地面が揺れ出した。よろめくマスターをマシュが支える。ランサーたちは武器を構え、あたりを見回した。
「あっ! あれ!」
雪山のひとつが盛り上がる。いや、あれは雪山ではない。
地鳴りのような音を立てながら、そいつは立ち上がった。積もっていた雪がバサバサと落ちていく。
「スプリガンだわ!」
メイヴが叫んだ。
仄暗い目がこちらを見る。先ほどの戦闘によって眠りから呼び起こされた巨大エネミーは、マスターやサーヴァントたちを順々に見渡していく。
やがて動きを止めたスプリガンは得物を握りしめると、激しく咆哮した。轟音がビリビリと空気を震わせ、マスターは思わず耳を押さえる。
敵を認識したスプリガンは巨体を震わせ、雪をはね上げながら真っ直ぐ突っ込んできた。
「マスター! 下がってください!」
マシュが叫んだ。
「グ、オオオ……!」
スプリガンが巨大な棍棒をぶんと振り下ろした。キャスターがすばやくマスターを抱え、全員がさっとその場から飛び退く。
得物は激しく地面に叩きつけられ、砕かれた雪や岩が飛び散った。
「マシュ、頼む!」
着地したキャスターはマスターをマシュに任せた。マシュはマスターを抱きとめ、パッと戦線から離れた。
「はあっ!」
メイヴがスプリガンに打ちかかった。スプリガンはよろめくが、すぐに巨大な手でメイヴを払い飛ばした。
「きゃあっ!」
小柄な体が地面に叩きつけられる。スプリガンは、メイヴを踏み潰そうと片足を持ち上げた。
「メイヴ!」
ランサーが叫び、メイヴを突き飛ばす。巨兵の足がランサーを襲った。
「ぐあっ!」
巨石のような足が槍兵の足を踏み砕く。ランサーが倒れた。
「クーちゃん!」
メイヴがランサーに駆け寄った。スプリガンは勝どきのように咆哮した。巨体を揺らし、とどめを刺すべく二騎に近づく。
二撃目を与えようとしたところで、スプリガンの視界を炎が襲った。驚いて後ろに下がった巨兵とランサーたちの間に、キャスターが割り込んだ。
「燃えろ!」
キャスターが、エネミーの顔めがけて再び炎を放つ。目を焼かれ、スプリガンは激しくうなり、顔をかきむしる。そのぐらつく足元から、オルタが呪槍を構えて飛びかかった。
「そこだ」
勢いよく槍を投げつける。赤い流星のようなそれは真っ直ぐに巨大エネミーの眉間を撃った。スプリガンが大きくよろめく。
「聖剣使い!」
伸ばしたオルタの手を踏み台に、アーサーが飛び上がった。
構えた剣から光の粒子がほとばしる。敵を睨みすえ、まばゆい刃を大上段に振り上げる。
「食らえ!」
アーサーが聖剣を振り下ろし、一閃のもとに巨大エネミーを叩き斬る。
スプリガンは大地も裂かんばかりの叫び声を上げた。膝をつき、そのままどうと倒れる。魔力の残滓がシュウシュウと音を立て、あたり一面の雪を溶かした。
「みんな!」
マシュとマスターが走ってきた。
「大丈夫? 怪我は?」
「槍のクーちゃんが……」
メイヴが珍しくうろたえていた。ランサーに目を移し、マスターは顔を歪ませる。
砕かれたランサーの左足は血にまみれ、見るも無惨だった。ランサーが身を起こそうとしてうめき、メイヴが慌ててその背を支えようとする。青ざめた顔のランサーは、メイヴの手を振り払った。
「大したことねえ。これくらい……」
そう言って、治癒のルーンをかけ始める。息が荒く、手が震えている。戦闘で大きく魔力を消耗したせいか、傷の治りが遅い。キャスターが手伝おうと身をかがめた。
「ん……?」
アーサーが周りを見回した。
「どうしたんですか? アーサーさん」
「何か音がしないか?」
「え?」
アーサーの言葉に、面々は耳を澄ませる。あたりに生き物の気配はない。が、遠くからかすかに雷鳴のような音が聞こえてくる。
「おい……」
キャスターの声に緊張が走る。メイヴもオルタもはっとした顔で鋭くあたりを見回す。
「クーちゃん、あそこ!」
メイヴが指差した先には銀色の峰々。その一角が、まるで山から雲が湧き出るかのように盛り上がっている。
