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    Haruto9000

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    Haruto9000

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    「クー・フーリンが女性だったら」妄想。
    ※FGO第1部のみの情報で書いていたので、設定ズレなどはご容赦ください。

    【あらすじ】
    クー・フーリンは、偉大な女戦士スカサハに弟子入りすることに決める。
    辿り着いた影の国で、彼女はフェルディアという名の男に出会う。

    #女体化
    feminization
    #クー・フーリン
    kooHooLin

    ミラーリング #8(影の国編:前編)影の国灰狼の襲撃敵国の女戦士影の国
     フェルディアと名乗った男は笑みを浮かべたまま、「来いよ」とあごをしゃくった。そしてそのまま、さっさと歩き出してしまう。
     クー・フーリンは迷った。周りでは、彼女を囲んでいた若者たちも武器を引き上げ、男の後について歩き始める。
     何人かが、素直についてこない彼女をとがめるような目で見た。どうやら、あのフェルディアという男は、こいつらのリーダー格らしい。
     クー・フーリンは覚悟を決め、黙って男を追いかけた。
     ついてくるのが当然とでもいうように、男は振り返らない。
     岩肌を下っていくと、先ほどクー・フーリンが見下ろした天幕の集落に出た。
    「フェルディア!」
     火を囲んでいた若者たち──少年と呼んでもいい年齢だ──が駆け寄ってくる。
     フェルディアは弟のようにまとわりつく彼らに笑いかけ、「おまえら、新入りだぞ」とクー・フーリンを指し示した。
     少年達は、目をまん丸くして彼女を見つめる。居心地が悪い。
    「……聞いてもいいか」
    「どうぞ」
    「おまえらはスカサハの弟子入り志願者なんだよな?」
    「そうだな」
    「あの砦がスカサハの城なんだろ?」
     クー・フーリンは、目の前の黒い海に浮かぶ島、そして、そこに雄々しくそびえ立つ城砦を指差した。霧に包まれた尖塔が、月明かりに照らされて不気味な影を作り出している。
    「そうだ。あれこそが彼女の住まう城だ」
    「なんであっち側に行かないんだ?」
    「日が昇れば、彼女のほうからこちら側に来てくれる。見込みのある弟子候補者を連れていくためにな」
    「はあ? そんなの待たなくたって、さっさとこっちから訪ねていきゃいいだろうが」
     フェルディアはじっとクー・フーリンを見た。
    「見せてやる」
     そう言って手招きをすると、フェルディアは彼女を崖の際まで連れていった。
     そこには、黒光りする石でできた橋がかかっていた。──ただし、幅は人ひとりがやっと歩けるくらい、細いものだった。
     石橋は、こちらの足元から、目の前の島に向けてまっすぐ伸びている。
     なんだ、これを渡っていけばいいんじゃないか。
    「事はそう単純じゃない」
     クー・フーリンの内心を見透かしたようにフェルディアは言い、足元に転がっていた石を拾い上げた。
    「見てろ」
     そう言って、かぶりを振って勢いよく石を投げる。石は、橋の真ん中近くに落ちた、ように見えた。
    「!」
     その瞬間、凄まじい轟音とともに石橋が跳ね上がった。
     一瞬呆けたクー・フーリンに、冷たい水しぶきが降りかかってくる。
    「わっ、わわっ! つめてっ!」
     クー・フーリンが騒いでいる間、橋はぱっくりと口を開けた鮫のように、海にそそり立っていた。
     やがて、異物をふるい落とした石橋は、ギギギ……と軋んだ音を立てながらその身を伏せ、一本の橋に戻った。
    「わかっただろ。この橋を渡るのは簡単じゃない。真ん中より手前に足を着こうものなら、こうなるのさ」
    「…………」
     クー・フーリンは黙っていた。フェルディアはにこやかに言った。
    「まあ、朝になるのを待ってればいい。天幕のひとつを貸してやるから、そこで──」
    「行く」
    「は?」
     フェルディアは目が点になった。
    「オレ、行く」
     そう言って足の曲げ伸ばしを始める少女に、フェルディアは慌てたように声をかけた。
    「おい、今の見てただろ? この長さの橋だぞ。大の男だってそうそうは──」
    「目の前に目指してた場所があるんだぞ! 朝までなんて待ってられるかよ!」
     クー・フーリンは不敵に笑った。助走の距離を取るべく、後ろに下がり始める。
     何事かと若者たちも集まってきた。
    「おい、馬鹿な真似はよせ、お嬢さん。死にたいのか?」
    「……ひとつ言っておくぜ。コノートのフェルディア」
     体をほぐしていたクー・フーリンは、ぎらぎらと光る目で振り返った。フェルディアは息を飲む。
    「今度、オレを『お嬢さん』と言ったら殺す」
     そう言って、彼女は勢いよく走り始めた。ぐんぐんと海が迫ってくる。
     もう少しで崖の淵だ、そして──。
    「だっ!」
     叫んで思い切り大地を蹴る。クー・フーリンの細い体が空に飛び上がった。星々が急激に近づく。
     ふっ、と上昇が止まった瞬間、同じように急激に体が落ちていく。
     クー・フーリンの体は、橋の真ん中の、わずか手前で足を着いた。
    「!」
     ぐん、と石橋が立ち上がり、彼女の細い体は勢いよく弾き飛ばされた。
     ハーリングの球のように、彼女は元いた場所に叩きつけられる。
     背をしたたかに打ちつけて痛みにうめいていると、フェルディアたちが駆け寄ってきた。
    「おい、大丈夫か! だから言わんこっちゃない……」
     クー・フーリンは立ち上がった。羞恥と憤怒で体が熱くなっていた。
     差し出された手も無視し、再び橋に向かって走っていく。「おい!」と背後で叫ぶ声も気にせず、勢いのまま踏み切る。
     先ほどよりは真ん中に近づいたが、やはり距離が足りない。侵入者に怒り猛った橋は、再び彼女の体を宙に放り出した。
     二度も無様に転がったクー・フーリンを見て、若者たちがどっと笑う。
     クー・フーリンは土に汚れた顔で跳ね起きた。
     ちくしょう! 怒りで震え出しそうだった。こいつら、人を馬鹿にしやがって!
     よろめきながら、なんとか立ち上がる。「まだやるのかよ!」と野次が上がった。クー・フーリンは唇をぐっと噛み締めた。怒りが火柱になって、体ごと燃え上がりそうだった。
    「へえ……」
     フェルディアは、唇をなでながらその様子を眺めていた。
     野次の中、少女は黙って三度目の挑戦をしようと歩き始める。
     フェルディアは目を細めた。
    「おい、勇敢な子犬さん」
     クー・フーリンはきっとフェルディアを振り返った。真っ赤な顔は、負けん気に溢れている。
    「クー・フーリン……『クランの猛犬』か。ずいぶん勇ましい名前だが、あいにく犬は鳥にはなれないようだな」
     フェルディアは、口元を弧に歪めた。
    「それ以上その綺麗な顔が汚れるのを見るのは忍びない。素直に引き下がったらどうだ──『お嬢さん』?」
     かっとクー・フーリンの瞳が見開かれた。フェルディアを射殺さんばかりの目で睨みつける。
     その視線の激しさに、笑っていた幾人かの若者は口をつぐんだ。
     燃えるような気迫が彼女を包む。
     クー・フーリンは、再び助走をすべく歩き出した。気圧された若者たちは思わず道を開ける。
     石橋、そしてその先の城砦を睨みつけたクー・フーリンは、強く地面を蹴って走り始めた。
     走る、走る、走る──そして。
    「ッ!」
     体が宙に飛び出す。耳元で、ヒュウヒュウ言う風の音すら聞こえた。少しでも遠くへ届くよう、空で手足をかく。
     ドッ! と音を立て、クー・フーリンは着地した。
     橋のちょうど真ん中だ。その勢いを殺さぬまま、彼女は橋の上を猛突進した。
     橋は動かない。ついに挑戦者を受け入れたのだ。

     クー・フーリンはついに対岸の地を踏んだ。ぜえ、ぜえ、と自分の呼吸音が耳につく。
     肩で息をしながら見上げれば、重厚な佇まいの城砦が目の前にそそり立っていた。
     近づこうと歩き始めると、それよりも早く城壁の門が重々しい音を立てて開いた。思わず足を止める。
     門から出てきたのは、若い娘だった。
     足音も立てずに近づいてくる。年は自分と同じくらいだろうか。
     綺麗な顔立ちだが、人形のように表情がない。
    「あなたが、スカサハ?」
     クー・フーリンのつぶやきに、娘はかぶりを振った。
    「スカサハは私の母です。私はウアタハ。母上からの伝言を伝えに参りました」
     ごくりとクー・フーリンは唾を飲んだ。
     ウアタハと名乗る女は、感情が抜け落ちたような声で淡々と言った。
    「『橋を飛び越える様は見事だったが、今日は対岸へ戻ること。明日、私がそちら側へ行くのを待つこと。そして、今後あのような無茶はしないこと。幸運に二度はない』とのことです」
    「わかりました」
     うなずくと、ウアタハは小さくあごを引いた。
    「帰りはそのまま歩いてお帰りください。私が抑えていますから、危険なことはありません」
    「あ、はい。感謝します、えーと……ウアタハ」
    「いいえ」
     
     クー・フーリンが戻ってくると、若者たちがわあっと声を上げた。
     野次を飛ばしていた者たちは気まずそうに顔をそらしたが、年若い少年たちは、無邪気に彼女に賞賛の目を向けている。
     若者たちに囲まれてフェルディアは立っていた。腕を組み、じっとこちらを見つめている。
     クー・フーリンはずんずんと突き進み、フェルディアを見上げて腰に手を当てた。
    「言ったはずだよなぁ、フェルディア? 今度オレを『お嬢さん』と言ったら殺すと」
    「…………」
     銀髪の男は何も言わない。
     その妙に落ち着いた顔が気に障り、クー・フーリンは彼の襟首を掴んだ。
    「なんとか言えよ! この──」
     その瞬間、彼女の体が宙に浮いた。
    「!?」
     何が起きたかわからないうちに、クー・フーリンの体は地面に組み伏せられていた。
     フェルディアは彼女の両腕をやすやすと押さえ、表情筋ひとつ動かさず、こちらを見下ろしている。
    「てめえ、離せよ!」
     暴れたが、まったく動けない。
     男の力は恐ろしく強く、そしてその皮膚は驚くほど硬かった。まるで岩にのしかかられているようだ。
     クー・フーリンは信じられない思いだった。
     赤枝の騎士団の中でも、自分は男たちを余裕でのしてきたのに。
    「落ち着け、チビ犬」
     耳元に口を近づけ、フェルディアはささやいた。その低い声に、びくりと震える。
     言葉もなく男の顔を見つめていると、真顔だった男が唐突に吹き出した。
    「あはは、そんな怖い顔するな!」
    「!?」
     フェルディアは身を起こし、そのままクー・フーリンの手をぐいと引いて立ち上がらせた。
     わけがわからないという顔をしている彼女に、にっこりと笑顔を向ける。
    「おまえ、怒れば怒るほど力を発揮するみたいだからな。ちょっと焚きつけてやるくらいの気持ちだったんだが、予想以上だったよ!」
     そう言って、気持ちよさそうに声をあげて笑った。
     クー・フーリンは呆気にとられていたが、じわじわと熱が体を包んでいくのを感じた。
    「お、おまえ……!」
    「おっと、おまえを助けてやった恩人を殺さないでくれよ。それに」
     フェルディアはわざとらしく髪をかきあげ、いたずらっぽく片目を閉じてみせた。
    「俺は、今死ぬにはもったいないくらい、いい男だろ?」
     クー・フーリンは今度こそ絶句した。フェルディアはその顔を見て、さらに吹き出した。
     大笑いする男を見ているうちに、クー・フーリンも思わず笑い声を漏らす。
     一度笑ってしまえば、おかしさが一気にこみ上げてきた。
     二人は顔を見合わせて大声で笑った。周りで固唾を飲んで見守っていた若者たちも、つられて笑い出す。笑いが笑いを呼ぶ。
     夜の海岸に、楽しげな笑い声がいつまでもいつまでも響き渡った。
     
     朝日が昇り、辺り一帯を薔薇色に染め上げたころ、霧に包まれた橋の向こうから人影が現れた。
     クー・フーリンたちは、緊張と興奮に包まれて、その人影が近づいてくるのを見守る。
     霧を払い、露を蹴り、長い髪をなびかせながら、一人の女が姿を現した。
     堂々たる風格。流れるような物腰。
     人ならざる空気さえ感じさせる、氷のように冷たく、荘厳な眼差し。
     ──影の国の女王にして至高の女戦士、スカサハだ。
     
     スカサハは、ゆっくりと若者たちを見渡した。
     順々にその顔を見ていき、フェルディアに目を止める。
    「まとめ役ご苦労だった、フェルディア」
    「はい」
     フェルディアは頭を下げる。意味がわからず、クー・フーリンは銀髪の男を見た。
     なんだ、今の会話は。まるで前からお互いに知っていたようではないか。
    「おい、どういうことだよ」
     クー・フーリンは頭を下げたままのフェルディアを肘でつつく。
     不意に、スカサハが彼女に目を留めた。
    「そこの娘」
    「あっ? はっ、はい!」
    「おまえが昨日、橋を渡ってきた娘だな?」
    「はい! そうです!」
     ぴんと背を伸ばして、クー・フーリンは答えた。
     スカサハは、体の中まで覗き込むような瞳で見つめてきた。クー・フーリンも女王の顔を見つめ返す。
     なるほど、昨日会ったウアタハにそっくりだ。
     もっとも、ウアタハのほうがずっと幼く、儚げではあったが──。
     スカサハはついと目をそらし、声を張り上げた。
    「よく集った。私に弟子入りしたいというその心意気やよし、ありがたく受け取ろう。だが、我が学舎は無限に弟子を受け入れられるほど広くはない。そこで、見込みある者だけをここで選抜する」
     若者たちがどよめく。スカサハの目がフェルディアに移った。
    「我が弟子、フェルディアが相手だ。奴と打ち合い、力を見せてもらおう。私が見込みありと判断したものだけ、弟子入りを許可する」
    「なっ」
     クー・フーリンは目を見開いた。
     フェルディアは、岩のそばに置かれていた槍と盾を拾い上げ、振り返った。
    「スカサハの一番弟子、フェルディア・マック・ダマンがお相手する。武器は問わん。好きな武器を用いるがいい」
    「おい、フェルディア! どういうことだよ!」
     思わず、クー・フーリンは飛び出した。
     この男は何を言っているのだ? スカサハの一番弟子だと?
    「おまえ、弟子入りする仲間だって言ってたじゃねえかよ! あれ嘘だったのか!?」
    「ああ、まあ、そうだな」
     フェルディアはあっさりとうなずいた。クー・フーリンはたじろぐ。
    「スカサハへの弟子入り志願者は何人もやってくる。だが、全員は受け入れられないし、そもそも、弟子入りを望む全員が耐えられるような修行じゃない。だから、すでに弟子になってるやつらが順番で、見込みのありそうなやつを見つくろうんだ。ここにいる何人かは俺と同じ、スカサハの弟子や召使いだが──」
     少年たちや、若者の幾人かが頭を下げ、フェルディアとスカサハ側についた。
    「俺は、いわば入門試験官だ。スカサハが来るまで候補者たちをまとめ、その間に力量を見極める。そして、最後がこの俺との打ち合い──師匠が判断を下すための試合相手というわけだ」
     フェルディアは好戦的な笑みを浮かべ、槍を持ち直した。
    「まさか俺の担当になったとき、おまえみたいな奴が現れるとは幸運だよ、アルスターのクー・フーリン。おまえは間違いなく、この組で一番だ」
     褒められているらしいが、騙し討ちを食らったようで、それがクー・フーリンは気に入らなかった。
     腰の剣を抜こうとして、思い直す。自分の荷物入れを探すと、そこから槍を取り出した。
    「剣じゃなくていいのか?」
     クー・フーリンはフンと鼻を鳴らす。もともと、自分は剣より槍のほうが得意なのだ。
     くるり、くるりと槍を回し、身構える。フェルディアも自分の槍を構えた。
     スカサハが睨み合う二人の間に立つ。
    「はじめ!」
     ヒュウ、と一陣の風が二人の間を吹き抜ける。ぐ、とクー・フーリンが腰を落とす。
     かっと目を見開き、クー・フーリンが勢いよく相手の懐に飛び込んでいった。
     フェルディアはそれを受け流し、穂先をうならせて迎え撃つ。
     槍と槍がぶつかり合う鋭い音が響く。
     二人の打ち合いを、スカサハは鷹のような目で見つめていた。
     フェルディアが地面の砂をすくい、クー・フーリンに向かって投げつける。
     目潰しを食らって思わず怯む。その隙に打ち込まれた槍をぎりぎりで弾き、自分の槍を振り下ろすが避けられる。

