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    Haruto9000

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    Haruto9000

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    「クー・フーリンが女性だったら」妄想。
    ※FGO第1部のみの情報で書いていたので、設定ズレなどはご容赦ください。

    【あらすじ】
    エメル姫と結婚したクー・フーリン。
    幸せに暮らす彼女だったが、新たな問題が起こる。
    毒舌家で有名なブリクリウの宴に招かれた彼女は、「誰が一番〈英雄の取り分〉にふさわしいか」の争いに巻き込まれることになる。

    #女体化
    feminization
    #クー・フーリン
    kooHooLin

    ミラーリング #12(英雄争い編)英雄争いメイヴ登場マンスター王子ルギー真夜中の試練緑の兜御者王ムギン王妃の死英雄争い
    「お母様! お母様!」
     豊かな髪を揺らし、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、少女は叫んだ。
    「落ち着きなさい。そうはしたない振る舞いをするものではなくてよ」
     ゆったりとした長椅子に腰かけた母親がたしなめた。その肩には小鳥がとまって愛らしくさえずっている。母親は愛おしげに小鳥をなでた。
    「でも、お母様!」
     桃色の唇をかわいらしく尖らせて、少女は窓の外を指差した。
    「お客様よ。ものすごく立派な戦車が来るわ! アルスター王の戦車だと思うの」
    「なんですって?」
     母親は長椅子から立ち上がり、娘が指差す方向をにらんだ。目に映ったのは、見事な装飾の華麗な戦車。
     ──見間違えようもない、アルスター国王の戦車だ。
     そして、それに付き従うように戦車が続く。
     戦車たちは、雷鳴のような音を響かせながら領地を突き進み、城の前で次々と止まった。
     どの戦車にも、華麗な装いをした男たちが乗っている。
     ……いや。
     ふと、戦車から飛び降りた若者に目が止まる。
     マントを羽織り、勇ましく槍を握ってはいるが、男にしては妙にほっそりとした体つきだ。長い髪が強い風にあおられ、若者が顔をあげる。
     母親は鋭い目を細めた。
    「女?」

    ***

     コンホヴォルは苛立っていた。手にした杖を、へし折りそうなほど強く握りしめる。
     目の前では、自分の優秀な部下と、甥と、姪とがにらみ合っていた。
     そばには彼らの愛する妻たちが、互いの目に火花を散らしている。
     さらにその周りには、彼らの忠実な御者たちがこぶしを構えていた。
     ──なぜ、こんなことに。
     一段高い座の上で頭を抱えながら、王はフェルグスとの会話を思い出していた。

    「ブリクリウの宴ですか!?」
     叔父のすっとんきょうな声にコンホヴォルは顔をしかめたが、「そうだ」とうなずいた。
    「招待された。やつの館で盛大に催すらしい」
    「失礼ですが、王はやつがどんな男かわかっておられるんでしょうな?」
     フェルグスの遠慮のない言葉に、コンホヴォルはますます顔を苦くする。
    「毒舌。争いの火種。破壊者。引き裂き魔。あとは……」
    「もう結構。いずれにせよ、やつは国の有力者だ。断るわけにもいかん」
     ふむ、とフェルグスは腕を組んだ。
    「まあ、行かねばなりませんでしょうな。正直、嫌な予感しかしませんが」
    「ついてきてくれるだろうな、フェルグス」
     疲れたように見上げてくる王を見て、フェルグスは快く胸を叩いた。
    「もちろんですよ! 何が起きても、私が王をお守りしましょう!」

     嫌な予感は的中した。
     予想だにしなかった方向に。

    「『英雄の取り分』は俺がもらうのが道理だろう。一番年上だしな」
    「年は関係ないだろ! 『英雄の取り分』は俺がいただくぞ」
    「バカ言うな。オレのものに決まってんだろ!」
     わあわあ。きゃあきゃあ。
    「一番最初に宴席に入るのは、この私が当然でしょ!」
    「なによ、いばっちゃって! 私だって誰より先に入る権利はあるはずだわ!」
    「それでしたら、私にだって権利はあると思います!」
     があがあ。ぎゃあぎゃあ。
    「あら、まあ」
     ムギン王妃がつぶやいた。
     ぶるぶると怒りに震えていた王は勢いよく立ち上がると、大音声で怒鳴った。
    「いい加減にせんか!!」
     ガァン!!
     コンホヴォルが杖で勢いよく柱を叩くと、広間は水を打ったように静かになった。集まった人々は、息を飲んで王を見上げている。
     王はゆっくりと広間を見渡し、騒ぎの元になった豚の丸焼きに目を留めると、舌打ちをした。
     
     〈英雄の取り分〉。
     宴席の場で、もっとも優れた者に与えられる豚肉の最上部位。

     この宴の主催者であるブリクリウがこの騒ぎを仕組んだことは明らかだった。やつは、何よりも諍いを好む男なのだ。
     宴席には姿を見せなかった男がどうやってそそのかしたのかは知らないが、ロイガレ、コナル、クー・フーリンは、見事に期待通りの役を演じたといえる。
     全員が、「英雄の取り分は自分のものだ」と主張して譲らないのだ。しかも、それが妻同士の口喧嘩に発展した。
     三人は自分の名誉だけでなく、妻の名誉も守ろうとして、ますます激しく燃え上がる。
     フェルグスが止めようと間に入ったが、一度火がついた炎はそう簡単に消し止められない。
     もはや誰も引けず、場は収集がつかなくなっていた。
     コンホヴォルは、剣を握っている騎士たちを、怒りの形相で見下ろした。
    「招かれた宴の場を血で染める気か! 剣をおさめよ。肉は三等分すればよかろう」
    「でも、我が王!」
     クー・フーリンは身を乗り出して叫んだ。
    「これは戦士としての名誉に関わります。こうも侮辱されたんだ。決着をつけないわけにはいきません!」
     いがみ合っていたはずのロイガレとコナルも、これにはそうだそうだと賛同の声を張りあげる。
     王は一人ずつに平手打ちを喰らわせてやりたかったが、そうもいかない。
     コンホヴォルはフッと鋭い息を吐き、「ならば」と険しい顔つきで言った。
    「アルスターの人間では、おまえたちが納得する判断など望めまいな。この諍いについては、コノート国の王と女王に裁いてもらうこととする。異議は認めんぞ」
     

    「お母様! お客様たちが入ってきますわ!」
     娘がはしゃいだ声をあげる。母親は振り向き、控えていた侍女に命じた。
    「すぐにもてなしの準備をなさい。最上級の酒と肉を用意するのよ! それからアリル王をここへ。女王の命令だと言ってね」
    「はい、メイヴ様」
     侍女を見送ったコノートの女王は悠然と髪を払い、艶かしい唇をゆっくりとなでた。

    メイヴ登場
     クー・フーリンは目の前の城を見上げた。
     コノート国の都、クルアハン。都を見下ろすようにそびえる城は、アルスター国の王城とはまた違った雰囲気を漂わせている。
     ざあっと髪をもてあそぶ風に、クー・フーリンは空を仰ぐ。
     義兄妹の契りを交わした男のことを想う。ここは彼の国だ。この空の下、彼もどこかにいるのだろうか?
    「おい、クー! 置いていかれるぞ!」
     ロイグの声に、クー・フーリンは我に返った。軽く頭を振り、王やコナルたちのあとに続いて、城の中へ入っていく。

