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    Haruto9000

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    Haruto9000

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    「ランサーのクー・フーリンが女性だったら」妄想、第6話。
    ※FGO第1部のみの情報で書いていたので、ご容赦などはご了承ください。

    【あらすじ】
    古代アイルランドの国・アルスターに、1人の少女がいた。
    名はセタンタという。〈赤枝の騎士団〉に憧れる彼女には、偉大な戦士になりたいという夢があった。
    周囲に反対されながらも、彼女は戦士を目指して進み始める。

    #女体化
    feminization
    #クー・フーリン
    kooHooLin

    ミラーリング #7(猛犬誕生編)少女セタンタ猛犬誕生武者立ちエメル姫運命の邂逅「だから、私と共に来なさいと言ったのに」
     ぼんやりと霞む意識の中で、感情のない女の声が虚ろに響く。
    「──馬鹿な子ね」
     ああ、自分でも本当に、そう思う。

    少女セタンタ
     はっ、はっ、と息が上がる。廊下をそのまま走り抜けようとして、曲がり角の向こうに気配を感じて立ち止まる。
     すばやく周りを見回し、窓の枠に手をかけると、えいやっと身を躍らせた。無事に着地し、その場にしゃがみ込む。
     頭上でばたばたと足音がして、「いましたか?」「いいえ!」という苛立ち混じりの会話が交わされるのを、笑いをこらえながら聞いた。
     人の気配が遠ざかるまで待つと、勢いよく立ち上がった。
     目指すは厩舎だ。石畳の通路を、飛ぶように走っていく。
    「ロイグ! ロイグー!」
     馬にブラシをかけていた赤毛の少年が振り返った。その目が驚愕に見開かれる。
     少年のそばに駆け寄ると、上がった息を抑えながら、にっこりと笑った。
    「ロイグ、鞍出して!」
    「おい、セタンタ……」
     ロイグは焦った顔で辺りを見回すと、幼なじみに向き直った。
    「おまえ、また抜け出してきたのか?」
     セタンタと呼ばれた少女はえへへ、と笑い声を漏らす。
    「だって、つまんないんだもん」
    「今度は歌か? 刺繍か?」
    「刺繍。それより、早くセングレンに鞍つけてくれよ」
     ロイグは思いきり顔をしかめてみせた。
    「あのな、見てわかるだろ。俺は今仕事中なんだよ」
    「馬に携わるのがおまえの仕事だろ。だったら鞍をつけるのだって立派な仕事だよ!」
    「あいにく、おつとめをさぼる手伝いは俺の仕事じゃない。だいたい、王に見つかったらどうするんだよ」
     セタンタは頰を膨らませた。ロイグも渋い顔のまま、黙って腕を組む。今日という今日は、この年下の幼なじみに負けるわけにはいかない。
     セタンタは黙ったままロイグを睨みつけていたが、諦めたのか視線を逸らした。
     そのまま、馬たちが放牧されている馬場に向かっていく。
     柵に囲まれた馬場の中では、馬たちが好きなように過ごしていた。砂浴びをするもの、景色を眺めるもの、ゆったりと歩いているもの。
     セタンタが柵にもたれかかると、一頭の黒馬が気づき、近寄ってきた。
    「よう、相棒」
     それは一際黒く、たくましい雄馬だった。
     大きな潤んだ目がセタンタを見つめる。セタンタはその太い首を軽く叩いた。
    「おまえ、今日はまだ一度も走ってないよな? 退屈だよなあ?」
     そう言いながら馬場の柵を開けた。ロイグが慌てた様子で駆け寄ってくる。
    「お、おい、セタンタ。何を……?」
    「なに、ちょっと運動不足を解消するだけさ」
     セタンタはにやりと笑うと、黒馬の長いたてがみを軽く引っぱった。
     馬はおとなしく馬場の外に出てくる。ロイグはさっと青ざめた。
    「おまえ、まさか……」
    「あははっ」
     楽しげな笑い声をあげ、セタンタはそのままひらりと黒馬に飛び乗った。
    「いけ、セングレン!」
     腹を軽く蹴れば、セングレンと呼ばれた黒馬は軽やかに走り出した。セタンタの笑い声が響く。
     呆然としていたロイグは我にかえった。
     急いで馬場の柵を閉めると、厩舎の中に飛び込んだ。ブルルル、と馬たちが鼻を鳴らす。干し草からほこりが舞い上がり、日光に照らされてきらきらと光った。
     ロイグは鞍やハミをひっつかむと、奥の馬房に走り寄った。その中には、先ほどの黒馬にも劣らぬ立派な灰色の雄馬がいた。
     灰馬は、不思議そうな目でロイグを見つめている。
    「あのじゃじゃ馬め……!」
     恨み言をつづりながら、ロイグは素早く灰馬に鞍をつけた。腹帯を締め、ハミを噛ませる。
     灰馬を厩舎の外に連れ出すと、すぐにその背にまたがった。
    「マハ、頼む!」
     腹を蹴れば、マハはすぐに走り始めた。そのまま、セタンタたちの後を追う。

     風が木々の間を通り抜け、ざああ、と音を立てた。
     丘の上で緩やかにしっぽを揺らすセングレンを見つけたとき、ロイグは全身の力が抜けた気がした。
     かぽ、かぽ、とマハが蹄の音を鳴らしながら丘を登っていく。
     灰馬の背から降り、その首を軽く叩いてやる。
     マハは、セングレンと並んで穏やかに草を食み始めた。
     ロイグはふうっと息をつき、腕を組んで木の上の少女を睨み上げた。
    「おい、セタンタ」
    「んー?」
     のんきな声だ。
    「おまえな、いい加減にしろよ。王に怒られるのは俺なんだぞ」
    「なあロイグ、あれ見てみろよ!」
     まったく聞いていない。ロイグは再び大きなため息をついた。
    「なんだよ」
    「ほら、あそこ」
     セタンタが指差す方向を見れば、拓けた野の原に、戦士たちが集まっている。
    「フェルグスの叔父貴だ」
     戦士たちの中に、セタンタの叔父であり、養父でもあるフェルグス・マック・ロイの姿が見えた。
     フェルグスが何かを叫ぶと、戦士たちが槍を片手に一斉に散った。
     どうやら、槍の組手らしい。男たちは気勢を上げ、互いに槍で打ち合った。
     ロイグが見上げれば、セタンタはきらきらした目でその様子を見つめていた。
     この幼なじみは、昔からそうだった。料理や装飾品より、剣や槍の打ち合いを好んでいるのだ。
    「オレもいつかさ」
     セタンタが弾んだ声で言った。
    「叔父貴たちみたいに立派な戦士になって戦うんだ。戦場で敵をやっつけて、偉大な名誉を得るんだ!」
    「そうかい」
     その無邪気さに、思わずロイグは微笑む。そよ風が、従者の赤毛をなでていく。

     館に戻った二人を迎えたのは、仁王立ちしたコナルだった。
     セタンタの乳兄妹である青年の目は爛々と光っており、セタンタは「げっ」と声を上げ、ロイグは頭を抱えた。
    「無事のご帰還なによりだ、二人とも」
     コナルはにこやかに言ったが、その目はまったく笑っていない。
    「えーと、今日もいいお日和で、コナル」
     セタンタの挨拶にロイグは「ばかっ」とつぶやく。
     コナルの目がいよいよつり上がった。
    「侍女たちをずいぶん泣かせたらしいじゃないか? 来い、王がお呼びだ!」
     少女と少年は顔を見合わせる。ブルル、と二頭の馬が同時に鼻を鳴らした。

     コナルの後について入った王の間には、いかめしい顔つきの大人たちが勢揃いしていた。
     そして、中央の座に座る男は──セタンタの伯父にして、このアルスター国の王、コンホヴォルだった。
     コンホヴォルは、椅子の肘に頬杖をつき、腹立たしげな顔でこちらを見下ろしている。
     セタンタはそっと目線を動かした。
     王のそばには王子や側近たちのほか、王の妹で母のデヒテラ、養父のスアルダウ、祖父のカトバド、コナルの母親で叔母のフィンコムもいる。
    「セタンタ」
     重々しい声でコンホヴォル王が言った。隣でロイグが首を縮めるのがわかった。
    「おまえは何度言ったらわかるんだ。おまえの勝手な行動で侍女の首が飛ぶかもしれないと考えたことはないのか?」
    「でも、伯父上。オレはこのとおり無事です」
    「口答えするな」
     王は厳しく言った。
    「侍女だけではない。そこの少年兵だって同じことだぞ」
     ロイグがうつむいた。「申し訳ありません、王よ」と小さな声でつぶやく。
     セタンタは不機嫌な顔になる。
    「伯父上、何度も言ってるでしょう。オレはいわゆるお姫様の役割は向いてない。オレは戦士になりたいんです」
    「それこそ、何度も言っているだろう! 絶対に駄目だと」
    「どうしてですか!」
     王とその姪は睨み合った。本来なら、王にこんな口の聞き方をしようものなら即刻首をはねられているところだ。
     しかし、セタンタはそれを許されている唯一の存在だった。
     コンホヴォルは口を開いた。
    「男の真似事ばっかりしおって! いいか、おまえは神の娘だ。その祝福された身で、戦士たちを勇気づけるのがおまえの役割だ。血なまぐさい戦場に向かわせることはできん」
     勝気な少女はフンと鼻を鳴らした。
    「オレは自分から行きたいと言ってるんですよ。それに──」
     そう言って、ちらりと王の後ろに目をやった。
     王座のそばには、王の息子であるクースクリズ王子が立っている。
     セタンタと目が合うと、王子はおどけたように肩をすくめた。セタンタは吹き出しそうになりながら、口角を上げた。
    「ファーンマグ国の襲撃をお忘れですか」
     コンホヴォル王はぐっと詰まった。
     この癇癪持ちの王が、ほんの少女に当たりきれない理由の一つがそれだった。
     かつて敵国が襲ってきたとき、彼と彼の王子は、目の前の少女に命を救われたのだ。
     王に貸し借りなど存在しないとはいえ、コンホヴォル王がセタンタに感謝の念を抱き、彼女に特別目をかけるようになったのは事実だ。
    「しかし──」
    「ねえ、兄上」
     なおも言い募ろうとした王を、デヒテラが制した。
     ずっと黙って二人のやりとりを聞いていた彼女だったが、その顔には微笑みが浮かんでいた。
    「もういいじゃありませんの。これだけ言っても、その気持ちが変わらなかったんですもの」
     母の言葉に、セタンタの目がぱっと輝く。
    「だが、デヒテラ」
    「私には覚悟ができています。どうぞ、娘を幼年組に入れてやってください。お願いですから」
     大事な妹の申し出に、王も迷う表情を浮かべた。
     追い討ちをかけるように、デヒテラは続ける。
    「それに、私が若い頃、あなたの戦車を駆って戦場を走り回ったでしょう、兄上様?」
     コンホヴォル王は口ごもった。助けを求めるように、カトバドを見る。
     偉大なドルイドである男はトネリコの杖にもたれかかり、長い髭をなでていた。
    「なんともな」
     老僧は言った。
    「滅多にないことなのは確かであろうな。だが、この子が成長した暁には、間違いなく良き戦士となろう。それは間違いないことじゃ」
     カトバドは、孫娘を見てにっこりと微笑んだ。
    「そうですよ。我が王」
     フィンコムも言った。
    「この子ったら、幼い頃から息子のコナルと取っ組み合いばかりして! コナルが負けることだってしょっちゅうだったんですから!」
    「母上!?」
     コナルがすっとんきょうな声をあげた。王の間中に、くすくすとしのび笑いが広がる。
    「し、しかしだな──」
    「失礼いたします! 王はこちらですかな!?」
     威勢のいい声がして、巨体の男がのっしのっしと広間に入ってきた。
    「あっ! 叔父貴!」
    「フェルグス様!」
    「おう、セタンタ! それにロイグも! どうしたんだ、こんなところで」
    「フェ、フェルグス……」
     困惑した王の顔を見て、フェルグスは首を傾げた。
    「おお、王よ。我が精鋭たちの鍛錬の成果を報告しようと参ったのですが、はて、これは間が悪かったですかな?」
     フェルグスは王の間をぐるりと見渡した。
     セタンタはぴょこんと顔をあげ、にこにこと言った。
    「叔父貴! オレ、伯父上に幼年組に入れてくださるようお願いしてたんだ!」
    「おお、とうとうその時が来たか!」
     セタンタの養父である男は、ガハハと豪快に笑った。
    「おまえは昔から筋が良かったからな。年齢的にもいい頃合いだと思っていた。そうかそうか、そんな大事な時に邪魔をして悪かったな!」
    「ううん! ねえ叔父貴、オレ、叔父貴のところで教わりたい!」
    「いいだろう! よし、我が王よ、この子の所属は俺のところで構いませんかな!?」
     王は絶句した。
     デヒテラとフィンコムが吹き出す。
     コナルはしかめ面をして明後日の方向を向いていたが、明らかに笑いを堪えている顔だった。
     カトバドは髭をなでながら、声をあげて笑った。
    「はっはっは、これには王も一本取られたのう!」
     ついに、王の間中が笑い声で満たされた。
     セタンタは頰を林檎のように赤くして笑っているし、うつむくロイグもついつい顔をほころばせた。
     コンホヴォル王は大きなため息をついた。
    「……セタンタ」
    「はいっ」
    「明日から、フェルグスのもとで訓練に入れ」
    「はいっ!」
     セタンタは両手をあげて威勢よく返事をした。そのままくるりとロイグを振り返る。
    「ふふ、明日からおまえと同じ少年兵だ。よろしくな、ロイグ!」
     ロイグは肩をすくめて笑いながら、「ああ」とうなずいた。
     どうやら、この幼なじみとの付き合いは、想像よりもずっと長いものになるらしい。