     赤枝の騎士団で腕を磨いてきた彼女だったが、だんだんと押され始めた。
     スカサハの一番弟子というフェルディアの槍は、今まで自分が経験してきた槍とは全く違った。
     重く、鋭く、それでいて速い。クー・フーリンは歯を食いしばった。
     向かってきた攻撃を受け止めるが、勢いよく槍を跳ね飛ばされてしまう。
     クー・フーリンははっとした。がら空きになった胸元に、光る凶器が突っ込んでくる。
     まずい、このままでは──。
    「そこまで!」
     スカサハの声に、槍の猛攻が止む。フェルディアはあっさりと槍を引いた。
     クー・フーリンは、荒い息を吐きながらフェルディアを見据えた。
     こちらはこんなにも息があがっているのに、目の前の男は汗ひとつかいていない。これが、修行の差だというのか。
    「娘、名は」
     スカサハの声に、クー・フーリンはなんとか息を落ち着けようとしながら答えた。
    「クー・フーリンです」
    「ほう、“猛犬”か。おまえにはいささか過ぎた名だな。幼名は」
     クー・フーリンはぎり、と奥歯を噛み締めながら、絞り出すようにつぶやいた。
    「……セタンタです」
    「セタンタ、か。よかろう。ではセタンタ、おまえを我が弟子として迎え入れよう」
     その言葉に、クー・フーリンは目を丸くした。
     思わずフェルディアの顔を見ると、目の前の男も満足そうにうなずいている。
    「弟子、に」
    「そうだ。ここにくる者のほとんどは価値のない輩ばかりだが、おまえにはいくらか見所がありそうだ。フェルディアが認めただけの価値が本当にあるのかどうか、これからは己自身の手で示すがよい」
     クー・フーリンはフェルディアの顔を見た。にやにやと白い歯を見せている。相変わらず、いまいましい笑顔だ。
     スカサハに目を戻す。腕を組んだ女王は、顎を引いた。
    「返事は」
     クー・フーリンは大声で叫んだ。
    「はいっ!」
     
     その後も、弟子入り志願者たちとフェルディアの打ち合いは続いた。
     志願者は何十人もいたが、結局スカサハのお眼鏡にかなったのは、クー・フーリンを含めわずか数名だった。
     フェルディアは、最後の一人との試合が終わっても、わずかに息を切らせただけだった。
    「ついてこい。お前たちを城に案内しよう」
     スカサハが言う。クー・フーリンたちは彼女の後に続いて、島へ続く橋を歩いていった。
     彼女と一緒だからか、石橋は暴れることなく、橋としての役割を果たした。
    「おかえりなさいませ、母上」
     向こう岸には、ウアタハが立っていた。
     スカサハは彼女にうなずき、てきぱきと指示を出す。
    「新しい弟子たちを部屋へ案内せよ。その後はいつものとおりだ」
    「はい。それでは皆様、こちらへ」
     ウアタハの後についていきながら、クー・フーリンは目の前にそびえる影の国の城を見上げた。
     昨日の夜に間近で見たときも不気味だと思ったが、こうして日の光の下で見ても、おどろおどろしい砦だった。
     まるで巨大な岩山をくりぬいて作ったような城は、獲物を待ち構え、身を伏せている獣のようにも見えた。
    「そこの方、早く」
     ウアタハに呼びかけられ、クー・フーリンは慌ててその後を追った。
     これから、どんなことが待ち構えているんだろう。
     はち切れんばかりの期待に、彼女はわくわくと胸を躍らせた。
     
     
    「なんでだ」
     クー・フーリンはつぶやいた。
    「おーい、チビ犬。こっちにまだ飯が来てないぞ」
     フェルディアが椀を持ち上げながら呼びかける。
     湯気を立てるシチューの鉢を抱え、クー・フーリンは再度つぶやいた。
    「なんでだ」
     
     クー・フーリンたちは、城の一角にある部屋に案内された。
     男たちは共同部屋だったが、クー・フーリンは女ということもあってか、狭い個室を与えられた。先導するウアタハが扉を開ける。
    「あなたはこちらでお休みください、セタンタ様」
    「あー、その。セタンタって言うのはやめてもらえませんかね」
     クー・フーリンの言葉に、ウアタハは不思議そうに瞬きをした。
    「でも、母上はあなたのことをセタンタと」
    「それ、幼名です。今のオレには『クー・フーリン』って名前があるんです。クーとか、クカックとか、なんでもいいけど、とりあえずセタンタはやめてもらえますか」
     ウアタハはなおも硝子のような瞳でクー・フーリンを見つめていた。
     クー・フーリンは頭をかいた。人形に見つめられているようで落ち着かない。
     やがて、ウアタハはそっと目を伏せた。
    「わかりました。クー様」
    「あー、様もいらないから! クーでいいから!」
    「はい。では、クー」
     ウアタハが言う。
    「食堂にご案内します。皆そちらで食事をなさいますので、あなたもそうしてください」
    「ありがたい!」
     クー・フーリンはぱっと笑顔になった。まともな食事など、ここしばらくありついていなかった。ぐうぐうと腹の音が鳴っている。
     ウアタハは相変わらずの無表情だった。
    「では、こちらへ」
     
     食堂についたクー・フーリンたちを、スカサハが待ち構えていた。
    「おまえたちに最初の仕事を命ずる」
     仕事?
     新入りたちは顔を見合わせた。
    「これからおまえたちは常に兄弟子たちの元につき、あやつらの世話をしろ」
    「はあ!?」
     クー・フーリンはすっとんきょうな声をあげた。スカサハは彼女を見た。
    「なんだ、セタンタ」
    「世話って、なんだよそれ! どういうことだよ! ……ですか」
     じろりとした目線に、言葉が尻すぼみになる。
    「炊事、掃除、洗濯、武器の手入れ、馬の手入れ……まあ、そんなところか」
    「なっ……なっ……」
     思いがけない師の言葉に、口をぱくぱくさせる。
     自分は戦士になるために修行をしに来たのではないのか? なんでそんな小間使いみたいなことをしなければならないのか?
    「新入りは、まずは基本の雑用から。当然だろ?」
     男の声に、勢いよく振り返る。フェルディアが、にやにやしながら立っていた。
     湯浴みでもして着替えたのか、さっぱりとした格好をしている。
    「なっ、でも……」
    「俺だって最初はそういうのを散々やったもんさ。安心しろ、チビ犬。俺が見込んだ候補者だからな、おまえは俺の元で働くことになってる」
    「!!」
     クー・フーリンは雷に打たれたように立ち尽くした。
    「じゃあ、まずは食事の配膳から。俺はあそこのテーブルだから、よろしくな、チビ犬!」
     フェルディアはひらひらと手を振りながら行ってしまう。
     言葉を無くしたままスカサハを見れば、早く行けとでもいうように手で払われる。
     同時に、背後に控えていた女中が、目の前にシチューの入った鉢を突き出してきた。
    「これはあちらの席の分です。よろしくお願いします」
    「兄弟子たちの食事が終わったら、おまえたちも食べていい。今後は、くれぐれも勝手な一人行動は慎め」
     スカサハは、さっさと自分の上席へ向かってしまった。
     ほかほかとおいしそうな匂いを漂わせる料理を手に抱えながら、クー・フーリンはわなわなと体を震わせた。
    「おーい、チビ犬―! 早く来いよー!」
     遠くでフェルディアが大声を上げている。
     クー・フーリンはやけっぱちになって叫んだ。
    「はい、ただいまっ!!」
     
    「おい、フェルディア」
    「んー?」
     同じテーブルを囲む仲間の声に、フェルディアは顔をあげた。
    「おまえ、なんであの女を選んだんだよ」
     ちらりと目をやれば、どすどすと足を踏みならして皿を運んでいる姿があった。
     先ほども、大変不満ですと言いたげな顔で乱雑に料理をよそっていった。テーブルにぼたぼたとこぼれた汁を見て、思わず苦笑したものだ。
    「そうさなあ……」
     フェルディアは、目の前の皿からサクランボを取り上げた。
    「強いて言うなら、あいつの目かな」
    「目?」
    「ああ」
     不思議そうな仲間の声を聞きながら、赤く熟れた実を口に入れる。噛み締めれば、甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。
    「無茶苦茶なものを目の前にして、あいつの目は輝いてた。それがよかった」
    「はあ……」
    「それに」
     フェルディアが顔をあげれば、クー・フーリンと目が合った。
     にこやかに手を振れば、彼女は顔をしかめ、そっぽを向いてしまう。
     フェルディアはヒュウと口笛を吹き、おどけたように笑った。
    「あいつ、美人だろ」
     仲間の男たちは顔を見合わせ、ぶはっと吹き出した。
     
    「はあ……」
     その夜、部屋でひとり窓の外を眺めながら、クー・フーリンはため息をついた。
     記念すべき弟子入り一日目は、ありとあらゆる雑用を言いつけられて終わった。地下牢の床磨きから、高層の窓掃除まで命じられたのだ。
     こんなはずじゃなかったのに。
     バキバキになった腕をさすりながら、クー・フーリンは再度ため息をついた。
     目の裏に、あの美しい少女の顔が浮かぶ。
     笑った顔、驚いた顔、怒った顔まで、すべてが愛らしい。思わず顔がほころぶ。
     彼女に喜んでもらいたくて、柄にもなく、必死でいろいろ考えたっけ。
     彼女への気持ちに名前をつけることは、あえてしなかった。
     なんとなく、してはいけないような気がしたからだ。
     ──私は、父の所有物なの。
     彼女の寂しそうな笑顔を思い出す。
     そうだ。自分は、なんとかして彼女をあそこから連れ出してやりたいと思ったのだ。
     だから、誰よりも強くなって、そんな自分の姿を彼女に見せて、「諦める必要はない」と言ってやりたかったのだ。
    「うし!」
     両頬をばちんと叩いて、クー・フーリンは自分に気合を入れ直した。
     
     
     クー・フーリンら新入りたちは、兄弟子の小間使いとして働きつつ、スカサハからも指導を受けるようになった。
    「まずは体を温めるために鍛錬場を百周だ」
    「百周!?」
    「そのあとは剣の素振りと槍の素振り千回ずつ。なに、この程度、軽い肩慣らしだろう。ほれ、さっさと行かんか!」
     スカサハに追い立てられ、新入りたちは走り出す。
     鍛錬場の真ん中では、兄弟子たちが組手を行なっていた。クー・フーリンは、輪の中にフェルディアの銀髪を見つけた。
     何人もいる弟子たちの中で、彼は確かに一番強いようだった。流れるような動きで、まるで舞でも舞うように、相手を制していく。
    「セタンタ、よそ見をするな!」
     師匠の怒鳴り声にクー・フーリンは首をすくめ、慌てて走ることに集中した。
     
    「うう~、足いてえ……」
     ぼやきながら、クー・フーリンは洗濯物をぼんぼんと籠に放り込んでいった。
     兄弟子たちの汚れた服や布などを洗濯するのだ。スカサハに散々しごかれた後、休憩なしの雑用なので、ぼやきも出ようというものだ。
    「おい、チビ犬」
    「チビって言うな!」
     ガウッとそれこそ子犬のようにうなるのを見て、フェルディアは笑った。
    「じゃあ、セタン──」
     びし、とフェルディアの前に人差し指を突き出し、クー・フーリンは険しい顔をして言った。
    「いいか。オレの今の名前は『クー・フーリン』だ。幼名で呼ぶな」
    「ええー、でも、スカサハは」
    「あの人は別だ。不本意だが。だが他のやつは許さねえ」
    「はいはい、わかったよ。それじゃあ、クー。洗濯場に行くなら、俺の用が済むまでちょっと待ってろ」
    「はっ? なんで」
    「あそこの廊下は怖ーいおばけが出るからなぁ」
     ばあ、とフェルディアが両手を上げてみせる。クー・フーリンは彼に冷たい視線を注いだ。
    「なんだよ、その顔」
    「オレを馬鹿にしてんのか?」
    「いやいや、本当だって。信じろって」
    「おまえの言うことなんか信用できるか」
    「おまえ、俺がスカサハの弟子だって黙ってたこと、まだ怒ってるのか?」
     フェルディアの言葉をクー・フーリンは無視した。ばさばさと洗濯物を集める作業を再開する。
     フェルディアは大げさにため息をつき、「とりあえず」と言った。
    「俺が戻ってくるまで待て。そんなに時間はかからないから」
     そう言って、フェルディアは行ってしまった。
     クー・フーリンはしばらくその背中を睨みつけていたが、彼の姿が見えなくなると、さっさと籠を持って洗濯場に向かった。
     
     洗濯場は、城の中に引き込んだ小川のそばにある。
     複雑に入り組んでいる城の中を、洗濯物の山を抱えてクー・フーリンはのろのろと歩いた。
    「……あれ?」
     そこで彼女は、ひとりの人影に気づいた。
     廊下の向こうに、女が佇んでいる。
     この城で女といえば、自分以外には、城主のスカサハ、娘のウアタハ、他数人の侍女たちくらいだったが、見たことのない女だ。
     クー・フーリンは不思議に思い、彼女に近づいた。長い髪を垂らした女はうつむいていて、その顔は見えない。
    「なあ」
     思い切って話しかける。女はぴくりとその肩を動かした。
    「どうしたんだ? あんた、道でも迷って──」
     不意に女が顔を上げた。その顔を見て、クー・フーリンは目を剥いた。
     女の顔は半分溶け、頬骨が見えている。
     どろりと腐った眼球が垂れ下がり、むき出しの歯が笑い声を立てるようにカチカチと鳴った。
    「うわあああああああああ!!」
     クー・フーリンは絶叫した。
     女はゆらりと体を揺らし、クー・フーリンに突進してきた。そこで気づく。
     この女、足がない。
     洗濯物が入った籠を投げつける。それをものともせず、女は手を伸ばしてぐんぐん迫ってきた。
     クー・フーリンは再度悲鳴をあげた。
    「伏せろ!」
     ぐいと腕をひっぱられ、クー・フーリンは何かに抱き込まれる。
     次の瞬間、炎の塊が女を包み込んだ。
     炎に包まれた女はつんざくような金切り声をあげた。ビリビリと鼓膜が震え、クー・フーリンは思わず耳をふさぐ。
     間髪入れず、再び火柱が女を襲った。女は恐ろしげな断末魔をあげながら、熔けるように消えていった。
    「…………」
     どくどくと激しく鼓動が音を立てている。
     おそるおそる目を開くと、女の姿は跡形もなかった。
     なんだ、今のは? なんだったんだ?
    「おい、大丈夫か」
     慌てて顔をあげると、それはフェルディアだった。
     彼の固く太い腕が、クー・フーリンの腰を抱いている。かっと頰が熱くなる。
    「おい、離せよ!」
    「ん? ああ、悪い」
     悪びれもせず、彼はあっさり腕をといた。急いで彼から離れる。まだ動悸が激しい。
    「な、なんだったんだ? 今のは」
    「初めて会ったとき言っただろ。『若い女性といったら、亡霊であることのほうが多い』ってな」
    「……まさか、今のが?」
    「なんだ、信じてなかったのか?」
     呆れたように、フェルディアが腕を組んだ。
    「影の国は幽世に近い。つまり、あの世とこの世の境界が曖昧なんだよ。だから、ああいうのがよく現れる」
     クー・フーリンは、青ざめた顔で、女がいた場所を振り返った。
    「うかうかしてれば、あいつらに命を持っていかれるぞ。スカサハが、最初は兄弟子と新入りを組ませる理由のひとつがこれだ」
     フェルディアが呆れたように腕を組んだ。
    「まったく。待ってろって言ったのに、一人でさっさと行きやがって」
     クー・フーリンは、ばつが悪そうな顔でうつむいた。
     ぼそぼそと「助けてくれてありがとう」とつぶやく。フェルディアは微笑んだ。
    「あ、そ、そういえば、さっきの炎は?」
    「これか? 魔術だよ」
     フェルディアは右手を広げ、そこに小さな火を出してみせた。
    「うわあ」と声を漏らし、クー・フーリンの目がきらきらと輝く。
    「おまえも、いずれ師匠に習うだろうさ」
     さっと手を振って火を消し、「さて」とフェルディアは言った。
    「洗濯だろ。さっさと済ませないと飯抜きになるぞ」
    「うわっ、や、やべえっ!」
     クー・フーリンは廊下に散らばった服をわたわたと拾い始めた。その姿に、フェルディアは笑みをこぼさずにはいられなかった。
     