    「コンホヴォル王! よくぞおいでくださいましたな!」
     国王アリルの歓待に、コンホヴォルは微笑した。
    「突然押しかけて申し訳ございませんでしたな」
    「なんの。あなたならいつでも大歓迎ですとも」
     アリルに笑ってうなずき、コンホヴォルは隣に座す女王に目を移す。
    「メイヴ女王」
    「コンホヴォル王」
     メイヴはつんとあごをそらし、鷹揚に挨拶した。
    「息災のようね、コンホヴォル。こんなに勇ましい勇士たちを連れて、戦でも仕掛けにきたのかと思ったわ」
    「騒がせてすまない。今回は、聡明なあなたたちの知恵を借りたいのだ」
    「知恵ですって?」
     すぐにコンホヴォルの側近が進み出て、ブリクリウの宴会で起きた一連の出来事について説明する。
     聞いているうちに、にこやかだったアリルの顔がどんどん青ざめてきた。
    「……それで、私たちに英雄争いの調停役を?」
    「ぜひお願いしたい」
     アルスター国王がうなずく。
    「調停だなんて、私たちにはとても……」
    「構わなくてよ」
     妻の言葉に、アリルは驚いたように振り向いた。
     メイヴは物憂げに髪をかきあげ、アルスター国王を見上げる。
    「三日もあれば十分かしら」
    「ありがたい。この礼は必ず」
     コンホヴォルが端正な顔に笑顔を浮かべる。
     勝手に進んでいく話にアリルは戸惑っていたが、それでも妻の言葉に異を唱えることはなかった。アルスター国は強大だ。断ればどうなるか、アリルにはよくわかっていた。
     メイヴは微笑を浮かべながら、客人たちに向かって緩やかに手を差し出した。
    「ささやかだけれど宴を準備したわ。どうぞ皆さま、おくつろぎになって」
     アルスター国の面々には、素晴らしい酒と馳走がふるまわれた。
     王女フィンダウィルを始め、城の女たちも客人をもてなしたので、まるで争いの最中とは思えない陽気な時間が過ぎていった。
     座っているコンホヴォルの杯に、メイヴがワインを注ぐ。視線がぶつかり、二人は黙って見つめ合った。
    「おまえはいつまでも変わらないな」
     杯に口をつけながら、コンホヴォルがつぶやく。
    「その瞳は私を王にしてくれたときのまま……愛らしい少女の頃のままだ」
    「やめてちょうだい。昔の話なんてつまらないわ。それより、お妃はお元気?」
    「ムギンか? ああ、元気だ。身重だから、コノートまでは来られなかったが」
    「そう。おめでたいわね」
     口ぶりは親しみを感じさせたが、二人の瞳にはどこか冷え冷えとした光があった。横では、アリルがそわそわとコンホヴォルに料理を進めようとしている。
    「王、この猪肉料理はいかがかな? こちらのチーズは?」
    「ありがたい。いただきます」
     薄っぺらな愛想の良さで会話する二人の男に背を向け、メイヴは渦中にいる三人を見やった。
     ロイガレ・ブアダハ。「栄光のロイガレ」だわ。赤き手の勇士。ずいぶん立派な身体つきの男ね。こちらへの敵意がなくてよかったこと!
     コナル・ケルナッハ。「勝利のコナル」ね。なかなかの美丈夫。優しげな顔をして、戦場では敵の首をいくつもぶら下げるそうね。
     クー・フーリン。この娘が噂に聞く「クランの猛犬」か。まさか、本当に女だったとは。ふん、まあまあ見られる顔ね。私ほどじゃないけれど。
     「英雄の取り分」を奪い合う争い。なんとも馬鹿馬鹿しくてくだらないが、適当な判断を下せば、後から自分の首を締めることになることを女王はよくわかっていた。
     さて、どうしたものかしら。
     考えにふけりながら、メイヴは自分のワインをあおった。

     コンホヴォルたちがアルスターに帰ったのち、コノートにはロイガレ、コナル、クー・フーリンの三人だけが残った。
     アリルとメイヴは三人にさまざまな試練を課し、それぞれの力量を見極めようとした。
     メイヴの息子たちやフィンダウィル王女も、面白そうな目つきで見物をしていた。
    「ね、お母様!」
     フィンダウィルがうきうきとした声で言う。
    「やっぱりあのクー・フーリンって人、すっごく素敵じゃない? あーあ、あの人が男の人だったらなぁ」
    「俺も残念だね」
     フィンダウィルの兄、メインが笑いながら言った。
    「女としても、かなりの美人だ。気が強そうだし、俺好みだな」
    「あら、じゃあお兄様が求婚すれば? 私、あんなお姉様なら大歓迎よ!」
     無邪気な妹の言葉に、メインは首を振った。
    「もう結婚してるんだとさ。そうおっしゃってましたよね、母上?」
    「そうね。アルスター王から聞いたわ」
     メイヴは腰に手を当て、クー・フーリンがコノートの兵士相手に槍を振るう姿を見下ろしていた。
     閃光のような太刀筋。猟犬のようなしなやかな動き。
     武芸に心得のあるメイヴは、この娘の力量が、他の二人をはるかに凌駕していることを見抜いていた。
     クー・フーリンは鋭い一閃で演武相手の兵士を突き倒すと、くるくると手元で槍をもてあそび、軽く一礼した。額から流れ落ちた汗が、日光に当たってきらきらときらめく。
     クー・フーリンは、こちらを見ているメイヴたちに気づくと、にこっと笑った。誰もが好感を抱かずにはいられないような、人なつこい笑みだ。
     すっかり彼女を気に入ってしまったらしいフィンダウィルは、黄色い声をあげながら手を振っている。メインも、感心したように声を漏らした。
    「ふうん……」
     メイヴは目を細め、御者の青年から布を受け取って汗をぬぐっている娘を見ていた。
     年齢は、十代後半ほどか。フィンダウィルより、少し上くらいだろう。
    「まいったな、どうしたものか」
     アリルのつぶやきを聞きながら、メイヴは考えを巡らせた。