    猛犬誕生
     幼年組に入ったセタンタは、たちまち頭角を現した。
     本来であれば、少年たちはもっとずっと幼い頃から兵団に入り、戦士となる訓練を受ける。
     だが、そんな時間的な問題や、ましてや性別の問題など、彼女はものともしなかった。
     剣も弓も盾も、セタンタは他の少年たち以上に扱うことができた。すでに幼年組で指南役を務めているコナルも感心するほどだった。

     特にセタンタが得意としたのは槍だった。
     ただの槍でも、彼女の手に収まれば、まるで神具のようにその威力を発揮した。
    「いや、たいしたものですよ、あいつは」
     少年兵たちの訓練を見守りながら、フェルグスはコンホヴォル王に言った。
    「もちろん半神の力はあるでしょうが、気合いでもそこいらの男兵に負けちゃいない。育てれば、影の国にいるという女戦士のような、とんでもない戦士になりますよ」
    「そうか……」
     コンホヴォルは考え込んだ。
     あれを兵士として戦場に駆り出すなど考えたくはなかったが、そう悪いことではないのかもしれない。
     しかし、仮にも王族の血筋なのだ。
     武芸ばかりに秀でて、礼法をまったく弁えない奔放さは、放っておくわけにはいかない。
    「フェルグス、ひとつ頼まれてくれるか」
    「は、なんでしょうか」
    「明日、鍛冶屋の宴席に招かれているだろう」
    「ええ」
    「セタンタも連れていくから、準備をしておくようにと伝えておけ」
    「えっ、あいつもですか?」
    「そうだ。あいつもいい年頃なのだ。槍ばかり振り回していないで、令嬢としての立ち振る舞いも学ばねばならん」
     コンホヴォル王はマントを翻して行ってしまった。
     フェルグスが少年兵たちに向き直れば、セタンタが雄叫びをあげていた。
     年上の少年兵を打ち倒し、勝どきを上げているところだった。

     王は、泥だらけの少女を見てため息をついた。
     コナルは苦笑を浮かべ、フェルグスはがっはっはと笑いながら頭をかいている。
    「フェルグス……」
    「いやあ、面目ございません、我が王。伝えたことは伝えたのですが」
     これから宴に向かうというのに、セタンタは服も着替えていないどころか、宴に呼ばれていること自体をすっかり忘れていた。遊戯用の杖を握ったまま、目を丸くしている。
    「申し訳ありません、伯父上」
     さすがにばつが悪そうな顔でセタンタは言った。
    彼女とハーリングをしていた少年兵たちは、ぽかんとした顔で王たちを見つめている。
    「先に行っててもらえますか? すぐ追いつきますから」
    「試合を中断してから来るのか?」
     戦車の上からコンホヴォル王が聞いた。
    「いや、試合に勝ってからです。ここでオレが抜けたら負けちゃいますから」
    「それでは、だいぶ待たねばならないな」
    「いいえ、大丈夫です。すぐ終わらせるので」
     セタンタはあっさりと言った。

     王たち一行を見送ったあと、セタンタは言葉通りにさっさと試合を終わらせた。
     セタンタ側のチームメイトも、相手側のチームも物足りなそうな顔をしていたが、仕方がない。時間がないのだ。
     セタンタはさっさと遊戯用の杖や球を抱え、そのまま王たちの後を追おうとした。
    「おいセタンタ、待てよ」
     ロイグの声に振り返る。
    「なんだよ」
    「おまえ、そんな格好で行く気なのかよ」
     友人の言葉に、セタンタは自分の格好を見下ろした。
     さんざん砂を巻き上げ、泥にまみれたために、服も足も真っ黒に汚れている。
    「……まずいかな?」
    「まずいに決まってるだろ!」
     ロイグは叫び、「ちょっと待ってろ」と告げると、自分の荷物入れを探った。
     水筒と布切れを取り出し、布に水を含ませる。濡れた布で、ロイグはセタンタの顔をごしごしとこすった。
    「いたた、痛い! 痛い!」
    「うるさい。おとなしくしてろ」
     文句を言う少女の顔をこすり終えると、ロイグは自分のマントのほこりを払い、セタンタに差し出した。
    「さすがに全身までは綺麗にできないからな」
     セタンタが、自分より背の高いロイグのマントを借りて身にまとうと、汚れた服や足の大部分は隠れた。
    「ありがとな! 助かったぜ」
     にかっと笑い、セタンタはそのまま王たちの後を追って走っていく。
     やれやれと彼女を見送ったロイグは、他の少年兵たちがにやけた顔をして、自分をじっと見ているのに気づいた。
    「……なんだよ」

    「ようこそ、我が王! それに赤枝の騎士団の皆様! よくぞいらっしゃいました!」
     刀鍛冶のクランは、にこやかにコンホヴォル王たちを出迎えた。
    「ささ、お疲れでございましょう。まずは飲み物を。エール酒などいかがでしょうか。それともワインがよろしいですかな?」
    「心遣い感謝する、クラン殿」
    「なんの、なんの。わざわざ王がおいでくださったのです。些細な宴ではございますが、ぜひ日頃の疲れを癒しておくつろぎください。ああ、ところで」
     思い出したようにクランが言った。
    「皆様は、これで全員おそろいですか? おそろいのようであれば、門に守り手をつけたく存じますが」
     はて、門番に対して、随分ともったいぶった言い方をする男だな。
     コンホヴォル王は眉を上げたが、「構わぬ」と答えた。
     あのセタンタのことだ。どうせ遊戯に夢中になって、しばらく来ないに違いない。
    「は、それでは……」
     クランはうやうやしく頭を下げると、従者に何やら指示をした。
    「お待たせいたしました。それでは、こちらへどうぞ」
     鍛冶屋にうながされ、王たちは館の奥へと入っていった。
     彼らの背後で門が重々しく閉じられ、目を光らせる獣が放たれたとも知らずに。

     セタンタがクランの館にたどり着いたときには、もう月が高く昇っていた。
     息を弾ませながら、門に駆け寄る。固く重い門はどっしりと閉じられていた。松明が時折パチッと音を立てながら燃えている。
    「うーん……」
     少し待ってみたが、誰も出てこず、門が開く気配もない。館のほうからは、竪琴らしき音と、人々の笑い声が聞こえてくる。
     セタンタは少し悩んだ末、門に小さな足を引っかけ、えいっと乗り越えた。そのまま、敷地内に飛び降りる。
     きょろきょろと辺りを見回し、とりあえず明るいほうへ行こうと一歩を踏み出した。
     そのときだ。
     荒々しいうなり声とともに、何かが飛びかかってきた。
    「!」
     はっとして身をかわすと、そいつは恐ろしい一声とともに再び自分に襲いかかってきた。猛烈な勢いになぎ倒される。
    「うわ!」
     激しいうなり声とともに、目の前で鋭い牙がガチガチと噛み鳴らされた。
    「やめろ、離せよ!」
     セタンタは叫んだ。必死で手を伸ばし、掴んだものをそいつに打ち下ろす。ハーリングの杖だ。キャウンと声を上げ、そいつが離れた。
     セタンタは跳ね除けるように立ち上がり、杖を握り締めた。松明の火に照らされて、そいつの姿が露わになる。
     犬だ。おそろしく大きい犬だ。
     白い毛並みは殺気に猛り、鋭い牙を向いてよだれを垂らしている。
     片目から血が流れている。先ほど、セタンタが杖で殴ったときに潰れたのだ。
     ふーっふーっと息を上げ、血走った目がこちらを睨んでいる。

     ──ころされる。

     本能的にセタンタは杖を構えた。狂犬は天にも響かんばかりの吠え声をあげ、凄まじい勢いで飛びかかってきた。
    「うわあああっ!」
     叫び声をあげながら、セタンタは何度も杖を犬に打ち下ろした。
     腕に噛みつかれ、肌が破れて血が飛び散る。それでも、やられるわけにはいかない。
     何度も杖で殴りつけるうちに、杖が嫌な音を立てて折れた。セタンタはさっと体の内側が冷たくなった。
    「この野郎!」
     こぶしを握り締めると、狂ったように犬を殴りつけた。何度も何度も。
     犬の吠え声がやがてうなり声になり、それが悲鳴に変わっても、セタンタは犬を殴るのをやめなかった。白い体を門の柱に叩きつけ、首をぎりぎりと締め上げる。

     気づけば、犬は動かなくなっていた。
     はあ、はあ、という自分の荒い息の音だけが聞こえる。はっとして手を離すと、犬はどさりと地面に落ちた。
     震えるこぶしはどす黒い血にまみれていた。
     自分の血? いや、犬の血だ。
     犬は、いや、犬だったものは、白い毛並みを真っ赤な血で汚した塊と化していた。
    「……」
     セタンタは地面にへたり込んだ。興奮と恐怖と安堵が一気に襲ってきて、体の震えが止まらなかった。
    「セタンタ?」
     びくっとして振り向いた瞬間、まぶしさに思わず目を閉じた。
     大きな手が自分の体を持ち上げて立たせる。
    「何があった」
     聞き覚えのある声に、おそるおそる目を開ける。そこには、自分がよく知った男の顔があった。
    「叔父貴……」
     安堵のあまり、思わず目が潤んだ。
     フェルグスは驚いた顔をしていた。手に持った松明が静かに燃えている。
     先ほどのまぶしさはこの松明の火だったのだと、セタンタはぼんやり思った。
    「フェルグス!」
    「どうした! 何事だ!」
     ばたばたと足音がして、いくつもの人影と松明がこちらに向かって走ってきた。
     思わずフェルグスの腰にしがみつく。
     すぐに温かい手が自分の肩を抱いてくれ、セタンタは心がほっと緩むのを感じた。 
    「セタンタ……?」
     コンホヴォル王が呆然とした顔つきでセタンタを見つめた。
    「どうした、何があったというのだ」
     セタンタはぐっと歯を食いしばると、体の震えをなんとかこらえ、前に進み出た。
    「この犬が襲いかかってきたから、オレがこいつをやっつけたんです」
     王たちは、自分たちの足元に転がるぐちゃぐちゃの肉塊を見た。
     舌はだらりと伸び、片方の目玉は潰され、もう片方は転がり落ちている。
     骨が毛皮を突き破り、内臓が外に溢れ出ていた。その無残な有様に、思わず顔を背けた者もいた。
    「これは……」
    「すまない、通してください……通して……。あ、ああ! ああ! なんという!」
     男たちをかき分けて出てきたのは、館の当主であるクランだった。
    「守り手」と呼ぶ番犬の成れの果てに、クランは叫んだ。悲壮な嘆きに、セタンタはびくんと身をすくませた。
    「クラン殿、守り手、というのは……」
     頭を抱えて打ちひしがれる男に、コンホヴォル王はおそるおそる声をかけた。
     クランはうなだれ、力なく言った。
    「この犬は、我が砦の守護者だったのです。人も家畜も、賊や獣から全部この犬が守ってくれていた。だがもう、この砦の守り手はいなくなってしまった」
     鍛冶屋の嘆きは痛々しかった。男たちは互いに顔を見合わせた。
    「ああ、それでも……」
     顔を上げたクランは、必死に何かを飲み込みながら、口元だけなんとか笑みの形に歪ませた。
    「陛下の姪御さまを殺さずに済んでよかった」
     その場にいた者は全員黙りこくってしまった。
     風だけがびゅうびゅうと音を立て、木の葉をうるさくざわめかせている。
     不意に、セタンタが前に進み出た。
    「クラン殿」
     男はゆっくりと少女を見た。その沈んだ目を見て、セタンタはごくりとつばを飲み込む。
    「あの、この犬に子犬はいませんか? オレが調教します。この犬と同じように立派な番犬になるように。あ、えっと、それから」
     何かを言おうとするクランを制し、セタンタは必死にまくしたてた。
    「犬が育つまでは、オレが番犬としてこの砦を守ります! 大丈夫です、オレは強いから! 幼年組で訓練も受けてるし、それに……それに……」
     一生懸命な少女の様子を見て、クランの表情がやわらいだ。
     肩にそっと手を置かれて、セタンタは瞬きをする。
    「立派な申し出です、小さな騎士殿」
     鍛冶屋は王に向き直った。
    「陛下には、素晴らしい戦士がいらっしゃいますな。だが、犬は自分で調教できます。この方はこんな館の番犬に収まるようなお方ではございません」
     そう言って、優しげな目がセタンタをとらえる。
    「小さな騎士殿。あなたは自分を鍛えなさい。そうすればいずれ、このアルスター全土を守る番犬となるでしょう」
     緊張に目を見開いていたセタンタだが、次第にその頰が紅潮していく。
    「ふむ」とフェルグスがうなずき、不意にセタンタを抱き上げて、肩車をした。
    「うわっ、叔父貴!?」 
    「素晴らしいお言葉です、クラン殿!」
     フェルグスは闊達に笑った。
    「我が王、いかがですか。この子はこの年にして、立派な義務を果たそうとしているのです。それに、たった一人で初めての敵と戦い、そして勝った。これは賞賛すべきでしょう!」
    「おお、いいぞ!」
     コナルも楽しげに叫んだ。フェルグスの肩の上で、セタンタはあたふたとしている。
     一人とり残されたように立ち尽くしていたコンホヴォル王は、周りの騎士たちの様子を見回した。
     みんながフェルグスやコナルにつられて笑い、手を叩き、セタンタに賛美の言葉を投げかけている。
     コンホヴォル王はゆっくりと息を吸った。
    「……セタンタよ」
    「は、はい」
     王のいかめしい顔がセタンタを見据える。
     セタンタは、思わずごくりとつばを飲み込んだ。
    「おまえは今日、尊い申し出を行なった。それを記念し、これからは『クランの猛犬』、すなわち、クー・フーリンと名乗るがよい」
    「クー・フーリン……?」
     セタンタは、呆然とその名をつぶやいた。
    「クー・フーリンか。いや、素晴らしい名だ!」
     フェルグスが叫んだ。コナルも大声で叫ぶ。
    「クー・フーリン! クー・フーリン!」
     クランもにこやかにうなずいている。少女は、顔が熱くなるのを感じた。
    「クー・フーリン……」
     少女はつぶやいた。クランの猛犬。
     突如、体の中から爆発するような喜びが突き上げてきた。
     自分は認められた!
     とうとう、自分は王や騎士たちに認められたのだ!
    「さあ、それではクー・フーリン殿。まずは湯浴みをしたほうがよろしいでしょうな」
     鍛冶屋の声に、セタンタは、いや、クー・フーリンは我にかえった。
    「あ……」
     自分の体を見下ろせば、服にも肌にも、べっとりと赤い血がついていた。
     ロイグから借りたマントも、いまや見る影もなく真っ赤に汚れている。もちろん、ほとんどは犬の血なのだが。
    「……ロイグに怒られる」
     ぼそりとつぶやいたクー・フーリンの言葉は、連呼される彼女の名前にかき消された。