     
     クー・フーリンが影の国に来て、数ヶ月が経った。
     彼女とともにスカサハに弟子入りした者たちは、一人、また一人といなくなっていった。
     理由はさまざまだ。厳しすぎる修行に耐えきれず逃げ出した者。修行の途中で死んだ者。
     いまや、あの日の入門で残っているのは、クー・フーリン一人だけだった。
     修行を終え、汗をぬぐって荷物をまとめると、クー・フーリンは厩舎に向かった。馬の手入れの当番なのだ。
     今では体も慣れ、スカサハの修行のあとでも仕事をこなせるようになっていた。

     手入れ道具を抱え、ぶらぶらと厩舎に入っていく。
     遠い故郷にいる幼なじみのことを思い出し、クー・フーリンはひっそり笑った。
     あいつとオレ、今じゃどっちのほうが馬の手入れがうまいかな。
    「あれ?」
     クー・フーリンは声をあげた。ウアタハがいたからだ。
     ウアタハは、馬房から顔を突き出した馬の鼻面をなでているところだった。
    「おい」
     声をかけると、ウアタハがびっくりした顔で振り向いた。
     初対面のときに比べたら、ずいぶん表情がわかるようになった。
    「珍しいな、おまえがここにいるなんて」
     手入れ道具を床に下ろし、馬房の扉を開けながらクー・フーリンは言った。
     ウアタハは気まずそうな顔をしていたが、小さな声でつぶやく。
    「ときどき、ここに来るの」
    「ふうん。馬が好きなのか? おまえが乗ってるのは見たことないけど」
    「今は乗らないけど。でも、馬は好き。だからここに来ると落ち着くの」
    「へえ」
     顔を近づけてくる馬の首をなでてやり、柱につなぐと、クー・フーリンは蹄につまった土を掻き出し始めた。蹄の手入れをきちんとやらないと、脚が悪くなってしまうのだ。
     いつの間にかそばに来ていたウアタハは、クー・フーリンが手入れする様子をじっと眺めていた。
    「ずっと聞きたいと思ってんだけどよ」
     クー・フーリンは言った。「なに?」とウアタハが答える。かぼそい声だった。
    「おまえはスカサハみたいに戦わないのか? おまえが槍とか持ってるの、見たことないからさ」
    「…………」
     返事がない。クー・フーリンは立ち上がり、振り返った。
     ウアタハは暗い表情でうつむいている。悲壮感すらただようそれに、クー・フーリンは慌てた。
    「あ、えっと、悪い。気を悪くさせるつもりはなかったんだけどさ、その、ちょっと気になったっていうか」
    「私は戦士には向いてなかったの」
     ウアタハはうつむいたまま言った。
    「私も母上みたいに強い戦士になるんじゃないかって、周りから期待されてた。母上みたいになれたらって、自分でも思ったわ。でも、駄目だった」
    「え……」
     クー・フーリンは思わず振り返った。ウアタハは目を伏せる。
    「私には才能がなかったの。槍も剣もうまく使えない。戦車だって、母上みたいに動かせない。もちろん、ただ走らせることはできるけど、それは人並みにできるってだけ。母上みたいに飛び抜けたものがなかったのよ」
     影の国の王女は、ぼそぼそと続けた。
    「だから、母上の足を引っ張らないように、私は戦士になるのをやめたの」
    「…………」
     クー・フーリンはウアタハを見つめた。スカサハに容姿こそ似ているが、性格はまるで正反対の一人娘。
    「あー……」
     頭をがりがりと掻き、クー・フーリンはうなった。
     こういうとき、フェルグスやコナルなら気の利いた言葉でもかけられるのだろうが、自分には思いつかなかった。
    「おまえは、それでいいのか?」
     ウアタハは静かにうなずいた。
    「そりゃあ、母上のように戦場を駆け回ってみたかったわ。城の中でみんなのお世話をするだけじゃなくて、自分も戦ってみたかった。でも、どうしようもないことだってあるでしょう。だから、いいの」
    「そう、か……」
     クー・フーリンは口ごもった。いろいろな感情が複雑に入り乱れたが、うまく言葉にはならなかった。
    「その、おまえには本当に世話になってる。オレは大雑把だから、おまえがよく気がついてくれて助かってるし、ありがたいと思ってる。戦士になるだけが全てじゃねえよ、うん」
     ウアタハは顔をあげ、少しだけ口元を笑みの形にした。
    「ありがとう、クー」
    「おう」
     笑顔で応えるクー・フーリンを見ながら、ウアタハは内心でつぶやいた。
     あなたが母上の娘だったらよかったのに。きっと母上もそう思ってる。
     胸の内に巡る思いは声には出さず、王女はそっと目を伏せた。
     
     
     目の前で槍を振るうクー・フーリンを見ながら、スカサハは考えていた。
     この娘に神の血が混じっていることは気づいていた。そのおかげもあってか、武芸の才能が突出している。
     まだ荒削りだが、磨けば新品の穂先のように光ることは間違いなかった。加えて、この精神力の強さと、負けん気の激しさ。
     思わず口元に笑みが浮かぶのを感じた。
     教える立場にいる者は、才ある芽を見つけたとき、心から喜びを覚えるものだ。
     スカサハもその例に漏れなかった。それに、と女王は思う。
     ひょっとしたら、この娘かもしれない。
     この娘は、他のどの弟子とも違う。我が子らとも違う。
     ひょっとしたら、この娘が、私の望むものを与えてくれるかもしれない。
     この娘が、私を──。
    「師匠ー!」
     スカサハに気づいた彼女が、ぶんぶんと手を振ってきた。
     無邪気で人なつっこい笑顔に、スカサハは心の奥で何かがじわりと滲むのを感じた。
     太陽のような弟子は、実の娘であるウアタハにも影響を与えていた。
     この城では、年齢の近い数少ない女同士ということもあってか、クー・フーリンはよくウアタハに話しかけていた。
     異国の話をしたり、冗談を言ったり。そのうち、無愛想だった自分の娘の頰に、温かな血の色が差すようになってきたことに、スカサハは気づいていた。
    「師匠! 師匠! 今のオレの槍、どうでした!?」
     槍をぎゅっと握りしめ、少女は屈託なく笑う。
     ──愛しい。
     自分の胸をよぎった感情に、スカサハは少なからず動揺した。
     ヒトならざるモノになった自分にも、まだそんな感情が残っていたとは。
     だが、そんな内心を表情に出すことなく、スカサハは言った。
    「まだまだだな、セタンタ。右からの反応が遅い。自分の利き手側からの攻撃にも迅速に対応できねば」
     クー・フーリンは、ちえ、と唇を尖らせた。じとっとした目で己の師を見上げる。
    「師匠、いつになったらセタンタ呼びをやめてくれるんですか。オレにはちゃんと名前があるのに」
    「おまえが未熟なうちはセタンタで十分だ。だが、そうだな、強くなったら……私を殺せるくらい強くなったら、猛犬の名で呼んでやってもよい」
     クー・フーリンはぽかんとした顔をした。それが、徐々に困惑した表情に変わっていく。
    「え、そんな、殺すって……」
     ああ、この子犬はまだまだ青いな。
     手を伸ばし、目の前の小さな頭をくしゃっとなでてやる。少女は、ぱちぱちと目をしばたたかせた。
    「まあ、遠い未来の話さな」
     スカサハはふっと笑みを浮かべた。
     クー・フーリンはからかわれたと思ったのか、「師匠!」と不満げに頬を膨らませる。
     スカサハは笑った。愚かで素直で、純真な娘だ。この影の国には似合わない。
     
     いつか──いつか本当に、彼女に殺してもらえたら。
     
    「おまえの見込みは正しかったようだな」
     深まる夜に沈む部屋の中。
     時折、雷光がぱっとひらめき、薄暗い室内を照らしていく。
     椅子に落ち着き、盃をゆっくりと手の中で回しながら、スカサハがつぶやいた。
     窓の外を眺めていた銀髪の男は、「はい?」と振り返った。
    「あの子犬よ。神の血が混じっていることを差し引いても、あれは筋がいい。気に入った」
     褒め言葉など滅多に口にしない師の言葉に、一番弟子はわずかに目を見開いた。
    「おまえもぼやぼやしていられんな。下手をすると、『あの槍』も誰のものになるかわからんぞ」
     女王の美しい唇がゆっくりと弧を描き、ワインをすする。
    「……はい」
     男はつぶやく。
     窓の外では、雷鳴が鳴り響く。
     
     
     クー・フーリンの成長ぶりは周囲を驚かせた。
     もともと得意な槍にいたっては、今では兄弟子たちさえも圧倒するほどだった。
     フェルディアですら、三回に一回はクー・フーリンに負けを取るようになってきた。
     ──スカサハは、クー・フーリンに入れ込んでいる。
     ──最も優秀な弟子は、クー・フーリンなのではないか?
     城内では、そんなささやきさえ交わされるようになった。
    「なあ、フェルディア」
     ある日の稽古の後、井戸のそばで汗を拭っているフェルディアに、同期の弟子たちが話しかけてきた。
    「あの女、最近ちょっと調子に乗ってると思わないか?」
    「あとから来た新参なのに、おまえに対してもでかい顔しやがって」
    「女のくせに、生意気だよな。おまえも面白くないだろ?」
     フェルディアは、仲間たちに冷たい視線を向けた。
    「男か女かは関係ない。ここでは実力が全てだろ。あいつは実力がある。それだけだ」
     仲間の一人は、大げさなしかめっ面をした。
    「相変わらず高潔な精神だね、おまえは。みんな言ってるんだぜ? 『いまや、スカサハの一番弟子は、フェルディアではなくクー・フーリンなんじゃないか?』ってな」
    「…………」
     表情を変えないフェルディアに、仲間たちは面白くなさそうに舌打ちをした。
    「うかうかしてると、本当に一番弟子の座をあの女に持ってかれちまうぜ」
    「こっちは心配してやってるんだよ。俺たちの星、コノートのフェルディアが、アルスター女の足元にも及ばないなんて噂になったら、汚辱もいいところだって」
    「……お気遣い感謝する。だがな」
     フェルディアは大きく息を吸うと、爛々と光る眼で兄弟弟子たちを見据えた。
    「人の心配より、まずは自分たちの心配をしたほうがいいな。おまえたちの槍が錆きって、乙女の柔肌ひとつ傷つけられない、なんてことがないようにな」
     兄弟弟子たちは顔を見合わせ、悪態をつきながら行ってしまった。
     男たちの姿が見えなくなると、フェルディアは皮膚が破れるほど強く、井戸にこぶしを叩きつけた。
     
     
    「うっし、終わった!」
     研ぎ石を片手に、クー・フーリンは歓声をあげた。
     武器庫に貯蔵された剣や槍を研ぐのも彼女の仕事だった。研ぎ終わった剣を鞘に戻し、大きく伸びをする。
     固まった肩をほぐしながら、前庭に出た。昨日までは雨が続いていたが、今日は久しぶりの晴天だ。
     陽光の眩しさに目を細めながら、クー・フーリンは、庭で一番高い樫の木に登った。がっしりとした老木は、遠い故郷の森を思い出させて、彼女のお気に入りだった。
     太い枝に座り、厨房からこっそりくすねてきた糖蜜菓子を取り出す。
     風が爽やかに頬をなでていく。ひときわ高いこの木からは、城下町が見渡せる。
     甘い菓子をほおばりながら、クー・フーリンは束の間の休息を楽しんだ。
     
    「……ん?」
     遠くで何かが光ったような気がして、彼女は瞬きをした。
     不審に思い、伸び上がって目を細める。海岸近くで、何かがうごめいている。何だろう?
     あれは、まさか──。
     クー・フーリンは滑り落ちるようにして木から降り、大急ぎで城の中に飛び込んだ。
    「フェルディア! フェルディア!」
     叫びながら廊下を走る。ちょうど向こう側から歩いてきた兄弟子は、驚いた顔で妹分を迎えた。
    「どうした? チビ犬」
    「チビって言うな! あ、いや、そうじゃなくて、それどころじゃねえんだよ!」
    「落ち着け。いったい何があった?」
    「何かがこっちに来る。軍団みたいだった」
     フェルディアの目がすうっと細まった。そのままものも言わず、見張りの塔へ向かって走り始める。その後をクー・フーリンも追った。
     階段を飛ぶように駆け上がると、フェルディアは窓から首を突き出すようにして遠くを見渡した。クー・フーリンは兄弟子の腕をぐいぐい引っ張った。
    「違う! あっち!」
    「……!」
     フェルディアの端正な顔が鋭く引き締まった。
    「『灰狼のガルヴグラス』……!」
     さっと手を伸ばし、フェルディアは吊り下がった青銅の鐘を打ち鳴らした。
     ゴゥウン……ゴゥウン……と鈍い音が響き渡る。すぐに、城のあちこちから、答えるように同じ鐘の音が鳴り響いた。
     にわかに城中の空気が物々しくなったのを、クー・フーリンは感じた。
    「なあ、フェルディア。まさか……」
     厳しい顔でフェルディアが振り返る。いつも穏やかな兄弟子の険しい表情に、クー・フーリンは身の内が震えるのを感じた。
    「ああ、間違いない」
     フェルディアがうなずく。
    「──侵略だ」

    灰狼の襲撃
     国中が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
     城の中も、駆けずり回る戦士たちの怒号、馬のいななき、混乱する奴隷や泣き叫ぶ少年たちの声などが入り乱れ、嵐のような有様だった。
    「クー、おまえはウアタハや子どもたちと城の中にいろ」
    「はあ!? なんでだよ!」
     兄弟子の言葉に、クー・フーリンは叫んだ。
     こんな非常時に、城の中に籠っているだと? 冗談じゃない!
    「嫌だ! オレも一緒に行く!」
    「スカサハは年月浅い弟子を戦場に連れていくことを許さない」
     フェルディアは厳しく言った。クー・フーリンは負けじと食いつく。
    「でも、でも──」
     なおも言い募ろうとする彼女に、フェルディアは少しだけ表情をやわらげてみせる。
    「万が一、いや、億が一にも阻止するが、それでも敵が城の中に攻めてきたとき、皆を守る者が必要だろ?」
     クー・フーリンは途方にくれた顔をした。
     肩をぽんと軽く叩き、「頼んだぞ」と一言告げると、フェルディアは人混みの中に消えていった。
     クー・フーリンはその場に立ち尽くしていたが、「みんな、早く!」という声に振り向いた。
     ウアタハが子どもたちを集めているのが見えた。街中の子どもを城の奥へ避難させるのだ。
     感情の乏しい王女の顔が、今は少しだけ焦っているように見える。そんな彼女や子どもたちのそばを、盾や槍を持った男たちがどやどやと行き交う。
     クー・フーリンは踵を返した。そのまま、ウアタハたちとは逆の方向へ走っていく。
     
