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    Haruto9000

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    Haruto9000

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    「クー・フーリンが女性だったら」妄想。
    ※FGO第1部のみの情報で書いていたので、設定ズレなどはご容赦ください。

    【あらすじ】
    無事に息子を出産したクー・フーリンだが、スカサハに息子を殺されかける。
    信頼していた師の行動にショックを受ける彼女。
    それでも、兄弟子のフェルディアや女王オイフェ、スカサハの娘・ウアタハたちに支えられながら、子どもを育てようとするが…。

    #女体化
    feminization
    #クー・フーリン
    kooHooLin

    ミラーリング #10(影の国編:後編)猛犬の息子願い最終試験帰還猛犬の息子
     轟く怒声。馬のいななき。赤く染まる川。
     バシャバシャと水しぶきを上げながら浅瀬を渡る。枯れた森を抜けたところで、空に向かって激しく燃え上がる火柱が目に飛び込んでくる。城だ。城が燃えている!
     ──助けて!
     誰かの叫び声が聞こえ、その方向へ向かって走る。
     ──助けて、誰か!
     バチバチと音を立てて炎上する城壁を見上げれば、誰かが自分に向かって手を差し出している。
     ──お願い、誰か。誰か、助けて!

    「……きろ、クー! 起きろ!」
     強く揺さぶられ、目を開けた。オイフェが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
    「ひどくうなされていたぞ。大丈夫か?」
    「あ、ああ……」
     いまだ動悸はおさまらない。嫌な夢を見ていた気がする。呆然としながら汗をぬぐったところで、クー・フーリンは慌てて起き上がった。
    「オイフェ、子どもは!?」
    「安心せい。ほら、そこに」
     オイフェが示したほうを見れば、寝床のすぐそばに置かれた籠の中に赤ん坊は寝かされていた。ほうっと息をつく。
     身を乗り出して見れば、赤ん坊はすやすやと眠っていた。
    「乳母が乳を飲ませたのでな。腹がいっぱいになって、寝ているところだ」
    「そっか……」
     クー・フーリンは、こわごわと指で赤ん坊の手をつついた。春先の若芽のような、小さな小さな手だ。
     不意にその手が開かれ、クー・フーリンの人差し指をきゅうっと握る。胸が高鳴り、クー・フーリンは顔をほころばせた。
    「クー」
     己を呼ぶ声に、クー・フーリンは振り返った。そこには、ウアタハが今にも泣き出しそうな顔で立っていた。
    「母上のこと、本当に、本当にごめんなさい!」
     クー・フーリンの胸は氷で突き刺されたように冷たくなった。赤ん坊に目をやる。スカサハは、この小さないきものを殺しかけたのだ。
    「なんで……」
     声が震える。
    「なんで師匠は、あんなこと」
     ウアタハはうつむいた。
    「……多分、望んで生まれた子じゃないから。それで、母上は」
    「そんな……それでも、ひどすぎる!」
     思わず声を荒げる。赤ん坊がむずがるような声をあげた。
    「静かにせい! 起きてしまうだろう!」
     オイフェに諌められ、クー・フーリンは慌てて口をつぐんだ。それでも、胸いっぱいに広がった怒りと悲しみは収まらない。
     よりによって、尊敬していた師による仕打ちが信じられなかった。
    「ウアタハを責めても仕方なかろう。今は、とにかく体を休めよ」
     オイフェがなだめるように言った。
    「姉上のことは私に任せておけ。おまえは、まず体力を回復させねばな」
     そう言ってクー・フーリンの肩を叩くと、 オイフェは姪にも笑いかけた。
    「おまえも、そう思い詰めるな。それより、初めての助産は大変だったろう。よくやった。おまえもしっかり休め」
    「叔母上……」
     ウアタハは目に涙をためたまま、こくりとうなずいた。
     クー・フーリンは気まずそうな顔でうつむいたが、やがてウアタハに向き直った。
    「……その、悪かった。色々とありがとう、ウアタハ」
    「クー……」
     ウアタハは泣き笑いのような顔をした。二人の間の緊張がやわらぎ、オイフェが口元を緩める。
    「そういえば、ずっと廊下で待っている男がいるぞ」
     オイフェの言葉に、クー・フーリンとウアタハは、不思議そうに顔を見合わせた。
    「フェルディア、とか言ったか? 銀髪の」
    「あっ!」
     ウアタハは口に手を当て、クー・フーリンを見上げた。
    「お産のときから、ずっと外で心配してるの。男性は産屋に入れないから。終わったら入ってもいいんだけど、あなたが眠っていたから……」
    「なんだ、じゃあ、入ってもらえよ」
     クー・フーリンは言った。
    「あいつにも、この子を見せてやりたい」
     ウアタハが扉を開けると、転がり込むようにフェルディアが入ってきた。焦りと不安がごちゃまぜになった顔をしている。
    「クー!」
    「フェルディア」
     クー・フーリンは、親友の姿を見てにっこり笑った。
    「産まれたんだな」
    「ああ」
     フェルディアはほーっと長い息をつき、空を仰いだ。
    「ああ神様、感謝します。それで、男か? 女か?」
    「男。見てみろよ」
     クー・フーリンが体をどかせば、フェルディアは籠の中の赤ん坊を見つめた。端正な顔がふわりとほころぶ。
    「ん、なんだフェルディア? 泣いてんのか?」
    「な、泣いてない」
     フェルディアは慌てて目をぬぐった。それでも、目の奥に光るものは隠せない。
    「……本当に、よかった。クー、よく頑張ったな」
    「ありがとな、フェルディア」
     二人は顔を見合わせ、にっこり笑い合った。
    「そうしていると、まるで夫婦のようだな」
     笑いを含んだオイフェの言葉に、クー・フーリンとフェルディアはぱっと顔を赤くした。
    「そ、そんなんじゃねえよ」
    「オイフェ様、からかわないでください」
    「おお、すまん。まったく若さとは眩しいものよ」
     オイフェはからからと笑った。二人は困ったように顔を見合わせる。その時、赤ん坊がふあ、と声をあげた。
    「抱いてやれ、クー」
     オイフェがうながす。
    「お、おう」
     クー・フーリンはおそるおそる赤ん坊を抱き上げた。意外と重い。背中をトン、トンと叩いてやると、赤ん坊はすぐにまた眠ってしまった。
    「そういえば、名前はもう決めたのか?」
     フェルディアがささやいた。ウアタハやオイフェもクー・フーリンを見る。
     クー・フーリンは赤ん坊をゆらゆらと揺らしながらうなずく。女だったら強く咲く花の名前を、男だったら尊敬する戦士の名前をつけるつもりだった。
    「コン──」
     そこでクー・フーリンは唐突に黙り込んだ。「コン?」とウアタハが聞き返す。
     クー・フーリンは赤ん坊の顔をじっと見つめた。舌先に乗せかけた名前を飲み込み、考えをめぐらせる。
     そうだ、あの戦士の名前は何といっただろう?
     幼い頃、祖父の膝の上で何度もせがんで聞いた物語に出てくる、英雄の名前──。
    「コンラ」
     クー・フーリンはつぶやいた。
    「コンラ。そう、コンラがいい」
    「コンラか。よい名だ」
     オイフェがうなずいた。
    「コンラ、コンラちゃん」
     ウアタハも嬉しそうにその名を口の中で転がす。
    「それ、聖石の英雄譚に出てくる戦士の名前だよな?」
     フェルディアの言葉に、クー・フーリンはうなずいた。
    「そう。あの物語みたいに、強い戦士になってもらいたいと思って」
    「クー・フーリンよりもか?」
     フェルディアがにやりと笑う。
    「うーん、それは……ううん、子どもに負けるっていうのもくやしいかも……」
    「今から赤ん坊と張り合ってどうする」
     オイフェが呆れたように言った。さざめくような笑い声が広がる。
     クー・フーリンは赤ん坊に頰を擦りつけた。ほのかに甘い乳の匂いがする。その匂いを胸いっぱい吸い込み、目を閉じる。
     愛せる、と思った。大丈夫、自分はこの子を愛することができる。
    「おまえのお母様だよ。初めまして、コンラ」
     温かく、やわらかい小さないきものに口づけし、クー・フーリンは微笑んだ。


     城中が寝静まった頃、オイフェはスカサハと対峙していた。鋭い視線にも、影の女王は動じることはない。
    「一体どういうことだ、姉上」
     スカサハは答えない。己の魔槍を細い指でなでるだけだ。
    「……聞き方を変えよう」
     妹は大きく息を吸い、どこか労わるような目で姉を見た。
    「何を視た?」
     揺らめくかがり火の炎を受けて、赤い魔槍が鈍く光った。
     

     クー・フーリンの出産から日が経ち、慌ただしかった城内は平穏を取り戻した。クー・フーリン自身も、すっかり元気を取り戻したように感じていた。だが。
    「なあ、そろそろ槍の練習してもいいだろ?」
    「駄目だ」
     オイフェは首を振った。
    「いくら見た目は元気でも、お産を終えたおまえの体の中はぼろぼろだ。回復するまで大人しく寝て過ごせ」
    「ちょっとした怪我はオイフェがちゃちゃっと治してくれたじゃんか」
    「私ができるのは本人の治癒力を手助けすることだけだ。それに、お産はちょっとした怪我ではない」
    「でも」
     クー・フーリンが口を尖らせると、オイフェは怖い顔をして言った。
    「産褥期を甘く見るな。産後の肥立ちが悪くて死んだ女を、私は何人も知っている。高熱が出て何日も苦しみ、激しく出血し、我が子をほとんど抱くこともできぬまま、最後には」
    「わ、わかったよ」
     クー・フーリンは慌てて言った。そんなことになってはたまらない。しぶしぶ寝床に横になったが、またすぐにぶうぶう言い始める。
    「たーいーくーつー」
    「うるさい。魔術の練習でもしたらどうだ」
     そう言ってから、オイフェはしまったと口をつぐんだ。
     結局あの日から、クー・フーリンとスカサハは顔を合わせていない。
     オイフェがいくら姉を問い詰めても、スカサハは何も答えることはなかった。最後にはオイフェも諦め、時が解決するのを待つことにしたのだ。
     魔術を学ぶことを喜んでいたクー・フーリンも、今はぱったりと練習をやめてしまった。
     オイフェは口を滑らせた自分を呪い、クー・フーリンの顔色をうかがったが、彼女は顔色一つ変えずに「うーん、それはいいや」と答えた。
    「それであれば、詩の練習でもしておれ」
    「詩ぃ?」
     普通に答えるクー・フーリンに、オイフェは内心安堵する。
    「そうだ。敵将の前で優れた詩を唄うことも、戦士にとっては重要だ」
    「オレ苦手なんだよなぁ」
     オイフェはため息をついた。その時、籠で眠っていたコンラが泣き声をあげ始めた。クー・フーリンはすぐに起き上がり、コンラを抱き上げる。
    「おー、どうしたおちびさん? お腹減ったのか?」
     クー・フーリンはガウンをはだけ、乳を与え始めた。幼子は母親の顔を見上げながら、一心不乱に乳を飲む。
    「もう、あなたがお乳をあげちゃったら、何のために乳母がいるのか分からないじゃないの」
     ウアタハが呆れたように言った。
    「そうは言っても、胸が張って仕方ねえんだよ。出るなら飲ませた方がいいだろ。もったいないし」
    「もったいないって……」
     ウアタハが額を押さえた。視界の端でオイフェが笑いをこらえているのが見える。
    「まあ、猛犬の好きなようにさせておけ」
    「もう〜……」
    「お、もういいのか?」
     コンラが胸から顔を離した。背中を叩いてやれば、けぷ、と小さなげっぷを漏らす。そのまま揺らしていると、赤ん坊はうとうとし始めた。
     クー・フーリンは穏やかな顔でコンラを見つめている。微笑ましい光景だった。
     ウアタハは、まあいいか、と肩をすくめた。