    「お母様! お連れしたわ!」
     フィンダウィルの声に、小鳥とたわむれていたメイヴは顔をあげた。
     王女に腕を引かれ、一人の若者が部屋に入ってきた。
     フィンダウィルに腕に抱きつかれた若者は苦笑いを浮かべていたが、女王を見ると、すっと背筋を伸ばし、最敬礼をした。
    「メイヴ女王」
    「クー・フーリン」
     メイヴは無造作に椅子から体を起こし、足をゆったりと組み替える。
    「ご苦労だったわね、フィンダウィル。もういいわ、下がりなさい」
    「えー? もう?」
     天真爛漫を絵にした王女はちょっぴり唇を尖らせたが、すぐに生き生きとクー・フーリンを振り返った。
    「それじゃあね、クー・フーリン様!」
    「はい。お手間を取らせました、王女様」
    「うふふ、あなたのお顔を見られるなら、これくらいお安いご用よ。それじゃ、お母様。失礼するわ!」
     頰をぽっと桃色に染め、愛らしくクー・フーリンににっこりすると、フィンダウィルはぱたぱたと部屋を出ていった。
     にぎやかな娘を見送った女王は、ゆっくりと若者に視線を戻す。
    「女王を待たせるなんて、大したものね。わざわざ娘まで使ってしまったわ」
    「申し訳ありません。チェスがいい勝負だったもんで、やめたくなかったんです」
     クー・フーリンはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
     待つことに慣れていない女王はこめかみをぴく、と動かしたが、内心の苛立ちを見せないように微笑んでみせる。
    「で、勝負の行方は?」
    「もちろん、私の勝ちです」
    「それはなにより」
     メイヴは優雅に手を動かした。
    「さ、こちらへいらっしゃい」
    「失礼します」
     クー・フーリンが部屋に踏みこむと、メイヴのペットであるリスがちょろちょろと走りよった。足元で立ち止まり、つぶらな瞳で客人を見上げる。
     クー・フーリンが手を差し出せば、リスはすぐに飛び乗り、すばやく肩までよじ登った。
     愛らしい小動物は客人の顔にふわふわの頰をすり寄せ、クー・フーリンは軽やかな笑い声を立てた。その様子を、メイヴはじっと眺めていた。
    「可愛いですね」
    「そうね」
     リスを肩に乗せたまま、クー・フーリンはメイヴ女王を見上げた。
     豪奢な王座に堂々と、しかし、どこか艶かしさを纏いながら座す女王の面立ちは、ムギン王妃によく似ていた。
     しかし、雰囲気はまるで違う。王妃が野にひっそりと咲く野薔薇なら、彼女は大輪の薔薇だ。どんな蝶も蜂も惹きつけてやまない、トゲのある花だ。
     そんなことを考えていると、メイヴが口を開いた。
    「裁定のことだけれど。あなたの力は十分に見せてもらったわ。実に勇ましい勇士だと認めます。さ、これを」
     メイヴは、クー・フーリンの目の前にゴブレットを差し出した。宝石で鳥の装飾が施された、黄金のゴブレットだ。
     クー・フーリンが手を差し出すと、メイヴはゴブレットを乗せる。金色にきらめく杯に、クー・フーリンは目を輝かせた。
    「女王、これは」
    「あなたこそ、『英雄の取り分』を得るにふさわしい娘よ。誰にも見せないようにアルスターへ持ち帰って、王の御前でそのゴブレットを披露しなさい。そうすれば、誰もがあなたをアイルランドの英雄だと認めるわ」
    「ありがとうございます!」
     クー・フーリンはぱあっと太陽のような笑顔を浮かべた。頰が林檎のように赤い。若い娘らしい、無邪気な笑みだった。
     いそいそとゴブレットを懐にしまいこむ娘をメイヴは見下ろしていたが、クー・フーリンが満足そうに立ち上がったところで、「ねえ」と声をかけた。
    「あなたも騎士団の一員なのでしょう?」
    「ええ」
     クー・フーリンはうなずく。
    「騎士団では、どんな地位を与えられているのかしら?」
     メイヴの問いに、クー・フーリンは怪訝な表情を浮かべた。
    「地位、ですか?」
    「そうよ。あなたほどの英雄なら、きっと騎士団を率いるほどの待遇を与えられているだろうと思ったの」
     そこで始めて、クー・フーリンの顔がわずかに曇った。
     女王は手を伸ばし、クー・フーリンの肩からリスをすくい上げると、何気なさを装って続ける。
    「正直言って、このコノートには、あなたに匹敵するような戦士はいないわ。きっと、コンホヴォル王も、あなたを重用しているんでしょうね」
     それとなくアルスター王の名前を出す。
     話を聞いていたクー・フーリンは、静かにかぶりを振った。
    「オレは……私には、そういったものはありません」
    「なんですって?」
     メイヴは目を丸くしてみせた。
    「あなたほどの勇士が、なんの地位も与えられていないというの? 王の姪御でもあるのでしょう?」
     クー・フーリンはうなずいた。「でも」と続ける。
    「私はまだ若輩ですから。それに、地位なんてなくても、国のために尽くす気持ちは同じです」
    「それは間違ってるわ!」
     メイヴは声に力をこめた。ぐっとクー・フーリンに近づき、その瞳を覗きこむ。
    「あなたは英雄なのよ。誰よりも力があるんだから、誰よりも大事に扱われるべきなの。それなのに、何もないなんて信じられないわ!」
    「女王、私は別に……」
    「私がもしコンホヴォル王だったら、間違いなくあなたのことを誰より誇りに思うわ。誰より信頼して、大事にするわ……」
     メイヴは、この娘がコンホヴォルの名を聞くたびに、表情を陰らせることに気づいた。
    「あなたは、それだけ愛されるべき逸材よ」
     言い切って、メイヴは背筋を伸ばす。
     ゴブレットを受け取ったときの晴れやかな表情はどこへやら、クー・フーリンは眉をひそめ、床に視線を落としていた。
    「ねえ、どうかしら」
     メイヴはたっぷりと蜂蜜をからませたような声で言った。
    「あなた、このコノート国の戦士になる気はない?」
     クー・フーリンは、驚いた表情でメイヴを見た。メイヴは、美しい眦に慈しみの色をにじませる。
    「あなたは誰よりも素晴らしい勇士ですもの。騎士団を率いる地位と、素晴らしい報酬を約束するわ」
     黙ったままのクー・フーリンに、メイヴは歌うように続けた。
    「あなた、結婚しているそうね。もちろんあなたの夫も一緒に歓迎するわ。妻に負けない待遇を約束しましょう。お子さんは? まだ? とにかく、あなたのご家族なら全員大歓迎よ。それに、本当言うとね」
     メイヴは声をひそめ、まるで内緒話をするように、クー・フーリンの耳元でささやいた。
    「私、強い女戦士を欲していたの。私も戦うことが好き。私と共に戦い、私が背を預けられるような戦士が欲しかったのよ。あなたはまさに理想的だわ!」
     とろけるような笑みを浮かべ、メイヴはクー・フーリンの頰をなでた。
    「どうかしら? 悪くない話だと思わない?」
     ほっそりした指が、少しかさついた娘の唇をなぞる。
     クー・フーリンはじっとメイヴの顔を見つめていたが、やがて目を伏せた。
    「ありがたいお話です。でも、お断りします」
    「なんですって?」
     メイヴが驚いて声をあげた。今まで、彼女の言葉を拒む者などいなかったのに!
     女王の動揺をよそに、クー・フーリンは続けた。
    「私はアルスター国の戦士です。先ほども言ったように、私はアルスター国のために尽くす。地位や報酬は関係ありません」
    「気高い精神だわ。でもね、あなたの主人は、あなたの働きに報いてくれるのかしら?」
     女王の声が、かすかに上擦る。
    「メイヴ女王」
     クー・フーリンは顔をあげ、メイヴの視線を真正面から受け止める。
    「あなたと我が王の関係、知らないわけではありませんが──」
    「昔のことよ」
     メイヴはびしりと切り捨てた。
    「私が言いたいのはね、私なら必ずあなたの忠義に恩恵を与えられるということ。でも、あの男はそうじゃないわ──」
    「我が王への侮辱は私への侮辱です。おやめください」
     すっくと背筋を伸ばした娘は、不思議と大きく見えた。メイヴは思わず言葉を飲み込む。
     胸に手を当て、クー・フーリンは礼をした。
    「裁定に感謝します、メイヴ女王。用がお済みなら、私はこれで失礼します」
    「あれは女を不幸にする男なのよ」
    「聞かなかったことにします」
    「私なら、同じ女同士よ。あの男と違ってあなたを理解できるし、あなたに女の幸せを約束できるわ」
    「メイヴ女王」
     クー・フーリンはまっすぐにメイヴの目を見据えた。女王がたじろぐほど、澄んだ瞳だった。
    「私は女である前に、アルスターの戦士なんです」
    「…………」
     メイヴは唇を噛んだ。
    「どうあっても、私のものにはならないと言うのね」
    「はい」
     凛とした眼差し。女王はこぶしを握り固めながら、感情を押し殺した声で言った。
    「……この先、何が起こるかわからないわ。あなたはきっと後悔する。私、あなたを殺すかもしれなくてよ」
     クー・フーリンはわずかに目を見開いたが、すぐににっと白い歯を見せた。
    「望むところです」
     両眼が好戦的にきらりと光る。いまや外向きの仮面を脱ぎ捨てた娘は、野生の獣を思わせた。
     その姿は獰猛でありながら、どこか清々しささえ感じさせた。
    「……ッ」
     メイヴは胸の中で何かが跳ねるのを感じた。同時に、怒りでさっと顔が赤くなる。
     わけのわからない衝動に叫び出しそうになったが、誇り高い女王はなんとかそれをこらえると、つんとあごをひいた。
    「そう、残念ね。もういいわ、出ていきなさい」
    「失礼します」
     再びうやうやしく礼をし、クー・フーリンは立ち去った。
     部屋に一人取り残されたメイヴは、瞳を爛々と光らせていた。爪を噛みながら、いらいらと絨毯を睨みつける。
     不意に、テーブルの上に置かれた金色の櫛が目に止まる。
     メイヴは櫛を取り上げると、壁に勢いよく投げつけた。櫛は激しい音を立てて壁にぶつかり、床に跳ねて虚ろな音を立てた。
     ──私が差し出した手をはねつけるなんて。
    「あの小娘!」
     喉の奥から、絞り出すような罵り声をあげる。
     生意気な娘がまとったマントの裾が、まだ目の前で揺れているような気がした。