     いまや城壁のそばは、凄惨たる有様になっていた。
     馬という馬、戦車という戦車がぶつかり合う。血しぶきが天を汚し、憤怒と呪詛の声が大地を焼いた。
    「ハアッ!」
     もはや何人目かわからない敵を切り殺し、フェルディアはあたりを見回した。遠くでは、スカサハが大音声で命令を下しているのが聞こえる。
     背後から斬りかかってきた敵兵の首をすばやく落とし、あちこちに目を走らせる。
     ──いた!
     ゲルマーン・ガルヴクラス。此度の襲撃における首魁だ。
     フェルディアは血に濡れた剣を構え直した。強く地面を蹴り、その首めがけて刃を振り上げる。
    「その首、貰い受ける!」
     振り向いたガルヴクラスの鋭い目が、若き戦士を射抜いた。
     ガキィン、と剣戟の音が鳴り響いた。
     一撃を弾かれたフェルディアはすぐに体制を立て直し、再度飛びかかる。
    だが、相手も伊達に荒くれ者どもを率いてはいない。
    「貴様が、スカサハの一番弟子か」
     ガルヴグラスがしゃがれた声で笑った。剣と剣が激しくぶつかり合う。
     ギリギリと力ずくのつば迫り合い。フェルディアは歯を食いしばった。
     その瞬間だ。
    「!」
     空から一斉に降りかかってきた槍の雨がフェルディアを襲った。
     飛びすさって避けた瞬間、四方から敵兵が飛びかかってきた。
    「邪魔をするな!」
     盾で払いのけ、次々と切り伏せる。だが、敵は次々とフェルディアに向かってくる。
     これではキリがない。ふっとフェルディアの背後に影が落ちた。
     振り向く間もなく、重い一撃がフェルディアの右手に打ち下ろされた。
    「──!」
     その衝撃で、フェルディアの手から剣が落ちる。
     はっとして手を伸ばすが、剣は遠くに蹴り飛ばされる。
     見上げれば、巨体の敵兵が戦斧を振り上げていた。
     二撃目を食らい、フェルディアは思わず地に膝をついた。
     隙ありとばかりに、敵が雪崩れ込むようにして若き戦士に襲いかかった。
    「己の不運を呪え、小僧」
     ガルヴグラスの嘲笑を含んだ声が上から降ってくる。
     くそ、と悪態をつき、フェルディアは唇が切れるほど噛み締めた。その首を討ち取らんと、敵の剣がぎらりと光る。
     
    「フェルディアー!!」
     
     まさか、と思った。
     次の瞬間、鋭い風圧を感じた。フェルディアの背後で「ギャア!」と叫び声があがる。
     驚いて顔をあげれば、敵兵の胸には深々と槍が突き刺さっていた。
     間髪入れず、向かい側の敵も倒れる。その胸には、まるで生えたように槍が伸びていた。
    「フェルディア! 無事か!?」
     まるで、鮮烈な疾風のようだった。
     半壊の敵戦車を駆り、髪をなびかせた少女が飛び込んできた。
     勢いのままに敵兵を蹴散らし、次々と槍を投げつける。
     泡を吹き半狂乱になった馬に揺さぶられ、戦車はガタガタと音を立てた。
    「クー……!」
     暴れ馬に翻弄された戦車に、ついに限界が来た。
     自壊する瞬間に、クー・フーリンは戦車から飛び降りた。そのまま地面を転がり、打ち捨てられていた剣を拾い上げる。
    「フェルディア! これ!」
     投げられた己の剣を、フェルディアは掴んだ。
     ぐるりと身を回し、呆気にとられて立ち尽くしていたガルヴグラスを勢いよく斬り上げた。血しぶきが噴水のように噴き上げ、首魁の右腕が宙を飛ぶ。
     老兵は叫び声をあげて後ずさった。フェルディアはすばやく立ち上がって、剣の柄で男の喉を突く。
     ガルヴグラスはぐるりと白目を剥き、その場に倒れた。
     クー・フーリンは歓声をあげ、兄弟子に駆け寄る。
    「フェルディア! よかっ」
    「バカ野郎! なんで来た!」
     突然の怒声に、少女はびくっと体を震わせた。
     まさか、ここで怒鳴られるとは思わなかったのだ。
    「な、なんで怒るんだよ!」
    「城の中にいろと言っただろ! そんな簡単なことさえ聞けないのか!?」
    「なんで……なんでそんなこと言うんだよ!」
     クー・フーリンはキッとフェルディアを睨みつけた。
    「心配したのに!!」
     うっすらと潤んだ、しかし激しい感情に燃える瞳を見て、フェルディアははっと言葉を飲みこんだ。頭をガンと殴られたような衝撃だった。
    「……すまない」
     急激に冷静さを取り戻す。そこで初めて、フェルディアは自分たちが殺気に包まれていることに気づいた。
     頭がやられたことに気づいた敵兵たちが、じりじりと二人を取り囲み始めたのだ。
    「……クー、おまえ、武器は?」
    「え? えっと、この槍と剣だけ……」
    「十分だ。とりあえずは、ここを切り抜ける。いいな?」
    「あ? ……ああ!」
     フェルディアとクー・フーリンは背中合わせになり、各々の武器を構えた。
     敵兵たちが一斉に襲いかかってくる。
     二人の若者は大声で吠え、向かってくる敵に打ちかかった。
     
     周囲の敵をあらかた倒したところで、フェルディアは片膝をついた。クー・フーリンが慌てて駆け寄る。
    「フェルディア! 大丈夫か!?」
    「ああ、大丈夫だ」
     低い声はわずかにかすれていた。クー・フーリンは急いで兄弟子の肩に腕を回し、その体を持ち上げた。
    「ッ、おい、俺は平気だって」
    「嘘つくんなら、もっとうまい嘘をつけ。とにかくここを離れるぞ」
    「だが、ガルヴグラスを……」
    「あー、もう!」
     クー・フーリンはぶんぶんと手を振った。気づいた仲間が槍を振って、こちらに走ってくる。
    「二人とも大丈夫か?」
    「ああ。そこで伸びてるジジイを頼む。スカサハのところへ運んでくれ」
    「おまえたちは?」
    「ちょっと休んだらすぐ城に戻るから」
     歩兵はうなずき、ガルヴグラスの体をひきずって去っていく。
     戦闘はまだ遠くで続いているようだったが、敵の完全撤退も時間の問題だろう。
     クー・フーリンはフェルディアの体を抱え直し、死体や壊れた戦車の中をよたよたと歩いた。

     巨大な城壁のそばには、見張りの兵たちのために煮炊きができるよう、簡易な厨小屋がある。
     クー・フーリンはそこを目指した。厨小屋ならかまどもあるし、火が起こせる。とにかく、兄弟子を休ませねばならない。
     小屋の前に着いたところで、「もういい」とフェルディアが手を離した。
     フェルディアが、小屋の扉を開けようと手を伸ばす。
     その瞬間、勢いよく扉が開いた。
    「!」
     驚く間もなく、中から飛び出してきた何者かがフェルディアを突き飛ばした。
     不意を突かれたフェルディアが尻餅をつく。クー・フーリンは慌てて手を伸ばした。
    「こいつ!」 
     捕まえてみれば、それは厨房でよく見かける料理人の男だった。手には武器のつもりなのか、ピッチフォークを握っている。
     驚いて声をかけようとすると、男は血走った目で、三叉のそれをぶんぶん振るい始めた。身をかわせば、切っ先が地面に突き刺さる。
     ──こいつ、オレたちを殺す気だ!
    「この野郎!」
     クー・フーリンは手近にあった鍋を掴み取ると、料理人に向かって投げつけた。
     鍋が顔に命中し、男がよろめく。クー・フーリンは男に飛びかかり、剣を振り下ろした。
     肉を刺す手応えと同時に男は鈍い悲鳴をあげ、そのまま絶命した。
     クー・フーリンは呆然と立ち尽くした。なんでこいつが襲ってくるんだ?
     フェルディアのうめき声に、クー・フーリンは我に返った。
     慌てて兄弟子を抱え起こし、椅子に座らせる。
    「フェルディア、どこをやられた?」
     少しばかり落ちくぼんだ目で、フェルディアはうっすらと笑った。
     マントをたくし上げ、脇腹をあらわにすれば、その肌はまるで水面に張った氷のようにひび割れ、血が滲んでいた。
    「この固い皮膚はそうそう刃を通さないんだがな。あれだけ集中して攻撃されれば、さすがに少しは効くなあ……」
    「馬鹿っ」
     クー・フーリンは水瓶から水を汲み、自分の服の裾を引きちぎって浸すと、傷に当てた。
     なるべくそっと血を拭き、乾いた布を傷に当てて縛る。
     手当を受けている間、フェルディアは地面に転がっている骸に目を向けた。
    「……おい、クー」
    「なに」
    「あの死体の上着を剥いでみてくれないか?」
    「はあ? なんで」
    「いいから、頼む。確かめたいことがある」
     クー・フーリンは怪訝な顔をしながらも、フェルディアの言うとおりにした。
     おぞましい形相をした死体に顔をしかめながら、乱暴に服を引き裂いていく。
     フェルディアもよろよろと体を起こし、クー・フーリンの手元を覗き込んだ。
     死体の上半身をあらわにすると、左胸のあたりに傷跡があるのに気づいた。
     模様のような、妙な傷跡だ。どういう状況下でこんな傷ができるのだろうか?
    「ありがとう。もういい」
     死体を一瞥したフェルディアは、クー・フーリンの肩に手を置いた。
    「クー、城に戻るぞ。スカサハに会わないと」
     兄弟子のいつになく切羽詰まった表情に、クー・フーリンは胸騒ぎを覚えながらうなずいた。
     遠くで、勝利を知らせる角笛の音が聞こえた。
     
    「フェルディア! クー!」
     城に戻れば、ウアタハが駆け寄ってきた。
    「ウアタハ、スカサハは?」
    「敵の撤退を確認したから、もうすぐ戻ると思うわ。二人とも怪我は?」
    「大したことない。それより……」
     馬のいななきが聞こえ、ガラガラと車輪の音が聞こえてきた。
     三人が振り返れば、スカサハや兵たちが戻ってくるのが見えた。
    「スカサハ!」
     フェルディアが叫んだ。クー・フーリンは慌てて兄弟子の体を支える。
     弟子たちに気づいた師は戦車から飛び降りる。三人は急いでスカサハに駆け寄った。
    「フェルディア、それにセタンタ。ガルヴグラスのことは大義であった」
    「ありがとうございます。それより、ご報告が」
     フェルディアは、厨小屋での一件を離した。
     料理人に襲われたこと、左胸にあった傷のこと。
     話を聞いているうちに、スカサハの顔がどんどん険しくなっていく。
    「あの料理人は間者だったに違いありません」
     スカサハは腕を組んだ。ウアタハも青ざめた顔をしている。
     間者だと? クー・フーリンは何がなんだかわからなかった。
    「なあ、フェルディア。間者ってどういうことだよ」
     妹弟子のつぶやきを無視し、フェルディアは続けた。
    「間者は一人ではないはずです。それに、ここに来てのガルヴグラスの襲撃。恐らく、間違いありません」
     スカサハの目が細まる。フェルディアは低い声で言った。
    「オイフェが来ます」

    敵国の女戦士

    「オイフェ?」
     クー・フーリンは瞬きをした。
     フェルディアも、スカサハも、ウアタハも、深刻な顔をして黙り込んでいる。クー・フーリンは、じれったさに声をあげた。
    「おい、オイフェって誰だよ。間者ってなんなんだよ。教えろよ!」
     ウアタハが、消え入るような声で話し始めた。
    「オイフェは、隣国の女王なの。この影の国の領土を狙ってるのよ。母上と同じ、強い女戦士で……」
     ウアタハはちらりとスカサハに目をやり、顔を伏せた。
    「……私の叔母なの」
    「叔母ぁ!?」
     クー・フーリンはすっとんきょうな声をあげた。スカサハが顔をしかめる。
    「オイフェは、スカサハの双子の妹なのさ」
     フェルディアが後を引き取って続けた。
    「あの胸元の傷は、恐らくオイフェがかけた洗脳術の名残だ。術をかけた者を間者としてこの国に紛れ込ませ、賊の襲撃で混乱させ、綻びができたところで攻め入ってくるつもりなんだろう」
    「母上、兵の数は?」
    「……負傷した者も多い。灰狼ガルヴグラスはそれなりの戦力を持つ男だったからな。オイフェの精鋭どもに全力で来られたら、さすがに苦戦するやもしれん」
    「そんな……」
     ウアタハが両手で口を覆う。重い沈黙が降りた。
    「オレも戦う!」
     場の空気を破るようにして、大声があがった。クー・フーリンだ。
    「おい、クー」
     フェルディアがたしなめようと口を開くが、クー・フーリンは構わずに叫んだ。
    「今度こそ、オレも戦います! なあ、フェルディア。おまえだって見てただろ? 敵を何人も蹴散らしたし、おまえのことだって助けたじゃんか!」
    「それは……」
    「なあ、スカサハ。オレはあんたの弟子の中でも強いほうだし、槍や剣だってちゃんと扱えます! オレも戦場に連れてってください。ちゃんと戦ってみせますから!」
     スカサハは黙ってクー・フーリンを見つめていたが、やがて目を閉じた。
    「ならん」
    「師匠!」
     クー・フーリンの悲鳴のような声に、スカサハは背を向けた。
    「ウアタハ、兵たちを集め、すぐに斥候を放て。フェルディア、おまえは弟子を集めろ。オイフェのことだ、明朝にも攻めてくる可能性が高い。今のうちに戦力を整えておきたい」
    「はい、母上」
     ウアタハはうつむき、小走りで城の中へ戻っていった。
     スカサハは、弟子たち二人に目をやることなく再び戦車に乗ると、自分についてきた兵たちと共にその場から去ってしまった。
    「…………」
     フェルディアは無言でクー・フーリンの肩を叩くと、足を引きずるようにして歩いていった。
     ひとり残されたクー・フーリンは、自分のつま先を敵のように睨みつけていた。
     両目が燃えるように熱かった。ぎゅっと手を握りしめる。
     なんで、いつもこうなんだろう。なんでいつも、自分は連れていってもらえないんだろう。
     なんで。どうして。
     どうして。
     