    「よう」
     明くる日、フェルディアが訪ねてきた。クー・フーリンが人差し指を口に当てると、得心したというようにうなずき、足音を立てずに入ってくる。
    「よく寝てるな」
     籠の中の赤ん坊を見ながら、フェルディアがささやいた。クー・フーリンもうなずく。
    「夜中に泣いたりもするんだろ。大変じゃないのか?」
    「侍女たちがいるから。あと、あやすのは女中頭がすごくうまい」
    「え、あの、やたらとその……体格のいいご婦人か?」
    「そう。子どもを6人も育てた、たくましいご婦人」
     二人は顔を見合わせ、しのび笑いをする。コンラがむにゃむにゃと声をあげ、クー・フーリンがその手を優しくなでた。
     赤ん坊の胸をゆっくり叩きながら、低い声で歌を歌う。コンラの眉のしわが取れていき、また穏やかな寝息を立て始める。
    「すっかり母親業が身についた感じだな」
     フェルディアが感心したように言った。
    「そんなことねえよ」
     クー・フーリンがかぶりを振る。フェルディアはしばらくコンラの顔を眺めていたが、思いついたように口を開いた。
    「ふと思ったんだが」
    「ん、何?」
    「コンラにとって、俺は伯父ってことになるんじゃないか?」
    「はあ?」
     何を言っているんだという目でクー・フーリンはフェルディアを見上げた。
    「いやほら、俺はおまえの兄みたいなものだろ。だから、その子にとって俺は伯父に当たる、と」
    「あー、なるほど」
     クー・フーリンはうなずき、クスッと笑った。
    「そうだな、それもいいかも」
    「お母様のお許しが出たな。ほーらコンラ、伯父上だぞー」
     フェルディアがささやきかければ、コンラはふにゃあというような声を漏らした。二人は顔を見合わせる。
    「返事か?」
    「そうかも」
     二人で小さく吹き出す。昼下がりの午後がゆっくり流れていく。


    「妙だな」
     ウアタハがコンラをあやしているのを見ながら、オイフェがつぶやいた。
    「なにが?」
     クー・フーリンはマントを繕う手を止めて、顔をあげた。
    「コンラのことだが……この時期の赤ん坊にしては行動が高度というか、成長が早い気がする」
    「そうか?」
     子どもを見れば、あーあーと声をあげながら、ウアタハが目の前で振るおもちゃを手で追いかけている。おもちゃは、兄弟弟子たちが木や布で作ってくれたものだ。
    「あの様子だともうすぐ座ることもできそうだし、自分で動き回ることも始めそうだ」
    「そんなもんかねえ」
    「ああ。やはり神の血が流れているからだろうか。興味深いことだ」
    「まあ、オレだって3歳の頃には寝台を叩き壊してたからなぁ」
     ぎょっとした顔でウアタハとオイフェが自分を見た。引いた様子の二人に、クー・フーリンは慌てて言い足す。
    「いや、まあほら、オレは父上が太陽神なわけだし? すこーしばかり人より力が強かったっていうか。そ、それに叔父貴ならオレ相手でも平気だったし!」
     ハハハハ、と笑い声をあげる。ウアタハとオイフェは顔を見合わせ、何とも言えない表情を浮かべた。
     それを見ながら、クー・フーリンは、幼子の自分は寝台を壊しただけでなく、自分を起こしにきた召使いに怪我をさせたことは──いや、怪我なんて可愛らしいものではなかったことは、黙っていることにした。
     あうー! とコンラが声をあげた。構ってもらえないことが不満らしい。
     ウアタハは慌てて向き直り、手に持ったおもちゃを差し出してみせる。
    「ほーら、コンラちゃん。おうまさんよ」
     ぱかぱかぱか、と馬の形のおもちゃを走らせる真似をすれば、コンラは興奮したように手足をばたつかせた。
    「地面にひっくり返った虫みたいだな」
    「何を言っておる」
     しばらくコンラはもがもがと動いていたが、やがてころん、と寝返りを打った。
     オイフェが目を丸くする。赤ん坊は一瞬動きを止めたが、すぐにまた反対側にころんと転がった。
     やがて、寝返りを打った姿勢からぱたぱたと手足を動かし始める。小さな手を床に着き、まるで体を支えるかのようだ。
    「まさか」
     オイフェがつぶやく。クー・フーリンとウアタハも、吸い込まれるように赤ん坊を見つめた。
     やがて、コンラはむくりと起き上がり、そのままぺたりと尻を着いた。不思議そうに目をぱちぱちと瞬かせている。
    「いや、これは驚いた」
     頭に手をやり、オイフェは感嘆したように言った。
    「もう一人で座ることができるとは」
    「すごい! えらいぞ、コンラ!」
     クー・フーリンはコンラを抱き上げて頬ずりした。母親に褒められたのが嬉しかったのか、赤ん坊はきゃあきゃあと笑い声をあげる。
    「この分だと、喋り始めるのもそう遠くはないかもしれんなぁ」
     戯れる母子の様子を見ながら、オイフェは笑った。

    「おお、今日も坊主は元気そうだな!」
     コンラは兄弟弟子たちの間でも大人気だった。
     クー・フーリンは、日中はコンラを連れてよく散歩をしていたが、兄弟弟子たちは彼女を見つけると駆け寄ってきて、わいわいと取り囲むのだった。
    「そーれ、べろべろばあ!」
     仲間たちがコンラをあやせば、赤ん坊はきゃっきゃっと笑い声をあげる。その無邪気な笑顔を見て、仲間たちの目尻がでれでれと下がるのが面白く、クー・フーリンはくすくすと笑った。
    「それにしても愛らしい子じゃないか。俺の娘が赤ん坊の頃にそっくりだな!」
    「おまえ、娘がいたのか!?」
     仲間の言葉に、フェルディアはびっくりして言った。
    「おうともさ! これがまた、嫁に似てべっぴんでなぁ。もう可愛くて可愛くて」
    「髭面のおまえさんに似なくてよかったじゃないか!」
    「なんだと!? こいつめ!」
    「うわ、すまん、悪かったって!」
     ぎゃあぎゃあと騒ぐ仲間たちを見ながら、クー・フーリンは首を傾げて言った。
    「じゃあ、嫁さんと娘さんを置いてここに来たのか?」
    「そりゃあそうだ」
     仲間の頭を太い腕で絞めていた兄弟弟子は、当たり前のようにうなずいた。
    「俺の場合は、マンスター国王から直々のお達しってこともあったが、何より強くなって戦うことは戦士の使命だからな。嫁もそこら辺は理解してくれてるさ。ああ、でも」
     兄弟弟子は、ふっとなつかしそうに目を細めた。
    「国を離れてからもうだいぶ経つからな。娘もだいぶ大きくなってるだろうなぁ……」
    「…………」
     クー・フーリンは、じっと仲間の顔を見つめた。コンラが「うー!」と声をあげる。兄弟弟子は、はっと我に返ると、にこにことコンラを抱き上げた。
    「よしよし、坊主! どれ、おじさんが高い高いをしてやろう!」
    「あ、おまえずるいぞ! 次は俺だ、俺!」
     仲間たちが楽しそうに赤ん坊と遊ぶ姿にクー・フーリンは口元を緩めたが、その目がどこか遠くを見ていることに、フェルディアは気づいていた。
    願い
     クー・フーリンは眠っているコンラを抱いたまま、月を眺めていた。
     満ち始めた月は、夜空を切り裂く刃のように光っている。ざざん、ざざんと寄せては返す波の音が、耳に響く。
     クー・フーリンは、この海に面した城壁から夜空を見るのが好きだった。目を閉じて、涼しい夜風を顔に受ける。
    「ここにいたか」
     静寂を裂く声に、体がこわばった。コツ、コツ、と足音が近づいてくる。クー・フーリンは息を吐き、ゆっくりと振り返った。
    「師匠……」
     長い髪をなびかせ、暗がりからスカサハが姿を現した。
     月明かりに照らし出された影の女王は、ぞっとするほど美しかった。
     クー・フーリンはコンラを抱く腕に力を込める。スカサハは足を止め、じっと弟子を見つめた。その双眸は透き通るように美しいのに、まるで底が見えず、恐ろしい。
    「……何か用か」
     震えないよう、懸命に抑えた声は低くこもった。スカサハはクー・フーリンを見つめたままだ。
     不意に、腕の中のコンラがむずがるような声をあげた。母親の緊張や不安を感じ取ったのだろうか。なだめる間も無く、コンラは大声で泣き始めた。
     クー・フーリンは慌てて静かにさせようとするが、コンラは泣き止まない。
     スカサハが一歩足を踏み出した。クー・フーリンはびくりと肩を震わせ、泣き叫ぶ子どもを抱えたまま一歩退がる。
    「貸せ」
     スカサハが片手を差し出した。クー・フーリンは驚き、赤ん坊をかばうように体を背けた。
    「嫌だ」
    「貸せと言っている」
    「嫌だ。あんたに渡したら、何をされるか」
     クー・フーリンはスカサハを鋭い目で睨みつけた。コンラはいっそう激しい声で泣く。
     スカサハは手を下ろす。師はうつむきかけたが、それも一瞬で、すぐに顔をあげた。
    「すまなかった、セタンタ」
    「何を……」
    「私はもうその赤子を殺したりはせん。ゲッシュを交わしてもよい。何もせん。だから、貸してみよ」
     クー・フーリンはたじろいだ。コンラは、どこからそんな声が出るのだろうかと思うほどの大声で泣き続けている。城中の者が起きてしまいそうなほどだ。
     クー・フーリンは迷ったが、ためらいがちにスカサハに我が子を差し出した。
     スカサハはコンラを受け取ると、しっかりと胸に抱いた。泣き続ける赤ん坊の小さな体を、ゆっくりと優しく叩く。
     驚いたことに、コンラの泣き声が徐々におさまってきた。やがて、ひっく、ひっくとしゃくり上げる声だけが残り、それもすぐに静かになる。
     クー・フーリンが子どもの顔を覗き込めば、コンラは濡れた大きな目でスカサハを見上げていた。
     スカサハは赤ん坊の頰を細い指で優しくぬぐい、背をトントンと叩く。次第にコンラはうとうとし始め、そのまま眠ってしまった。
    「まじかよ……」
    「これまで私は何人も子を育てた。おまえより子守はずっと慣れている」
     思わずクー・フーリンがスカサハを見れば、師はフンと鼻を鳴らした。コンラは、師の腕の中でぐっすり眠っている。
     クー・フーリンはスカサハが何を考えているのかわからなかった。こんなに何もわからない人は、生まれて初めてだ。
    「あ、えっと、じゃあ……」
     クー・フーリンはコンラを受け取ろうと手を伸ばしたが、スカサハは首を振った。
    「深く眠るまで、もう少しこのままだ」
    「…………」
     スカサハはコンラを抱いたまま、積まれた石塊に腰かけてしまう。
     眠る我が子を無理やり奪うわけにもいかず、クー・フーリンは立ち尽くした。スカサハは弟子をちらりと横目で見る。
    「座らんのか」
    「えっ……」
     スカサハはすぐにまた視線を前に戻す。
     クー・フーリンは、黙ってスカサハの隣に座った。スカサハの一挙一動を見逃すまいと、全身を緊張させる。
     今にもこの人は目の前の海にコンラを投げ込むかもしれない。刃物を取り出して刺すかもしれない。
     ぴりぴりと警戒に体をこわばらせながら、クー・フーリンはスカサハの横顔を見つめた。
    「もう何もせんと言っただろう。そう警戒せずともよい」
     スカサハは振り返りもせずに言った。
    「なんで」
     クー・フーリンは口を開いた。
    「なんであんたは、あんなことしたんだ」
     潮風がビュウ、と音を立てて吹き抜ける。スカサハは答えず、コンラに視線を落とした。
    「おまえは、この赤子が愛しいか」
     スカサハが問うた。愚問だとばかりに、クー・フーリンは声を荒げた。
    「愛しいに決まってる! オレの子だぞ!?」
    「暴行された上、父親がわからないのにか」
    「ッ、それは……」
     クー・フーリンは口ごもった。あの日の記憶は消えぬ刃となり、今でも彼女の心臓を切りつける。
    「……それでも、オレの子だ。父親なんて関係ねえ。この子には生きる権利がある、から」
     こぼれ落ちるような独白に、スカサハは、ぽつりとつぶやいた。
    「さだめ、か」
     言葉の意味を聞き返す間もなく、スカサハは続けた。
    「この世には、大きな力が動いている」
     唐突な師の言葉に、クー・フーリンは戸惑った。
    「……ええと、それって、神のこと?」
    「神ですら逆らえぬ、もっと大きなものだ。その力は流れを生み、生や死を含んだ全ての世界を動かしている」
    「……よく分からない」
    「今は分からずともよい。だが」
     スカサハは振り向いた。その恐ろしいほど強い視線に射抜かれ、クー・フーリンはたじろぐ。
    「セタンタ。おまえはここに何をしに来た?」
     クー・フーリンは息を飲んだ。
    「それ……は」
    「おまえの役割は何だ?」
     畳みかけるように、スカサハは問う。