     翌日、ロイガレ、コナル、クー・フーリンはクルアハンの城を去った。
     見送りのとき、フィンダウィルはクー・フーリンと別れるのを残念がって、しきりにまとわりついていた。
    「ねえ、クー・フーリン様! クー様って呼んでもいい? また絶対コノートにいらしてくださいね。いつでも歓迎するわ!」
     王女はクー・フーリンの腕にしがみついて、可愛らしくねだった。
     クー・フーリンは、ちらりとメイヴを見た。メイヴは苦い顔で王女を見ている。
     きらきらとした目で見上げてくる王女に目を戻し、クー・フーリンは苦笑交じりに言った。
    「あなたの母君が許してくれるなら」
    「あら、もちろんよ! ねっ、お母様!」
     フィンダウィルはぴょこんと愛らしい仕草で女王を振り返る。
     メイヴは眉をひそめたが、衆目の手前もあるのだろう、短く「そうね」とだけ答えた。
    「ほらね、クー様! ねえ、そのときはまた、いろんなお話を聞かせてくださいね!」
    「もちろんです」
     アルスターの戦車たちに向かって無邪気に手を振るフィンダウィルを見ながら、メイヴはこっそり思った。
     私も、こんな少女のままだったら……。
     だが、すぐに頭から考えを打ち消す。自分としたことが、つまらないことを考えたものだ。
    「やれやれ、これで一安心だな」
     隣では、アリルがほっとした様子でひげをなでつけている。
     この男は、どこまでも平和主義者なのだ。
    「馬鹿どもを追い返せてよかったわ。まったくいい迷惑だこと。さて、疲れたから湯浴みがしたいわ。すぐに用意なさい」
     遠ざかっていく戦車に背を向け、メイヴは召使いたちに命じた。

    マンスター王子ルギー
     コンホヴォルは、めまいのような既視感に襲われて、大きなため息を吐いた。
     目の前では、いつぞやのように三人の戦士たちが睨み合っている。
    「俺はこれをメイヴ女王から賜ったんだぞ」
     ロイガレが不機嫌な声で主張すれば、コナルはフンと鼻で笑った。
    「おまえのゴブレットは銅だろうが。それなら、俺のほうが上だ」
     クー・フーリンは乳兄妹の胸をぽかぽか殴った。
    「それを言うなら、おまえのは銀でオレのは金だろ! じゃあオレが一番ってことになるじゃねえか!」
    「うるさいぞチビ」
    「チビ言うなー!」
     キーキーと叫ぶ妹分の頭を押さえつけながら、コナルは意地悪そうに言った。
    「だいたい、おまえはフィンダウィル王女に相当気に入られてただろ。それを見て、女王がおまえに金のゴブレットを渡した可能性だってあるじゃないか」
    「なんだとォ! てめえ、コナル! 言っていいことと悪いことがあるぞ!」
    「ええい、やめんか!!」
     王の鋭い一喝に、三人は黙りこんだ。それぞれがむすっとした顔をしている。
     コンホヴォルは自分のこめかみをイライラと叩いた。
     くそ、メイヴめ! まったく知恵の働く女だ。首尾よく三人をコノート国から追い出したんだな。
    「本当にどうしようもない奴らだな、おまえたちは! こうなったら、マンスター国のクー・ロイ王に裁定を頼むこととする。彼は偉大な王だからな、誰が『英雄の取り分』にふさわしいか、今度こそはっきりさせてくれるだろう」
     ロイガレ、コナル、クー・フーリンの三人は視線を交わして激しい火花を散らし合ったが、フン! と全員そっぽを向いてしまった。
    「子どもか」
     そばに控えたフェルグスのつぶやきが、コンホヴォルの耳に虚しく響いた。

     三台の戦車がマンスター国の城に到着したとき、ちょうど狩りの一行が戻ってきたところだった。
     先導するのは、まだ年端もいかない少年だ。見慣れない戦車を見て、少年は目をぱちくりさせた。
    「おじさまたち、誰? 何か御用?」
    「クー・ロイ王に頼みがあって、アルスターから参上した。私はロイガレ・ブアダハ。こちらはコナル・ケルナッハに、クー・フーリン。ええと……少年、そなたは」
     少年の後ろに控えていた初老の従僕が、小さな背中を突っついた。
    「ほら、王子! あなたも名乗られませんと」
    「あっ、そっか」
     あどけない顔の少年は慌てて向き直ると、ぴんと背筋を伸ばした。
    「僕の名前はルギー。クー・ロイ王のちゃくぬ……ちゃく、ちぇ……? えっと……」
    「ちゃくなん、です」
    「そうそれ! 嫡男です!」
     クー・フーリンとロイグは顔を見合わせた。ロイガレは軽く咳払いをし、再び口を開く。
    「そうか。それではルギー王子、王は城にいらっしゃるか?」
     大きな瞳に少年らしい好奇心を浮かべながら、ルギーは言った。
    「父上なら、領地の視察に行ってるから今はいないよ。あ、えと、いません。母上ならいるけど」
    「王子、とりあえず皆さまを中にご案内しては?」
    「あ、うん、そうだね。さあ皆さん、どうぞ」
     従僕にうながされ、ルギーは手で城門を指し示した。
     馬の上で精一杯胸を張っているが、いかんせんまだ子どもだし、馬も小さい。
     それでも、王子らしい威厳を保とうとする微笑ましさに、クー・フーリンは思わずくすっと笑った。
     ルギーはびっくりした顔でクー・フーリンを見たが、彼女がうら若い女性だと気づくと、顔を真っ赤にした。
    「まあ、皆さま。遠いところをようこそ」
     王妃ブラニッドが三人を迎え入れた。代表して、ロイガレがクー・ロイ王を訪ねてきた訳を話す。
     王妃は、少し困った顔をした。
    「王がいないのは、なんとも時期が悪うございましたわ。領地の視察で、しばらく戻りませんの」
    「そうらしいですな。王子から聞きました」
     くっついてきたルギーが得意げに胸をそらす。ブラニッドは「まあ」と目を細め、息子の頭を優しくなでた。
    「はるばる来ていただいたのに、申し訳ございませんわ。長旅でお疲れでしょうから、どうぞこの城でお休みになってください。王の代わりに、私がおもてなしいたします」
    「ありがたい申し出です。こちらこそ、突然押しかけて、申し訳ございませんでしたな」
    「いいえ」
     ブラニッドは優美に首を振った。そして少しの間、思案するように黙っていたが、やがて上目遣いに騎士たちを見上げた。
    「あの……もしできましたら、お願いがあるのですけれど」
    「お願い?」
     ロイガレが首を傾げた。王妃はうなずく。
    「王が留守の間は騎士たちが城を守っているのですが、できれば、見張りの仕事を手伝っていただきたいんですの。と言いますのも、国境を荒らす賊や魔獣たちの平定で、数多くの騎士たちが出払ってしまっているものですから……」
     ロイガレは、問うように仲間を振り返った。
     コナルが「いいんじゃないか」と答え、クー・フーリンもうなずく。
    「わかりました。王が戻られる間、我々で手分けして見張りを勤めましょう」
    「まあ、よかった! 安心しましたわ」
     ブラニッドが胸に手を当てて微笑む。その隣では、ルギーが不満そうに唇を尖らせていた。
    「母上。僕だって見張りくらいできます」
    「ダメよ。あなたはまだ大人用の槍すら持てないでしょ。もっと修行を積んでからね」
     息子を軽くいさめると、ブラニッドは振り返った。
    「見張りは、お三方いっしょでなくて結構ですわ。お一人ずつ順番にお願いしたく存じます」