    武者立ち
     少年たちは、必ず大人になる。
     大人になるとは、「武者立ちの儀」を迎えること。
     すなわち、幼年組を卒業し、一人前の騎士となることだ。

     コナルとロイグはすでに儀式を終えていた。
     立派な武器を身につけ、騎士団に加わって出かけていく二人を、クー・フーリンはいつもうらやましい思いで見送っていた。自分は幼年組を終えるまで、まだ何ヶ月も残っているのだ。
     槍の訓練を終えたあとは、学問の時間だ。
     クー・フーリンは特にこれが嫌いで、なんやかんやと理由をつけてはさぼろうとした。
     もっとも、教師が祖父のカトバドであるため、そうそう怠けることもできなかったのだが。

     このあたり最も高い樫の木の下に、老齢のドルイドは座っていた。
    「森の賢者」と呼ばれる彼は、政治や星読みのほか、少年たちに文字や歴史を教えている。
     クー・フーリンも、もっと幼い頃は祖父の膝に座り、一族の掟や予言について聞かされたものだ。
     もっとも、彼女が一番興味を示したのは、屈強な戦士たちの英雄譚だったが。

     少年たちはぱたぱたと老僧のそばに走り寄り、彼を囲んで座った。
     しぶしぶやってきたクー・フーリンは、少年たちの輪から外れたところに一人で座った。
    「さて、今日はオガム文字の復習から始めることにしようかの」
     クー・フーリンはふわあ、とあくびを一つした。

     退屈な講義も終わり、クー・フーリンは立ち上がって伸びをした。やっと自由な時間だ。
     今日は釣りをすると決めていたので、近くの浅瀬に降りていく。
     そのとき、背後で少年の声が聞こえた。
    「先生! 僕たち、いつ戦士になるのが一番いいんでしょうか?」
     カトバドは首を傾げた。
    「いきなり何だね?」
    「ほら、僕たちが立派な戦士になれば、国のためにもなるでしょ! 王様だって喜びます」
    「それに、先生もね」
     別の少年がにやっと笑った。
    「先生はこの国で一番すごいドルイドだもの。先生の占いは未来まで決めてしまうくらいすごいって、みんな知ってますよ」
    「そうそう。先生が一番いい日を決めてくれれば、僕たちはその日に武者立ちして、立派な戦士になります。それは、先生にとっても良いことでしょ」
     興奮して詰め寄ってくる少年たちを前に、カトバドは困ったような表情を浮かべた。
     確かに自分の力は強い。
     しかし、下手な運命を読んでしまえば、それこそ災いある未来を引き寄せてしまいかねない。
     わいわいと騒ぎ立てる少年たちに押されて、カトバドは降参するように両手を挙げた。
    「わかった、わかった。それでは、今日戦士になる者だけの運命を占おう。まったく、おまえたちときたら……」
     少年たちはわぁっと歓声を上げた。
     カトバドは目を閉じ、杖を握り直す。少年たちは、わらわらと老僧の周りに集った。
     クー・フーリンはその様子に背を向け、大あくびをした。
     糸に釣り針を括り付け、小川に投げ入れる。
     コナルたちはそろそろ狩りから戻ってくる頃だろうか。自分も早く付いていきたいものだが……。
     カトバドはしばらく黙っていたが、やがて朗々とした声で唄い始めた。
    「今日という日に武者立ちをする若者は、誰よりも誇り高き英雄となるだろう」
     クー・フーリンの手が震えた。そのせいで、餌に食いつきかけていた魚がぱしゃんと音を立てて逃げる。
     慌てて祖父のほうを振り向く。偉大なドルイドは、張りのある声で続けた。
    「アイルランド最強の戦士として詩に唄われ、物語に読まれ、その名を未来永劫語り継がれるだろう。花という花がかの者の頭上に降り注がぬ日はなく、賛美という賛美の声がかの者を讃えぬ日はない」
     どきどきと胸が高鳴る。
     クー・フーリンは釣竿を地面に突き刺し、急いで少年たちの輪のそばに戻った。
     みんな、顔をきらきらさせてカトバドの言葉に聞き入っている。
    「かの者は、誰よりも強く、誰よりも愛され、誰よりも偉大なる名声を得るだろう。ただし──」
     カトバドの声が低くなる。少年たちは息を飲んだ。
    「かの者の人生は短い。名声と引き換えに、空を駆け一瞬にして燃え尽きる星のごとく、その命を終えるだろう」

     チチチ、と鳴き声をあげ、鳥たちが空に舞い上がった。
     ふっとカトバドから力が抜ける。やがてその目に光が戻り、少年たちの顔を見渡した。
     彼らの顔は青ざめ、全員が一様に黙りこくっている。ドルイドは微笑んだ。
    「栄光というのは諸刃の剣じゃ。一方は敵を貫き、だがもう一方は己を切り裂くこともある。なに、これはあくまで今日という日の話。明日になれば、また違う未来もあろう」
     少年たちの輪の間から、クー・フーリンがすっくと立ち上がった。
     おや、とカトバドが眉を上げる。
     あのおてんばな孫娘が、こうも静かに自分の話を聞いているというのは珍しいことだが──。
     クー・フーリンは、そのまま脇目もふらずに走っていった。
     ふと胸に不吉な予感がよぎり、老ドルイドは、離れていくその小さな背を見つめた。

    「伯父上、伯父上! いや、コンホヴォル王!」
     ばたばたと王の間に飛び込んできた姪を、王は驚いた顔で迎えた。
    「どうした、子犬」
     のんびりとくつろいでいたところに騒々しく入ってこられたせいで、王はいくらか不機嫌になった。
    「我が王、お願いがあります。オレを戦士にしてください」
    「なに?」
     王は目を丸くした。
    「おまえの武者立ちの儀は、まだ大分先だろう?」
    「幼年組で教わることはすべて学びました。今のオレなら、騎士団に入っても立派に戦士としてやっていけます」
    「生意気なことを」
     王はいよいよ顔をしかめた。
     確かに、この少女は強い。
     だが、所詮それも幼年組の中では強い、という程度の話だ。
    「おまえのような子どもが戦士になるだと? よいか、クー・フーリン。あまり戦士というものを舐めてもらっては困る。私は少しおまえを甘やかしすぎたようだ。もっと成長し、背が伸びて力をつけるまで、健やかに育つがいい」
     クー・フーリンはかっとなった。
     よくもオレを馬鹿にしたな。小さな子ども扱いして!
     少女は、あたりに目を走らせた。王のそばには、狩りに使われた長槍が転がっている。
     クー・フーリンはその槍を拾い上げると、バキッとへし折ってしまった。
     コンホヴォル王は、あっけにとられた顔でバラバラになった槍を見つめる。
     クー・フーリンはふんと鼻を鳴らした。
    「力をつけるですって?」
     コンホヴォル王は、じっと姪の顔を覗き込んだ。少女の両目に激しい火花が飛び散っているのを見て、王は召使を呼ぶ。
    「戦闘用の槍を持ってこい。すぐにだ」
     王の元に運ばれる武器を、クー・フーリンは片っ端からぶち壊していった。
     槍、剣、盾……城中の武器という武器が壊されたに違いない。その騒音に、何事かと王の側近たちが駆けつけてくる。その中には、コナルやロイグもいた。
    「クー! 何やってるんだよ!」
     ロイグが叫んだ。だが、頭に血が上っている幼なじみの耳には届かない。
    「おい、クー。落ち着け!」
     コナルが止めようとしたが、「うるさい!」と激しく突き飛ばされた。
    「おい……!」
     声に怒気を含ませ、コナルは再び暴れ回る少女を止めようとする。
     だが、それを「よい」と王自身が制した。
     ついには、戦車まで運ばれてきた。
     激しい怒りに燃えたクー・フーリンは、それすらもめちゃくちゃに叩き壊してしまった。その荒々しさは、戦場を駆けめぐるという戦女神のようだった。
    「これでも戦士になるには不足ですか!?」
     肩で息をしながら、クー・フーリンは王を睨んだ。足元には、ばらばらになった戦車の残骸が転がっている。
     コンホヴォル王は、黙ったまま彼女を見下ろしていた。
    「アルスターの盾、か」
     王はつぶやいた。そして再び、召使に告げる。
    「私の剣を持ってこい」
     光り輝く美しい剣が、王の前に持ち出された。
     コンホヴォル王は、それをクー・フーリンに差し出す。
     少女は奪うようにその剣を受け取ると、これも今までのように折ろうとした。
    「……?」
     だが、いくら力を込めてもその剣は折れない。
     顔を真っ赤にさせて渾身の力を注いでも、どうしてもその剣だけは折れなかった。
     クー・フーリンはうなだれた。
     ああ、やっぱり駄目なのか。やっと認められたと思ったのに。自分は戦士にはなれないのか──。
    「王の剣は、さすがに折れなかろう」
     クー・フーリンは、くやし涙を溜めた目で王を見上げた。嘲りの表情で笑われると思ったからだ。
     だが、その予想に反して、コンホヴォル王は穏やかな笑みを浮かべていた。
    「その剣はおまえにやろう。王のために鍛えられた剣だ。おまえにはちと重いかもしれんがな」
    「えっ……」
    「なんだ、不満か」
    「え、あ、いえ……いいえ!」
     クー・フーリンは慌てて首を振った。突然、手の中の剣が、まるで星でできているかのようにきらめいて見えた。
    「私の戦車も持ってきてやれ」
     王の命令に、御者の男は急いで広間を飛び出すと、すぐに立派な戦車を御して戻ってきた。
    「これは……」
    「私が使っている戦車だ。これもおまえには壊せまい。すなわち、おまえが乗るのにふさわしいというわけだ」
    「伯父上……!」
     クー・フーリンは胸がいっぱいになった。あふれる喜びに、礼を言おうと口を開く。
     そのときだ。
    「お待ちなされ、王よ!」
     勢いよくカトバドが入ってきた。普段は温厚なドルイドの剣幕に、皆が驚いた。
    「何事だ」
     コンホヴォル王のそばに、カトバドは駆け寄った。
     そして、剣を持ったクー・フーリンと、そばに置かれた戦車、床に散らばった武器の残骸を見て、遅かったかとでもいうようにうめいた。
    「いったいどうしたというのだ?」
     様子がおかしいカトバドの姿に、王もさすがに心配になった。
     老ドルイドは額を押さえ、力なく言った。
    「私は予言を行なったのだ、我が王よ。今日という日に武者立ちの儀を行う若者は、誰よりも偉大な名声を得ると」
     コンホヴォル王はクー・フーリンを見つめた。
     なるほど、それでか。
    「素晴らしい予言だ。して、なぜそんな顔をする?」
    「予言には続きがある」
     カトバドは苦しげな声で言った。
    「その者は、名声を得る代わりに、短い命となるのだ」
     広間中がざわめいた。王は目を見張り、勢いよく姪を振り返る。
     少女は、叱られて反抗する幼子のような顔で立っていた。 
    「おまえは、このことを知っていたのか」
    「はい、我が王」
     クー・フーリンは食いしばった歯の間から答えた。
    「このドルイドの予言は絶対だ。もう取り返しがつかないのだぞ」
    「構いません」
    「クー!」
     耐えきれなくなり、ロイグが幼なじみの肩を掴んだ。
    「おまえ、何言ってるんだよ!」
    「ロイグ、おまえだって戦士の端くれならわかるだろ」
     ぎらぎらとした目で、クー・フーリンは叫んだ。
    「オレは、偉大な戦士になる。その望みが叶うなら、命なんか惜しくない!」
    「馬鹿娘が……」
     王は吐き捨てるように言った。そして、自分の気を鎮めようと目を閉じ、大きく息を吐く。
    「よいか、我が姪よ」
     伯父である王は、ひたとクー・フーリンを見据えた。
     その声から、感情はいっさい切り捨てられていた。 
    「おまえは今日、ここで武器を取る。すなわち、武者立ちを果たすのだ。そうすればもう戻れない。それでよいのだな?」
    「いい!」
     間髪入れずにクー・フーリンは叫んだ。まるで駄々っ子のような叫びだった。
    「よかろう。それでは、今日からおまえを戦士と認める。おまえには、武器一式と戦車を与える。これからは赤枝の騎士団の一員として、己の名誉のために尽くすがよい」
    「はい!」
     クー・フーリンはぎゅっと剣を握りしめ、大きくうなずいた。
     カトバドは悲しげな顔でうつむき、力なく王の間を出ていった。
     クー・フーリンが振り返ると、コナルもロイグも複雑な表情を浮かべていた。少女は二人に笑いかけ、赤毛の幼なじみの手を握った。
    「なあ、ロイグ」
    「なんだよ」
     その声には、かすかに怒気が含まれていた。
     心の内で苦笑いをして、クー・フーリンは続けた。
    「オレの御者になってくれないか?」
    「は?」
     少年は目をしばたたかせた。
    「オレは戦車を得た。だったら、御者だって得られるはずだ。そうですよね、我が王?」
    「ああ、そうだな」
     コンホヴォル王はうなずく。
    「オレの戦車の御者になってくれよ。いっしょに戦場で戦おう!」
     ロイグは困惑した表情を浮かべた。「それは……」と口ごもる。
    「だが、クー」
     コナルが声をあげる。
    「ロイグは貴族の出なんだぞ。御者なんて低い身分は……」
    「わかってるよ」
     友人の声をさえぎり、クー・フーリンはロイグの目を見つめる。
    「それでも、オレはおまえがいい。おまえ以上に馬を扱えるやつなんて、オレは他に知らない」
    「おい、クー。いい加減に」
    「わかった」
     なおも言い募ろうとするコナルを制し、ロイグは静かにうなずいた。
    「俺は、おまえの御者になる」
    「やった!」
     クー・フーリンは歓声をあげてロイグに飛びついた。少年は「うわっ」と声を漏らし、その小さな体を抱きとめる。
    「いいのか?」
     驚くコナルの言葉に、ロイグは小さく微笑むだけだった。
    「これでオレたちは最強だぞ! ありがとな、ロイグ!」
    「どういたしまして。ただし、ひとつ約束してくれよ」
     無邪気に喜んでいた少女がきょとんとした顔になる。
     ロイグはおどけたように片目を閉じた。
    「おまえの御者は、後にも先にも俺だけだ。偉大な戦士の御者なんてそうそうなれないからな。いいだろ?」
    「もちろん!」
     クー・フーリンは花が咲いたような笑顔を浮かべた。
     コナルはため息をついた。動き出した運命は、なるようにしかならない。
    「おまえたちの無鉄砲さにはほとほと呆れるよ」
    「なんだと」
     ロイグから離れ、むっとした顔でクー・フーリンは乳兄弟を睨んだ。
     見上げてくる視線の低さに、ふとコナルは思う。
     いつの間にか、自分はずいぶんと彼女より背が高くなったものだ。
    「ロイグが御者としておまえを支えるなら、俺は騎士としておまえを助けよう」
    「本当か!?」
     ぱっとクー・フーリンの顔が明るくなる。だが、すぐに考え込むような表情になった。
    「うーん、でもそれだと公平じゃないよな。じゃ、こういうのはどうだ? 『どちらかが殺されたら、生き残ったほうがその仇を討つ』っていうのは!」
     殺されたら、という言葉に一瞬コナルの顔がこわばる。
     しかし、それを飲み込んで、笑みを作ってみせた。
    「いいだろう。騎士と騎士の約束だ」
    「おう!」
     クー・フーリンは朗らかに笑い、コナルにも抱きついた。
     その背中を軽く叩きながら、コナルはロイグと顔を見合わせた。
     互いに思ったことは同じだったろう。
     ──どうか、彼女に幸多からん人生を。
    エメル姫
     時が流れ、流れた。
     16歳となったクー・フーリンは、緑風が吹き抜けるような凛々しい娘に成長した。
     いまや、彼女は王の騎士団の中でも、フェルグスやコナルと肩を並べる存在だった。
     幼い頃から鍛え上げられた戦闘の技、その腕は、狩りや模擬試合で遺憾無く発揮された。