    「おまえは何のために生を受けた?」

     稲妻のように、鮮明な光景が脳裏に走った。
     遠い昔の、大事な大事な記憶。
     汚れた手を握りながら、あの人は言った。ああ、まさか。この子が。この子こそが。
    「アルスターの盾……」
     クー・フーリンがつぶやく。スカサハは夜空に視線を移した。
     濃紺の空には、銀砂をまいたように、幾万もの星々がきらめいている。
     クー・フーリンも空を見上げた。そのとき、すうっと星が流れた。思わず、あ、と声をあげる。星は白い尾を引き、瞬く間に消えていった。
    「オレ、は」
     クー・フーリンはつぶやき、足元に視線を落とす。
    「ただ、偉大な戦士になりたくて」
     スカサハは何も言わずに聞いている。
    「憧れの、人がいて」
     自分の手をぎゅっと握りしめる。
    「オレが強くなれば、認めてもらえるって思って。オレはただ、それだけで」
    「そうか」
    「……正直、アルスターの盾だって言われても、どうしたらいいのかわからねえよ。何が起きるのか、何をすればいいのかもわからないのに」
     クー・フーリンはうつむいたまま、ぽつりぽつりと吐き出す。今まで泥のように沈んでいた心の澱がかき乱されて、ぽろぽろと口からこぼれていく。
    「時が来れば、おまえも悟るだろう」
     スカサハは答えた。
    「おまえは、大いなるものから使命を与えられて生まれたのだ」
     クー・フーリンは黙ったまま、スカサハに抱かれたままの我が子を見た。
     赤子は安らかな表情で眠っている。可愛い、と思う。可愛いはずだ。
     だが、なぜかその寝顔を見ていられなくなって、クー・フーリンは顔を背けた。
    「オレは、自分は何でもできるって思ってたよ。前はな。でも、今のオレに」
     クー・フーリンは吐き捨てるように言った。
    「何ができるって言うんだ」
     沈黙が落ちる。クー・フーリンは、落ち着かない気持ちになって立ち上がった。
     城壁に両肘をつき、暗い海に目線を投げる。目が潤み出すのを感じ、表情を隠すように片手で口を覆う。
    「セタンタ」
     師が呼びかけてくる。口を開けば嗚咽が漏れ出しそうな気がして、クー・フーリンは答えない。
     やがて、かすかな衣擦れの音が聞こえた。気配が近づいてきて、スカサハが隣に立ったのがわかる。
     赤くなったであろう目を見られないよう、クー・フーリンは頑なに海を見つめ続ける。
     やがて、スカサハが口を開いた。
    「私は、とうの昔にヒトの心を失った。その時から、思い悩むことも、何かを感じることもなくなった。この国を治めるにはそのほうが都合がよかったから、それでいいと思っていた。……だが」
     厚い雲が空を覆い、滅多に光が差し込まなくなって久しかった、暗がりの国。
     ──そこに、太陽を引き連れて、少女は現れた。
    「おまえの笑った顔は好ましいと思った」
     クー・フーリンは、弾かれたようにスカサハを振り返った。
     師は相変わらずの無表情ではあったが、底が知れないと思っていた瞳には、静かな熱情がこもっているように見えた。
    「だから、私は」
     スカサハは、コンラを抱いていない方の手で、クー・フーリンの頰を包んだ。
    「おまえを苦しませる存在は全て消し去りたいと、そう思ったのだ」
     はっとして、クー・フーリンはスカサハの手を振り払った。乱暴に両目をぬぐい、師から顔を背ける。
    「だ、だからって、生まれたばっかりの赤ん坊を殺すなんてやり過ぎだ」
    「そうだな。それは、すまなかった」
    「本当にもう二度としないなら……いい、けど」
    「無論だ。まだ心配であれば、ゲッシュを」
    「そ、そこまではしなくていい」
     慌てて振り向けば、スカサハはわずかに目元を緩めた。クー・フーリンはいたたまれない気分になり、再び目線をそらす。
    「のう、セタンタよ」
    「なに」
    「おまえは自分に何ができるのか、と言ったな」
    「……ああ」
    「おまえには槍を握る手が、走る足が、詩を唄う声がある。頭には知恵が、武芸と魔術の才がある。おまえはそれらが使えるし、それらを使えば成せることが成せる。おまえには進むべき道があるのだ。だが」
     スカサハは、クー・フーリンに向かって手を差し出した。
    「その道が見えぬというのなら、私がお前を導こう」
     クー・フーリンは目を見開いた。
    「私は影の国を統べる者。暗い場所なら、おまえよりずっとよく視えるぞ、光の御子」
     スカサハは微笑を浮かべた。そこには、濃紺の闇を踏んで立つ、堂々たる女王の姿があった。
    「セタンタ。おまえの望みは何だ?」
    「オレの望み……?」
    「そうだ。おまえ自身が心から欲し、望むことだ」
    「オレ、は」
     クー・フーリンは地に膝をついた。師を振り仰ぎ、膝の上で両手を固く握りしめる。

    「──強くなりたい」

     ぽろり、と目から涙がこぼれる。一度あふれ出した思いは、もう止まらなかった。
    「誰よりも強く」
     風が髪を舞い上げていく。ぼろぼろと涙が流れていく。
    「男たちにも負けないように強く」
     焼け焦げるような怒りが、苦痛が、憎悪が、悲しみが、後悔が、願いが、溶岩のように熱い塊となって噴き出していく。
    「強くなりたい。強く。強く!!」
     スカサハはひざまずき、クー・フーリンの手を取ると、己の膝に抱き上げた。髪をなで、優しく頰を包み、涙に燃える瞳を見つめる。
    「おまえに私のすべてを授けよう。おまえをアイルランド最強の戦士にしてやる」
    「本当、に?」
    「ああ、誓おう」
     くしゃ、とクー・フーリンの顔が歪んだ。
     スカサハは腕を伸ばし、クー・フーリンを抱き寄せた。師の吐息がまぶたをくすぐり、温かい腕に包まれる。
     体の力が抜けていく。目の奥から、再び熱い涙がこみ上げてくる。
     スカサハの胸にすがりつき、クー・フーリンは幼子のように声をあげて泣きじゃくった。


    「……最近、変な夢を見るんだ」
     クー・フーリンがぽつりとつぶやく。スカサハは弟子の髪をなでながら繰り返した。
    「夢?」
    「そう。何か大きな戦いがあって、川が真っ赤になるくらい人が死んでる。オレが森を抜けると、城が燃えてるんだ。誰かが助けを求めてる。誰かわからないけど。オレはその人を助けようとして、いつもそこで目が覚める」
    「そうか」
     クー・フーリンはスカサハの顔を見上げた。
    「師匠は、この夢の意味がわかる?」
     スカサハは少しの間押し黙ったが、やがて首を振った。
    「夢解きは私の範疇ではない。ただひとつ、言えることは」
     師は、不安げに揺れる弟子の目を見ながら続けた。
    「おまえは、いつか必ず来るべき運命と戦わねばならぬということだ。たとえ、その相手が何者であっても」
    「…………」
     クー・フーリンが瞬きをすれば、目尻に残っていた涙の雫が頰を伝って流れた。それを払いのけ、コンラの寝顔を見つめる。
     スカサハが差し出してきた我が子を受け取る。抱き上げて顔を近づければ、いつもの甘い匂いがした。
    「オレ、アルスターに帰らないと」
     そうだ。いつまでもここにはいられない。いくらこの場所の居心地が良くても。
    「子どもはどうするつもりだ」
    「…………」
     クー・フーリンはコンラをぎゅうっと抱いた。この子のことは守りたい。
     けれど、国に帰る道中は恐ろしく危険だし、何より、アルスターに帰ったとき、王や叔父や友や、それに……彼女が何と思うか。
     彼女がどんな目で自分を見るのか。それを考えるだけで、ひどく怖かった。
    「おまえにその気があれば、だが」
     スカサハが言った。
    「子どもは、ここに置いていけ」
    「……でも」
    「案ずるな。ふさわしき者に、その子を育てさせる」
    「……それって、養子に出せってこと?」
    「そういうことだ」 
     眠る赤ん坊の背をさすりながら、クー・フーリンは小さな声で言った。
    「育てさせるって、誰に。師匠じゃないのか?」
     女王は静かにかぶりを振った。
    「今の私より、適任の者は他におる」
    「……オイフェ、か?」
     スカサハはうなずいた。
    「あやつには子がおらぬ。おまえのことも好いておるゆえ、実の子のように扱ってくれるだろう」
     クー・フーリンは、じっと腕の中のコンラを見つめた。
     何も知らないまま、幼子は安らかな表情で眠り続けている。
     スカサハは立ち上がり、弟子を見下ろした。
    「決めるのはおまえだ。よく考えよ」
     そのまま踵を返し、スカサハは城へと戻っていった。
     クー・フーリンは海の向こうに視線を移した。月を砕く波の残響がいつまでも耳にこだまする。ざざん、ざざん、ざざん。