     ロイグと別れ、クー・フーリンが王妃が割り当ててくれた部屋に向かおうとすると、後ろからとたとたと足音が聞こえた。
     足を止めて振り返れば、ルギーがこちらへ向かって走ってくる。
     追いついた王子ははあはあと息を弾ませ、クー・フーリンを見上げた。
    「えっと、僕が母上に言ったんだ、です! 男なら女の人を、えーと、えすこーと? してあげるものだって」
     幼いながらもプライドを見せる王子に、クー・フーリンは破顔した。
    「ありがとうございます、ルギー王子」
     少年はまろい頰を朱に染め、ぶんぶんと首を振った。
    「王子はいらない。ルギーって呼んでください」
    「わかりました、ルギー」
     ルギーは嬉しそうな顔をした。いそいそとクー・フーリンの先に立ち、「こっちです」と廊下を歩く。
    「立派なお城ですね」
     クー・フーリンが話しかければ、ルギーは得意げな顔をした。
    「でしょう? マンスター国王にふさわしいお城です!」
    「クー・ロイ王はどんな方なんですか?」
    「父上は立派なお人です。ドルイドよりいろんなことを知ってるし、すっごく強いし、不思議な力だって使えるんです!」
     目を輝かせながら語る少年を、クー・フーリンは穏やかな眼差しで眺めていた。
    「ルギーは父君のことを尊敬してるんですね」
    「もちろんです! 僕もいつか、父上みたいな立派な王になるんですから!」
     王子がひときわ大きな声で息巻いたとき、クー・フーリンの部屋についた。行き過ぎかけたルギーは慌てて戻り、扉を指差した。
    「あ、ここです。お酒はいっぱいありますし、あ、あと、湯浴みをする部屋はあっちです。お客様用だから、お布団もふわふわしてて、えっと……」
    「ありがとう。ここまでくればもう大丈夫です」
     にっこり笑いかければ、ルギーはもじもじとうつむいた。
    「あの、ええと、クー・フーリン様」
    「クーでいいですよ」
     その言葉に、ルギーはぱっと嬉しそうな顔をした。
    「えっと、クー。僕、あなたのこと、影の国から帰ってきた騎士から聞いてたんです。すっごく強い戦士だって。それで、えっと、すごく綺麗な人だって聞いてて……」
     クー・フーリンは苦笑を浮かべた。威勢のよかった仲間の姿を思い浮かべる。あいつらめ、何を吹聴してるんだか。
    「それで、あの。もしよければ、僕と友人になってください!」
    「はい?」
     予想だにしない言葉に、ぽかんと口を開ける。幼い王子はつぶらな瞳に熱をこめ、一生懸命に声を張り上げる。
    「あなたは誰よりも強かったってその騎士は言ってました。僕も強くなりたいから、いろんなお話を聞きたくて。それに、本当に話に聞いてたとおり、あなたは、とっても……」
     ルギーの声はだんだん小さくなり、それに比例して、丸っこい耳はどんどん赤くなっていった。
     クー・フーリンは瞬きをしながら王子を見つめていたが、すっと膝を落とすと、王子に視線を合わせた。
    「いいですよ。友人になりましょう」
    「ほっ、本当ですか!?」
    「ええ」
     少年の両目が、満天の星空のようにきらめいた。クー・フーリンは口端をあげる。
    「それじゃあ、友人なら、敬語もやめましょうか」
    「えっ? で、でも」
    「仲のいい者同士は、気がねない言葉で話すもんですよ」
     ルギーは戸惑った顔をした。嬉しさと困惑が混ざり合った表情を浮かべている。やがて、小さな声でもごもごと言った。
    「わかりまし……あ、いや。わかっ、た」
    「ん」
     クー・フーリンはにこっと笑い、ルギーに手を差し出した。
    「それじゃあ、これからよろしくな、ルギー」
    「うん! よろしく、クー!」
     仲睦まじい姉と弟のように、二人はぎゅっと手を握り合った。

     ルギーは好奇心旺盛で、クー・フーリンのことをいろいろ知りたがった。
     彼女が既婚者だと知ると少しがっかりしたようだが、気を取り直して尋ねてくる。
    「それで、クーの夫はどんな人なの?」
    「夫じゃないな。それはそれは綺麗なお姫様さ」
    「え、お姫様なの?」
    「そうだよ」
     クー・フーリンの膝にもたれかかっていたルギーは、びっくりしたように身体を起こす。
    「アルスターでは、女の人同士でも結婚できるの?」
    「ま、そうさね」
     クー・フーリンは多くは語らずに微笑んだ。「ふうん」と再び彼女の膝にあごを乗せ、ルギーはくりくりと目を動かす。
    「じゃあ、クーが夫なの?」
    「いいや? どっちも妻だよ。女だから」
     ルギーは考えるように首を傾げていたが、やがてちょっぴり頰を染め、くふふと笑った。
    「僕も、クーみたいな妻がほしい」
    「おやおや」
     おどけた声を出し、クー・フーリンはルギーの顔を覗き込んだ。
    「オレみたいなのがいいなんて言ったら、おまえは国中の誰より強い戦士になる必要があるぜ」
    「なるよ!」
     勢い込んで、ルギーは鼻息を荒くした。
    「僕はマンスター王の息子だもん。誰よりも強くなって、誰よりも立派な戦士になる!」
    「そうかそうか」
     クー・フーリンは少年に晴れやかな笑みを向けた。
    「そいつは楽しみだな」
    「うん!」
     少年は勇ましく胸を張った。だが、クー・フーリンが柔らかい髪をなでてやれば、ふにゃりと相好を崩し、甘えるように膝に頰をすり寄せてくる。
     人を信頼しきった子どもの仕草に、クー・フーリンは笑みを深めた。
     二人で話し込んでいるうちに、ルギーはうとうととし始めた。小さな頭が前後に揺れ、今にもまぶたがくっつきそうだ。
     クー・フーリンは、苦笑しながら少年を抱きあげた。
    「ほら、王子。もう遅いからそろそろ寝な」
    「やだ……もっとお話ししたい……」
    「また明日すればいいじゃないか。な?」
     ルギーはぐずったが、優しく諭されて、しぶしぶうなずいた。あくびをし、目をこすりながら扉に手をかける。
    「それじゃあクー、おやすみ」
    「ああ。おやすみ」
     ぱたんと扉が閉まる。クー・フーリンは少しの間、少年が消えた扉を見つめていたが、やがてひとつ息をつくと、与えられた寝床に足を向けた。