     男だらけの騎士団の中で、「女の騎士なんて」と蔑む輩は少なくなかったが、彼女は自力でそんな声を叩き伏せた。
     まだ本当の戦場にこそ出たことはないものの、実戦に参加すれば、間違いなく一番の大手柄を立てるのは彼女だろうと、人々は噂した。
     男たちはクー・フーリンの力をしぶしぶ認めたが、もう一つ、悩まされていることがあった。

     彼女は、女性にもてるのである。

     一見華奢だが、しっとりと筋肉のついた体。風になびく絹糸のような髪。宝石のように輝く瞳。
     その凛とした美しさは、男たちだけでなく、女たちまでも魅了した。
     その類稀なる美貌と、戦士としての圧倒的な強さを誇る彼女に、騎士たちの妻や娘たちは熱を上げた。
     クー・フーリンが訓練をすれば女たちは列を組んで菓子や蜂蜜酒を差し入れ、模擬試合に出れば黄色い歓声をあげ、花を渡そうとやっきになった。
     クー・フーリン本人も、これを面白がっている節があった。
     彼女たちに笑顔で手を振り、戯れに口づけを投げようものなら、卒倒する者もいたほどだ。
    「あんたたちの幼なじみはどうにならんのか!」
     ロイグとコナルが休憩していると、騎士の男たちがどやどやとやってきた。
     二人は顔を見合わせ、肩をすくめるばかりだった。
    「あいにく、俺はただの御者だから、主人のやることに意見する権利は持ってないもんで」
    「妹分はそれだけの活躍をしているということだろう。おまえたちも、こんなところでクダを巻いていないで、奥方に捧げる花でも摘んできたらどうだ」
     男たちは騒ぎ立てていたが、嫉妬の念などどこ吹く風というように、二人の若者は平然としていた。
     収まらない男たちは、ついには養父のフェルグスにまで文句を言い始めた。
     自分の妻や娘がつとめを果たさず、クー・フーリンを追いかけてばかりいる。早いところ炉ばたから連れ出して嫁がせろ。あの顔だ、結婚相手に不自由はしまい──。
     実のところ、フェルグスも思うところはあったのだ。
     仲の良い男友達はいるが、想い人の話となると、とんと聞いたことがない。

    「なあ、クー・フーリン」
    「なに、叔父貴」
     ある夜、炉ばたの火の前でくつろいでいる養い子に、フェルグスは話しかけた。
    「おまえ、気になる者の一人や二人、いないのか?」
    「はあ?」
     クー・フーリンは身を起こした。何を言っているんだという顔に、フェルグスは予想通りの反応だと笑った。
    「おまえも年頃だからなあ。そろそろ結婚のことも考えねばならん」
    「んー……」
     娘はぼりぼりと頭をかいた。
     他人がうらやむような美貌の持ち主のくせに、気心が知れた相手の前ではだらしないのが、彼女の長所もであり短所でもあった。
    「どうだ、騎士団の中でも貴族でも、結婚したいと思うような男はいないか?」
    「結婚ねえ……」
     気乗りがしなさそうな声でクー・フーリンはぼやく。
    「考えないこともないけど。でも、オレより弱い男はお断り」
    「おっと、これはまた厳しい条件だな」
     フェルグスは苦笑いを浮かべた。クー・フーリンより強い男など、そうそういるわけがないからだ。
     彼女の乳兄弟であるコナルは名戦士だが、すでに心に決めた女性がいる。
     これは、他国にも手を伸ばして候補を探さなければならないかもしれない。
    「ま、オレ自身は別に急いでないし」
     そう言って、クー・フーリンは再びごろりと寝そべった。
     おまえ自身は急いでいなくても、周りで焦っている者たちは多いのだよ、とフェルグスは思った。

     ある日、ルース国の王都タラで祭典が催されることになった。
     アイルランドには各地方に王たちがいるが、王都タラには王たちのなかで最も高位な「上王」がいる。数年に一度、各国の王たちがタラに集い、上王に謁見する。
     フェルグスは思った。
     アイルランド全土の王族や貴族たちが集う場なら、クー・フーリンに見合うような男が見つかるかもしれない。
     さっそくコンホヴォル王に進言すれば、王も姪を連れていくことに賛成した。
     支度をしながら、ロイグは幼なじみに聞いた。
    「ドレスはどうするんだ?」
    「は? ドレス?」
     クー・フーリンは不可解そうな顔をした。
    「だって、上王に謁見するなら、そういうのいるんじゃないのか? そもそも、おまえ持ってるのか?」
    「持ってない。っていうか、いらねえよそんなの。いつもの正装でいいだろ」
    「え、おまえあれ武装だぞ」
    「戦士なんだから当然だろ。他の騎士だってそんなもんだろうが」
     ロイグはこれ以上あれこれ言うのを諦めた。
     この幼なじみは、一度自分でこうと決めたら頑として譲らないのだ。
     幼なじみのため、ロイグはドレスの代わりに、ぴかぴかに磨いた盾や宝剣、ブローチや首飾りといった装飾品を積み込んでやった。

     祭典自体は退屈なものだったが、宴会は素晴らしかった。
     ジュウジュウと音を立てる豚肉や鹿肉、香草が添えられた羊肉、大ぶりに切られた牛肉。熱く汁がしたたる鮭や鱈。茹でられた蟹やエビ。色とりどりの果物。山盛りのパンに山羊のチーズ。果実がたっぷり使われたパイやケーキ。上等なワインに黒エール酒に蜂蜜酒。
     みんなが大いに食べ、飲み、盛り上がった。
     壁際では楽団が陽気な音楽を奏で、芸人たちが次々と技を披露していた。
    「上王ともなると大したもんだねえ」
     クー・フーリンは串に刺さった熱々の牛肉にかぶりついた。途端に「あちっ」と叫び、慌てて盃の蜂蜜酒を飲み干す。
    「そんなに慌てて食べるな。行儀が悪い」
     フェルグスが諌めながらも、これまた豪快にチーズと蜂蜜を乗せたパンをほおばった。
    「うむ、うまい!」
    「叔父貴も人のこと言えねえじゃん」
     ひりつく舌に悪態をつきながら、クー・フーリンは言った。
     もう一口酒を飲もうとしたが、あいにく盃の中身は空だった。
     おかわりを頼もうと、きょろきょろと辺りを見回す。給仕役の娘が、酒の入った容器を抱えてやってきた。
    「お注ぎいたします」
    「あ、わる、い……」
     クー・フーリンは言葉を失った。
     美しい娘だった。
     透き通るような白い肌に、宝石を編んだ糸のように輝く髪。夏至の夜のように温かく、誇らしげな眼差し。
     クー・フーリンは、まるで吸い込まれるように娘に見惚れた。
     盃に蜂蜜酒を注ぎ終えると、娘はにこやかに微笑み、その場から立ち去った。
    「叔父貴……」
     クー・フーリンは、フェルグスの腕をぐいぐいと引っ張った。
    「ん? どうした?」
    「彼女、誰?」
     言葉すらおぼつかない。フェルグスはクー・フーリンの視線の先を追い、ああ、とうなずいた。
    「エメル姫だ。ルスカ領主フォルガルの娘だな」
    「エメル……?」
    「そうだ。なるほど、俺も久しぶりに見たが、なんとも美しく育ったものだな。いやはや、これだから女はわからんものよ」
     フェルグスはからからと笑った。クー・フーリンは黙ったままだ。
     エメルは他の娘たちと共にてきぱきと働いていたが、他の娘とはまるで違った。
     うまく言葉にはできないが、彼女は光輝いているように見えた。
     エメルは自分が持っている容器を覗き込み、隣にいた娘に何かを話しかけると、大広間を出ていった。
    「あっ……」
     クー・フーリンは思わず声をあげた。フェルグスは不審げな顔で姪を見つめた。
    「どうしたんだ。おまえ、さっきからおかしいぞ」
    「いや……」
     もごもごとつぶやき、クー・フーリンは自分の手の中の盃を見つめた。先ほど、エメルに注いてもらった蜂蜜酒だ。
     なんだか落ち着かない気分になり、クー・フーリンは一気にその酒をあおった。そのまま盃を置くと、せわしなく立ち上がる。
    「叔父貴、オレ、ちょっと酔ったみたいだから風に当たってくるわ」
    「はあ? おまえ、大して飲んでな──」
     叔父が言い終えるのも待たず、クー・フーリンは急ぎ足で大広間の外に飛び出していった。
    「なんなんだ、あいつは?」
     その席には、首を傾げるフェルグスだけが残された。