     あう、と声がして、クー・フーリンは我に返った。
     窓の外は、まだ暗い。
     クー・フーリンはもたれかかっていた壁から体を起こし、寝床から降りた。
     籠の中を覗き込めば、コンラはすでに目をぱっちりと開き、もぞもぞと動いていた。
     母親に気づくと、あーあーと声をあげながら両手を伸ばしてくる。
    「おはよう、おちびさん」
     笑いかけ、抱き上げる。お腹が空いているだろうと乳を与えれば、すぐに飲み始めた。
     生まれたばかりの頃に比べれば、驚くほど力が強くなったし、体も重くなったと思う。
     授乳を終えると、コンラを敷物の上に降ろしてやる。子どもはしっかりと座り、母親の顔をじっと見上げた。
    「ん……なんだ?」
     ガウンを直しながら首を傾げれば、コンラは「あー!」と声をあげた。
     オイフェが以前「この子は随分とおしゃべりだ」と言っていたが、最近は、さらににぎやかになった気がする。
    「んん、どうしたハンサムさん? お乳が足りなかったか?」
     子どもの前に座って目線を合わせれば、コンラは手をぱたぱたと動かしながら、必死に何か喋っている。
     遊びたいのかとおもちゃをいくつか差し出してみるも、興味がないのか、掴んではポイと放り出してしまう。
    「おいこらちょっと、投げないでくれよ」
    「うあー、しゃ! まぁ、うあー!」
    「ああ、はいはい。お母様はおまえが何言ってるかわからないよ」
     またおもちゃが投げられ、部屋の隅に転がっていってしまう。クー・フーリンはため息をつきながら、それを拾いに向かった。
     拾い上げたそれは、フェルディアが木を彫って作ってくれた槍兵の人形だ。大きくてごつい手なのに、随分と器用なもんだと感心したっけ。
    「おぁしゃ、ま!」
    「!」
     クー・フーリンは慌てて振り返った。
     今、あの子は何と言った? 「おかあさま」と言わなかったか?
     コンラは両手を伸ばしながら、自分に向けて声をあげ続けている。
     クー・フーリンは急いでコンラの元に戻ると、小さな顔を覗き込みながら言った。 
    「コンラ、今何て言った?」
     赤ん坊はきょとんとした顔をした。だが、母親が来てくれたのが嬉しかったのか、はしゃいだように高い声を出した。
    「あぶぅ、あー!」
    「コンラ、さっきのもう一回言ってくれ」
    「うー?」
     クー・フーリンは身を乗り出し、自分でも驚くほど必死な声で呼びかける。
    「お母様、だ。ほら」
    「んぁあ、まんま?」
    「そうだ、コンラ、お母様だよ。お母様って言ってごらん!」
     コンラはクー・フーリンを見上げ、にこっと笑った。
    「おあぁしゃま!」
    「……!」
     クー・フーリンは飛びつくようにコンラを抱きしめた。爆発したような熱い衝動に突き動かされる。子どもに何度も激しく口づけし、抱き潰さんばかりにぎゅうぎゅうと腕に力を込める。
    「コンラ、ああ、コンラ!」
     あうー! とコンラが苦しげに暴れる。だが、とても離してやる気になれなかった。両目が焼けるように熱い。
     そうだ、自分がこの子の母親で、この子は自分の、オレの息子だ!
     ひた、と何かが耳に触れた。はっとして腕の力を緩めれば、コンラはクー・フーリンの顔を見ながら、若葉のような手でぺたぺたと母親の頰に触れた。
    「おああしゃま」
    「コンラ……」
     つぶらな瞳がじっとこちらを見つめてくる。
    「コンラ、ごめんな」
     不意に、息子の顔がにじむ。母の目からこぼれたものに、不思議そうにコンラは触れて、小さな手を濡らした。
    「ごめんな、ごめんな」
     再び息子を腕の中に閉じ込める。
     この子を離したくない。ずっとこのまま抱きしめていたい。
     しゃくりあげる少女の髪を、赤ん坊は小さな手でなで続ける。
     窓の外では、朝が忍び足でやってきて、世界を朱に染め始める。群青の空を西に追いやり、暗い部屋の中を、ぼんやりと白く照らし始める。


     オイフェが城を去る日、スカサハだけでなく、ウアタハもフェルディアら弟子たちも、もちろんクー・フーリンも、皆で彼女を見送った。
    「色々と世話になった」
     腕を組んだままの姉に、妹は晴れやかな顔で笑いかけた。
    「こちらこそだ、姉上。今後もよろしく頼む」
    「ああ」
     オイフェは、うつむいたままのクー・フーリンに目を移した。
    「猛犬」
     呼びかけてやれば、ゆっくりと宝石のような瞳がこちらを向く。オイフェは、この美しい瞳がとても好きだった。
    「この子のことは任せよ。実の子のように、いや、実の子以上に愛すると誓おう」
     クー・フーリンは、黙ったままうなずいた。
     オイフェの腕の中で、コンラは眠っていた。見送りの前に最後の乳を与え、眠りに入ったところなのだ。
     ウアタハが、何も言わない友の横顔を心配そうに見た。
    「セタンタ、顔を上げよ。永久の別れというわけではないのだから」
     スカサハが口を開く。クー・フーリンは師の顔を見上げた。
    「そうだとも。姉上の国と我が国は今後も繋がり続けるからな。そうだ、良いことを思いついたぞ!」
     オイフェがぱっと笑みを浮かべた。
    「この子が成長したら、姉上が直々に武芸を仕込むというのはどうだ? つまり、この子の母と同じように」
    「は?」
     スカサハがぽかんと口を開けた。クー・フーリンも目を丸くする。
    「武芸に関して、このスカイ島で姉上の右に出るものはおらぬからな。まあ、私を除いてだが」
     オイフェが悪戯っぽく片目を閉じてみせる。
     スカサハは抗議の声をあげようと口を開いたが、クー・フーリンの視線に気づいて、言葉を飲み込んだ。
    「……おまえもそれを望むのか」
     クー・フーリンは目を輝かせ、ためらいがちにこくりとうなずいた。
     スカサハは迷うそぶりを見せたが、やがて、しぶしぶといった様子で口を開いた。
    「わかった。……約束しよう」
    「すごい! 素敵だわ!」
     ウアタハが無邪気に喜びの声をあげる。
    「なあ、猛犬」
     オイフェは身をかがめ、クー・フーリンの頰に手を当てた。
    「この子は幸せな子だ。決して不幸な子どもなどではない。なぜなら、偉大な母が三人もいるのだからな」
     クー・フーリンがいぶかしげな顔をすると、オイフェは目を細める。
    「生みの母。つまり、おまえだ。それに、育ての母。これは無論、この私よ。それに、武術の母。これは、我が姉というわけだ」
    「おい、私は母親では──」
    「似たようなものではないか、姉上。この子を鍛え育てるという意味では、姉上も母のようなものだ」
     スカサハは微妙な表情を浮かべたが、それ以上何も言わなかった。オイフェが微笑む。
    「おまえも誇れ、クー。立派に一つの命を世に生み出したことを」
     クー・フーリンはぐっと何かを飲み込み、うなずいた。そして、何やら急いだ様子で自分の体をあちこちと探る。
    「オイフェ、これ……」
     ようやく自分の指から金の指輪を抜き取ると、クー・フーリンはそれをコンラの手に握らせた。
    「思い出の品か」
     クー・フーリンはうなずく。オイフェはスカサハに向き直った。
    「どうだろう、姉上。この指輪がはめられるくらい大きくなれば、この子もアルスターまで行けるのではないか」
    「……そうだな」
     スカサハがうなずいた。ウアタハはぱっと顔を輝かせ、クーの肩を揺さぶった。
    「よかったじゃない、クー! 大丈夫、必ずまたコンラちゃんに会えるわ!」
    「あ、ああ」
     頰を薄紅色に染め、クー・フーリンは答えた。
    「何かこの子に言いたいことはないか、猛犬?」
     オイフェがコンラを示しながら言う。クー・フーリンは少し悩んだが、「じゃあ」と口を開いた。
    「もしこの子がアルスターに来ることがあれば、誰かに名前を聞かれても、絶対に答えないように言い聞かせてくれ。オレの子どもだと知られると、危ないかもしれないから」
    「よかろう。他には?」
    「道中で変なところに迷い込まずに真っ直ぐ来れるよう、絶対に進む道を変えないように言ってくれるか?」
    「わかった。あとは何かあるか?」
    「師匠たちが鍛えてくれるんだし、何より、オレの子だから」
     クー・フーリンはコンラの小さな手を自分の手で包み、微笑んだ。
    「誰かに戦いを挑まれたら、絶対に受けること!」
    「まあ、クーったら!」
     ウアタハがびっくりしたように叫んだが、オイフェは気持ち良さそうに笑い声をあげた。
    「いいだろう! それでこそ偉大な戦士の子と言えような!」
     クー・フーリンは、ようやく肩の荷を下ろしたようににっこりと笑った。コンラの手と額に口づけ、オイフェを見上げる。
    「この子を頼む、オイフェ。オレの息子を」
     オイフェはうなずき、御者が引いてきた戦車にひらりと飛び乗った。
    「毎夜毎夜、この子に話して聞かせよう。おまえを生んだ母君が、どれだけ強く、美しく、また、どれだけおまえのことを愛しているかということを」
     クー・フーリンはしっかりとうなずいた。
     オイフェは少女に微笑みかけると、あたりを見回し、朗々と声を張り上げた。
    「それでは、これで失礼する、姉上。ウアタハも、若き戦士たちも」
    「ああ」
    「ありがとう、叔母上」
    「オイフェ様、お元気で」
     最後に、オイフェはクー・フーリンを見た。二人は少しの間、見つめ合った。
    「さらばだ、猛犬」
    「ああ。さよなら、オイフェ」
     言葉を交わすと、それからは一度も振り返ることなく、女王は去っていった。
     クー・フーリンは、戦車に乗ったオイフェの背が見えなくなるまで見つめ続けた。
    「……さよなら、コンラ」
     クー・フーリンの小さなつぶやきは、誰にも聞かれることはなかった。
    最終試験
     影の城門をくぐった日から、時が経った。
     スカサハの弟子たちは、初めて影の国に来たときとは別人のように強くなっていた。
     それはもちろん、クー・フーリンも例外ではなかった。
     その小柄ながらしなやかな体躯は、出産前以上に引き締まり、鍛え上げられた。
     彼女自身の努力があってこそだ。どんな厳しい鍛錬にも彼女は耐え、果敢に挑んだ。
    「焼き尽くせ!」
     巨人のような炎が立ち昇り、熱風が辺り一面を吹き飛ばす。黒焦げになった的を拾い上げて振り返れば、スカサハは満足そうにうなずく。
     槍でも魔術でも、クー・フーリンはスカサハが教えるものを貪欲に吸収し、身につけた。
     今や、兄弟弟子たちも城の者も、誰しもが彼女の力を認めるようになった。
     フェルディアと肩を組み合って喜ぶクー・フーリンの姿を見ながら、スカサハは思案に耽っていた。雛鳥が巣立つときが近づいてきたのだ。
     そして、さらに時は流れ。