     翌朝、城の庭は集められた戦士たちで物々しい雰囲気だった。
     馬たちも緊張を感じ取っているのか、落ち着きなく鼻を鳴らし、足を踏みならしている。
     やがて、戦士たちの前にスカサハが歩み出た。その美しいかんばせは、迫り来る強敵との戦闘を前に昂然と輝いていた。
    「我が精鋭たる戦士たちよ」
     凛とした声が響く。その一声だけで、空気がぴんと引き締まった。
    「いよいよ我が宿敵、オイフェが攻めてくる。だが、恐れることはない。おまえたちの剣は霧さえ切り裂き、槍は影さえ貫き、盾は呪詛の歌さえ防ぐ。おまえたちは、このスカサハ手ずから戦のなんたるかをその身に刻みつけられたのだ。影の国の戦士であることを誇りに思って戦え!」
     おおおお、と鬨の声が上がった。屈強な戦士たちは皆、戦へのほとばしる高揚感で沸き立っている。
     その様子を、クー・フーリンは苦々しげな顔で見つめていた。
     戦士たちを見送ることは許されていたので、城門にもたれかかってその様子を眺めていたのだが、なぜ自分があそこにいないのかが理解できなかった。
    「そんな顔しないで」
     ウアタハがやってきて、クー・フーリンに小さな杯を渡した。見れば、赤ワインが入っている。
    「母上は、あなたのことを買っているの。有望な芽を摘み取りたくないのよ」
    「けど、オレは戦士になるために弟子入りしたのに」
     クー・フーリンは杯を弄びながら吐き捨てるように言った。
    「戦場にまともに出してもらえないんじゃ、なんのために修行してきたのかわかんねえ」
    「守るためよ」
     ウアタハがつぶやいた。クー・フーリンが口を開こうとしたところで、スカサハがひときわ大きな声で叫んだ。
    「さあ、杯を掲げよ。これは敵の血であり、おまえたちの勝利の証である。影の国に勝利を!」
    「勝利を!」
     戦士たちは叫び、杯の中身を一斉に飲み干した。
     クー・フーリンとウアタハも小さく杯を掲げ、自分のワインを飲んだ。
     妙な味だな、と思った瞬間、クー・フーリンは目の前の風景がぐるりと回ったのを感じた。
    「クー!?」
     ウアタハの叫び声が聞こえる。
     それを遠くで聞きながら、クー・フーリンの世界は暗転した。
     
    「母上! 母上! クーが!」
     慌てた様子で走ってきたウアタハを見て、スカサハは眉をあげた。
     彼女の戦士たちは部隊ごとに分かれ、今にも出発せんというところだった。
     ウアタハは息を切らせ、途切れ途切れに言った。
    「クーが、ワインを飲んだら倒れて……」
    「ああ、丸一日は目覚めまいよ」
     あっさりとした母の言葉に、ウアタハは目を見開いた。
    「まさか……母上……」
    「あの子犬は命令も聞かずに飛び出してくる可能性があったからな。やつの酒に薬を混ぜておいた」
    「そんな……」
     ウアタハは絶句した。そこまでして、母は彼女を戦場に出したくなかったのか?
    「部屋に運んでおけ。あとは任せたぞ」
     スカサハはひらりと自分の戦車に飛び乗ると、兵たちを率いてそのまま城門を出ていってしまった。
     ウアタハは立ち尽くし、言葉もなく母親の背中を見送った。
     
    「う……ん」
     ぼんやりと目を開く。目の前に他人の手が広がっている。
    「!」
     ばしっと音を立ててその手首を掴む。途端に「きゃっ!?」という女の叫びが聞こえた。
     ウアタハだった。クー・フーリンはウアタハの手を掴んでいたのだ。
     王女は、ひどく動揺した顔をしていた。徐々に頭が覚醒してくる。気を失う前の状況を思い出す。
    「おまえか?」
     吐き出した声は、自分でも驚くほどに低かった。どす黒い怒りが胸を焼く。
    「おまえがオレに一服持ったのか?」
     握り潰しそうなほど、細い手首をぎりぎりと締め上げる。
     ウアタハは泣きそうな顔になり、必死で首を振った。
    「違う、違う! 私じゃない! 母上よ。私も知らなかったの! 母上が、眠り薬をあなたに……」
     チッと舌打ちをし、急いで起き上がろうとした。
     その瞬間、くらりと目眩がして、クー・フーリンは自分の頭を両手で押さえた。
    「丸一日眠り続けるって聞いてたの。でも、こんなすぐに目覚めるなんて……」
    「このオレに薬なんざ効くかよ。オレは太陽神の娘だぞ」
     奥歯を噛み締め、クー・フーリンは立ち上がった。
     どうやら、ここは自分の部屋らしい。まだ痺れる足を叱咤し、よろよろと外に出る。
    「クー、待って。お願い、待って!」
     後ろでウアタハが叫んだ。ぐっとこぶしを握りしめ、クー・フーリンは振り向いた。
    「おまえも結局は母親とグルか。揃いも揃って、オレを嵌めようとしやがって」
     ウアタハの目にじわっと涙が浮かぶ。
     「違う、違う」と力なく首を振る姿にひどく苛々して、突き放すように吐き捨てる。
    「オレは戦士だ。オレが戦うことを誰も止められない」
    「でも、今からじゃとても追いつけないわ。馬だって戦車だって、みんな行ってしまったし」
     クー・フーリンは踵を返し、ウアタハに詰め寄った。怯える娘を壁に追い詰め、ぐいと顔を寄せて睨みつける。
    「なら、予備の戦車と馬を出せ。無いはずないだろう」
    「それは……」
     ウアタハが言い淀んだ。逃さないように壁に手をつき、その目を見据える。ウアタハは、ついに降参したように力を抜いた。
    「私の戦車でいいのなら」
    「ああ、それでいい」
    「でも、古いし小さいし、うまく動くかわからないわ。昔、母上がくださったけれど、戦いは向いてなかったから、ずっと仕舞いこまれてるの。それに、私はいい馬だって持ってない」
    「構わねえ。車輪も足もついてんだろ。なら動く。それで十分だ」
    「わかった」
     ウアタハは力なくうつむき、クー・フーリンを城の奥へ案内した。
     倉庫のような薄暗い部屋には、華奢な戦車が一台、打ち捨てられたように置かれていた。
     クー・フーリンはさっそく車輪に巻かれた紐を切ろうと剣を取り出す。だが、切りつけた瞬間に手が震え、剣を取り落としてしまった。
     震える自分の手を、信じられないものを見る目で見つめる。スカサハの眠り薬がまだ抜けきっていないのだ。
     なんてことだ。これでは、馬すら繋げないではないか。
    「……!」
     はっと振り返る。自分の後ろでは、ウアタハが刑罰を控えた罪人のような顔で佇んでいる。
     クー・フーリンは、ずかずかと彼女に歩み寄った。
    「おい、ウアタハ」
    「な、なに?」
    「おまえ、戦車は御せるか?」
     突然の問いに、ウアタハは目を丸くした。
     だが、次の瞬間にその意図に気づき、慌てて首を振る。
    「そんな、私には無理よ!」
    「でも、昔は乗ってたんだろ。馬も好きだって前に言ってたじゃねえか」
    「それは、そうだけど。でも、最後に戦車に乗ったのはだいぶ前だし、今の私じゃ」
    「そんなのやってみないとわかんねえだろ。意外と体は覚えてるもんだ」
    「無理よ……私には無理」
    「母上のようになれたらって、おまえ言ったじゃねえか!」
     クー・フーリンの怒鳴り声に、ウアタハはびくっと体を震わせた。その細い肩をぎゅっと掴み、クー・フーリンは続ける。
    「母上のように戦場を駆け回ってみたいって言ったじゃねえか。城の中でみんなのお世話をするだけじゃなくて、自分も戦ってみたいって。だったら、今がその時だろ」
     王女の両目が見開かれる。
    「いいか。今のオレは、あんたのお母様のおかげで体がうまく動かねえ。もちろんすぐ薬は抜けるだろうが、そんなの待っていられねえ。おまえがこの戦車を御してくれ、ウアタハ。オレを戦いの場へ連れてってくれ」
     ウアタハは唇を震わせ、視線をそらそうとした。だが、それを逃さず、クー・フーリンはぐっと彼女の目を覗き込んだ。
    「オレが頼れるのはおまえしかいないんだ。それに、おまえだって今のこの状況をいいと思ってるわけじゃないんだろ。頼む、ウアタハ」
     濡れたような大きな瞳が揺れた。こくりと唾を飲む。
     クー・フーリンと目を合わせたウアタハは、ゆっくりとうなずいた。
     
    「スカサハ様! スカサハ様!」
     自分の背後を馬で走ってきた兵の言葉に、女王は振り向いた。
    「なんだ」
    「ウアタハ様の戦車が現れたと、後方から伝達が」
    「なに?」
     スカサハは大きく伸び上がり、目を凝らした。
     己の戦車の後ろには、雄々しい兵や弟子たちの大軍が、土煙をあげながら走っている。
     スカサハは目を細めた。すると、確かに遥か後方に、鳥の群れからはぐれたような一騎が走ってくるのに気づいた。
     戦車だ。豆粒のような大きさだった戦車は、人を抜き馬を抜き、ぐんぐん近づいてくる。
     ついに、その戦車はスカサハの戦車に並んだ。影の国の女王の顔つきがぐっと厳しくなる。
    「クー!?」
     声をあげたのはフェルディアだった。スカサハのすぐ後ろに戦車をつけていたのだ。
    「よう、兄弟!」
     景気よく一声かけてから、クー・フーリンはスカサハを挑発するように笑いかけた。
    「我が親愛なる師よ。オレに長い夢を見せるには、ちょっとばかし強さが足りなかったようですねえ」
     スカサハは自分の弟子を一瞥すると、すぐに御者に目を向けた。
     おどおどと見上げていた影の国の王女は、ぎくっと体をこわばらせる。
    「おおっと、娘さんを怯えさせるのはなしだぜ、師匠。ウアタハは悪くねえ。戦あるところにクー・フーリンありだ。誰もオレを止められねえ。それをわからなかったあんたが悪い」
     そう言って、クー・フーリンは挑むような目でスカサハを見た。
     影の国の女王は、睨むように生意気な弟子を見下ろしていたが、やがてひとつため息をついた。
    「どうやら、私が甘かったようだな。こうまで戦馬鹿な娘だとは、思いもよらなかった」
    「おうさ!」
     クー・フーリンはにかりと歯を見せて笑った。ウアタハもほっとしたように表情を緩ませる。
     そんな二人を、フェルディアは複雑な顔で見つめていた。
     
     明くる日、白い太陽が谷間を照らした時、スカサハ率いる影の軍団とオイフェ率いる軍団は激突した。
     谷間を黒く埋めるほどおびただしい数の戦士たちは、空気を震わせるほどの咆哮をあげ、互いに激しく戦った。
     数えきれないほどの戦車と人馬が入り乱れ、刃を白く光らせ、大地を赤に染めた。
     体が本調子でないクー・フーリンは、ウアタハに御者を任せ、後方で戦っていた。
     戦車に積んだ槍を引き抜いては投げ、接近してきた敵は盾で跳ね除け、剣でその喉を切り裂いた。
     ウアタハも必死に手綱を掴み、よく走らせたが、やはり経験の浅さは簡単に埋められるものではなかった。
    「きゃっ!」
     敵兵が棍棒で勢いよく車輪を殴りつけ、戦車の足が壊れた。
     戦車は大きく揺れ、御者台にいたウアタハが宙に投げ出される。
    「ウアタハ!」
     クー・フーリンも同時に戦車から飛び降り、ウアタハを受け止めて地面に転がった。
    「大丈夫か?」
    「え、ええ。ごめんなさい」
    「いい。一旦退くぞ。走れ!」
     二つの軍勢がぶつかり合う中を、二人は自陣に向けてひた走った。
     時折飛び込んでくる敵兵を、クー・フーリンが槍でなぎ倒していく。
    「二人とも! こっちだ!」
     味方の兵が手を振りながら叫んでいる。
     先にウアタハを向かわせ、クー・フーリンは追いかけてきた敵兵に向かって槍を投げつける。槍は三人を串刺しにして地面に縫いつけた。
     とにかく、このままではまずい。
     クー・フーリンは地面に転がっていた盾と槍を拾い上げると、乗り手を失った馬を見つけ、その鞍を掴んでひらりと飛び乗った。
     驚いていななき、邪魔者を振り落とそうと暴れる馬の腹を足で締める。
     尻を槍の枝でぴしゃりと叩き、クー・フーリンは走り出した。
     襲ってくる敵を槍で跳ね飛ばしながら、戦場を駆け抜ける。フェルディアやスカサハは前線にいるはずだ。
     ──見つけた! スカサハの戦車だ!
     そこで彼女ははっとした。馬に乗った敵兵が、スカサハの背後に迫っている。
     さらに悪いことに、敵は大ぶりの槍を構えている。スカサハに向かって投擲する気だ!
     クー・フーリンは迷わなかった。
     手綱から手を離し、疾風のように走り続ける馬の背にしゃがみこむと、そろそろと立ち上がった。
     馬上でバランスを保ちながらタイミングを待つ。激しく足元が揺れる。ぐんぐんと敵が迫ってくる。──今だ!
    「ハァッ!」
     クー・フーリンは馬の背を蹴り、勢いよく敵兵の背中に飛びかかった。
     敵兵は叫び声をあげ、クー・フーリンもろとも馬から転げ落ちる。
     クー・フーリンは素早く身を起こして敵の槍を遠くへ蹴り飛ばすと、己の剣でその胸を貫いた。「ギャア!」と断末魔が上がり、血しぶきが彼女の顔にかかる。
     よかった。これでスカサハは無事だ。
     安堵し、師匠のほうを振り仰ぐ。
    「ん……?」
     思わず声を漏らす。スカサハの戦車が赤く光ったような気がしたのだ。
     目を凝らした瞬間、立ち上がったスカサハの手に真っ赤な槍が出現した。
    「!」
     カッと赤い稲妻が閃いた。その眩しさに、思わず目を腕で覆う。敵兵たちの叫び声が響く。
     光の爆発が一瞬なら、それが止むのも一瞬だった。
     クー・フーリンが顔をあげたとき、スカサハの戦車は再び走り出すところだった。
     慌てて追いかけようとすると、「クー!」と叫ぶ声が聞こえた。
     フェルディアだ。フェルディアが戦車に乗ってやってくる。
    「乗れ!」
     差し出された手をぎゅっと握る。体がぐいっと持ち上げられて、戦車に放り込まれる。
    「大丈夫か?」
    「ああ、もちろんだ!」
    「ならいい。行くぞ!」
     フェルディアが叫び、馬に鞭を打つ。戦車がグンとスピードを増す。
     クー・フーリンは、先ほどスカサハが通り過ぎていった地面をちらりと見た。
     しかし、敵の屍があちこちに転がっているだけで、赤い光の名残は何も残っていない。
     一体、あれは何だったんだ?
     