アーサーがさっと顔色を変えた。
「雪崩だ!」
先ほどのスプリガンとの戦闘が引き金になったのだろう。
静かに降り積もっていた雪が、眠りを覚まされた獣のように震え、うなりを上げ始めた。
運が悪い──地形から見れば、雪の進路は間違いなくマスターたちの頭上だ。
足元を揺るがす地響きの音が、次第に大きくなっていく。
「メイヴ! おまえの宝具で!」
「う、うん!」
キャスターの言葉に、メイヴは宝具を発動させた。
マスターたちの前に、巨大な戦車が現れる。つながれた二頭の牡牛は興奮し、鼻息も荒く大地を引っ掻く。
ひらりと御者台に飛び乗ったメイヴは、手綱をきつく握った。
「さあ、みんな早く乗って!」
マスターを押し上げるようにして戦車に乗せ、マシュたちも乗り込んでいく。メイヴが鞭を打った。
「!」
ガキンと音がして、戦車の車輪が何かに取られた。戦闘で砕け散ったスプリガンの破片が引っかかったのだ。
「チッ」
「あっ、槍ネキ!」
止める間もなくランサーが戦車から飛び降り、槍を右手に出現させる。障害物目がけて突き下ろせば、槍は破片を粉々に砕いた。
牡牛が高らかにいなないた。足を引き止めるものが無くなった戦車は、その勢いもあって、激しく前に飛び出した。
「槍ネキ!」
走り出す戦車を追いかけ、ランサーも走る。背後に迫る危機を感じ取った牛たちの勢いは止まらない。
「ランサー! 早く!」
キャスターが叫んだ。ランサーが追いつき、戦車に片手をかける。
そのときだ。ついに雪の崩壊が始まった。
地をなでるように流れていた雪は、突如として怪物のように膨れ上がり、次々と周囲をなぎ倒し始めた。
岩肌にぶつかり空に躍り、怒涛の勢いで大地を飲み込んでいく。自然の脅威は、容赦無くマスターたちにも襲いかかった。
「!」
激しい雪の流れにランサーの足が取られる。戦車にかけていた手が外れた。
「ランサー!」
キャスターが手を伸ばすが、その手は虚しく空を掴んだ。ランサーが雪に捕まって体勢を崩す。
はっとマスターが身を乗り出すと、こちらを見つめるランサーと目が合った。
ランサーは微笑んでいた。その唇が「行け」と動く。全ての音が消える。背後に雪煙が迫る。
「……やだ」
マスターがつぶやいた。
黒い影が宙に躍った。オルタだ。ランサーが目を見開く。伸ばされた黒い手が、ランサーの白い手を掴んだ。ように見えた。
その瞬間、ランサーとオルタは雪に飲み込まれた。
「槍ネキ! オルタニキ!」
「クー・フーリンさん!」
マスターとマシュが叫ぶ。
「二人とも、駄目だ!」
戦車から身を乗り出す二人をアーサーが抑えた。
「でも、クー・フーリンさんたちが!」
マシュが悲痛な声で叫ぶ。
「メイヴちゃん! 戻って! 戻ってよ! 助けなきゃ!」
「…………」
マスターは必死に御者台に呼びかけるが、メイヴは黙ったままだ。戦車は止まらない。ガタガタと激しく揺れながら、凄まじいスピードで雪崩から逃げていく。
「キャスニキ! なんとか言ってよ! 戻らなきゃ!」
「駄目だ」
「キャスニキ!」
「駄目だと言ってる」
「どうしてっ……」
キャスターの腕を掴んで、マスターははっと息を飲み込んだ。いつも穏やかな表情を浮かべているキャスターが、厳しい顔で口を引き結んでいる。
助けを求めるようにアーサーに目を移すが、アーサーも静かに首を振る。
「今はあなたの安全が第一よ、マスター」
メイヴが御者台から振り返らずに言った。その声はいつになく低く、感情を押し殺したような声だった。
「雪崩が収まらなきゃ。私たちも危ないわ」
「……!」
マスターは再び戦車の外を見た。顔にびしびしと氷の粒がぶつかり、目を開けていられない。
押し迫る雪壁は、統率を失った狂牛の大群も同然だ。もうもうと立ち込める雪煙は空をも飲み込み、すべてを押しつぶそうと迫ってくる。
「槍ネキー! オルタニキー!」
マスターは叫んだ。その叫びも、白に塗りつぶされていった。