    「クー! そっちへ行ったぞ!」
     兄弟弟子が叫ぶ。黒い森は殺気に包まれている。
     地を駆ける荒々しい足音と激しい鳴き声が、とてつもないスピードで近づいてくる。
    「任せな!」
     クー・フーリンは叫んだ。槍をぎゅっと握り、木の上で身構える。
     新しくトネリコの柄に変えたばかりの槍が、滑らかに手に馴染む。静かに気配を断ち、呼吸を深くする。
     ──来た!
     黒い茂みを突き破り、巨大な猪が飛び出してきた。
     大人の男ほどもありそうな巨体だ。鼻息を荒げ、ひどく興奮している。体は血だらけで、何本もの槍が突き刺さっていた。
     クー・フーリンは目を細め、魔猪が自分の間合いに入ってくるのを待った。
     まだ──まだ──まだ──今だ!
     クー・フーリンは勢いよく木の枝から飛び降り、魔猪の背中に槍を突き立てた。
     魔猪は凄まじい声で咆哮し、邪魔者を振り払おうと激しく身をよじった。気を抜けば地面に振り落とされそうだ。
     針のように硬い毛にしがみつきながら、クー・フーリンは腰から短剣を抜き、魔猪の眉間に勢いよく突き刺した。
    「ギャオァア!」
    「うわっ」
     魔猪は激しく横転し、クー・フーリンも地面に投げ出された。すぐに受け身を取り、ごろごろと転がる。
     舞い上がる砂ぼこりを払って立ち上がれば、巨猪は四肢を投げ出して絶命していた。
    「クー! やったな!」
     兄弟弟子たちがばらばらと走ってくる。互いに手を叩き合い、魔猪を見下ろした。
    「またずいぶんとデカいな。こりゃ食べ応えがありそうだぜ」
    「おまえはいつも食べることばっかりだな!」
    「いいだろ。食事はこの限られた人生における数少ない悦びのひとつだぞ」
    「とりあえず、これでスカサハから命じられたことは全部終了だな。どうする? 解体して厨房へ運ぶか?」
     獲物を取り囲みながらわいわいと喋っていた弟子たちの元に、スカサハが現れた。
    「仕留めたか」
     スカサハは地面に倒れている死骸を見やる。
    「これくらいヨユーだよな! ヨユー!」
     クー・フーリンが胸を張る。フェルディアは苦笑を浮かべたが、兄弟弟子たちも賑やかに声をあげた。
     スカサハはすうっと美しい眦を細める。
    「そうか。それならば少しは期待できるか」
     その言葉と同時に、スカサハの手に赤い槍が出現する。弟子たちが目を丸くしたのを見ながら、スカサハは朱槍をくるくると弄んだ。
    「ああ、これはゲイ・ボルグではないぞ。あの魔槍を模して、私が自分で作ったものだ」
     弟子たちは互いに顔を見合わせた。師は、一体何をするつもりだ?
    「おまえたちは確かに強くなった」
     スカサハがぱちんと指を鳴らすと、巨猪の死骸が黒い煙となってかき消えた。弟子たちがどよめく。
    「修行もいよいよ大詰めだ。今から最後の試験を行う」
     真っ赤な穂先がぎらりと弟子たちに向けられた。血が滴るようなそれは、禍々しい空気を纏っている。
    「今から全員で私を殺せ」
     クー・フーリンは息を飲んだ。
    「できなければ死ね。なぜなら」
     スカサハはうっすらと笑みを浮かべた。
    「今から私は、貴様ら全員を殺す」


    「……は?」
     一番先に沈黙を破ったのは、クー・フーリンだった。スカサハが彼女の方を見る。
    「おいおい、冗談きついぜ、師匠。一体どういう──」
     言い終わらないうちに、スカサハはクー・フーリンに襲いかかった。
    「!?」
     反射的に避けるも、なびいた髪の毛が何本かすっぱりと切られる。振り下ろされた槍は大地をえぐり、泥や小石を跳ね飛ばした。
    「言ったはずだぞ、セタンタ」
     どくどくと激しく打つ鼓動を抑え、呆然とクー・フーリンが見上げた先には、凍てついた氷のような瞳で弟子を見下ろす師の姿があった。
    「私は貴様ら全員を殺す、と」
     言い終わるやいなや、スカサハは槍を振りかぶり、激しくなぎ払った。その勢いで、兄弟弟子の何人かが地面に倒れる。
     クー・フーリンは電光石火のようにフェルディアと視線を交わした。

     スカサハは本気だ!

     山猫のように身を翻し、スカサハは地面に倒れ臥す兄弟弟子の一人に向けて、槍を振り上げた。
    「ヒッ──」
     兄弟弟子は、青い顔で自分に向かってくる穂先を見つめた。
     ガキン! と鋭い音が響く。
     間一髪のところでクー・フーリンが飛び込み、自分の槍でスカサハの槍を受け止めた。
     凄まじい力を受けて、クー・フーリンの両手が震える。修行中に師匠と槍を交わすことはあったが、そのときとは比べものにならない力だ。
     ──ずっと、手加減されていたのか。
     額から、冷たい汗がすうっと流れ落ちた。
    「あんた、本気なんだな、師匠」
     歯を食いしばりながら言う。スカサハは顔色ひとつ変えない。
    「ああ、無論だ」
    「そうか、よッ!」
     ブンと槍を振るい、スカサハの槍を跳ね除けて距離を取る。
     スカサハが体制を整え直す前に、フェルディアが打ちかかった。その隙に、クー・フーリンは動けない兄弟弟子の襟首を掴み、無理やり立たせる。
     スカサハとフェルディアは何度も激しく打ち合った。穂先から火花が飛び散る。師が相手でも、フェルディアは一歩も引かない。さすが、一番弟子を名乗るだけのことはある。
     だが、スカサハの力は圧倒的だった。岩のように硬いはずのフェルディアの皮膚から、ぱっと鮮血が飛び散った。
     他の弟子たちも雄叫びをあげながら次々とスカサハに飛びかかるが、彼女はまるで子どもをいなすように一人ずつ打ち倒した。地面に転がれば、容赦無く心臓を貫こうと刃を向ける。
     仲間を守ろうとフェルディアやクー・フーリンは何度も間に割り込むが、その度に邪魔だとばかりに吹き飛ばされる。
     ──このままでは、まずい。
     クー・フーリンは懐からルーン文字を刻んだ石を取り出し、「師匠!」と叫んだ。師の意識が一瞬こちらに向く。
     クー・フーリンは石をスカサハに向かって投げつけた。
     石は燃えるように光ったかと思うと、凄まじい光線を放って爆発した。思わずスカサハも目を覆う。
    「……!」
     光がやめば、スカサハはその場に自分しかいないことに気づいた。
     ざざ、と風が黒い木々の葉を揺らしていく。気配を探るが、弟子たちは気配断ちをしたらしく、居場所が掴めない。
     赤い槍をブンと回し、スカサハの唇は愉しげに弧を描いた。

    「……で、どうするんだよ」
     クー・フーリンのささやきに、フェルディアは思案するようにまぶたを閉じる。
     木の陰に隠れながら、弟子たちは突如始まった師の暴走に身を縮めていた。
    「とにかく、ここはどうにかして師匠を倒さないとな。さもないと本当に殺される。あの人はそういう人だ」
    「無茶苦茶だぁ」
     兄弟弟子の一人が頭を抱えた。
    「倒すったって、どうやって」
     腕を組んで木にもたれかかり、クー・フーリンは眉間に皺を寄せた。
    「オレたちひとりひとりじゃ、とても敵わないぜ」
    「ひとりひとりじゃ、な」
     フェルディアが目を開けた。
    「幸い、俺たちは皆ずっと一緒に修行してきた。互いの長所も短所も知り尽くしてる。だろ?」
    「どうする気だよ」
    「蟻も軍勢、ってな」
     不安そうに自分を見上げる仲間たちの顔を見ながら、フェルディアは片目をつぶった。