     日が暮れて細い月が空に姿を見せた頃、両軍は自分たちの陣地へ引いた。
     凄まじい武力と武力のぶつかり合いで、兵たちは満身創痍だった。
     クー・フーリンがフェルディアの戦車から降りたとき、少女がばたばたと駆け寄ってきた。
    「クー!」
     胸に飛び込んできたウアタハを受け止め、クー・フーリンはその背中を軽く叩く。
    「ウアタハ。無事でよかった」
    「ええ、あなたも。フェルディアも一緒だったのね。母上は?」
     すぐにスカサハも戦車たちを率いて戻ってきた。
     クー・フーリンたちは急いで師を迎えたが、そこで息を飲んだ。
     スカサハの腕はぱっくりと裂け、血が滴っていた。
    「母上! その傷は……」
    「大事ない。明日も戦いは続くぞ。皆、今のうちに体を休めておけ」
    「おい、クー」
     フェルディアが目配せをする。クー・フーリンは急いで天幕へ走り、強い酒や傷薬を抱えて戻ってきた。
     ウアタハが母親の手当てをしている間、フェルディアとクー・フーリンは並んで遠い敵陣を眺めた。
     いくつもの火が見える。敵兵たちも焚き火を囲んでいるのだろう。
    「明日も激しい戦いになる」
     フェルディアが言った。
    「あのスカサハですら手傷を負った。オイフェの兵たちは、並大抵の戦士じゃない」
    「ああ……」
     クー・フーリンは兄弟子の顔を見上げた。
     そういえば、彼は知っているのだろうか? スカサハが持っていた、あの赤い槍のことを。
    「なあ、フェルディア。あのさ──」
    「ん……? おい、待て」
     フェルディアが遮る。なんだよ、と言いかけて、兄弟子が気づいたものにクー・フーリンも気づいた。
     馬だ。敵陣から、馬が一頭やってくる。
     
    「──以上が、我が王オイフェからのことづてでございます」
     深々と頭を下げた伝令を、スカサハは刺すような目で見つめていた。
     さっと手を振って伝令を下がらせると、思案するように夜空を見上げる。
    「一騎打ち、か」
    「恐れながら、陛下」
     臣下のドルイドが前に進み出て、頭を下げた。
    「全軍のぶつかり合いで双方の弱体化を招けば、別国の侵略を受けるというオイフェの言は、そのとおりでございます」
    「わかっている。だが」
     スカサハは包帯が巻かれた自分の右腕を見つめ、軽く舌打ちをする。
     この影の国の女王たる自分が、なんたる不覚。これでは、まともに槍を握ることもできない。
     しかし、だからと言って戦を続け、消耗戦になるのもうまくない。
     一体、どうしたら?
    「私は──」
    「師匠!」
     ぱっと焚き火の火花が散る。物憂げな視線で、スカサハは声の主を見た。
    「なんだ、セタンタ」
     少女はすっくと立ち上がり、真っ直ぐな目でスカサハを見ていた。
    「師匠、オレにやらせてください。敵将オイフェとの一騎打ち、オレが絶対に勝ってみせます」
    「ならん」
     スカサハはにべもなく切り捨てた。
    「貴様のような未熟者に、私の代わりが務まるものか」
     周りの戦士たちからも、そうだそうだ、という声が上がる。
     クー・フーリンは、持っていた槍の石突をドン! と激しく地面に叩きつけた。
    「やってみなきゃわからないだろ! オレは強い。誰よりも強い! 未熟者と言いますがね、師匠。今のオレなら、あんただって倒してみせる!」
     あまりな言い様に、さすがに見兼ねたフェルディアがクー・フーリンの肩を押さえた。
    「いい加減にしろ、クー。子どもじゃないんだぞ!」
    「ああ、そうだ。子どもじゃない。オレは戦士だ! それに、スカサハ。忘れたのか? あんたはオレの意思も無視して、オレに薬を盛っただろう! それが師匠のやることか!?」
     クー・フーリンはわめいた。周りの戦士たちは顔を見合わせる。スカサハはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
    「おまえが負ければ、我が軍は捕虜となり、我が影の国は占領国となる。おまえはそれがわかっているのか? その重責が背負えるか?」
    「もちろん! オレは絶対に負けない。万一負けるようなことがあれば、千度首をはねてくれたっていい!」
     スカサハはしばらく黙って唇をなでていたが、ついにうなずいた。
    「よかろう。我が軍の命運、おまえに託そう。アルスターの小さき犬よ」
     戦士たちがざわつく。クー・フーリンは目をキラキラと輝かせ、腹の底から歓声をあげた。
     全身で喜ぶ少女を見ながら、スカサハは額を押さえ、深い息を吐いた。
    「愚かな」
     
     朝日が谷の輪郭を金色に照らし、大地から夜を追い払う。
     クー・フーリンは腕組みをして立っていた。戦車にもたれかかったフェルディアは、念押しするように言った。
    「いいか、クー」
    「わかってる。心配するなって、フェルディア」
     クー・フーリンは振り向き、片目をつぶった。兄弟子が小さくうなずく。
     クー・フーリンは正面に向き直り、目を細めた。
    「──来た」
     黒い山並みを背に歩いてくる人影は、間違いない。オイフェ女王、その人だ。
     スカサハの双子の妹というだけあり、その顔立ちはそっくりだ。だが、受ける印象はまるで正反対だった。
     スカサハが影の国の女王なら、オイフェはさながら、光の国の女王だった。
     好戦的な顔はいきいきと薔薇色に輝き、風に流れる髪は、まるで光を紡いだようだった。
     上背のある姿は自信に満ち、大きな目は戦士の誇りに満ちている。クー・フーリンは、綺麗な目だ、と思わずにはいられなかった。
     オイフェが歩みを止め、二人は真っ向から向かい合った。
     まず、申し出側であるオイフェが口を開く。
    「我が名はオイフェ。そなたに果たし合いを申し入れる」
     鈴を転がすような声だった。クー・フーリンも背筋を伸ばし、それに答える。
    「我が名はクー・フーリン。我が師スカサハに代わり、その申し出をお受けいたす」
     二人は礼を交わし、自分の武器を持って身構える。両軍の戦士たちは、固唾を飲んで二人を見守った。
     オイフェとクー・フーリンは同時に走り出した。
     ガキン! と音がして、穂先と穂先が火花を散らす。
     ──強い!
     最初の一撃で、クー・フーリンは相手の力を瞬時に判断した。
     さすがはスカサハの妹というべきか。一打一打が重く、力強い。まともに食らったら骨まで粉々になってしまうだろう。
     それなら。
    「ハッ!」
     素早く体を回し、相手の胴に蹴りを叩き込む。
     「ぐっ」とオイフェがうめいたところで、すばやい突きを繰り出した。相手が重さなら、こちらは身軽さ。相手が力強さなら、こちらはスピードで勝負だ。
     だが、相手も伊達に戦士の王ではない。大きな盾で槍を弾き、勢いのままにクー・フーリンを突き飛ばす。
     着地したところで、オイフェは狼のように飛びかかってきた。
     さっとかわすと、繰り出された追撃にクー・フーリンの白い頰が裂けて血が飛んだ。
     負けじと槍を振り空気ごと切り裂けば、オイフェの腕からぱっと血が舞い散った。敵国の女傑はにやりと笑う。
    「やるな、小娘。さすがはスカサハの代わりを名乗ることだけはあるわ」
    「そりゃ、どうも。あんたのお姉様に散々しごかれたんでね」
     再びキィン、と槍同士がぶつかる。
     互いの軍勢が見守る中、二人は激しく戦った。互角の力でぶつかり合い、決着はいつまでも着かないかのように思われた。だが。
    「!」
     クー・フーリンの足が地面にとられた。小柄な体がぐらりとよろめく。
    「もらった!」
     オイフェの鋭い一閃が走った。手の槍が吹き飛ばされる。
     はっとして腰の剣を抜き、二撃目を受ける。凄まじい音がして、コンホヴォル王から賜った剣が粉々に砕けた。
    「ぐっ!」
     地面に倒れたクー・フーリンにオイフェが襲いかかる。身を転がして猛追を避けると、クー・フーリンは女王の横顔を強く蹴り上げた。
     「うっ」とうめき声をあげ、オイフェが後ずさる。クー・フーリンは身を滑らせ、弾かれた自分の槍を掴んだ。
     怒りの形相をしたオイフェが己の槍を振り下ろす。激しい音を立て、クー・フーリンはその攻撃を受け止めた。
     ぎりぎりと互いの力がせめぎ合う。荒い息の中、不意にクー・フーリンはにやりと笑った。
    「かかったな、女王様」
    「なに?」
    「あんたの大事な馬と戦車! オレが引きつけてる間、仲間に始末してもらったぜ!」
    「なっ!」
     オイフェの視線が一瞬外れた。
     隙あり!
     クー・フーリンは猛獣のような雄叫びをあげて敵の槍を思いきり弾くと、驚くオイフェの首に槍の柄を回した。
     そのまま力ずくで細い首を絞めあげる。謀られたと悟ったオイフェは咆哮し、逃れようと暴れた。
     クー・フーリンは負けじと歯を食いしばり、両足を敵の胴に回して、きつく押さえ込む。
     オイフェは目をぎらぎらとさせ、息を引きつらせた。
    「嘘をつくなど、卑怯な真似を!」
    「我が兄弟子に教えてもらって、ね」
     
     ──オイフェは、自分の馬と戦車を何より大事にしている。それに何かあったと思えば、気をそらせるはずだ。
     ──ふーん。嘘をつけってこと?
     ──そういうこと。でも、いざというときまで待て。嘘はあくまで切り札なんだ。
     ──さっすが、そういうのが得意な御仁は詳しいねえ。
     ──嘘も方便さ。いざというときだぞ。いいか、クー。
     ──わかってる。心配するなって、フェルディア。
     
     ぐい! と渾身の力をこめる。かくん、とオイフェの首が垂れ、押さえつけていた体が一気に重くなった。
     槍から手を離すと、地面にどさりと女王の体が転がった。
     はあ、はあ、と肩で息をしながら、クー・フーリンもその場に座り込む。体中の力が地面に吸い取られていくようだった。
    「……勝った」
     ぽつりとつぶやく。
     空を見上げれば、何事もなかったかのように、雲がゆっくり流れている。黒い鳥が一羽、円を描くように飛んでいる。
     青空は、おそろしいほど平和だった。
     クー・フーリンはオイフェの顔を見た。気絶させただけだ。殺してはいない。
     豊かな黄金の髪が地面に散らばっていた。手を伸ばし、顔にかかった髪の毛を払ってやる。何度見ても、美しい顔立ちの女だ。
    「嘘も方便、ね」
     クー・フーリンは立ち上がると、オイフェの膝に腕を回し、その体を抱き上げた。
     よたよたと歩き出せば、遠くで戦車に乗ったフェルディアが手を振っているのが見えた。
     笑顔を浮かべ、クー・フーリンは味方の戦車に向かって歩いていった。
     
     スカサハの天幕は緊張感に包まれていた。
     捕虜の身となったオイフェは手足を縛られ、地面にうずくまっている。
     スカサハはなんの感情も浮かんでいない目で、己の妹を見下ろしていた。
     やがて、オイフェがかすれた声で口火を切った。
    「影の国の女王にして、我が姉のスカサハよ。もしその心に慈悲があるのなら、縁に免じて、命は助けてほしい」
    「貴様が我が国、我が戦士たちに与えた被害は甚大である。その元凶を許せと?」
    「相応の賠償を約束する。牛に、馬に、羊に、奴隷。戦車と武器も揃えて贈ろう」
    「…………」
     スカサハは妹から目を離し、ゆっくりと天幕の中を見渡した。
     娘のウアタハははらはらと手を組み、フェルディアたち弟子は、腕を組んで捕虜を睨みつけている。
     フェルディアの隣にちょこんと立っているクー・フーリンを見て、スカサハは再びオイフェに目を戻した。
    「おまえと決闘したのはそこにいるアルスターの戦士だ。貴様の命については、あの者に乞うがよい」
     え、という顔でクー・フーリンはスカサハを見た。
     スカサハはその美しいかんばせの表情筋ひとつ動かさない。
     オイフェは不自由な体を苦心しながらずらし、クー・フーリンを見上げた。
    「アルスターのクー・フーリンよ。どうか慈悲を。寛大な心を持って、我が命を助けてほしい」
     いきなりの事態にクー・フーリンは焦り、助けを求めるような顔でスカサハを見たが、槍の師匠は無表情でこちらを眺めているだけだ。
     オイフェに目を戻せば、とらわれの身の、しかし誇りは失っていない強い瞳が自分を見つめている。その誇り高い精神には応えねばならない。
     クー・フーリンは、落ち着こうと深呼吸した。
    「条件がある」
     オイフェは表情を変えない。その目から視線をそらさないようにしながら、クー・フーリンは続けた。
    「今後二度と、影の国に攻め入ったり、財産の強奪をしたりしないと誓え。両国の平和を守るんだ」
    「誓おう」
     オイフェはうなずいた。少し考えて、クー・フーリンは「それから」と続ける。
    「おまえの軍勢が、我々をもう攻撃してこないという保証が欲しい。我が軍の兵たちの傷が癒え、仲間を弔い、安全に国に戻る間、おまえには人質になってもらう」
    「いいだろう」
     これでいいのだろうか。ちらりとフェルディアを見れば、兄弟子は「よくやった」というようにそっと親指を立てた。スカサハも小さくうなずいている。
     腹に自信がみなぎり、クー・フーリンは胸を張った。
    「条件は以上だ、女王オイフェよ。この条件を守れば、おまえの命は助けてやろう」