     廊下に飛び出したクー・フーリンは、あたりを見回した。
     廊下といえど、つぎつぎとごちそうの皿を運ぶ奴隷や、談笑する騎士たちで、大広間と変わらず騒がしい。
    「……何やってんだ、オレ」
     クー・フーリンは、ぽつりとつぶやいた。
     エメル姫の後を追って部屋を出てきてしまったが、肝心の姫はもういないし、そもそも自分の行動が意味不明だ。
     戻ろうかと思ったが、フェルグスに嘘をついた手前、すぐには戻りづらかった。
     仕方なく、そのまま廊下を歩く。適当に時間をつぶして戻ろうと思ったのだ。
     なんとなく歩き続けていると、物陰から声が聞こえた。
     男女の声だ。女はぼそぼそとしゃべっているが、男の声が妙に大きいので、勝手に耳に入ってくる。どうやら女を口説いているらしい。
    「おやめください……!」
     気にせずそのまま通り過ぎようとしたが、漏れ聞こえた女の声の必死さに足を止める。
    「私を拒絶するそぶりも、またかわいらしい」
     クー・フーリンはくるりと踵を返すと、物陰にとって返した。
     壁際からそっと覗き込み、目を見開いた。
     女はエメルだった。自分の身を守るように酒の容器を抱きしめている。
     男は──見覚えはないが、出で立ちからしてどこかの騎士だ。
     クー・フーリンは目を細めた。
     顔が赤く、目元に締まりがない。どうやら、酔っぱっているらしい。
     男は壁に片手をつき、エメルを壁際に追い詰めていた。
    「ああ、噂には聞いていたが、なんともお美しい。姫、どうかこの美しい夜、私と語らってくださいませんか」
    「あいにくですが、私はつとめがありますので」
    「そんなつれないことをおっしゃるな。あなたは私が誰かご存知ないのでしょう? 戦場で数々の武勲を打ち立て、敵の首を何百も取った私です。そう、私こそが、偉大な騎士──」
    「偉大な騎士は、酒くさい息を吐きながら女性を追い詰めたりしないと思うがねえ」
     二人がはっとしてこちらを振り返った。
     クー・フーリンは暗がりから出てくると、にやりと笑った。
    「邪魔して悪かったな。偉大なる騎士さん。でも、嫌がる女性を口説くのは、あまり褒められたもんじゃないぜ」
    「なっ、貴様、何者だ!」
     酔った男は真っ赤な顔で剣を抜き、切っ先をクー・フーリンに向かって突き出した。エメルが息を飲む。
     クー・フーリンは動じず、自分に向けられた剣に目線をやることもなかった。
    「名乗るほどのもんじゃねえや。でもまあ、騎士の端くれ、とは言っておこうか」
    「貴様が騎士だと……?」
    「そ。ほら、さっさとそこの姫様から手を離しな。宴会場に戻っておとなしく酒を飲んでるといい」
     抜き身の刃を向けられても平然とし、うっすらと笑みすら浮かべてみせる女に、男はかっとなった。
    「無礼者!」
     叫んで、クー・フーリンに斬りかかる。エメルが悲鳴をあげた。
     クー・フーリンはさっと剣をかわすと身を伏せ、男の足を勢いよく払った。
    「なっ!?」
     男の重心が崩れる。クー・フーリンはエメルをかばうように抱き込み、さらに男の胴体に固いこぶしを叩き込んだ。
    「ぐえっ」と男はうめき、無様に倒れた。
     赤枝の騎士団以下の実力に加え、酒に飲まれた者の攻撃だ。叩きのめすことなどわけもない。
    「このッ……!」
     男は勢いよく身を起こしかける。その目の先に、銀の刃がきらりと光った。
    「……!?」
    「もう一度言うぜ」
     氷のように冷え切った声でクー・フーリンは言った。男から奪った剣を、その持ち主の顔に突きつける。
    「おとなしく宴会場に戻りな。それがあんたの身のためだ。偉大な騎士さん?」
    「ヒイッ……」
     クー・フーリンが少し剣を引くと、男は慌ててその場から逃げ出した。
     どすん、がちゃん、と何かにぶつかる音が聞こえる。ばたばたという足音は、やがて聞こえなくなった。
    「あ、あの……」
     ためらうような娘の声に、クー・フーリンははっとした。
     自分の腕の中を見れば、エメル姫が恥ずかしそうな顔でそこに収まっている。
    「あっ、失礼!」
     急いで手を離す。内心の焦りを悟られないように、ははは、と笑ってごまかす。
    「あんなのに絡まれるなんて災難でしたね。気をつけたほうがいいですよ」
    「は、はい。あの、ありがとうございました」
     娘は顔を赤くしたまま、クー・フーリンを見上げた。クー・フーリンも思わず娘を見つめる。
     ああ、やはり美しい。
     クー・フーリンは思った。世の中に、こんな綺麗な女性がいるなんて──。
    「あの、あなたはもしや、クー・フーリン様ではありませんか?」
     エメルの言葉にクー・フーリンは目を丸くした。
    「どうして、オレの名前を……」
    「ああ、やっぱり!」
     エメルは、ぱっと笑顔になって両手を合わせた。
    「音に聞こえしアルスター国の番犬。誰よりも強く美しい女戦士、クー・フーリン様! もしやとは思っていたんです。でもまさか、こんな形でお会いできるなんて……!」
     嬉しそうな姫の言葉に、顔が熱くなるのを感じた。
     オレの噂を聞いた? オレのことを知っていたのか? 
    「まあ、いやですわ。はしたない真似を……」
     エメルは慌てて居住まいを正した。
    「申し遅れました。私は」
    「ルスカ領主フォルガル様のご息女、エメル姫様」
     姫はさっと顔を赤らめた。
    「な、どうして私の名前を……」
    「あなたがオレの、いや、私の名前を知っているように、私もあなたの名前を知っていますよ」
     知ったのはつい先ほどですけど──と心の内で続ける。
     エメルは頰を染めたまま、にっこりと笑った。
    「光栄ですわ」
     クー・フーリンはどきまぎした。王の前でも、強い騎士の前でも、こんな気持ちになったことはなかった。
     動揺を顔に出さないようにして、クー・フーリンも笑顔を浮かべる。
    「さ、姫。よろしければ、私が部屋までお送りしましょう。またあんなことになったら大変ですから」
    「まあ、ありがとうございます」
     エメルの大きな瞳は、若いハヤブサのように輝いていた。
     そのまま二人は連れ立って歩いた。
     他愛もない話をする。今日の祭典の話、自分が住む館の話、好きな食事や趣味の話。
     エメルの部屋までの道のりは短く、あっという間に着いてしまった。
     それを残念に思いながら、クー・フーリンは姫にうやうやしく頭を下げる。
    「それでは、姫。私はこれで失礼します」
    「あ、あの、クー・フーリン様」
     大広間に戻ろうとしたクー・フーリンを、エメルが呼び止めた。
     振り向けば、言葉を探すように両手を揉み合わせている。
    「今日のお礼を差し上げたいのですが、あいにく、今は何も持ち合わせがございませんの」
    「あはは、いいですよ、そんなもの。困っている方を助けるのは騎士として当然の義務です」
    「いいえ、そういうわけには参りません。それで、なのですが。もしよろしかったら、今度私の館にいらっしゃいませんか」
    「えっ……」
     クー・フーリンは目を見開いた。彼女の館に? オレが?
    「この宴ほどではないですが、心からのおもてなしをさせていただきます」
    「よろしいんですか」
    「ええ。それに、あなたのお話をもっともっと聞いてみたいのです」
    「光栄です、姫。ぜひとも伺わせていただきます」
    「そう言っていただけてホッとしたわ! それでは、また」
    「ええ、また」
     クー・フーリンはうやうやしく頭を下げた。
     エメルは微笑み、扉の前でクー・フーリンを見送る。クー・フーリンはエメルに背を向け、宴会場に戻るべく歩き始めた。
     しばらく歩き、ちらりと後ろを振り返る。
     エメルの姿が見えなくなったことを確認する。とたんに、胸の中で湯をぶちまけたような喜びが広がった。
     彼女とお近づきになれた! あの美しい彼女と!
     クー・フーリンは駆け出した。足に羽が生えたように軽い。大声で叫び出したかった。
     大広間に駆け込めば、フェルグスが手を振った。
    「おお、戻ったか! 具合はどうだ?」
    「最ッ高!!」
     その高らかな声に、何人かが振り向く。フェルグスは不思議そうな顔をした。
    「なんだ、どうした? なにかいいことでもあったのか?」
    「おうさ!」
     なんだ? 先ほどまでぼうっとしていたと思ったら、急に水を得た魚のようになりおって。
     周囲に花でも飛んでいそうなほど上機嫌な姪の姿に、フェルグスは困惑するばかりだった。


    「フォルガルの館へ行くぅ?」
     ロイグは困惑した顔で聞き返した。
     タラの祭典も無事終わり、王たちがめいめいの国へ期間した数日後のことだ。
     帰ってきた親友は妙に機嫌がよかったが、今朝、使いの者から何かを受け取ったクー・フーリンは飛び上がらんばかりだった。
     そして唐突にこれだ。訳がわからない。
    「おまえ、なんでまたわざわざあんなところへ? フォルガルがどういうやつか知らないのか?」
    「オレが用があるのはフォルガルじゃないよ。その姫さんさ」
    「は? は?」
    「あれ、話さなかったっけ? オレがエメル姫を豚野郎から助けて、そのお礼に館にお呼ばれしたって話」
    「聞いてねえよ! なんだよそれ!」
     身を乗り出したロイグに、クー・フーリンは得意げに鼻を鳴らし、あの夜のことを話して聞かせた。
    「へーえ、おまえがねえ……。で、今朝の使いはそれだったわけ」
    「そういうこと」 
     クー・フーリンはぴしゃっと己の太ももを叩き、立ち上がった。
    「さて、そうと決まれば早速準備だ! ロイグ、マハとセングレンに一番いい馬具を付けといてくれよ! 頼んだぞ!」
     善は急げとばかりに、親友は飛び出していってしまった。
    「……りょーかい」
     一人残された御者は、ぽつりとつぶやいた。

     フォルガルは、ルスカの地を治める領主であり、力を持つドルイドだった。
    「抜け目のないフォルガル」との異名を持ち、金と権力に目がない。
     また、娘に求婚しにやってくる男たちに非道な扱いをすることで有名だった。
     ロイグは心配したが、「でもオレ男じゃないし」とクー・フーリンはあっさり流してしまう。
     コナルも一緒なら心強かったのだが、彼は今、国境の警備にあたるために留守なのだ。

     ルスカへの旅路は、長いようで短かった。
     フォルガルの館についたとき、二人は「うわあ……」と声を漏らした。
     館は、まるで領主の性格そのものを表したようだった。
     どっしりした堅く暗い色の防壁が館を取り囲み、幾人もの大柄な騎士たちが防壁の周囲を歩き回っている。
     重く沈んだ空気が取り囲む館は、クー・フーリンの目には家というよりも牢獄に見えた。
    「赤枝の館とは全然違うな」
    「なんか陰鬱だな。趣味悪いぜ」
     ロイグとひそひそ話しながら、クー・フーリンは戦車から飛び降りる。
     門番の男が、じろりと彼女を見下ろした。
    「何用だ、小娘」
     無礼な言葉にむっとしながら、クー・フーリンは名乗った。
    「アルスター国のクー・フーリンだ。フォルガル殿とその娘エメル殿にご招待いただいた」
     門番は睨むようにクー・フーリンを見ていたが、やがて槍でどんどん、と門を叩いた。
     ギィイ、と軋んだ音を立て、門がゆっくりと開く。
    「入城を許可する」
    「はいはい、どーも」
     クー・フーリンが戦車に戻ると、ロイグがゆっくりと馬を進めた。
     不意に、門番が戦車を止める。
    「待て」
    「なんだよ」
     いらいらとクー・フーリンが言った。門番はぶっきらぼうな口調で続ける。
    「武器はこちらで預かる。剣も槍も弓も、盾もだ」
    「はあ?」
    「フォルガル様のご命令だ。従わないなら出ていってもらう」
    「なっ……」
     思わず立ち上がりかけたクー・フーリンを、ロイグが制した。
    「落ち着け。今日は戦いに来たわけじゃないだろ」
    「……」
     クー・フーリンは不満そうに眉をひそめたが、しぶしぶ、腰に差していた剣や戦車に積んでいた槍を手渡した。
    「御者もだ」
     ロイグも、身につけていた短刀を門番に渡す。
     門番は武器をかき集めると、どさどさと箱に放り込んだ。
    「おい、丁寧に扱えよ!」
     思わずクー・フーリンは叫んだが、聞こえているのかいないのか、門番は「帰るときに返す」と言っただけだった。
     苦虫を噛み潰したような親友をなだめながら、ロイグは言った。
    「フォルガルはこういう奴だから、仕方ないよ。それより、エメル姫だろ。そんな顔してないで、楽しんでこい」
    「……おう。悪いな、ロイグ」
    「いいってことよ。じゃあ、また後でな」
     親友に見送られ、クー・フーリンは館に向かった。