     強い風が長い髪を巻き上げ、木の葉をさざめかせる。スカサハは周りを見渡しながら大声をあげた。
    「どうした、腰抜けども! 手段は問わぬぞ。かかってこんか!」
     張りのある声が響き渡る。空には分厚い雲がかかり、あたりは薄暗かった。
    「怖気付いたか。私が技術を授けてやった時間は無駄だったようだな。こんな臆病者ばかりなら、入門前に海に落としてやるべきだったわ」
     挑発の言葉にも、辺りは静まり返ったままだ。ざわざわと木々がうなる。
     スカサハの手に握られた石が光った。探索のルーンだ。
    「来ないなら、こちらからいくぞ」
     スカサハは朱槍を握り直し、目の前の茂みに向かって走り出した。鹿のように軽やかに地を蹴り、鮭のように高く飛び上がる。
     槍を振りかぶったスカサハの目が、茂みに身を潜める弟子の一人と目が合った。弟子は怯えた目で師を見上げている。
    「死ね」
     スカサハは勢いよく槍を投げた。弟子が身をすくめる。その瞬間、弟子の左右から盾が突き出され、スカサハの槍を弾いた。
    「なに?」
     スカサハが着地した瞬間、何かが足元に転がってくる。気づいた瞬間に爆発が起こった。爆煙があたりを包み、視界を奪われる。
     片手を振れば、朱槍は手に舞い戻る。その途端、煙を割いて、刃が一斉に襲ってきた。
     すばやく槍を振り回し、次々と突き出される槍や剣を薙ぎ払う。ガン、と何かに穂先がぶつかったが、貫けない。
    「硬化のルーンか!」
     スカサハは大地を強く蹴って飛び上がる。空中から見下ろせば、地上では何人もの弟子が自分を目で追っているのに気づいた。
     魔術を繰り出そうと宙に文字を書く。その瞬間、玉のようなものが勢いよく飛んできて、スカサハの体を吹き飛ばした。
    「よし、当たった!」
     木の枝にひそんでいた弟子仲間たちが、投石具を握って歓声をあげた。
     クー・フーリンは、銀を混ぜた鉄球にルーン文字を刻みつけたものをいくつも作り、それを仲間たちに投げ渡す。
    「まだまだだ。畳みかけろ!」
    「よし!」
     残りを魔術が得意な仲間に任せ、クー・フーリンは槍を握って、木の陰から走り出た。反対側にひそんでいたフェルディアと視線を合わせ、うなずき合う。
     地上で戦う者、宙から襲う者、それぞれがタイミングを合わせながら、スカサハと渡り合う。
     槍や剣が得意な者が直に叩き、攻撃を魔術で強化した盾で防ぎ、絶え間なく魔術でサポートする。
     弟子たちは多勢の力を生かし、スカサハを少しずつ押し始めた。
     これなら、いける。誰もがそう思った。
     不意に、スカサハの瞳が紅く光った。とてつもない殺気が皮膚をびりびりと焼く。クー・フーリンは叫んだ。
    「まずい、逃げろ!」
     次の瞬間、凄まじい爆発音とともに周囲の木々が業火に包まれた。仲間たちが隠れていた木も爆炎に燃え上がる。
     クー・フーリンとフェルディアは、呆然とスカサハを見上げた。
     たおやかな体の周囲にはルーン文字が踊り、あざ笑うように舞っている。
     あたり一面を吹き飛ばしたスカサハの眼は爛々と光っていた。その足元には仲間たちが倒れ、うめいている。
    「そんな」
     フェルディアがつぶやいた。
    「──くそっ!」
     クー・フーリンは槍を握り直すと、スカサハに向かって飛び込んでいった。「クー!」と後ろからフェルディアが叫ぶ声が聞こえる。
     一直線に突っ込んできたクー・フーリンをスカサハは軽くいなし、しなやかな足で蹴りを叩き込んだ。「ぐっ!」とうめき、クー・フーリンも地面に転がる。
     スカサハは槍をくるりと回し、轟々と燃える木々を背に、ゆったりと腕を組んだ。
    「大勢で挑むのは悪くなかったが、いささか攻撃が単調に過ぎたな」
     クー・フーリンは急いで体を起こそうとしたが、その胸にぴたりと穂先を突きつけられ、動きを止めた。
    「あんたこそ、力技であたり一帯を吹き飛ばしちまうなんざぁ、さすがだね」
     荒い息の下、クー・フーリンはにやりと笑ってみせた。スカサハは無表情のまま弟子を見下ろす。
    「残念だ。おまえなら、私を殺せると思ったのに」
    「あ?」
    「スカサハ!」
     フェルディアが走ってくる。スカサハは左手の先をフェルディアに向けた。大柄の男は、青ざめた顔で立ち止まる。
    「やめてください、師匠。もう十分でしょう」
    「私のことは、おまえが一番知っているはずだが?」
     スカサハは男の手に目を向けた。
    「おまえは、その手に握っているものを捨てろ」
     フェルディアはくやしげに唇を噛み締めると、両手に握っていた石を地面に投げ捨てた。ルーン文字を刻んだ魔術石だ。
     うなだれる一番弟子を一瞥すると、スカサハは再びクー・フーリンに目を戻した。
    「もしかしたら、と思ったが、やはり私の見込み違いだったらしい。期待の意味も込めて多少手をかけてきたが、ここまでのようだな」
     そう言って、朱槍を振り上げる。クー・フーリンはふう、と大きく息を吐いた。
    「なんだよ。あんなに優しい言葉かけてくれてたのに」
    「時と場合がある。私は条件を出し、おまえたちはそれを満たせなかった。よって、おまえたちをここで殺す」
    「殺す殺すって、本当物騒だぜ。遊びがないにも程があらぁ。本心じゃないくせに」
     スカサハの眉がぴくりと動く。
    「ほう。では、試してみるか?」
    「できれば遠慮したいけどね。それにしても、さっきのはないわ。周囲全面焼いちまうって反則すぎだろ」
    「あれくらいできねば、とても影の国の門番など勤まらぬからな」
    「そうかい。でもあんたには一つだけ、絶対に焼き払えないものがあるぜ」
    「……何?」
     スカサハが眉をひそめた。その瞬間、フェルディアが笑みを浮かべ、勢いよく地面を蹴った。
     突如、地面から木の根のようなものが伸び出て、スカサハの両足を固定する。
     はっとスカサハが顔をあげれば、その隙を突いてクー・フーリンは朱槍を蹴り飛ばし、後ろに飛びすさった。そのタイミングを見計らってか、四方八方から光る石が飛んできて、地面に散らばる。
     スカサハは、今や自分が発光する石に囲まれていることに気づいた。
     フェルディアが投げ捨てた石。今しがた飛んできた石。よく見れば、先に地面に倒れていた弟子たちの手にも、光る石が握られている。
    「あんたが絶対に焼き払えないもの。それは」
     クー・フーリンはにやりと笑い、すばやく大地に文字を刻んだ。スカサハの足元が赤く光り始める。
    「地中だ!」
     轟音とともに巨大な手が地面から現れた。木々で編まれた人形のような手だ。
    「!」
     巨大な手はスカサハを捕らえ、掌に閉じ込める。スカサハは逃れようともがいたが、手は檻のように女王を掴んで離さない。
     スカサハは、ぎらぎらとした目でクー・フーリンを睨みつけた。
    「あたり一面に石を配置して、魔術を発動できるようにしたのか?」
    「オレ一人の力じゃ、この魔術は使えないからな。でも」
     クー・フーリンはちらりとフェルディアを見て笑う。フェルディアもにこりと微笑んだ。
    「みんなが力を分けてくれればできる」
     スカサハは舌打ちをし、身動きするのをやめた。クー・フーリンは地面に転がった朱槍を拾い上げ、スカサハに向ける。
    「降参したらどうだ、師匠」
    「…………」
     スカサハは黙っていたが、すぐにその手が煌々と光り始めた。
    「!」
     光が弾け、巨大な手が吹き飛ぶ。
     クー・フーリンは迷わなかった。朱槍を振りかざし、真っ直ぐスカサハに向かって突っ込む。
     スカサハは切っ先をかわし、地面に転がっていた槍を拾い上げて応戦した。
     フェルディアの一声とともに、仲間たちはつぎつぎと起き上がり、剣や投石具でクー・フーリンを援護する。
     クー・フーリンが隙を突かれそうになればフェルディアが飛び込み、スカサハの刃を払った。
     案の定、強力な魔術を受けたスカサハの動きは鈍っていた。師と弟子たちは激しくぶつかり合う。凄まじい音があたりにこだました。
     ついに、クー・フーリンの一撃でスカサハの槍が吹き飛んだ。丸腰になった師の首に穂先を突きつけ、クー・フーリンは言った。
    「あんたの負けだ」
     スカサハは少しの間、目を閉じたが、やがて深く息を吐いた。
    「……よくやった。ようやく半人前になったな、馬鹿共」
     クー・フーリンはわずかに肩の力を抜いた。フェルディアら兄弟弟子たちも、表情をほころばせる。
    「だが」
     スカサハの声が不吉に響く。おさまっていたはずの風が再び強くなり始める。
    「私はあと一段階、変身を残している」
     弟子たちは目を見開いた。師の口元が妖しく歪み、そして──。
     辺り一面は、光に包まれた。 


    「なんでこうなるのよ!?」
     ウアタハの声に、クー・フーリンはぐったりと答えた。
    「知らねえよぉ。おまえのお母様の教育方針はどうにかなんねえのかよ!?」
     食堂は、うめき声をあげる二十人ほどの弟子たちで埋まっていた。
     その間をウアタハや侍女、ドルイドたちが忙しなく行き来し、必要な手当を施している。
    「あいててて……」
     フェルディアが頭を押さえながら体を起こした。
    「いいところまでいったと思ったんだけどなぁ……」
    「地面の下から特攻作戦な。おまえの作戦はよかったけどよ、いやでも最後のあれは反則すぎるだろ、クソ……」
     ぶつぶつこぼしながら、クー・フーリンは腕に薬を塗り込んだ。あちこちにできた火傷や裂傷がズキズキと痛んだが、ウアタハが持ってきた薬をつけると、だいぶ楽になった。
    「この薬、効くなぁ」
    「ああ、その薬、母上からよ」
    「はぁ!? 飴と鞭の落差が激しすぎるだろ!?」
    「正しくは、叔母上の国から仕入れたものね。いざという時のために、母上がいっぱい手に入れておいたの」
    「ほんと、よくわかんねえよぉ……」
     クー・フーリンは床にごろりと横になった。
     結局、弟子一同が仲良く紙切れのように吹き飛ばされたあと、スカサハは「おまえたち程度では殺す価値もないわ」とあっさり槍を引き、うめく若者たちを残してさっさと城に戻ってしまった。
     その後、大きな戦車を御してやってきたウアタハが無残な光景を見て肩を落としたのも、つい数刻前のことだ。
    「ああもう、ここで寝ないで。自分の部屋に戻ってちょうだい」
    「おまえはオレの母親かよ」
    「私はこんなに大きな娘を持った覚えはありません」
     フェルディアは水差しから水を杯につぎながら、くすくすと笑った。
    「悪いな、ウアタハ。チビ犬には一番骨を折ってもらったから、勘弁してやってくれ」
    「だから、チビって言うなっつうの」
     むすっとしながらクー・フーリンは起き上がった。テーブルの鉢から適当に果物を2、3個引っ掴み、立ち上がる。
    「お疲れさん、クー」
     フェルディアが杯を振って笑う。
    「おまえの魔術、すごかったよ。もう俺以上だな」
     クー・フーリンは鼻を鳴らし、ニッと白い歯を見せた。
    「だから、あれはオレだけの力じゃないっての。それに、やっぱりオレは魔術より、槍でぶつかるほうが性に合ってらぁ」
     快活な笑みを浮かべ、クー・フーリンは食堂から出ていった。フェルディアとウアタハは顔を見合わせ、笑い声をこぼす。
    「いろいろどうなることかと思ったけれど、もう大丈夫ね」
     フェルディアはうなずき、微笑んだ。
    「ああ、あれがあいつだ」