     その夜、影の国の戦士たちは仲間を弔った後、ささやかな勝利の宴が開かれた。
     火は赤々と燃え、怪我人たちにも酒がふるまわれた。男たちの歓声と笑い声が夜空に響く。
     夜も更けたころ、歓談の輪から抜け出したクー・フーリンはあたりをきょろきょろ見回し、そっと天幕のひとつに入った。
    「何者だ?」
     凛とした声が響く。
    「オレだ、アルスターのクー・フーリンだ」
     垂れ布を持ち上げて中に入れば、女王オイフェが驚いた顔で座っていた。
     今は手足は自由となっているが、スカサハが見張りをつけ、結界も張っているため、捕虜の彼女が逃げ出すことは不可能だった。
    「なぜおまえがここに?」
    「夕食を持ってきた」
     クー・フーリンは手元の盆を掲げてみせる。
    「それに、あんたと話がしたかった」
    「私と?」
     クー・フーリンはうなずくと、オイフェの目の前に食事を置き、自分も座った。
     オイフェは不思議そうな顔をしている。やはり美しい目だ、とクー・フーリンは思った。
     スカサハの厳しく冷徹な印象と異なり、オイフェは柔らかく、温かい雰囲気をまとっていた。
    「どうぞ。毒は入ってないぜ」
    「まあ、それはそうだろうな」
     オイフェはバターミルクの入った椀を持ち上げた。
    「それで、なんで私と話したいと?」
    「あんたと戦って、楽しかったから」
     女王は虚を突かれた顔をした。
    「楽しい?」
    「おう。それに、嬉しかった。こんなに強い女の戦士がいるってわかったから」
    「妙なことを言う。それなら、おまえの主であるスカサハだってそうだろう」
    「スカサハは主じゃなくて師匠だ。確かに師匠はものすごく強いし、尊敬してるけど。なんて言うか、 あんたからは戦士の誇りみたいのを感じた。ヘンな話だけど、あんたがキラキラ輝いて見えたんだ」
     オイフェは咀嚼していたパンを喉に詰まらせそうになった。
     冗談かと思ったが、目の前の少女は、怖いほど真剣な目をしていた。
    「あんたと戦ったとき、命のやり取りの中で槍を交わす喜び、っていうか。仲間も誰も頼れない中で一人で戦って、めちゃくちゃ高揚した。こんな気分、初めてだったんだ。修行でも試合でも感じたことない。あんただけだ」
     オイフェはパンを皿に戻し、居住まいを正して、きちんとクー・フーリンに向かい合った。
    「アルスターの娘。おまえはこれが初陣か?」
     女王は娘の顔を覗き込む。二つの瞳は、巣立ちした若鳥のようにきらめいている。
    「厳密には、違う。ガルヴグラスが攻めてきたときが最初。でも、あの時は仲間を助けるのに無我夢中で、高揚とかそういうのは、一切なかった」
     ふむ、とオイフェはうなずいた。自分を負かした敵国の娘だが、不思議と憎しみや怒りの感情は湧いてこなかった。
     むしろ、幼い妹と話しているような気持ちになり、無意識に口元が緩む。
    「それは、おまえが初めて自分の名誉のために戦ったからだ。もちろん、スカサハの命を受けたのであろうが、おまえは間違いなく、自分自身と向かい合って戦ったのだ」
     クー・フーリンの目が大きくなる。オイフェは微笑んだ。
    「そして、私もだ。私は私の名誉のために戦う。戦士として戦う己を誇りとしている。ひょっとして、おまえの周りには、そういう男は大勢いても、女はいなかったのではないか?」
     クー・フーリンはうつむき、考えるように自分の唇に触れた。
    「そう……そう、かもしれない」
    「女の戦士は男に比べれば少ないからな。無理もないが」
    「あんたの国には、女の戦士は多いのか?」
    「育てているところだ。女だけの騎士団もいるぞ。アルスター国はどうだ?」
    「オレの国は……いない。御者ならいるけど。女たちは、少しは剣も槍も使えるんだ。自分の身を守るくらいには。けど、戦場に出て戦うことは全然なかった。御者として戦車を走らせることはあっても、剣を振るうことは」
    「そうか……」
    「オレは戦士になりたかった。王には反対されたけど、それでもずっとずっと憧れてたんだ」
    「おまえが男のようななりをし、男のような喋り方をするのも、そのためか」
    「ああ。ガキの頃、ガキなりに考えて、男になりきるしかないって思ったんだ。ずっと続けてたら、これが地になっちまったけど」
     クー・フーリンは自嘲するように笑った。
    「だからオレ、スカサハやあんたに会えて嬉しかった。オレは戦士になれるって、なっていいんだって思えたから」
    「そうか。それは、光栄な話だ」
     オイフェは手を伸ばし、クー・フーリンの頰に触れた。
     白くまろい頰には、一筋の傷が走っている。戦いのとき、オイフェがつけた傷だ。
     オイフェが小さく囁き、細い指でその傷を軽くなぞると、クー・フーリンの頰がぽうっと温かくなった。
     次の瞬間、じんじんとしていた痛みが消える。
     クー・フーリンは目をぱちくりとさせた。
    「今、何を?」
    「戦うための魔術はスカサハのほうが上かもしれんが、癒しの魔術なら私のほうが上だ」
     オイフェは口角を上げる。
    「敵国の戦士に行うのは特別だ。その綺麗な顔に傷が残るのは、どうにもいただけないからな」
     クー・フーリンは頰をさすり、無邪気に笑った。
    「ありがと。あんたいい奴だな」
    「どういたしまして」
     オイフェはしげしげとクー・フーリンを眺めた。
     なるほど、半神か。まだまだ若く、力強さと可能性にあふれた娘だ。
    「おまえは将来、他の者とは比べものにならないような立派な戦士になるだろうな」
    「本当か!?」
    「もちろんだ。このオイフェが断言しよう」
     クー・フーリンはぱっと花が咲くような笑顔を浮かべた。
     自分の言葉を受けて子どものように大喜びする姿は、愛らしいと思わずにはいられなかった。
     だが、とオイフェは思う。
     血なまぐさい戦場で生き残るには、彼女はあまりに汚れなく、純粋すぎる。
     本来なら美徳とされるそれが、この娘にとって、害とならなければよいのだが。
     そんなオイフェの心情をよそに、クー・フーリンは、あーあ、と宙を仰いだ。
    「オレの国も、あんたの国みたいだったらいいのになぁ」
    「何を?」
    「アルスターにも、あんたの国みたいに女の騎士団があればよかったのになって思ったのさ」
    「おまえが作ればいいではないか」
    「へ?」
     ぽかんとした顔をしたクー・フーリンに、オイフェは続ける。
    「おまえが一流の戦士になって、女たちに戦い方を教えればよかろう。戦に向いた女は意外と多い。おまえが指導すれば、すぐに立派な騎士団ができるだろうさ」
     こぼれ落ちそうなほど見開かれていた目が、きらきらと輝き始める。
    「そっか……なんで思いつかなかったんだろ。そうだ、それだよ!」
     クー・フーリンは大声をあげ、オイフェに抱きついた。
    「お、おい?」
    「ありがとな、オイフェ! やっぱりあんたはすげえや!」
     オイフェは目を白黒させながら、全身で喜びを表している少女を受け止めていた。
    「クー?」
     控えめな女の声に、二人は一斉に振り返った。
     見れば、ウアタハが天幕の布をめくってこちらを覗いていた。
    「おお、ウアタハではないか」
    「叔母上。その……」
     何をしているんだと言わんばかりの顔に、オイフェは苦笑しながらクー・フーリンを自分から引きはがした。そして、立ち尽くす姪に向かってにこやかに言葉をかける。
    「おまえも大きくなったな。見違えたぞ」
    「そんな」
     ウアタハは、身をひそめるようにさっと中に入ってきた。
     座っているクー・フーリンの耳元に口を近づけ、小さな声でささやく。
    「クー、あんまり捕虜と話すのはよくないわ」
    「は?」
    「どうした?」
     大きな声を出したクー・フーリンに、オイフェも眉を上げる。
     ウアタハが制する前に、クー・フーリンは勢いよくオイフェのほうを振り返った。
    「ウアタハが、捕虜と話しちゃダメだって」
     オイフェは瞬きをした。姪を見上げれば、青い顔でおろおろとしている。
     自分の状況を思い出し、思わず苦笑が漏れた。
    「そうだ、ウアタハの言うことは正しいな。私はあくまで人質に過ぎん。そう仲良くするものではないぞ。周りの目もあろう」
    「でも」
     クー・フーリンは不満そうに唇を尖らせた。
    「せっかく凄い戦士に出会えたんだから、話してみたいって思うのは当然じゃねえか」
     嗚呼、とオイフェは内心でため息をついた。やはり、この娘は危うい。
    「ウアタハを困らせるものではないぞ。おまえの身を案じてのことだ。というか、これは私が言う台詞ではないぞ」
    「だって、あんたは別にもうオレに何もしないだろ?」
    「それは、そうだが……」
    「ならいいじゃねえか! おい、ウアタハもここ座れよ。おまえの叔母君なんだろ?」
     オイフェは困った顔をしてウアタハを見た。
     姪は戸惑いの表情を浮かべていたが、好奇心が勝ったらしい。いそいそとクー・フーリンの隣に腰を下ろしてしまった。オイフェは目を丸くした。
    「叔母上に会うのは、久しぶりですから」
     ウアタハは言い訳のように言った。
    「まったく、こちらは戦を仕掛けた側なのに、おまえたちときたら……」
    「もう平和を守るって誓わせたからな!」
     クー・フーリンがにひひと笑う。オイフェは呆れた顔で首を振る。
    「おまえたち、本当に我が姉の娘と弟子なのか?」
    「母は母、私は私です。それに、叔母上は私が幼い頃は面倒を見てくださったでしょう」
    「え、そうなのか?」
    「昔のことだ。私が国を任される前の話だ」
     敵国の女王は鼻を鳴らした。クー・フーリンは、うーん、と頭をかいた。
    「わかんねえな。王様ってやつは、王様になった瞬間に親しいやつも切り捨てちまうもんなのか? 自分の姉の領土に攻め込んだりして」
    「王たるもの、自らの理想とする国を作り上げることは悲願にして義務だ。国の繁栄のためには人や家畜がいる。人や家畜が増えれば土地がいる。しかし、土地は無限ではない。ならば奪うしかなかろう。民を食わせるためだ。それは善悪ではない」
     だいたいな、とオイフェは腕を組む。
    「おまえだって、王という後ろ盾があるから、堂々と戦いで槍を振れるのではないか」
     ぐう、とクー・フーリンはうなった。
    「でも、アイルランドは上王のもとで、王たちはまとまってるし。外敵と戦っても、国同士の戦なんて」
    「なるほど、おまえは島の外で平和な時を過ごしていたらしいな。だが、いいか。国とは生き物だ。獣だ。生きもするし死にもする。大人しく眠っていることもあれば、牙をむき、周りの国々を喰らうこともある。王はこの獣を飼い慣らし、強く育てる義務があるのだ。おまえも王になればわかる」
    「いや、それはねえよ。話を聞いてるだけでも、オレは王サマなんて役割は向いてねえ」
     クー・フーリンは鼻をこすって笑った。オイフェは肩をすくめ、ウアタハに向き直る。
    「ウアタハ。おまえもいつか王の座を継ぐのだろう。そのとき、どのような統治者になりたいのか、しっかり考えておくがよい。もっとも、これも私が言う台詞ではないがな」
    「叔母上……」
     ウアタハはうつむいた。両手を膝の上でぎゅっと握りしめる。
    「私が女王になるなんて考えられません。母上とは全然違うから。私を認めてくださるとは思えないわ」
    「それを言うなら、オレだってスカサハに全然認めてもらえてねえよ」
    「そうなのか?」
     オイフェが首をかしげる。ああ、とクー・フーリンは不満げにうなった。
    「そもそもこの戦だって、最初は城に置いていかれたんだ。薬まで盛られたんだぞ!? 一騎打ちも始めは断られた。言い争って、ようやくだ。オレ、もう弟子の中じゃ一番強いのに。スカサハは、オレのことをまだまだ半人前だと思ってやがる」
     クー・フーリンは拗ねたように頰を膨らませる。オイフェは腕を組んだ。
    「あの姉が、おまえたちを認めていないとは思えんがなぁ」
     意外な言葉に、クー・フーリンとウアタハはオイフェを凝視した。
    「なぜですか、叔母上?」
    「なんでそう言い切れるんだよ」
    「むしろ、おまえたちがそんなことを言い出すほうが驚きだな。姉は確かに気難しいし、冷酷とすら言えよう。だが、信頼のない者に戦の同行を許すはずがない。国の命運を賭けた一騎打ちなんて、なおさらだ」
     オイフェは少女たちの顔を交互に見た。
    「姉は姉なりにおまえたちを信じ、愛しているのだと、私は思うぞ」
     クー・フーリンとウアタハは顔を見合わせた。
     自分たちはスカサハに愛されている?
     その言葉が染み渡ったとき、互いの頰がみるみる紅潮していくのがわかる。
    「え……と。そうなのでしょうか」
    「ははっ、……それだったら、嬉しいけど」 
     オイフェはやれやれと肩をすくめた。年頃の娘は難しいものだ。
    「それもこれも、本当に敵国の私が言うことではないのだがなあ」
     少女たちは密やかに、しかし嬉しそうにはにかんでいる。
     二つ並んだつややかな果実のような笑顔を、可愛らしい、とオイフェは素直に思った。

     重傷の戦士たちの回復を待ったのち、スカサハ軍は影の国へと戻った。
     オイフェとは、国境付近の川で別れることになった。
    「賠償の品は、後ほど使節団を派遣して送らせよう」
     スカサハはうなずく。
    「二度と戦争を仕掛けないという約束は違えぬな?」
    「もちろんだ。この約束を破るようなら、私の不誠実を歌として、アイルランド全土に永遠に語り継いでもらって構わん」
     オイフェは、スカサハの隣で自分を見上げているクー・フーリンに向かって微笑んだ。
    「それに、そこのアルスターの戦士に、不名誉な裏切りの戦士として記憶されるのは耐えがたいからな」
     クー・フーリンはにこっと笑った。隣でウアタハもふふっと笑い声を漏らす。
     スカサハはちらりと二人を一瞥した。
    「ずいぶんと仲良くなったようではないか」
    「今どき貴重な若者たちだ。大事にせい」
     スカサハは黙っていた。向こう岸から、オイフェを迎えにきた兵たちがやってくる。「それでは」とオイフェは身を翻した。
    「さらばだ」
    「ああ」
    「さようなら、叔母上」
     馬に乗り、浅瀬を渡っていくオイフェの髪を陽光が金色に照らし出す。
     負けてもなお誇り高き戦士の背中を、クー・フーリンはいつまでも見送っていた。


     城に戻ると、戦の勝利を祝した大宴会が催された。
     牛、羊、豚、鶏といったあらゆる肉が香ばしく焼かれ、あらゆる香り高い酒が供された。
    「いやあ、本当にクーの戦いぶりはすごかったよ!」
     クー・フーリンは仲の良い弟子仲間に囲まれていた。「そんなことねえよ」と笑えば、「またまたぁ!」と肩を叩かれる。
    「なにせ、あのオイフェを破っちまうんだからなぁ」
    「ああ。まったく見事なもんだ!」
     さあ飲め! と豪快にワインが注がれる。こぼれそうになった酒を慌ててすすれば、また周りからどっと笑い声があがった。それにつられて、クー・フーリンも一緒に笑う。
     嬉しかった。自分のために戦って勝てたのはもちろんだが、こうして仲間たちが一緒に喜んでくれるのが何より幸せだった。
     大広間中ににぎやかな音楽と笑い声が響き渡る。スカサハも上座で満足そうに酒をすすっていたし、給仕に走るウアタハも楽しそうだった。
    「おーい、クー!」
     宴もたけなわを過ぎ、全員にほどよく酔いが回っていびきすら聞こえ始めた頃、広間の端で仲間の一人が手を振った。
    「フェルディアがおまえを呼んでるぞ」
    「フェルディアが?」
     クー・フーリンは酒でふわふわとする足で立ち上がる。
    「なんだ、もう行くのか?」
    「フェルディアが呼んでるってさ。ちょっと行ってくるわ」
    「そうか。それじゃあ、また後でな」
    「おう。ってか、寝るなら部屋戻った方がいいぜ。おまえら今にも寝落ちそう」
    「んー」
     とろんと眠そうな顔で呼び止める仲間に手を振り、クー・フーリンは広間を出ていく。
     しばらくした後、フェルディアが広間に入ってきた。きょろきょろとあたりを見回していたが、やがてこっくりこっくりと船を漕いでいる仲間たちのテーブルにやってきた。
    「なあ、クーを知らないか?」
    「はあ?」
     ぱち、と目を開けた一人がぼんやりとフェルディアを見上げた。
    「さっき、おまえが呼んでるからって出て行ったぞ」
    「なに?」
     フェルディアが眉をひそめる。「そうそう」と別の一人が盃を振って答えた。
    「すれ違いになったんじゃねえの?」
    「そうか……。そうかもな。ありがとう」
    「おう」
     テーブルを離れ、フェルディアは廊下に出た。
     俺があいつを探していることをなんであいつは知っていたんだろう?
     あいつはどこへ行ったんだ?

    「フェルディアはどこにいるって?」
    「裏庭だとよ。じゃあな」
    「おう。ありがとな」
     仲間と別れ、クー・フーリンは歩き出した。
     途中で兵や侍女たちにすれ違えば、「クー・フーリン!」とにこやかに手を振られ、盃を掲げられる。それに笑顔で手を振り返して応える。
     いい気分だった。
     外に出れば、夜風が酒で火照った頰を気持ちよくなでていく。
     さく、さく、と草を踏みながら裏庭に向かうと、やはりそこでは弟子仲間たちが集まって酒を飲んでいた。フェルディアの同期たちだ。
    「なあ、フェルディアを見なかったか?」
    「あ?」
     声をかければ、幾人かが振り返る。顔が真っ赤で目の焦点がぼやけている。どうやら、こちらの面々もすっかり酔っ払っているようだ。
    「おお! 我らが英雄、クー・フーリンじゃねえか!」
     一人ががしっと肩を組んできた。酒くさい息がかかって、クー・フーリンはかすかに笑顔を引きつらせた。
    「おまえら! 俺たちの期待の星がやってきたぜ! もういっちょ乾杯といこうや!」
    「いいねえ!」
     あれよあれよという間にクー・フーリンも大ぶりの盃を押し付けられる。
     受け取りながら、クー・フーリンは兄弟子たちを振り返った。
    「なあ、オレはフェルディアに呼ばれたって聞いて来たんだけど」
    「フェルディア?」
     クー・フーリンの肩を掴んでいた仲間が気づいたようにあたりを見回した。
    「あれー? そういやあいつどこ行った?」
    「厠じゃねえか? 蜂蜜酒の飲み過ぎだろ」
     ゲラゲラと一人が声を出して笑う。
    「ったく、しょうがねえなあ。悪いな、クー。ここで待ってりゃすぐ戻ってくるだろ」
    「いや、別に構わねえよ」
     クー・フーリンは肩をすくめた。いないなら仕方ない。「それじゃあ」と兄弟子の一人が盃を掲げた。
    「我らが影の国の勝利と、クー・フーリンの活躍を祝して! 乾杯!」
     乾杯! と次々に声が上がる。もっとも、野太い声たちは、ほとんど呂律が回っていなかった。
     クー・フーリンも盃を持ち上げ、口をつけた。
    「ん……?」
    「ん? どうした?」
    「これ……、ッ!」
     ぐらりと目の前が揺れた。取り落とした盃が地面にぶつかり、ガチャンと音を立てた。
     酒があたりに飛び散る。クー・フーリンはよろめき、後ずさった。
    「おい、クー!?」
     仲間たちの声が次々に頭の中で反響する。急激に体の力が抜けていく。
     顔が地面にぶつかりそうになったところで、誰かの手が自分を受け止めた。
    「おい」
     低い声が響く。誰かが自分の体を揺すぶっている。
    「あ……」
     うまく動かない口を必死に動かそうとする。だめだ、飲んじゃだめだ。これは、この酒は──。
     そこで、クー・フーリンの意識は途切れた。