    真夜中の試練
    「何があったんだよ」
     ボロボロになったロイガレを見て、クー・フーリンがつぶやいた。
     最初の見張りは、一番年嵩のロイガレが務めることになっていた。そして夜が明けたとき、城壁の内側で倒れている彼を、兵士が見つけたのだ。
     コナルとクー・フーリンが駆けつけたとき、ロイガレは全身血だらけで、浅い息をしていた。
    「すぐに治療を!」
     コナルが叫ぶ。兵士たちは重傷のロイガレを注意深く抱えあげると、館の中へ運んでいった。
     クー・フーリンも後を追おうとしたが、立ち尽くしているコナルを見て足を止める。
    「どうした?」
    「……妙だな」
     兄貴分の男は、高い城壁を睨みつけながら言った。
    「ロイガレはどうやって中へ入ったんだ?」
    「普通に城門から入ったんじゃねえの?」
     コナルは首を振る。
    「あいつの持ち場は城門から離れていたはずだ。それに、門はここの兵士たちが守ってる。それなのに、今朝まで誰もあいつがここに倒れてることに気づかなかったんだぞ」
    「そう言われれば、確かに変だな」
     クー・フーリンも城壁を見上げた。首が痛くなるくらいの高い壁。朝日が目を刺し、その眩しさに手をかざす。
    「コナル、その……」
     おそるおそる、といった声音に、コナルはちらりと妹分を見たが、すぐに目をそらした。
    「いずれにせよ、今夜は俺が見張る番だ」
     もともとは仲の良い二人だ。しかし、今は互いの意地が邪魔をしていた。
     クー・フーリンは何か言いたげにコナルの横顔を見つめたが、結局何も言わず、黙って歩き去る背中を見送った。

     翌朝、コナルはロイガレと同じように瀕死の状態で発見された。
     青ざめているクー・フーリンを見て、ルギーが心配そうに声をかけた。
    「クー、大丈夫?」
     少年の言葉に、クー・フーリンはなんとか笑顔を浮かべてみせた。
    「大丈夫さ。けど、マンスター国には相当おっかない何かがいるんだな。これでクー・ロイ王が城にいないんじゃ、ブラニッド様も不安だろ」
     ルギーは目をぱちくりとさせた。
    「そんなの全然大丈夫だよ! だって、これは」
    「ルギー!」
     ブラニッドが駆け寄ってきて、息子を抱き上げる。ちらりとクー・フーリンを見て、申し訳なさそうに眉根を下げた。
    「お仲間がこんなことになってしまうなんて、本当に何と言ったらよいか」
    「この城では、いつもこんなことが起こるのですか?」
     クー・フーリンの問いに、王妃は表情を翳らせた。
    「このマンスターは、他国より大地の魔力が濃いんです。そのせいで、魔物が多いことは確かですわ」
     口を開きかけるルギーを目で黙らせ、ブラニッドは言った。
    「今夜はあなたが見張りでしょう。でも、同じようなことがまた起きるかもしれません。今のうちに、アルスターにお帰りになられては?」
     クー・フーリンは強く首を振り、きっぱりと言った。
    「仲間が二人とも逃げなかったのに、私が逃げるわけにはまいりません。相手が何者であれ、必ず私が仕留めて、王妃や王子たちを守ります」
     凛とした眼差しで、クー・フーリンはブラニッドを見つめた。王妃は「まあ……」とだけ言い、心なしか頰を染めた。
    「それでは、どうかよろしくお願いします」
    「はい」
     王妃に一礼し、ルギーにもちらりと目で笑いかけると、クー・フーリンはその場から立ち去った。ブラニッドはぽつりとつぶやく。
    「雄々しい娘さんだこと」
     腕の中でルギーはもそもそと動き、母親の顔を見上げた。
    「母上、なんで言わなかったのさ? あれは」
    「お黙りなさい、ルギー。これは試練なの。誰が一番優れているか見極めるために、彼女たちは戦わなくてはいけないのよ」
    「でも、母上」
     ルギーは大きな瞳を悲しげに揺らした。
    「ぼく、クーが怪我するところなんて見たくないよ」
    「…………」
     王妃は口をつぐみ、黙って息子の頭をなでた。

     クー・フーリンは槍に身をもたせかけ、じっと耳をすませていた。
     不気味なほど青白い月がぽっかりと空に浮かんでいる。
     見張りに立ったクー・フーリンは鋭く神経を研ぎ澄ませ、ネズミ一匹逃すまいと気を張り巡らせた。
    「!」
     キン、と耳元を何かがかすめる。さっとそれを避け、クー・フーリンは素早く槍を構えた。
     穂先が月光にぎらりと光る。目の端で人影のようなものが動くのを捉える。
    「ハァッ!」
     気合いとともに、クー・フーリンは影に向かって飛び込んだ。
     うごめいていた影たちは獣のような声を張り上げ、次々と剣をふりかざして襲ってきた。
     月があんなに明るく照っているのに、影の正体を見ることができない。
     クー・フーリンはひらめく白刃をかわしながら、目の前の影に向かって鋭く槍を突き出した。
    「ギャア!」
     手ごたえあり!
     そのまま身を翻し、背後の影たちをも薙ぎ払う。つんざくような悲鳴が響き渡り、襲撃者たちは次々と倒れていく。
     ブン! と槍を振り、クー・フーリンはさっとあたりを見回した。
     襲撃は止んでいた。荒い息を吐きながら、気配を探ろうと息をつめる。
     真っ黒な首のようなものがいくつも地面に転がっているのを見とめ、顔をしかめる。気味が悪い。
    「……?」
     ふと、彼女はあたりに霧が立ち込めていることに気づいた。
     月は変わらず光っているのに、まるで自分を包むかのように、霧が忍び寄ってくる。
     ──明らかに、異常だ。
     クー・フーリンは槍を握る手にグッと力をこめた。霧はどんどん濃くなっていく。
     ついに月が霧に隠され、あたりが見えなくなっていく。
    「ッ!」
     突如襲ってきた衝撃に、クー・フーリンは吹き飛ばされた。
     城壁に背を打ちつけ、激しく咳き込む。自分の頭上をサッと大きな影がよぎっていく。
     それは翼がはためく音を立てながら旋回し、一直線に向かってきた。
    「くっ!」
     間一髪でよける。巨大な影はぐるんと体を反転させ、生臭い息を吐いた。
     一瞬だけ霧が晴れ、月がそいつの正体を照らし出す。
    「なんだあ……!?」
     そいつは、トカゲにも似た巨大な怪物だった。
     ヘビのような眼。狼よりも鋭い牙。背にはコウモリのような翼を生やしている。
     ギョロリと目をむき、怪物はクー・フーリンを睨んだ。
     背中に冷や汗が流れる。クー・フーリンは、ギリ、と歯を食いしばった。
     突如、怪物は凄まじい声で咆哮した。鼓膜がビリビリと震える。
     クー・フーリンは一瞬ひるんだ。それを狙ったかのように、再び怪物が襲いかかってきた。
     目の前で、巨大な牙がぎらぎらと光る。
     攻撃をかわした瞬間、怪物の爪が城壁を破壊した。硬い岩壁を、まるでもろい菓子のようにやすやすと抉り取ってしまう。
     槍を突き出すが、怪物の鱗は石のように穂先をはね返した。
     呆気にとられたクー・フーリンに向かって、怪物は再度襲いくる。
     慌てて身を伏せれば、そいつの大太刀のように太い尾が城壁をしたたかに打った。壁に亀裂が走り、城壁の一角がガラガラと崩れる。
     くそ、城の兵士たちは何をしてるんだ!? こんな化け物が襲ってきてるのに!
    「畜生め!」
     このままでは拉致があかない。
     クー・フーリンは胸元からルーンストーンを取り出し、宙に浮く怪物に向かって投げつけた。
     石は怪物の肩にぶつかって爆発する。だが、硬い鱗に守られているのか、怪物はいらだたしげにうなるだけだ。その体には傷一つつかない。
     ルーン魔術でもダメなのか?
     歯噛みしながら、次々と投石する。怪物は爆発など気にも留めず、クー・フーリンに飛びかかろうとした。
    「あっ」
     手元が狂い、石のひとつが胸に命中する。そのとき、初めて怪物が苦悶に叫んだ。
    「……!」
     クー・フーリンは残ったルーンストーンを握りしめると、間髪入れずに目を狙って投げつけた。
     爆発の閃光が闇を切り裂く。目を灼かれ、怪物は怒りの声をあげる。
     隙を逃さず、クー・フーリンは腕に強化のルーンをかけた。筋肉が張り詰め、力が満ちていく。
    「そらぁ!」
     全身の力をこめて槍を投擲する。槍はビュンと空を裂き、怪物の胸に命中した。
    「ギャアアアアア!!」
     怪物が身をよじって絶叫した。赤黒い血がどしゃぶりの雨のように降ってくる。 
    怪物はぐらりとよろけ、そのまま落下した。
     巨体が勢いよく地面にぶつかり、激しく大地を揺らす。すかざす剣を抜き、クー・フーリンは怪物に駆け寄った。
     槍が刺さった胸元を思いきり斬り裂けば、ビクビクと震える巨大な心臓が現れる。
     漏れ出る腐臭に息を止め、クー・フーリンはその心臓を一突きした。
     怪物は天を裂くような恐ろしい叫び声をあげ、クー・フーリンは震え上がった。その声は夜を貫いて、いつまでも響き渡るような気がした。
     やがて、首をがくりと垂れ、怪物は動かなくなった。
    「…………」
     返り血で太ももをぐっしょりと濡らしながら、クー・フーリンは立ち尽くした。自分の荒い息づかいが耳に届く。
     つばを飲みこみ、剣を握り直すと、怪物の首に向かって振り下ろした。
     あれだけ硬かった鱗がパキンと割れ、首は驚くほどすんなりと落ちた。
     怪物の首と胴体が切り離されると、ようやくホッとした。
     抱えられないほど大きな首を城壁そばに転がして、よろよろと地面にへたり込む。得体の知れない怪物との戦いで、体力も魔力も消耗していた。
     寒いような気がして、クー・フーリンは自分の身体を抱きしめた。なんだか、ひどく疲れていた。
     