     とろとろと眠り、目を覚ました頃には、月はだいぶ高く上がっていた。
     クー・フーリンはふわぁと大きなあくびをし、寝床から降りる。
     喉が渇いて水差しを取り上げるが、あいにく空っぽだった。仕方なく、水を汲みにいくことにする。
     そうだ、どうせなら食堂に行って、酒でも分けてもらおう。そんなことを考えながら、クー・フーリンは部屋から出た。
     夜番の兵士に挨拶をしながら食堂に降りていく。さすがに深夜の城は静まり返っている。ときおり、遠くで猟犬が鳴く声が聞こえる程度だ。
    「あれ?」
     食堂から明かりが漏れている。どうやら先客がいるようだ。
     中に入ると、大きなテーブルの隅で、ウアタハが一人ぼんやりとしていた。
    「ウアタハ」
    「クー?」
     声をかければ、ウアタハはびっくりしたように顔を上げた。
     広い部屋は一部しか松明が点いていなかったため薄暗く、すぐに気づかなかったらしい。
    「どうしたの、こんな夜更けに」
    「ちょっと、喉乾いたから」
     そう言って、空の水差しを掲げてみせる。
    「侍女に言えばいいじゃない」
    「いいんだよ。あわよくば酒でも、って思ったからさ」
    「まあ」
     王女はくすくすと笑った。
    「おまえこそ、なんでここに?」
    「ちょっと、眠れなくて」
    「ふうん。隣いいか?」
    「どうぞ」
     ウアタハが手で示せば、クー・フーリンはそこに座った。
    「あ、喉乾いてるんだったわね」
     止める間もなくウアタハは立ち上がると、いそいそと厨房の暗がりに消えた。
     クー・フーリンが待っていると、ウアタハはずんぐりした酒壺と杯を二つ持って戻ってくる。
    「え、おまえも飲むの?」
    「ええ。せっかくだし、いただくわ」
     そのまま杯になみなみと注ぎ、渡してくれる。礼を言って匂いをかげば、黒麦酒だった。ウアタハは自分の分も注ぎ、杯を掲げてにっこり笑った。
    「静かな月夜と戦士の傷に」
    「皮肉か?」
    「まさか」
     クー・フーリンも笑い、二人はカチリと杯を合わせた。口をつければ、苦味のある液体が喉を滑り落ちていく。
    「うまい」
    「ここのお酒はなんでも上等よ」
    「だろうな」
     松明がパチリと弾ける。クー・フーリンは酒をすすりながら、ウアタハの横顔を盗み見た。
     やはり、母のスカサハによく似ている。もっとも、スカサハとは比べ物にならないくらい表情豊かだが。
     いや、とクー・フーリンは思う。初めて会った頃は、彼女は全然笑わなかった。いつも無表情で、自信がなさそうだった。
     いつからだったろうか、彼女が笑顔を見せるようになったのは。
    「もうすぐ、卒業ね」
     記憶を探っていたせいで、ウアタハのつぶやきに対する反応が一瞬遅れた。
    「あ、ああ。そうなるの、か?」
    「そうよ。母上も言っていたもの。修行も大詰めだって」
     ウアタハは、自分の杯を両手で包むように持ちながら言った。
    「クーが来た日のこと、まるで昨日のことみたい。フェルディアや、他のみんなも」
    「早かったよなぁ。覚えてるか? 影の国に来てオレが真っ先に会ったの、おまえだったんだぜ」
    「あ……そういえば、そうね」
     頰をうっすらと染め、ウアタハは笑った。
    「母上に伝言を任されて、あなたを迎えたのよね。本当にびっくりしたわ」
    「びっくりしてたのか? おまえが?」
    「そうよ。あの橋を自力で渡ってきた人なんて、今までいなかったもの。それに」
     ウアタハは、なつかしそうに目を細めた。
    「次の日の朝、私、久しぶりに日の出を見たの。本当に綺麗だった」
     クー・フーリンは、訝しげにウアタハを見た。
    「日の出?」
    「そうよ。あなたは知らないだろうけど、この国では滅多に太陽なんて見られなかったの。いつも厚い雲が空を覆っていて。でも、不思議よね」
     ウアタハは、クー・フーリンの方を向いて微笑んだ。
    「あなたが来たとたん、雲が晴れたの。いつだったか、母上も言っていたわ。『あの娘は太陽を連れてきた』って」
    「……!」
     クー・フーリンは目を丸くした。なんだか胸のあたりがむずむずとして、頰をかく。
    「偶然だろ。っていうか、師匠そんなこと言ってたのかよ」
    「うふふ。母上はあなたのこと、本当に気に入ってるのよ」
    「気に入ってるなら、少しは手加減してくれませんかねー。今日の殺し合いさながらのやつ、本当にキツかったぜ」
    「母上は、気に入ってれば気に入ってるほど、厳しくなるから」
    「なんだかなぁ。それに『私を殺せ』って何度も言われたけど、物騒すぎだろ。肝が冷えたわ」
     クー・フーリンはぐびぐびと酒をあおった。ウアタハは言葉を切り、自分の杯に視線を落とす。
    「……ねえ、クー」
    「んー?」
    「母上、何歳に見える?」
    「は?」
     きょとんとした顔でクー・フーリンはウアタハを見た。唐突に何だと思ったが、ウアタハの目は真剣だ。
    「まあ、若く見えるけど。おまえくらいの歳の子どもがいるにしては」
    「でしょうね」
     ウアタハは目を伏せた。
    「母上の時は止まっているの。私を産んだときから、いえ、その前から、ずっとあの姿のままなの」
    「……は?」
     今度こそ、クー・フーリンはわけがわからないという顔をした。ウアタハは、ぽつりぽつりと語り出す。
    「あの人は……いいえ、もうヒトではないわね。母上はずっとずっと戦ってきた。影の国の門番として、女王として、亡霊や、時に神まで殺した。殺しすぎたのよ。そのせいで、母上はヒトではなくなった。もう、これは一種の呪いね」
     ウアタハは一口酒をすすった。クー・フーリンは言葉もなく聞いている。
    「そして、あの人は死なない体になった。たとえ自分で望んでも、死ねなくなった。私が幼い頃からその姿は変わらないけれど、あの人の心がどんどん磨耗していくのを、私はずっとそばで見ていた。でも、私にはどうすることもできなかった」
    「おまえ……」
    「ヒトじゃなくなっていても、母上はどこかで望んでるの。普通の人みたいに生きて死ぬこと。でも、自然の理からはじき出された自分では、それができない。だから、誰か自分より強い戦士に殺してほしいと思ってるの」
    「…………」
    「ねえ、クー」
    「な、なんだ?」
     不意に、ウアタハはこちらを向いた。その思いがけない視線の強さに、クー・フーリンはたじろいだ。
    「お願い。いつか、母上を殺して」
     クー・フーリンは絶句した。
    「お、おまえ、何を」
    「お願いよ。こんなこと頼めるの、あなたしかいないもの」
    「そんなこと言ったって──」
    「だって、私じゃ駄目なんだもの!」
     大きくなった声に、ウアタハははっとしたように口を閉じた。そのまま肩を落としてうつむく。
     クー・フーリンは黙ったままウアタハを見つめていたが、そっと手を伸ばして、彼女の肩に触れた。
     ウアタハは顔を伏せたまま、震える声で言った。
    「私は母上を超える戦士にはなれなかった。でも、私はいつか確実に母上を置いていってしまう。そうしたら、母上はまたひとり、この影の国で生きていくのよ。戦いながら。永遠に」
     クー・フーリンがウアタハを抱き寄せると、影の国の王女は、友の細い肩に顔をうずめた。
    「それはいやなの。絶対にいやなの」
     やわらかい髪をなでながら、クー・フーリンは大きなため息を吐いた。
    「母親を殺してくれなんて穏やかじゃないこと、初めて言われたよ、オレは」
     ウアタハはうなだれ、小さく鼻をすすった。
    「……ごめんなさい」
    「はいはい。そう泣くな」
     ぽんぽんと頭を叩いてやり、クー・フーリンはウアタハの体を離した。頰を濡らす涙をぬぐってやり、赤くなった目を見て困ったように笑う。
    「悪いな。おまえの願いはよくわかったが、簡単に約束はできねえ。でもな」
     クー・フーリンは右手を固く握り、それを自分の胸元に当てた。
    「オレは、師匠を超える戦士になってやる。それは約束するぜ」
     その瞳は澄み切って、一点の曇りもなかった。ウアタハはクー・フーリンの顔を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
    「やっぱり、あなたは太陽神の子なのね」
    「は?」
     不思議そうに瞬きをするクー・フーリンにウアタハは小さく微笑んで、物憂げに目を伏せた。
    「光の御子であるあなたは、この影の国に住む私たちにとって、あまりに眩しすぎるの」
    「なんだ、そりゃ」
    「本心よ。あなたがいなくなったら、きっとこの国はまた雲に覆われる。あなたが来る前と同じように」
    「そんなことねえよ」
     クー・フーリンは、うつむくウアタハの頬を包み、上を向かせた。
    「おまえは変わった。前と同じなんかじゃねえ。そうだろ?」
     ウアタハは目をぱちぱちとさせた。クー・フーリンが目元を綻ばせる。不意に、胸に温かいものが込み上げてきて、思わずウアタハも笑った。
    「そうかな」
    「そうさ」
     二人で笑い合う。少女たちの涼やかな声が、夜のしじまにやわらかく響いた。
    「ありがとう、クー」
    「んー、いや」
     どこかすっきりした顔で、ウアタハは立ち上がった。クー・フーリンは頬杖をつきながら、彼女を見上げる。
    「おまえさ」
    「なあに?」
     空になった杯を抱え、ウアタハが振り返った。クー・フーリンは目を細めて笑う。
    「母君のこと、大好きなんだな」
     ウアタハはわずかに目を見開いた。だが次の瞬間、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
    「ええ!」


     弟子たちの傷も癒えたある日のこと。
     鍛錬場で弟子たちが軽く汗を流していると、スカサハがやってきた。
     フェルディアが声をかけ、全員が師の元に駆け寄る。スカサハはいつもと変わらぬ表情で、ゆっくりと弟子たちの顔を見渡した。
    「先日の試験で、おまえたちの力は見せてもらった」
     弟子たちは不安げな目線を交わしながら、師が何を言うのかと見守った。
    「私に言わせれば、まだまだおまえたちなど半人前だ。だが──」
     スカサハが右手を振れば、赤い槍が現れる。弟子たちはぎょっとし、身構える者もいた。
    「それでも、ヒヨッコの状態からはよく成長したと言える。これでおまえたちは卒業だ」
     驚いたようにざわつく弟子たちを気にもせず、スカサハはすばやく目線を走らせた。
    「セタンタ!」
    「はい?」
    「前へ」
     うながされて、クー・フーリンはスカサハの前に進み出た。不思議そうに見上げる少女の目の前に、スカサハは手に持っていた赤い槍を突き出した。
    「この槍はおまえに与える。受け取るがいい」
    「え」
     クー・フーリンは呆然と師匠を見上げた。
     今、師匠はなんて? それに、この槍は。
    「ゲイ・ボルグ……?」
     スカサハはくいとあごを上げた。
    「そうだ。さっさと受け取らんか」
     動かない弟子に焦れたのか、スカサハは再び槍をグイと突き出した。
     クー・フーリンは慌てて地面に片膝をつき、両手を差し出す。
     スカサハがその白い両手に槍を置くと、ずしりとした重みが伝わった。クー・フーリンは、魂が抜けたような顔で、赤い槍を見つめた。
    「師匠、これ……本当に?」
    「自分の目が信じられんのか、たわけ。いつまでも呆けた顔を晒すでないわ」
    「え、でも、オレに。なんで」
    「何を今さら」
     スカサハは腕を組んで言った。
    「おまえは、その槍を使いこなしていたではないか」
     クー・フーリンは目を見開いた。まさか、あの試験で師匠が使っていたのは模造の槍ではなく、本当は。
    「常人には持つことすらままならんその槍を、ああも軽々使うのだからな。さすがに認めざるをえん」
     手の中で、赤い槍が太陽の光を受けてきらりと光った。
     クー・フーリンは、いまだに信じられないものを見るような目で、槍を見ていた。
    「やったな、クー!」
     不意にばしんと背中を叩かれて振り返れば、フェルディアが笑っていた。
     兄弟弟子たちもわぁっと歓声をあげ、次々に彼女に駆け寄って称賛の声を浴びせる。
     クー・フーリンは、震える手で槍をぎゅうっと握りしめた。
    「オ、オレ……」
    「まったく、なんて顔してるんだ」
     頭をぐしゃぐしゃにかき回されて、クー・フーリンの喉から変なうめき声が出た。フェルディアは手を離し、親友の肩を叩く。
    「おまえ以上に、その槍にふさわしい奴はいないよ」
    「フェルディア……」
     くしゃ、と顔が歪み、目の前がぼやけてくるのがわかる。「あーもう泣くなって!」と笑いながら、フェルディアが肩を強く抱いてくれる。
    「クー、やったな!」
    「おめでとう、クー!」
     仲間たちに肩を叩かれ、頭をなでられ、もみくちゃにされながら、クー・フーリンは嗚咽を必死で噛み殺していた。
     抱きしめるように握った槍は、ほんのりと温かい気がした。