     目を覚ましたとき、クー・フーリンの世界は闇だった。驚いて身を起こそうとして、
    「!」
     両手首に痛みが走った。起き上がりそこね、冷たく固い地面に背中を打ち付けた。
     肌を擦る感覚に、頭が急速に覚醒していく。体が太い紐のようなもので縛られている。
     それに、自分の視界が暗いのは……。
    「おい、もう起きたぞ。どうするんだよ」
     ささやくような声が聞こえた。
    「誰だ!」
     叫び声をあげると、きぬ擦れと呼吸の音がはっきりと聞こえた。
     クー・フーリンは、今の自分の状況をはっきりと理解した。
     自分は縛られ、目隠しをされて地面に転がされている。そして、何人かの人間に取り囲まれている。
    「さすがに早すぎるだろ。本当にこの薬か?」
    「スカサハの部屋にあったんだ。間違いない」
     ささやき声で交わされる会話。気を失う直前のことを思い出し、クー・フーリンは歯嚙みした。
     あの酒! 舌を刺すような妙な味には覚えがあった。
     オイフェと戦う前、スカサハが自分を置いていくために盛った眠り薬だ!
     しかし、なぜ? 仲間たちは無事なのか?
     まさか、間者がまだ城の中に紛れ込んでいたのか?
     めまぐるしく飛び交う思考は、あごを掴まれたことで中断した。
     大きく固い手。男の手だ。
    「ぐ……ぅ」
     喉を締められて息が詰まる。蹴りを入れようと足を振り上げるが、力が入らない。
     クー・フーリンは愕然とした。まるで、自分の体ではないみたいだ。
    「ほら、見ろ。意識は戻っても薬はちゃんと効いてる」
     再び、誰かのささやき声。見えない敵に向かって、唯一自由に動く口でクー・フーリンは怒鳴った。
    「おまえら、誰だ! こんなことをして、ただで済むと思うな! それに、オレの仲間はどうした! 無事なのか!?」
     一瞬の間。次の瞬間、爆笑が耳をつんざいた。嘲りの笑い声だ。
    「仲間、か」
     ぐいと髪を掴まれ、無理やり上を向かされる。生暖かい息が顔にかかった。酒くさい。
     クー・フーリンの体が硬くなった。信じたくない考えが、稲妻のように脳を貫いた。
    「そ、そうだ。仲間だ」
     声が震える。再び、馬鹿にしたような笑い声が上がる。
     不意に、誰かの熱い手が自分の喉から肩の線をすうっとなでていき、体がビクリと震えた。髪を一房とられ、軽く梳かれる。
    「おまえがそう思ってくれるなんてありがたいよ」
     何者かは、自分の髪を弄んでいるらしかった。クイと髪を引かれ、「んん」と鼻に抜ける声が聞こえる。
    「──だが」
     いきなり、強い力で胸を掴まれた。
    「痛ぁっ!」
     突然の狼藉にクー・フーリンは悲鳴をあげた。握り潰さんばかりの力でぎりぎりと掴まれている。痛い、痛い!
    「やめろッ!」
     激しく身をよじって逃れようとするが、薬のせいか、体が動かない。
     次から次から伸びてきた手が、太ももや肩を押さえつけてくる。視界を塞がれ、何も見えないことが、さらにクー・フーリンの恐怖を煽り立てた。
    「いやだ! やめろ、やめろ!」
    「仲間、とおまえは言ってくれるが──」
     もはや、ささやき声ですらない。
     クー・フーリンは、目にじわりと涙が浮かぶのを感じた。体が震えだすのを止められない。

    「俺たちは、おまえを仲間だなんて思ったことは一度もない」

     息が止まった。
     大きな手が無遠慮に服の中に入ってきて、腹をなで回していく。
    「スカサハに取り入って、すっかりお気に入りか」
     うそだ、うそだ。
    「後から来た新入りのくせに」
     こんなの、うそだ。
    「何が神の子だ」
     こんなの、

    「こんな無力な、女のくせに」

     ──悪夢だ。
    「ったく、クーのやつ、一体どこへ……」
     フェルディアは立ち止まってため息をついた。
     もう、どれほど探し回っただろう。腕の中で酒の壺がちゃぽんと音を立てた。「二人で飲め」とスカサハからもらったのだ。
     せっかくの上等な酒だ。静かなところでゆっくり楽しもうと思ったのに。
     いい加減、夜も遅い。もう少し探して見つからなかったら、部屋に戻ろうか。そう思い、再び歩きだす。その時。
    「うわぁあああっ!」
    「うわっ」
     ドン! と激しく何かにぶつかり、フェルディアはよろめいた。
     驚いて振り向けば、同期の弟子仲間たちだった。いきなり三人が飛び出してきて、自分にぶつかったのだ。
     声をかける間もなく、二人はばたばたと廊下の向こうに消えていってしまう。
    「どうした」と残った一人に呼びかけようとして、言葉を飲み込む。
     ──右腕が、無い。
    「おい!?」
     驚いてその肩を掴もうとする。だが、弟子仲間の男は悲鳴をあげ、フェルディアから飛び退いた。顔には血の気がなく、目は恐怖で血走っている。
     そこでフェルディアは、男の体にべっとりと血がついていることに気がついた。
     再度手を伸ばそうとしたところで、男は引きつったような声を漏らすと、先に逃げた二人を追って走っていってしまった。
    「…………」
     フェルディアは我にかえり、仲間たちが飛び出してきた扉を見る。
     地下の倉庫に続く階段だ。
     もっとも、この倉庫はほぼ使われておらず、壊れた戦車や武器の物置となっているはずだが。
     フェルディアは眉根を寄せた。床に転々と血の跡がついている。
     酒の壺をそっと床に置く。
     ぐっと唇を引き結び、フェルディアは階段に足をかけた。
     ひどく暗い。呪文をつぶやき、手元に小さな炎を出現させると、足元を確かめながら一歩一歩降りていった。
     長い階段を降り、薄暗い廊下を歩いていく。気のせいか、気温すら下がっていく気がして、フェルディアは身震いした。
     灯した炎で血の跡を照らす。血は点々と続き、ひとつの扉の前にフェルディアをいざなう。
     フェルディアは炎を消すと、腰に下げた剣の柄に手をかける。薄汚れた扉に耳を近づけた。
     静かだ。音はしない。
     フェルディアは剣を抜き、深く息を吸うと、勢いよく中に躍り込んだ。
    「!」
     途端にむわっと鼻をつく濃厚な血の匂い。思わず腕で鼻をかばう。
     それに、なんだろう。かすかに血とは別のにおいが……。
     何かが足に当たって、視線を落とす。その瞬間、フェルディアは息を飲んだ。
     首だ。舌がだらりと垂れ、眼球が飛び出んばかりに見開かれ、激しい恐怖の表情に歪んだそれは──仲間の首だ!
    「何者だ! 姿を見せろ!」
     我も忘れて、フェルディアは叫んだ。仲間を無残に殺された怒りに、目の前が真っ赤になった。
     剣を握りしめ、薄暗い部屋の中を突き進んでいく。
    「俺の仲間を殺しやがって──どこのどいつだ。出てこい! この──」
     目の前が開けた瞬間、フェルディアは言葉を失った。

     足元を濡らすおびただしい血の海。
     床に転がったいくつもの死体。
     むせかえるような、生臭いにおい。
     その中央に立っていたのは。

    「クー……?」

     探していた少女が、生まれたままの姿で立っていた。

     フェルディアは、金縛りにあったように動けなかった。
     薄暗く、ほこりにまみれた部屋の中を、壁のかがり火たちが照らしている。小さな炎は、クー・フーリンの白磁の肌をもぼんやりと照らし出していた。
    「うわっ!」
     フェルディアは叫んだ。慌てて目をそらし、急いで自分のマントを脱ぐ。
    「ばっ、おまえ、なんて格好……!」
     マントを差し出しかけて、フェルディアは凍りついた。
     目の前の彼女は、彼女ではなかった。
     いつも綺麗にまとめられていた髪はぐしゃぐしゃと乱れ、顔を半分覆っている。
     腹や胸は赤黒く汚れており、垣間見えた瞳は硝子のように虚ろだった。
     マントを握るフェルディアの手が震える。そのときだ。
     彼女の白い太ももに、一筋の血が流れ落ちた。
    「クー……?」
     開いた口からこぼれでた声は、自分でも驚くほどにかすれていた。兄弟子の呼びかけに、クー・フーリンの頭がかすかに動く。
    「フェ、ルディア……?」
    「クー……お、まえ」
     その瞬間、焦点が合っていなかったクー・フーリンの目つきが変わった。
    「あああああっ!」
     突如咆哮をあげ、クー・フーリンはフェルディアに飛びかかってきた。
    「なっ!?」
     驚いて身をかわす。腕に鋭い痛みが走った。マントがばさりと床に落ちる。
     振り返れば、クー・フーリンの手元には尖った何かが握られている。楔だ。
     腕を押さえ、フェルディアは呆然と妹分を見た。
     血走った両目は狂気に光り、殺気立っている。その姿に背筋がぞっと冷たくなる。
    「おい、クー! 何を」
    「あああっ!」
     再び襲いかかってきたクー・フーリンを、フェルディアは正面から抑えた。
     両手首をきつく握りしめる。その手から、錆びた楔がぽろりと落ちる。
     だが、ほっとしたのもつかの間、クー・フーリンは獣のように叫び、めちゃくちゃに暴れ始めた。その勢いは凄まじく、手加減していてはとても抑えられない。
     やむなく、フェルディアは全体重をかけて彼女を壁に押し付けた。それでも、クー・フーリンの狂乱は止まらない。
    「フェルディア、フェルディア! おまえが、おまえがぁ!!」
    「落ち着け、クー! 俺がどうした!」
    「おまえが言ったから! おまえが! おまえがやった! おまえが、おまえが!」
    「クー、落ち着け、なんの話だ!」
    「あいつらが言った! おまえがオレを呼んだって! だからオレは来た、ここに来たのに!!」
     フェルディアは心臓を氷で刺されたような気がした。
    「俺はそんなこと言っちゃいない。おまえを探してここに来たんだ!」
    「嘘つき! 嘘つき! 嘘つき! おまえはいつも嘘つきだ!」
    「嘘じゃない! クー、俺の目を見ろ!」
     ぐっと顔を寄せて妹分の目を覗き込む。クー・フーリンはふーっふーっと荒い息を吐きながら、凄絶な目つきでフェルディアを睨みつけた。
    「俺は何も知らなかった。頼む、クー。俺を信じてくれ」
     しばらく、無言で二人は見つめ合う。フェルディアは、目をそらしたくなるのを必死にこらえた。
     やがて、クー・フーリンの目に正気が戻り始めた。
    「あ……」
     クー・フーリンの体から急速に力が抜けていく。フェルディアが手を離すと、その場にぺたりと座り込んだ。
     そこで初めて、フェルディアは彼女の両手首に太い革紐が垂れ下がり、皮膚がずたずたに破れていることに気づいた。よく見れば、体中に引っかき傷や殴られたような痕がある。
    「あ……あ……」
     クー・フーリンは小さく震え出し始めた。
    「あ……いやだ……そんな……」
    「クー……?」
    「いや……いや……」
     クー・フーリンは両手で自分の頭を押さえる。フェルディアは床に落ちたマントを拾い上げ、おそるおそる彼女に近づいた。
    「なあ、クー、大丈──」
    「やだ! やだぁぁ!!」
     喉が張り裂けそうな声でクー・フーリンは叫んだ。
     驚いたフェルディアが手を伸ばそうとすると、悲鳴をあげながら必死に後ずさる。しかしすぐに背中が壁にぶつかり、半狂乱になって泣き叫んだ。
    「いや! 来るな! 来るなぁ!!」
     クー・フーリンはそのまま体を引きずって逃げようとした。だが、ぼろぼろの手足がうまく動かないのか、その場に倒れ込んでしまう。
     ガタガタと震え、恐怖に満ちた目でフェルディアを見上げる。その目が映しているのは、もはや「フェルディア」ではない。
    「うっ」
     不意にクー・フーリンは身をよじった。苦しげにうずくまり、激しく嘔吐した。
     フェルディアは慌てて自分のマントを広げ、クー・フーリンの体を包んだ。
    「クー、クー! しっかりしろ!」
     体の中のものを全て絞り出すように吐き続ける。フェルディアは何度もその背をさすった。
     やがて嘔吐がおさまると、クー・フーリンはぐったりと壁にもたれかかった。
     いつもいきいきと笑顔を浮かべていた顔には血の気がなく、亡霊のように真っ白だった。
     フェルディアは目が熱くなるのを必死でこらえた。
     何があったのか、という問いを口にすることはできなかった。頭にのぼった血が降りてしまえば、この状況、嫌でも察しがついてしまう。
     思考を放棄しそうになる頭を必死に動かしながら、フェルディアは口を開いた。
    「傷の手当てをしないと。クー、上に戻ろう。歩けるか?」
     そう言って肩に触れようとする。クー・フーリンは怯えた表情を浮かべ、「いやっ」と身を引いた。フェルディアはぱっと手を離した。
     クー・フーリンは壁の暗がりに身を寄せ、体を丸めて泣き声をあげた。
    「すまない、クー。わかった、大丈夫だ、おまえには触らない。けど、上に戻らないと。それに、スカサハにも伝えないと……」
     びくっとクー・フーリンの体が震えた。勢いよく振り向くと、フェルディアの太い腕に必死の形相で縋りついた。
    「いや、だめ、だめだ、言わないで!」
    「だが……」
    「いやあ! 言わないで! 言わないで!」
     クー・フーリンの目から涙がぶわっとあふれ出す。懇願の叫びは、もはや悲鳴に近かった。
    「スカサハには言わないで! 頼む、フェルディア、お願い、お願い!」
    「クー、落ち着いて……」
    「いや、いやだ、こんなの、こんなの……スカサハに知れたら……違う、オレ、こんな……」
     
    「何をしている?」

     ひく、とクー・フーリンの喉が引きつった。
     クー・フーリンとフェルディアが振り向けば、この城の城主にして、二人の師であるスカサハ、その人が立っていた。

    「何を、している?」

     その声に温度はない。「あ……あ……」とクー・フーリンは怯えたような声を漏らした。
     フェルディアは、急いで彼女をかばうように前に出る。
    「スカサハ、違うんです、これは」
     ぴた、とフェルディアの喉元に穂先が突きつけられた。
     感情のない瞳がこちらを見下ろしている。
     つう、とこめかみから汗が伝う。師から立ちのぼる圧で、臓腑の内から凍るようだ。
    「何をしている、と問うておるのだ」
     フェルディアはごくりとつばを飲み込んだ。下手なことを言えば殺される。ずっと彼女の元で修行してきた彼には、その確信があった。
    「その……」
     不意に脇腹に衝撃を受け、フェルディアは床に手をついた。
     驚いて振り返れば、クー・フーリンが手に短刀を握っている。フェルディアが腰に差していた短刀だ。
     クー・フーリンは奪い取った短剣を握り直し、そのまま躊躇なく自分の喉に突き立てようとした。
    「よせ!」
     フェルディアは彼女に飛びかかり、短刀を掴むと、細い首にすばやく一撃を食らわせた。
     クー・フーリンはぐうっとうなり、昏倒する。
     はあ、はあ、と荒い息をつきながら、フェルディアは倒れたクー・フーリンを見下ろした。
     耳元で、どくどくと激しい動悸の音がする。短刀の刃を強く握りしめた手からは、血がぼたぼたと流れていく。
    「フェルディア……」
     低い女の声に、フェルディアはゆっくりと振り返る。
    「いったい、何が……」 
     槍を構えたままのスカサハが、揺らいだ瞳で立ち尽くしていた。
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