     ……なんで、こんなことになったんだっけ。
     
     霞みがかった頭で、クー・フーリンはぼんやりと考えた。
     いまだ晴れない霧が視界をぼんやりと濁らせる。身体は、血ではなく、泥が流れているかのように重かった。
     ブリクリウのやつがやってきて、ロイガレもコナルも、オレのことを悪く言っているって……オレの力は見せかけだけで、本当は全然強くないって。
     王の姪だからみんな黙ってるけど、オレは、〈アルスターの盾〉にはふさわしくないって。
     立てた両膝の上で、ぎゅうっと手を握る。
     二人がそんなことを言うなんて信じられなかったが、実際に『英雄の取り分』を譲ろうとはしなかった。
     それでひどく腹が立って、絶対許さないって思って、それで。
    「オレは、英雄だ」
     小さな小さな声でつぶやく。
     昔から、おまえには無理だ、駄目だと言われ続けてきたが、自分は強くなった。
     影の国から帰ってからは何度も戦い、手柄だって立ててきたのだ。
     ずっと憧れだった英雄になれるのだと、これでようやく認められるのだと、そう思って。
     脳裏に、血だらけで横たわるロイガレとコナルの姿がよみがえる。
     寒さで小刻みに震えながら、クー・フーリンはうつむいた。
     なんでこうなったんだろう。オレがなりたかった英雄って、こういうものなのか。

     「ソレ」が現れたときも、クー・フーリンは身動きひとつしなかった。
     明けない霧の向こうからやってきた「ソレ」を、クー・フーリンは身動きもせず、ただぼんやりと眺めていた。
     はじめはもやのようだった「ソレ」が、徐々に形をなし、巨大な男の影になってからも、クー・フーリンはただじっと座っていた。
    「それで」
     洞穴に響く虚ろな風のような声。亡霊のように、輪郭が青白く光っている。
    「おまえが、愚かな三人目というわけか」
     クー・フーリンは答えない。
    「まったく、ひどい夜だ」
     巨人は腕を組み、うつむいたままの娘を見下ろした。
    「馬鹿者どもが、身の程もわきまえずに騒ぎ立てるほど、不快なことはない」
     ざああ、と風が木々を揺らす音がした。それなのに、魔の霧はどんどん濃くなっていく。
    「聞けば、誰が一番英雄にふさわしいかで争っているようだが、なんとも瑣末な話よ」
    「そうだな」
     ずっと黙っていたクー・フーリンは始めて口を開き、くっくっと笑い声を漏らした。その姿は、自嘲しているようにも見えた。
    「誰が一番いい豚の肉を取るかで、血まみれになって戦わなきゃならないんだもんなぁ」
     巨人の手に、白く光る槍のようなものが出現する。まるで樫の木のような、巨大な槍だ。
    「ああ、本当にひどい夜だぜ」
     巨人が、ゆっくりと槍を振りかぶる。クー・フーリンの唇が弧を描く。
    「おまえにとってなぁ!」
     ビュッと音が空を裂く。クー・フーリンが一瞬前まで立っていたところに槍が突き刺さっていた。
     巨人はうなり声のような音を立てた。
     受け身で転がったクー・フーリンがぱっと立ち上がれば、巨人の手に再びいくつもの槍が出現する。
     次々と槍が降ってくる中、クー・フーリンは重い足を叱咤して走った。
    「うわ、っと!」
     目の前にグサッと巨大な槍が突き刺さった。さっと飛びのき、巨人を睨みつける。
     ふりかぶって槍を投擲したが、巨人の投げた大槍に弾かれてしまう。
    「チッ」
     腰の剣を抜こうとしたところで、巨人が飛びかかってきた。
     思いがけない速さに反応が遅れる。次の瞬間、巨大な手がクー・フーリンの身体をガッチリと掴んだ。
     力の強さに思わずうめく。身体中の骨がみしみしと軋む。
    「この程度か」
     巨人の重々しい声が響き渡る。
    「少しは骨があるかと思ったが。とんだ見込み違いだな」
    「ぐ……あ……ッ!」
     掴まれた手に力がこめられ、クー・フーリンは苦悶に顔を歪ませた。唯一自由な左手で爪を立てるが、巨人は意にも介さない。
    「見込み違いか……へへっ」
     この状況でも笑みを浮かべてみせる娘に、巨人はわずかに動きを止めた。
    「なぜ笑う」
    「そうさねぇ」
     手の中の獲物は、逃れようと無駄な努力をしている。
     こちらが少し力を入れるだけで苦痛の声を漏らす姿は、哀れみすら感じる。
     敗北は必然だ。それなのに、なぜ。
    「あんたの本当の見込み違いはな……」
     苦しげな息の下から、クー・フーリンはニッと犬歯をむき出した。 
    「オレは魔術も超一流ってことさ!」
     左手が素早く空に文字を書く。ルーン文字は紅蓮に燃え、カッと光った。
     凄まじい爆炎が巨人の顔を焼く。叫び声をあげた巨人の手が緩んだ。
     クー・フーリンはすばやくそこから抜け出し、大跳躍で飛び上がる。
    「喰らいな!」
     抜き身の剣が鋭くひらめく。雄叫びとともに、クー・フーリンは巨人の顔に斬りつけた。
    「ぐあ、あ、あ!」
     顔を押さえ、巨人はよろめいた。着地したクー・フーリンは、地面に突き刺さっていた槍を拾い上げ、とどめを刺すべく巨人に近づいていく。
    「貴様、貴様ぁ!」
     巨人が吠えた。苦痛にのたうち、仇に向かって手を伸ばすが、クー・フーリンはそれをなんなく切り捨てる。巨人はついに地に伏した。
    「ふざけるな、ふざけるな!」
     目の前に死が迫ってくるのを前に、巨人は怒りのまま吐き捨てる。
    「貴様のような小娘が、本当に英雄になれるとでも思うのか!」
    「それな。ガキの頃から、何度も何度も聞かされてきたぜ」
     冷たい双眸で、クー・フーリンは槍を構えた。
     戦士になることだって反対された。見下されたことも、馬鹿にされたことも数え切れない。
     でも、しょうがねえじゃねえか。
     英雄になりたいって。なれるって。
    「思っちまったんだからよぉ!」
     クー・フーリンの一閃が巨人の脳天を貫いた。
     光の粒が奔流となって噴きあがり、絶叫が響き渡る。断末魔に狂った巨人の手がクー・フーリンを殺そうと振り上がる。
     まさにその時、地平線から一筋の光が差した。