    「クー・フーリン様!」
     目に飛び込んできた笑顔に、クー・フーリンは心が高揚するのを感じた。
     エメルだ。あの日と変わらず、彼女は春の陽の光のように輝いて見える。編み上げた髪に、金の飾りが揺れていた。
    「エメル姫」
    「お待ちしておりましたわ。さ、こちらへどうぞ」
     エメルに導かれ、クー・フーリンは廊下を歩いた。
     壁という壁には鹿や熊の首が飾られ、棚には、動物の骨や人間の頭蓋骨に金銀や宝石で装飾を施した品々が陳列されている。
     エメルは、そんなものは目に見えないというように、真っ直ぐ前だけを見て歩いていた。
     クー・フーリンも黙ったまま彼女の後に続く。やがて、二人は広間に入った。
    「おお、いらしたか」
     広間の奥に、フォルガルが座っていた。足元には猟犬が侍っている。
     こいつがフォルガルか。クー・フーリンは目を細めた。
     男は高位のドルイドである衣服をまとい、その目は飢えた狼のように鋭く光っている。
    「お招きあずかり光栄です、フォルガル殿」
     クー・フーリンは挨拶をした。フォルガルはうなずきながら、彼女を頭から足先まで舐めるように見つめる。
     その不躾な視線はなんとも不快だったが、クー・フーリンはじっと耐えた。
    「なるほど。お噂はかねがね耳にしていましたが、こうして間近でお会いしてみると想像以上のお方ですな。実に凛々しく、お美しい」
    「……ありがとうございます」
    「ささ、お座りください。こら、エメル、なにをぼさっと突っ立っておる。お客様に飲み物をお注ぎせんか」
    「はい、お父様」
     エメルはすぐに酒の容器を手に取る。
     クー・フーリンが慌てて手近な盃を持ち上げると、そこに並々とワインを注いだ。
     父親の盃にも酒を注ぐと、エメルは足早に部屋を出ていってしまう。
    「あ、姫……」
    「なに、料理の指示出しをしに行ったのですよ。して、クー・フーリン殿」
    「あ、はい」
    「聞きましたが、無礼な男から我が娘を守ってくださったそうで。心より感謝いたしますぞ」
    「いえ。騎士として当然のことです」
    「素晴らしい!」
     フォルガルは大げさに手を叩いた。
    「世の中の男たちが、すべてあなたのようであればいいのですがなあ。全く、己の身の程をわきまえず、娘に言いよる馬鹿な男たちが後を絶ちませんのですよ」
    「はあ……」
     クー・フーリンはワインを啜った。
     上等なワインなのだろうが、どうにも居心地が悪いせいで、素直に楽しめない。
     エメルが肉や果物が乗った皿を運んできた。
     てっきり彼女も一緒に座って食べるのだと思っていたが、テーブルの上に皿を置くと、また広間を出ていってしまう。
    「クー・フーリン殿、聞いておられますか、クー・フーリン殿?」
    「あっ、失礼しました。それでええと……なんでしたっけ」
    「ですから、身分の話ですよ。娘には高潔な身分で、しかも豊かな富を持つ相手がふさわしいと、そうお思いになりませんか?」
    「えーと……それは彼女自身が決めることでは」
    「何をおっしゃる!」
     ガシャンと音を立てて、フォルガルが盃をテーブルに置いた。
    「娘の炉ばたを選ぶのは父親の役割ですぞ。それとも何か、クー・フーリン殿は……」
     言いかけて、フォルガルははっと言葉を飲み込んだ。
     そして、一人で納得したように手を叩く。
    「そうか、あなたの生まれはやや独特でしたな。それならば、普通の結婚をご理解いただけないのも仕方ない」
     フォルガルはうんうんとうなずいた。
     思わずその顔に盃を投げつけてやりたい衝動に駆られたが、クー・フーリンはなんとかこらえた。
    「それで」
     不意に手をなでられて、クー・フーリンは椅子から飛び上がりそうになった。
     フォルガルが彼女の手をするり、となでてきたのだ。背筋にぞわっと悪寒が走る。
    「あなたの場合はいかがなのですか? アルスターにはもったいないその美しさ、引く手はあまたありましょうが」
     やわやわと手を握られ、今度こそ鳥肌が立った。
     このじじい、ぶち殺してやろうか!
    「お父様!」
     エメルが叫んだ。その声に、フォルガルの手が離れていく。
     湯気をたてるスープの鉢を運んできたエメルが、ずんずんと歩いてきた。フォルガルは娘を睨みつける。
    「なんだ、エメル。大きな声を出しおって」
    「お客様に無礼な真似はおやめください!」
    「無礼だと?」
     フォルガルが立ち上がり、大声で怒鳴った。
    「私は話をしていただけだ。さっさと厨房に戻らんか!」
    「でも……」
    「二度言わせるな。父の言うことが聞けんのか!」
     なおも言い募ろうとしたエメルに向かって、フォルガルは手を振り上げた。
    「!」
     来たる衝撃に目をつぶったエメルは、しかし予想した痛みが来ないことを不思議に思い、おそるおそる目を開けた。
    「ぐう……あ……」
     見れば、ぎりぎりと音がしそうなほどに強く、クー・フーリンがフォルガルの手首を握り締めていた。
    「フォルガル殿、落ち着かれよ」
     ささやくような低い声。しかし、領主の腕を押さえる女の目は、獣のように殺気立っていた。
    「ク、クー・フーリンど、の……」
     クー・フーリンは、エメルを背中にかばうようにして、フォルガルから手を離した。
     解放されたドルイドはよろめき、痛みにうめいた。
    「申し訳ありません、フォルガル殿。しかし、大事な姫様を叩くような真似はいけない」
    「く……」
    「せっかく招いていただいたのに領主様に対する無礼な真似、お詫びします。私はこれでお暇しましょう。ですが」
     女の両目が獰猛に燃え上がった。その鋭さに、フォルガルの身がすくむ。
    「今後、エメル姫にたとえかすり傷ひとつでもつけるような場合には、また、そういった噂ひとつ私の耳に入るようであれば、このアルスターの番犬が黙っていない、ということは申し上げておきましょう」
    「……!」
     クー・フーリンはエメルに向き直った。すまなそうに笑い、背を向けて歩き出す。
    「待って、待ってください!」
     必死な呼び声に、クー・フーリンは足を止めた。振り返れば、エメルが息を切らせて立っている。
    「クー・フーリン様、本当に、本当に申し訳ありません。せっかく来ていただいたのに、こんな、こんな──」
     その目に光るものがあったが、エメルは気丈にこらえた。
    「私、恥ずかしいわ。あなたにお礼をしたかったのに」
    「その気持ちだけで十分ですよ、私は」
     クー・フーリンは彼女に向き直った。
    「私こそ、申し訳ありません。あなたの父上にとんだ真似をしてしまった」
    「いいえ、いいえ!」
     エメルがかぶりを振った。
    「先に無礼を働いたのは父のほうですわ。本当にごめんなさい」
    「あなたは悪くない。そんなに謝らないでください」 
    「いいえ。私には謝ることしかできないわ。嫌われても仕方ないことをしたんですから」
     クー・フーリンはびっくりして叫んだ。
    「嫌う? そんなことないですよ! 私はあなたを──」
     そこで、クー・フーリンは言葉を切った。一瞬、適切な言葉が見つからなかったからだ。
     唇をなめ、彼女は続けた。
    「あなたを、友人だと思っていますので」
     エメルが弾かれたように顔を上げた。その目は驚きに見開かれている。
    「友人、ですか?」
    「え、ええ」
     なにかまずいことを言ったかと、クー・フーリンは内心で焦った。
     自分には男の友人は多いが、女の友人はほとんどいない。付き合い方がよくわからないのだ。
     不意に、エメルは花のつぼみがほころぶように笑った。
    「嬉しい……」
     クー・フーリンは驚いた。エメルが本当に幸せそうに笑ったからだ。
     こんなに心から幸せそうな笑顔は、今まで見たことがなかった。
     クー・フーリンはつばを飲み込み、つっかえながら言う。
    「もし、お父上があなたを傷つけるようなことがあれば、必ず私が飛んできます」
    「本当に?」
    「もちろん! 猛犬の名に誓って!」
    「……ありがとうございます、クー・フーリン様」
     なんだか照れくさくなって、クー・フーリンは頰をかいた。
    「様付けはやめてください。その、友人なんですから」
     エメルは目を丸くした。
    「それでは、なんとお呼びすれば?」
    「ただのクー・フーリンでいいです。クーとか。猛犬って呼ぶ人もいるけど」
    「まあ」
     エメルはくすくすと笑った。
    「それでは、私のこともただのエメルとお呼びください。……クー」
    「わかりました。……エメル」
     二人は微笑みあった。どこか気恥ずかしくてふわふわとして、心が温かいもので満たされた気がした。


     それからというもの、クー・フーリンはたびたびフォルガルの館に出かけるようになった。
     もちろん、目的はあの胸糞悪い父親ではなく、その娘に会うためだ。
    「今日も行くのか?」
     訓練を終えたあと、いそいそと飛び出そうとするクー・フーリンにフェルグスは声をかけた。
    「おう! じゃああとはよろしくな、叔父貴!」
    「ああ……」
     馬の背に乗って走り去っていく姪を見送りながら、ふむ、とフェルグスは考えた。
     仲の良い同性の友人ができたのはいいことだ。
     エメル姫はしとやかで優しく、上品であると評判だし、ずっと男たちに混じって槍を振り回していた姪にとって、礼節を学ぶいい機会であるかもしれない。
     それは、コンホヴォル王も同意見だった。
    「姫との交流を機に、針仕事のひとつでも覚えてくれればよいのだがな」
     酒を片手に王は笑っていたが、武器やら釣り道具やらを抱えていった彼女のことを思うと、それはどうかな、と思わずにはいられなかった。

    「それでは、出かけてくる。留守を頼むぞ」
    「いってらっしゃいませ、お父様」
     門の外に立って、エメルはフォルガルを見送った。ドルイドの集会に出かけるのだ。
     父親の姿が見えなくなると、エメルはほっと息をついた。踵を返せば、エメルの後ろで門が閉まる錆びついた音がした。
     エメルは大広間へは戻らず、女たちの住まいへ足を向けた。
     たくさんの侍女たちが洗濯物を抱えて行き交う。エメルは彼女たちに挨拶しながら、物置小屋へ向かう。
     あたりを見回し、父親に仕える騎士たちがいないことを確認してから、エメルはその扉を叩いた。
     すぐに扉が開き、頭からガウンをすっぽりかぶった人間が出てくる。
     ガウンの下から、いたずらっぽく光る瞳が覗く。エメルは笑顔を浮かべ、二人は軽い抱擁を交わす。

     侍女たちの手引きでこっそり館に隠れていたクー・フーリンは、エメルを連れ、同じようにこっそりと館を抜け出した。
    「気をつけるんですよ、姫様。日暮れまでにはお帰りなさいまし」
    「ありがとう。行ってくるわ」
     エメルを慕う侍女たちは多く、横暴な父親の仕打ちに心を痛めていたから、クー・フーリンの存在は彼女たちにとっても僥倖だった。
    「クランの猛犬様、どうぞ姫様をよろしく」
    「ああ」
     防壁の外に出た二人は、そのまま裏手の森に入った。
     クー・フーリンが鋭く口笛を吹けば、どこからともなく車輪の音がして、ロイグが御する戦車が現れた。さすがに戦車は目立つので、森の中に待機させていたのだ。
     ロイグはまず灰馬のマハをくびきから離すと、なだめながら、手早く鞍の準備をした。
    「乗馬の経験は?」
    「あるけれど、こんな立派な馬に乗るのは初めてだわ」
     二人にうながされて、エメルはマハにまたがった。手綱を抑えながら、ロイグが笑う。
    「こいつは優しい性格でね。絶対に乗り手を振り落としたりしません。姫様にはこいつのがいいでしょう」
     クー・フーリンは自分でセングレンに鞍をつけると、ひらりとまたがった。
     ブルル、と馬が鳴き、かつかつと足を踏み鳴らす。ロイグは飛んでいくと、黒馬の額をなでてやった。
    「おー、よしよし。主人をよろしく頼んだぞ」
     ロイグが声をかければ、セングレンはたちまちおとなしくなった。
    「ほんと、馬に好かれるよな、おまえは」
    「才能でねぇ」
     クー・フーリンの言葉にロイグは胸を張ってみせる。その様子を見て、エメルはくすくすと笑った。
    「じゃあ、いってらっしゃい! 楽しんできてくださいよ」
    「ああ、ありがとな!」
    「ありがとう、ロイグ」
     走り出す二頭の馬を見送り、ロイグは満足そうに腕を組んだ。

     木々の間に二陣の風が駆け抜ける。いや、風ではない。二頭の馬だ。
     空は青く晴れ、差し込む日光は宝石のようにきらめいた。
     葉と葉のさざめきは歌のように心地よく、ひた走る若い二人を穏やかに包む。
     夢じゃないかしら、とエメルは思った。
     いまだかつて、こんな自由を感じたことはなかった。
     父から離れ、馬に乗って、こんなに速く走ることができるなんて!
    「今日はいいところに連れてってやるよ、エメル」
     隣でクー・フーリンが言った。
    「この前来たとき、森の中を走ってたら見つけたんだ」
     しばらく走ったところで、クー・フーリンは馬の足を緩めた。
     それを真似て、エメルもマハの速度を落とす。並足にまで速度を緩め、二人は進んだ。
     ふと、エメルは木立がだんだん開けてきていることに気づいた。
     不意に、隣でクー・フーリンが「あっ!」と声をあげ、馬を駆って飛び出していく。
     エメルも慌てて後を追った。
    「どうだい、エメル!」
     クー・フーリンが嬉しそうに叫び、振り返った。
     目の前に現れた光景に、エメルは息を飲む。
     木々の向こうに現れたのは、一面の花畑だった。
     美しい花々が絨毯のように咲き乱れている。太陽の光が降り注ぎ、まるで別世界のようだった。
    「……!」
     声もなく、エメルはその光景を眺めた。
     時折吹く風に、花たちはさざなみのように揺れる。
     空には鳥たちが歌い、花々の間には、うさぎやリスといった小動物たちが駆けめぐっている。
    「……なんてこと」
     エメルはつぶやいた。自分が住む館からそう離れてはいないのに、今まで、エメルはここに花畑があることを知らなかったのだ。
     こんな美しい光景が、自分のすぐそばにあることを知らなかったのだ。
    「ここなら、姫さんも喜ぶと思って」
     クー・フーリンが照れくさそうに言った。
    「花なんて、見慣れてるかもしれないけど」
    「いいえ。──いいえ」
     エメルはつぶやいた。
    「こんなに綺麗なもの、私、生まれて初めて見たわ」
     目が熱くなるのを必死にこらえる。人前で泣くなんてしたくなかったからだ。
     それは、気が強い彼女の矜持だった。
    「ありがとう、クー」
     その言葉に、クー・フーリンは心底嬉しそうに笑った。
     