     スカサハは、弟子たち全員に武器を与えた。卒業の品ということだろう。
     クー・フーリンは、ゲイ・ボルグの他に、輝く剣や盾も与えられた。
     フェルディアには、その大柄な体を守るような頑丈な盾を。他の兄弟弟子たちも、それぞれ短剣や槍などを受け取った。
    「覚えておくがいい」
     スカサハは言った。これが彼女の最後の授業になることを、皆が分かっていた。
    「おまえたちは戦う宿命の元に生まれた。私は私が教えられるもの全てをおまえたちに教えたが、この先、得たものをどうしていくかはおまえたち次第だ」
     一人一人の顔を見渡しながら、スカサハは朗々と言葉をつむぐ。
    「戦っていく中で、時に負けることもあろうし、絶望することもあろう。だが、忘れるな。どんな時でも最後に頼りになるのは、剣でも盾でも、むろん槍でもない」
     スカサハは、クー・フーリンを見つめた。少女の瞳は、日の出を迎えた明星のように輝いていた。
    「最後は、おまえたち自身の『覚悟』だ。何が起きたとしても、運命を受け入れ、ただひたすらに己の成すべきことを成せ。私から伝えることは以上だ」
    帰還
     クー・フーリンは、海を、そして自分の先に伸びている橋を見つめた。
     いつもそばで聞こえていた波の音はすでに懐かしく、穏やかにさざめいていた。
    「クー」
     振り向けば、ウアタハが微笑んでいた。クー・フーリンも微笑み返す。
    「師匠は?」
     ウアタハは静かに首を振った。
    「来ないわ。『教えることは全て教えたから』って」
    「はは、あの人らしいや」
     クー・フーリンは城を仰ぎ見た。最上階の窓から、師は自分を見ているのだろうか。尖塔に反射する白い日差しの眩しさに、目を細める。
    「待たせたな」
     ジャリ、と石を踏む音がして、フェルディアがやってきた。クー・フーリンの隣に並び、ウアタハを見る。
    「フェルディア」
    「ウアタハ。いろいろと世話になったな」
     王女はかぶりを振った。
    「私こそ、本当に」
     それ以上は胸が詰まって言えなくなったのか、ウアタハは黙り込んでしまう。クー・フーリンとフェルディアは顔を見合わせ、苦笑を浮かべた。
    「あーあー、湿っぽいのは無しだぜ」
    「ほら、綺麗な顔が台無しだ。顔をあげて」
     ウアタハは必死で目をこすりながら、うなずいた。こぼれそうになるものをこらえ、笑顔を浮かべてみせる。
    「二人とも、本当にありがとう」
    「ああ」
    「元気でな」
     そう言って、クー・フーリンとフェルディアはウアタハに背を向けかけた。
     そのとき、ウアタハが「あ」と声をあげる。
    「ごめんなさい。クー、ちょっといい?」
    「なんだ?」
     クー・フーリンは振り返った。フェルディアは「先に行ってるぞ」と手を振り、橋を渡っていってしまう。
     もじもじと下を向くウアタハを見ながら、クー・フーリンは首を傾げた。
    「どうした? ウアタハ」
    「あ、その……ね」
     ウアタハは自分のドレスの裾を握りながら、小さな声で言った。
    「あなた、前に私に『好きな人はいないのか』って聞いたでしょ?」
    「ああ、聞いたな」
     クー・フーリンはうなずいた。「それでね」とウアタハは消え入りそうな声で言う。クー・フーリンはよく聞こうと身をかがめ、友の顔を覗き込んだ。
    「もしも、もしもよ。……あなたが男だったら、私と結婚してくれた?」
     クー・フーリンは目を見開いた。ウアタハは真っ赤な顔をしている。
     クー・フーリンが黙ったままなので、ウアタハは「冗談だけど」と慌てたように付け足した。
     やがて、クー・フーリンはふっと目を細めた。ニヤリと笑みを浮かべ、ぐいとウアタハの顔を引き寄せた。
    「!?」
     クー・フーリンはウアタハの額に口づけ、そこにコツンと自分の額を合わせた。
    「いいぜ! 結婚するかぁ!」
     軽やかな声でクー・フーリンは笑う。ウアタハは頰をサクランボのように紅潮させた。
    「ほ、本当?」
    「おう! おまえは相当いい嫁さんになりそうだからな!」
     ウアタハは熱くなった頰を両手で押さえた。
    「……ありがとう。嬉しい」
    「おう」
     その目が潤んでいるのを見て、クー・フーリンはウアタハの頭をわしわしとなでてやった。
    「あのね、クー」
    「うん?」
    「私、頑張る。母上のようにはなれないけど、私は私のやり方で、この影の国を治められるように、頑張るわ」
    「ああ」
     クー・フーリンは優しい眼差しで王女を見つめた。ウアタハもクー・フーリンを見つめる。
     どちらともなく二人は腕を伸ばし、抱き合った。
    「大好きよ、クー」
    「ああ、オレもだ。……元気で」
    「ええ、あなたも」
     二人は抱擁を解き、記憶に焼き付けるように互いの顔を見つめ合った。
     やがて、クー・フーリンは踵を返し、ウアタハと影の国に背を向けた。
     遠ざかっていく背中を見ながら、ウアタハはつぶやいた。
    「さようなら、クー」
     空には雲が流れていく。時折、その姿を雲に隠されながら、それでも太陽は影の城に光を投げかけ続けていた。

     橋を渡り終えたところで、フェルディアは待っていた。
    「別れは済んだのか?」
    「ああ」
     トン、と軽い足取りでクー・フーリンは橋から飛び降りる。二人は改めて、自分たちがいた島を、国を、城を振り仰いだ。
     クー・フーリンは、初めてこの地に足を踏み入れた時のことを思い出した。
     あの夜、自分はここにたどり着き、そしてフェルディアと出会ったのだ。
     それから、ウアタハに会って、スカサハに会って、オイフェに会って、そして、コンラに。
     本当に、いろんなことがあった。それはまるで昨日のことのようで、しかし、もう決して戻れない過去だった。
     自分はもう、何も知らないアルスターの少女ではなくなってしまったことを、クー・フーリンは分かっていた。
    「そろそろ行くか」
     フェルディアが言った。クー・フーリンが振り返れば、兄弟子はいつもと変わらない、穏やかな笑みを浮かべていた。
     いや、もう兄弟子ではない。
     いまや、彼は誰よりも自分に近しい者となっていた。
     クー・フーリンは少しの間うつむき、唇を噛んだ。そして、思い切って顔をあげる。
    「なあ」
    「なあ」
     声が重なる。クー・フーリンとフェルディアは目を丸くして、互いの顔を見た。
    「ええと、なんだ?」
    「いや、そっちが先に」
     フェルディアは少し考えるように視線をさまよわせた後、口を開いた。
    「おまえさえよければ、俺と一緒に来て、コノートの戦士にならないか?」 
     クー・フーリンは口元を緩めた。
    「おまえこそ、オレと一緒に来て、アルスターの戦士になれよ」
     二人はしばし互いの顔を見つめ合い、同時に吹き出した。
    「あーあ、おまえはそういう奴だよ!」
    「おまえこそ!」
     涙が出るまで笑ったあと、二人は腕を伸ばして固く抱き合い、背中を叩き合った。
     フェルディアがクー・フーリンの両まぶたと額に口づけを落とし、次にクー・フーリンも同じ場所に口づけする。
     顔を離して見つめ合う。二人の思いは同じだった。だがそれ以上に、譲れないものも二人にはあったのだ。
     やがて、互いの腕を解き、クー・フーリンとフェルディアは体を離した。
     一人はアルスターへ。もう一人は、コノートへ。
     それぞれの国へ足先を向けながら、若武者たちは、最後にもう一度向き合った。
    「さらばだ、……妹」
    「達者でな、……兄上」
     そして、二人は歩き出した。それからは、一度も振り返ることはなかった。 


     アルスターへの道のりは危険が多かったが、クー・フーリンは次々と困難を乗り越えていった。
     ようやく見慣れた景色が──赤枝の館が見たとき、クー・フーリンは走り出した。まるで飛ぶように、何かが弾けたように彼女は走った。
     館の周りは、どこか物々しい雰囲気に包まれていた。忙しなく人々が行き交い、あちこちで厳しい顔つきをした者たちが話していたが、走り抜けるクー・フーリンは気にもしない。
     そして、彼女は見つけた。よく見知った赤毛の髪を。
     考えるより先に、大声で叫んでいた。
    「ロイグー!」
     青年は、驚いたように振り返った。こちらへ向かって一目散に走ってくる姿を捉えて、その目が大きく見開かれる。
     呆然と立ち尽くす青年に、クー・フーリンは飛びついた。
    「ロイグ、ロイグ、ロイグ!」
    「クー、なのか?」
    「そう! オレだよ!」
     ばっと体を起こし、クー・フーリンは叫んだ。
     ロイグは、信じられないような目で幼なじみを見つめた。
     目の前の彼女は自分の記憶よりも大人びているが、間違えようもない。弾けるような笑顔、瞳の輝き──。
    「クー、クー!」
     ロイグは、クー・フーリンを強く抱きしめた。
     クー・フーリンも笑い声をあげ、ロイグの太い首にしがみつく。自分がいない間に、彼も多くの馬を御してきたのだろう。その両腕はがっしりと太く、固くなっていた。
    「驚いたよ! まったくおまえは……」
    「あははっ! 会いたかったぜ、ロイグ!」
     クー・フーリンは、体を離してしげしげと幼なじみの姿を眺めた。記憶にある、まろい頰をした少年は消え、そこにいるのは精悍な顔つきをした男だった。
     だが、瞳の奥を覗き込めば、そこには確かにあの頃の少年の面影があった。
     ロイグは気づいたように、クー・フーリンの首元を見つめた。
    「首飾り、着けててくれたんだな」
    「当然だろ」
     クー・フーリンはニカッと笑って胸を張ってみせる。ようやくロイグも破顔した。
    「元気そうで、本当によかった」
     にこやかにうなずき、クー・フーリンはあたりを見回した。
    「それにしても、騒がしいな。なにかあったのか?」
     ロイグはため息をつき、頭を振った。
    「おまえがもう少し早く帰ってきてくれたら、と思うよ」
     その言葉に不吉なものを感じ、クー・フーリンは青年の腕を掴んだ。
    「なんだ? 何があった?」
     ロイグは厳しい目つきで幼なじみを見つめた。
    「タラの上王が死んだ」
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