     花畑の中に降りていき、木陰を見つけて座る。マハとセングレンを放してやれば、二頭はぶらぶらと歩いていった。
     エメルは手に持っていた包みを開き、中に入っていたパンとチーズと林檎を二人で分けて食べた。
     小鳥たちが飛んできて、二人の肩や膝にとまる。
     パン屑を与えてやれば、鳥たちはチチチ、と声をあげてそれをついばんだ。
     エメルは、周りの花を積んで編み始めた。
    「器用だねえ」
     その白い手で編み上げられていく花を見て、クー・フーリンが感心したように言う。
    「あなたはやったことないの?」
    「んー、花を編むより、槍を振ってるほうが好きだったから」
    「まあ」
     彼女らしい、とエメルは思った。
     編み上がった花冠を差し出せば、クー・フーリンはぱちぱちと瞬きをしたあと、笑って頭を下げた。その頭に花冠を乗せてやる。
     美しい髪に鮮やかな色彩の花冠は、とてもよく似合っていた。
    「綺麗だわ」
     エメルはうなずいた。「そうか?」と気恥ずかしそうに笑いながら、クー・フーリンはあたりを見回した。
     自分は彼女のように器用なことはできないので、目に留めた一番綺麗な花を摘んで、その髪に差してやる。
    「『美髪のエメル』」
    「なに、それ?」
    「姫さんのこと、みんなそう呼んでる」
    「やめて、恥ずかしいから」
    「いや、ほんとだな、って思ったんだよ。姫さんの髪、本当に綺麗だ」 
    「あら、そう言うならクー、あなただって」
     そう言って、エメルはクー・フーリンの髪に手を伸ばした。さらりと指で梳いていく。
     クー・フーリンの鼓動がどくんと高鳴る。思わずエメルの手を取る。
     ばちりと視線が合い、二人は見つめ合った。
    「あっ……、そ、そうだ。釣り!」
     はっとして、クー・フーリンはエメルの手を離した。エメルは不思議そうな顔をしている。
    「釣り?」
    「そうそう。この場所がいいのって、すぐそばに浅瀬があることなんだよ」
     そう言って、クー・フーリンは立ち上がった。同じように立ち上がるエメルに手を貸し、花畑の中を歩いていく。
     せせらぎの音が聞こえてきたと思えば、二人の前に小川が現れた。水の中を覗き込めば、何やら動く影があった。魚の群れだ。
    「姫さんは、魚釣りはやったことあるか?」
     エメルは首を振った。
    「ないわ。騎士たちがやっているのを遠くで見ていたことならあるけど」
    「それならちょうどよかった」
     クー・フーリンは、自分の荷包みの中から釣竿を取り出した。
    「案外簡単だし楽しいから、姫さんもやってみようぜ」
     そう言って、エメルに差し出す。エメルは困ったような顔をした。
    「でも、どうすればいいのか」
    「最初はオレが教えるからさ」
     クー・フーリンは、釣り針に干肉をつけた。虫でもよかったのだが、さすがにいきなりはまずいだろうと思ったのだ。
    「で、そのまま川に釣り針を入れる」
     エメルがおそるおそる釣り糸を垂らした。ぽちゃん、と音がして、釣り針が沈む。
    「これで、魚がかかるまで待ってりゃいい。それだけ。簡単だろ?」
    「ええ、そうね。でも──」
     その瞬間、くん、と手ごたえがあって釣竿がしなった。
    「きゃっ!?」
    「おっと、いきなり当たりかよ! 姫さん、そのまま引っ張れ!」
     エメルは慌てて釣竿を引くが、思いのほか抵抗が強い。
     ばしゃばしゃと音がして、釣り糸がぐいぐい引っ張られる。
    「クー、これ、どうすれば……!」
    「そのまま、そのまま! 引っ張って……」
     ばしゃ! と一際大きな音がして、あたりが静まりかえった。
    「……?」
     急激に抵抗がなくなり、エメルが釣竿を川から引っ張りあげてみると、肉片が無くなった釣り針がぷらぷらと揺れているだけだった。クー・フーリンがぷっと吹き出す。
    「あはははは、やられたな、姫さん! 餌だけ持ってかれちまった!」
    「……!」
     エメルはむっとした表情を浮かべた。
     隣で笑っているクー・フーリンの腕を、やや乱暴につつく。
    「クー、もっと餌はないの?」
    「お? 姫さん、やる気だねえ」
    「今度はちゃんと釣るわ」
     負けん気を出したエメルを見て、クー・フーリンの頰が緩む。
     干し肉を渡してやれば、エメルはそれを自分で釣り針につけ、再度水中に投入した。
     クー・フーリンは空を見上げた。ぽっかりと雲が浮かんでいる。
     目を閉じて深く呼吸をする。今この瞬間、かつて感じたことがないくらい穏やかな気持ちだった。
    「きゃっ!」
     かわいらしい叫びに、目を開く。再び獲物がかかったらしい釣竿をエメルが必死に握っている。
     おや、とクー・フーリンは眉を上げた。
     竿のしなりが先ほどより強い。これはひょっとしたら大物かもしれない。
     よく見れば、踏ん張っているエメルの足も、じりじりと動いている。
     クー・フーリンはエメルの後ろから一緒に釣竿を掴んだ。
     手ごたえが大きい。これはやっぱり大物だ。
     エメルが川に引きずり込まれないよう、足を踏ん張る。
     ばしゃばしゃと勢いよく水が跳ねる。水の中に目をやれば、激しく暴れる大きな黒い影。
    「うー!」
    「姫さん、頑張れ!」
     二人で必死に釣竿を引っ張る。もうちょっと、もうちょっとだ──。
     その瞬間、ばつん! という大きな音がした。
    「あ」
    「え」 
     一瞬で消える抵抗。だが、踏ん張り続けた勢い余って、二人は後ろにどさっと倒れた。
    「…………」
    「…………」
     地面に仰向けに倒れたまま、二人は呆然としていた。何が起きたのかわからなかった。
     互いの顔を見合わせる。自分と同じように、相手も目を丸くしている。
     二人は一斉に吹き出した。大声をあげ、涙が出るほど二人で笑った。おかしくておかしくてたまらなかった。
     地面に寝そべったまま、二人はひたすら笑い転げた。

     その後は、クー・フーリンも手伝って、二人で何匹かの魚を釣った。
     クー・フーリンは短刀で魚の内臓を取り出し、削った木の枝に刺す。
     エメルが火を起こすと、魚の刺さった枝を地面に突き刺した。
     魚が焼き上がると、クー・フーリンは軽く息を吹きかけて冷まし、そのままかぶりついた。
     それを見ていたエメルも、同じように小さな口で魚を食べた。
     火を囲みながら、二人で自然の恵みにありついた。
    「不思議ね」
    「ん?」
     魚を食べる手を止め、エメルがつぶやいた。
    「私、今まで、自分がこんなふうに誰かと過ごすなんて考えたことがなかったの」
    「子どものときとか、友達と遊んだりしなかったのか?」
    「私にそんな自由はなかった」
     エメルの沈んだ姿を、燃え上がる火が照らした。
    「私は父の所有物なの」
     クー・フーリンは、口の中の魚をごくりと飲み込んだ。
    「父にとって、私は道具でしかないのよ。結婚する前は、家のことはなんでもやる道具で、いざ結婚するとなれば、いかに高く売れるかの道具」
     不自然なほど淡々とつぶやく少女の唇に、自嘲の笑みが浮かんだ。
    「私を誰に嫁がせれば一番高いお金がもらえて、一番強い権力をもらえるか、父はそればかり考えていた。だから私には親しい友達はいなかったし、こうやって外で遊ぶこともなかったの」
     エメルは空を見上げた。いつの間にか、だいぶ日が傾いていた。
    「私にとって人生はそういうものだったし、女なんてみんなそんなものだと思っていた」
     クー・フーリンは、黙ったままその横顔を見つめていた。
     不意に、エメルがこちらを振り向いて微笑んだ。
    「でも、そこであなたを知ったの」
     太陽神ルーの娘。赤枝の騎士団に所属し、男たちと肩を並べて槍を振るう女の子。
    「驚いたわ。同じ女でも、あなたは私と違う。あなたは誰よりも自由で、どこへだって行ける。私はあなたに憧れた。だからあの日、あなたに会えて、『友人だ』って言ってもらえて、私は本当に嬉しかったの」
     ぱちっと音を立てて、薪がはぜた。
    「なあ、エメル。一緒に旅に出ないか?」
    「えっ?」
     唐突な申し出に、エメルは目を丸くした。
    「こんな近くじゃなくて、もっともっと、いろんな場所に。ここよりもっと綺麗な場所、もっとすごい場所、もっと楽しい場所なんてたくさんある!」
     勢いよくクー・フーリンは立ち上がった。
    「オレは強いから、あんたを守ってやれる。馬だって戦車だって、一番いいのを持ってる。二人で旅に出よう、エメル。オレが、あんたにもっといろんなものを見せてやる!」
     クー・フーリンは夢中になって叫んだ。興奮のあまり、鼓動がどくどくと激しい。
     エメルは、そんなクー・フーリンをじっと見つめた。
     クー・フーリンは、彼女の目に焚き火の炎が映り込み、ぱちぱちと燃えているのを見た。
    「素敵な申し出ね。でも」
     エメルが視線をそらす。
    「とても無理な話だわ」
    「どうして!」
     思わず声を荒げる。エメルは寂しそうに微笑むだけだった。クー・フーリンは激しく言いつのった。
    「オレは偉大な戦士だ。あんたの父上も文句はないはずだ」
    「戦士……」
     エメルはぽつりとつぶやいた。くるりと振り返り、妙に明るい声色で言う。
    「あなた、もう戦場に出たの?」
    「そ、それは……」
     クー・フーリンは言葉に詰まった。
     実際、彼女は狩りや模擬試合に出たことがあるだけで、まだ本物の戦に参加したことはなかったからだ。
     口ごもる姿を見て、エメルはまるで姉が妹を諭すように、クー・フーリンの髪を優しくなでた。
    「何の誉れもない子どもは、まだ偉大な戦士とは言えないわ。そうでしょ?」
    「それは……そうだけど……」
     エメルはクー・フーリンの頰を両手で挟んだ。
    「まずは、あなたが何百人も敵を倒し、あなたの名声が歌として歌われるくらいの大手柄を立てないとね」
     クー・フーリンはしょんぼりと眉を下げた。エメルは微笑んだ。しょげた姿は幼い子供のようで、かわいらしかった。
     噂を聞いていたときは、たくましい女傑を想像していたけれど、いざ会ってみた本物の彼女は、こんなにも幼い少女なのだ。
    「あなたの言葉、嬉しかったわ。小さな猛犬さん。その素敵な旅の話は、あなたが本当の偉大な戦士になったとき、また聞かせてちょうだいね」
     クー・フーリンはうなだれた。
     エメルに「もう帰りましょう」と手を引かれ、馬に乗って館へ戻っていくときも、ずっと気持ちは沈んだままだった。


    「クー・フーリンが館の周りをうろついているだと?」
     フォルガルが聞き返した。「はい」と騎士の一人がうなずく。
    「門番が、見張り台の上から、クー・フーリンの戦車らしきものを見たというのです」
    「しかし、それだけでは本人であるとは言えまい」
    「いえ、体躯の立派な黒毛と灰毛の二頭の馬、大きな青銅の飾りがついた戦車といえば、かの者の戦車に間違いありません」
     フォルガルは顎に手を当て、憎々しげなうなり声をあげた。
     例の一件から、彼はクー・フーリンを敵視していた。
     生意気な小娘風情が、この偉大なドルイドである自分に恥をかかせたことが許せなかった。
     だが、娘のエメルはあの小娘を好ましく思っているようだ。
     しかも、いまいましいことに、あの日からエメルがだんだんと言うことを聞かなくなってきているのだ。
     すべてはあの小娘のせいだ。
     なんとしても、やつをこれ以上この館に近づけてはならない!
    「何か、あの狗めを追い払う方法はないか?」
     騎士達は顔を見合わせた。侵略でもされないかぎり、表立って彼女と戦うことはできないからだ。
    「お役に立つかは存じませんが」
     一人の騎士が声をあげる。
    「近頃、クー・フーリンは偉大な戦士になる方法を探し求めている、ということでございますが」
    「はあ? なんだ、それは」
    「噂にございます。なんでも、何百人もの敵を倒し、大手柄を立てるために、最強の戦士になる方法を知りたい、とかなんとか」
    「くだらんことを……」
     フォルガルは心底馬鹿にした顔で椅子にもたれかかる。だがそのとき、ふと思いつくものがあった。
    「最強の戦士か……」
     フォルガルは身を起こし、ニイと笑う。
    「なるほど、これは使えるぞ」

     クー・フーリンは、訓練が終わった後も一人残り、槍を振るっていた。
     フェルグスからは「ほどほどにしろ」と言われたが、やめる気は無かった。
     勢いよく槍を突き出し、払う。顔から汗が飛び散った。荒い息を吐きながら、何度も槍を突き出す。
    「やっ!」
     一声とともに槍を振り下ろせば、的替わりの丸太が粉々に砕けた。
     呼吸を整えながら、額の汗をぐいとぬぐう。
    「精が出ますな、クー・フーリン殿」
     まさか、と思った。
     ばっと振り向けば、フォルガルとそのお付きの者たちが馬に乗り、クー・フーリンを見下ろしていた。
    「フォルガル……殿……」
    「ああ、お邪魔をして申し訳ありません。たまたま通りかかったもので」
     フォルガルは馬から降りた。にやにやと笑いながら、クー・フーリンに近づく。
    「どうしてアルスターに?」
    「こちらで所用がありましてな。先ほど、コンホヴォル王にもご挨拶申し上げてきたところです」
    「そうですか」
     フォルガルのねっとりとした視線に、クー・フーリンは顔をしかめた。
    「で、わざわざオレに……私にも挨拶を?」
    「いえ、こちらでお会いしたのは本当に偶然です。それにしても」
     フォルガルは。クー・フーリンが粉々にした丸太に視線をやった。
    「やはり、あなたの腕は見事なものですな。本物の戦場を知らないとはいえ、この力。これなら、偉大な戦士となるのも容易いことでしょう」
     クー・フーリンはぐっと眉をひそめる。 その苦々しげな表情に、フォルガルは愉悦を覚えた。
    「いえ、私などまだまだです」
    「おや、これはなんとも謙虚な! あなたはすでに最強の力をお持ちなのではありませんか?」
    「そんなことはない。最強を目指して、今はこうやって鍛錬あるのみです」
    「なんと! それでは、あなたはひょっとしてご存知ないのですか? 影の国の女王『スカサハ』の名を?」
    「なに?」
     ──食いついた!
     フォルガルはほくそ笑んだ。
    「スカイ島にあるという、影の国を治める女王です。恐ろしく強い戦士でもあり、彼女の弟子となれば、それこそ最強の戦士となれるという話ですよ」
    「本当に?」
     いまや、この娘が己の話に心を奪われているのは明白だった。
     もうひと押しと、フォルガルが声を張る。
    「本当ですとも! あなたがこの話を知らないというのは、なんとも不思議だ。皆が知っている話だというのに」
     そこでフォルガルは、ふと思いついたかのように声を低めた。
    「ああ、ひょっとしたら、あなたの王や周りの騎士達は、あなたにこれ以上強くなってほしくないのかもしれませんなあ。これだけの逸材だというのに。なんとももったいない話ですよ」
     クー・フーリンの槍を持つ手が震えた。
    「フォ、フォルガル殿」
    「はい?」
    「私は用事がありますので、これで失礼する。道中お気をつけて」
     クー・フーリンは、そのまま脇目も振らず、訓練場から飛び出していった。
     フォルガルは笑みを噛み殺した。
     影の国への旅路自体が危険なうえ、スカサハは弟子に対しても情け容赦ないという。
     最強の戦士だと?
     せいぜい薄っぺらな望みを抱え、そのまま野垂れ死ぬといい。
     
     赤枝の館に戻ると、何やらにぎやかだった。
     クー・フーリンは大勢の騎士たちの中に見知った顔を見つけ、声を張り上げた。
    「コナル!」
    「クー!」
     人混みをかき分けて出てきたのは、今は遠い国境の守り手を務めるコナルだった。二人は歓喜の声をあげ、抱き合った。
    「コナル、いつ帰ってきてたんだよ!」
    「ついさっきさ。久しぶりだな、クー。だいぶ髪が伸びたな。一瞬わからなかったよ」
     二人は肩を組み、ぶらぶらと歩いた。
     クー・フーリンは、コナルががっしりとした体格の立派な大人の男になっていることに気づいた。
    「もうしばらくここにいるのか?」
    「いや、一時的に立ち寄っただけだ。またすぐ戻らなきゃならん」
    「そっか。いや、ちょうどよかった。オレ、しばらく国を離れるから、おまえにも挨拶したいと思ってたんだ」
    「国を離れる? どこかに派遣されるのか?」
    「いや。旅に出るんだ。スカイ島に」
     コナルはぴたりと立ち止まった。
    「どこへ行くって?」
    「だから、スカイ島だよ。影の国へ行くんだ」
     いきなり、むんずと両肩を掴まれる。指が肌に食い込んで痛い。
    「何すんだよ!」と声を上げると、コナルが信じられないという表情を浮かべていた。
    「おまえ、正気で言ってるのか?」
    「正気だよ! なんだよ、そんな怖い顔して」
    「クー、おまえそれ、他の誰かに言ったか?」
    「いや、まだ。おまえが最初──って、いたたたた! おいやめろ! 引っ張んな!」
    「うるさい! おい、ロイグ! ロイグはいるか!」
     コナルの大声に、何事かと御者の青年は走ってきた。
     久々に見る友人と、その友人に掴まれている幼なじみを見て、ぽかんと口を開ける。
    「クー? コナル? どうした?」
    「どうしたもこうしたもない! 俺が帰ってきて開口一番、こいつが何を言い出したかわかるか!?」
     いや、わからないよ。
     そう言いたかったが、激高したコナルは人の話を全く聞かないということを、ロイグはよく知っていた。
    「こいつ、スカイ島に行くと言うんだぞ!」
    「は? スカイ島?」
     ロイグはクー・フーリンを見た。渦中の本人は、ぶすくれた表情で兄貴分の手からぶら下がっている。
    「え、なんで? おいクー、どういうことだよ」
    「……影の国に行って、女王スカサハに弟子入りするんだよ」
    「馬鹿も休み休み言え!」
     コナルが吠えた。
     どうどう、とロイグは友人をなだめる。まったく、暴れ馬のほうが三倍は御しやすい。
    「最強の戦士になるためだよ。それがなんで馬鹿なことになるんだ」
     さすがにカチンときたらしいクー・フーリンは、コナルを睨みつけた。
    「誰からそんな話を聞いたか知らないがな。おまえは影の国がどんなところだか知ってるのか?」
    「いや、知らないけど」
     コナルは頭を抱えた。「いいか」と体をかがめ、クー・フーリンと目線を合わせる。
    「そこは最も死に近い国。七つの城壁に囲まれ、亡霊がさまよい、生者を襲うという話だ。それに、そこに至る道のりだって、決して安全なものじゃない。スカサハに弟子入りする前に死ぬかもしれないんだぞ」
    「いや、それはないね」
     クー・フーリンは、妙にきっぱりと言った。
    「なんでそんなこと言い切れるんだ」
    「カトバドの予言を覚えてるだろ? 『若者は偉大な戦士になる。しかし、その命は短い』」
     コナルとロイグの顔が曇る。クー・フーリンは歯を見せて笑った。
    「俺はまだ偉大な戦士になってないから、何があっても死ぬことはない。そうだろ?」
    「屁理屈だ」
     コナルは苦々しげに吐き捨てた。
     この乳兄弟が自分のことを心配してくれているのはわかっていたが、それでもクー・フーリンは己の決意を変える気はなかった。
    「俺もいっしょに行けるのか?」
     ロイグが言った。クー・フーリンは幼なじみの目をじっと見つめたが、すぐにかぶりを振った。 
    「影の国は海の向こうだ。戦車で行くことはできない。だから、今回はオレ一人でいく」
     うつむくロイグの肩を、クー・フーリンはぽんと叩いた。
    「マハとセングレンの世話、頼んだぜ。あいつらが言うことを聞くの、オレ以外じゃおまえしかいないんだからよ」
    「……わかった」
     クー・フーリンは満足そうにうなずいた。「それで」とロイグは続ける。
    「コンホヴォル王にも伝えるのか?」

     ──ひょっとしたら、あなたの王や周りの騎士達は、あなたにこれ以上強くなってほしくないのかもしれませんなあ。
     
     クー・フーリンの耳の奥で、フォルガルの言葉がよみがえった。思わず体がこわばる。
    「いや、伝えない」
    「なっ!」
     コナルは驚きの声をあげたが、ロイグはもう何も言わなかった。
    「俺が忠誠を誓うのは王じゃなくて、自分の名誉だ。いちいち王の許可なんて求めない。オレは行くと行ったら行く」
     はあー、と大きなため息をつき、ロイグは頭を抱えてその場にうずくまった。
    「また王に怒られる……」
    「いざとなったら、オレがおまえに剣を突きつけて無理やり飛び出していったって言え」
    「言えるか、そんなこと」
     ロイグは、はは、と笑った。そして、思いついたように自分の首飾りを外すと、それをクー・フーリンの手に押し付ける。
    「やる。餞別」
    「……おう、ありがとな」
     クー・フーリンは頰をうっすらと染めて笑う。ロイグはうなずいた。
     コナルはため息をつき、それ以上引き止めるのを諦めた。
     結局、こちらがいくら心配したところで、素直に聞くような友ではないのだ。
    「……死ぬなよ」
    「死ぬかよ」
     からからと気持ちよくクー・フーリンは笑った。そして、幼い頃のように、三人でぎゅっと互いの体を抱きしめ合った。
     国境に戻るというコナルを見送ったあと、「そうだ」とクー・フーリンは顔をあげた。
    「ロイグ」
    「ん?」
    「使いを頼まれてくれねえか」

     〈自分は影の国へ行く。自分が最強の戦士になって戻ってきたら、また旅の話をしよう。〉

     ロイグは、通い慣れた館を振り返った。
     クー・フーリンからの言づてを聞いたエメルは、「そう」とだけ言った。その真っ青な顔を見て、思わず申し出る。
    「姫、何か力になれることがあれば──」
    「いいえ、大丈夫。ありがとう、ロイグ」
     そのまま、エメルは門の中へ駆け戻ってしまった。門番に横柄に追い立てられ、ロイグも退散するしかなかった。
     帰り道、力なく馬に揺られながら、「まったく」とロイグは空を見上げてつぶやいた。
    「無事に帰ってこないと一生恨むぞ、親友」
    運命の邂逅
     影の国を探して旅に出たクー・フーリンは、さまざまな困難にぶち当たった。
     賊に襲われたこともあれば、崖から転落しかけたこともあった。
     広大な沼地に行く手を阻まれ、途方にくれたこともあった。
     それでも、彼女は進み続けた。「強くなりたい」その一心で。
     目の前に黒い海とそびえ立つような島が現れたとき、クー・フーリンはその場にうずくまりそうになった。
     墨を流したような夜空に、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。煌々と冷たく光る月は、不気味なほど白かった。
     眼下では、荒々しい波が岩に当たって砕け、飛び散っていくのが見えた。
     ギャア、ギャアと気味の悪い鳥の声がして、思わず身震いする。
     クー・フーリンはぶんぶんと頭を振り、気合を入れ直した。
     よく見ると、島からこちら側の崖に向かって、細い線が伸びているのが見える。橋だろうか。
     ごつごつした岩肌を、クー・フーリンは一歩一歩確かめながら歩いていった。

     しばらく歩いていると、火らしき明かりが見えた。
     火だと?
     目を凝らして見ると、火の周りに天幕がいくつも張ってあるのも見えた。
     こんなところに人が大勢いるというのだろうか。ひょっとして、スカサハの関係者だろうか?
    「!」
     疲れた頭でぼんやりと考えていたせいで、人の気配に気づくのが遅れた。
     はっとして立ち止まれば、すでに何人もの人間に囲まれていた。
     クー・フーリンは油断した自分を叱咤しながら、素早く周りを見回した。
     全部で八人。自分と同じような年代の若者たちだ。中には、剣や槍を持っている者もいる。
    「何者だ」
     若者の一人が叫んだ。
    「そっちこそ、何者だ」
     クー・フーリンは怒鳴った。それを聞いた若者たちがざわついた。女? 女だ! 女……女……女……。
    「なんだ、女が珍しいのか?」
     クー・フーリンは腰の剣を探りながら、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
    「ここは、おまえのようなお嬢さんが来るところじゃねえぞ」
     揶揄するような声が上がった。馬鹿にするようなしのび笑いが広がっていく。
     クー・フーリンはさっと剣を抜いた。抜き身の剣は月光を受けてきらりと光る。若者たちに緊張が走るのがわかった。
    「誰がお嬢さんだ……」
     地を這うような声でうなる。空気に殺気が満ちた。
     若者たちも、次々に自分の武器を構える。
     射抜くような目でそれらを見据え、クー・フーリンも身構える。そのときだ。
    「待て!」
     凛とした声が響いた。若者たちは、弾かれたように武器を下ろす。
     クー・フーリンは、声がした方を振り仰いだ。
     月を背負い、一人の男が岩に座っていた。銀に光る髪が風にたなびいている。
     クー・フーリンは、黙って男を睨みつけた。
     男は、自分よりいくらか年上に見えた。整った顔に面白そうな表情を浮かべ、こちらを見下ろしている。
    「大変な失礼を、見知らぬ方。あなたのような若い女性は珍しいものだから」
     男は言った。クー・フーリンはハッと笑った。
    「この土地では、若い女性に向かってすぐ剣を構えるのがマナーなのかい?」
    「この土地で若い女性といったら、亡霊であることのほうが多いんだ。なにせ、ここは死の淵と近いから」
     男は岩から立ち上がり、こちらへ向かって歩いてきた。
    「みんな敏感になっているんだ。試すような真似をして申し訳なかった」
     クー・フーリンを囲んでいた若者たちは、次々と頭を下げた。クー・フーリンも剣を鞘に収めたが、警戒は怠らない。
    「あなたもスカサハの弟子入り志願者か?」
    「ああ。オレはアルスター国のクー・フーリン。スカサハに武術を教わるためにやってきた」
    「そうか。それなら、俺たちは同じ目的を持つ仲間というわけだ」
     銀髪の男はにこやかに笑い、手を差し出した。
    「俺はフェルディア。コノート国のフェルディア・マック・ダマンだ。よろしく」
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