     日の出だ。

     日の光を浴びた巨人はぴたりと動きを止めた。
     振り上げた手がゆっくりと下ろされる。やがて巨人は深々と長い息を吐き、そのまま溶けるように消えていった。
     クー・フーリンは影が消えたあとも、じっとそこに立っていた。
     彼女を覆っていた霧は、すっかり晴れていた。目覚めたばかりの太陽の光が、慈しむように彼女の頰をなでる。
     クー・フーリンは目を閉じ、夜明けの温かさを肌で感じた。

     クー・フーリンは城壁を飛び越えられると思ったが、疲労のせいで足がひっかかり、無様に城壁内に落下した。
     うずくまって痛みにうめく。城から、小さい人影が飛び出してきた。
    「クー!」
     ルギーだった。毛布を抱えて走ってきた幼い王子は、血と泥で汚れたクー・フーリンを見て泣きそうな顔になった。
    「クー、大丈夫? 怪我はひどいの? どこが痛いの?」
     毛布をせっせと肩にかけながら、ルギーは必死で言いつのる。いじらしい姿に、クー・フーリンは目を細めた。
    「大丈夫。ほとんど返り血だからさ」
     ルギーの頭をなで、「ああ、でも」と続ける。
    「さすがに疲れたぜ。汚れちまったし、湯浴みがしたいかな……」
    「わ、わかった! すぐに準備させる!」
     王子の手を借りて立ち上がり、よろよろと城まで歩いていく。
     ルギーはクー・フーリンのそばにぴったりとくっついて、彼女を支えた。
     広間に入れば、ブラニッドが待っていた。王妃はぼろぼろになった娘の姿を眺め、うなずいた。
    「勝ったようですね」
     クー・フーリンはじっと王妃を見つめた。王妃は微動だにせず、その視線を受け止める。
     やがて、クー・フーリンはかすれた声で言った。
    「ロイガレとコナルは……?」
     ブラニッドは微笑んだ。
    「あのお二方なら大丈夫。すぐに良くなるわ。心配なさらないで、あなたもお休みなさい」
     クー・フーリンは何も言わず、頭だけ下げると、身体を引きずって部屋に戻っていった。
    「聡い娘のようね」
     ブラニッドの声に、ルギーは不安そうな顔で言った。
    「クー、怒ってるのかな? ひどい目に合わされて、僕らのこと嫌いになっちゃったかな?」
    「それは大丈夫よ。彼女たちはみんな、自分の意思でここに来たんだもの」
     息子のやわらかい髪の毛をなで、ブラニッドは微笑を浮かべた。
    「心配しなくても、彼女があなたを嫌いになることはないわよ、ルギー」

     驚いたことに、ロイガレもコナルもすっかり怪我が治っていた。
     魔術の力が働いていることは、もはや疑いようがなかった。
     この三日間の見張りが王妃による試練だったことも、皆わかっていた。
    「クー・フーリンこそ英雄の取り分を得るにふさわしいと、私は判断いたしますわ」
     ブラニッドの言葉に、ルギーはわぁっと喜びの声をあげたが、アルスターの三人は黙りこくっていた。
     クー・フーリンはちらりと仲間を見たが、ロイガレもコナルも苦い顔をしたまま、何も言おうとしない。
     王妃は三人の顔をかわるがわる眺めていたが、少し怒ったように腰に手を当てた。
    「なんですか。私の裁定に不満でも?」
    「いや、それは……」
     ロイガレが声をあげたが、すぐに言葉を濁らせてしまう。王妃は眉根を寄せた。
    「クー・ロイ王直々の判定ではないから、ご不満なのかしら? いいわ、それなら夫が帰ってから事の顛末を伝えて、改めて裁定していただきます。でも、今はこれでお引き取りを!」
     
     身支度を整えたクー・フーリンは、ロイグが戦車の準備を終えるのを待っていた。
     ルギーが駆け寄ってくるのに気づくと、にこやかに片手を上げる。
    「僕、本当は教えてあげたかったんだけど」
     ルギーはおずおずと言った。
    「あれは城を守る魔法で、光に弱くて、それで……」
    「言わなくて正解だぜ」
     クー・フーリンは穏やかに言った。
    「あいつらにズルしたって思われるからな。それに、オレだけ敵の弱点を知ってるっていうのは、公平じゃない」
     そうだろ? と片目をつぶれば、ルギーもコクリとうなずいた。
    「おーい、クー! 準備できたぞ!」
     ロイグが手を振って呼んでいる。手を振り返し、クー・フーリンは少年に向き直った。
    「それじゃあ、いろいろと世話になったな、ルギー」
    「うん。来てくれてありがとう、クー。あなたに会えてよかった」
     そこで王子は、後ろ手に持っていたものを差し出した。
    「これ、あなたに」
     それは、一輪の真っ赤な花だった。目の覚めるような鮮紅色が、王子の右手の中で咲き誇っている。
     クー・フーリンは、ふわりと表情をほころばせた。
    「ありがとな。綺麗だ」
    「うん」
     クー・フーリンが花を受け取ると、ルギーは一歩下がった。もじもじと自分のつま先を見つめている。
    「ねえ、クー。……また、会えるかな?」
    「そうさなあ……」
     身を屈め、クー・フーリンはぽんと王子の頭に手を置いた。少年は目を丸くして顔を上げる。
    「おまえが立派な戦士になったら、きっとまた会えるさ」
     日光を背負って立つ娘は、まるで彼女自身が輝いているように見えた。
     ああ、やっぱりすごく綺麗な人だ。
     ルギーは頰が熱くなるのを感じながら、クー・フーリンの手をきゅっと握った。
    「僕、がんばる! 立派な戦士になって、あ、あと、父上みたいな立派な王になって、そしてクーに会いに行く!」
    「ああ。楽しみにしてるぜ、王子様」
     クー・フーリンは楽しそうに笑った。
     胸の高鳴りと、かすかな痛み。
     自分でもよくわからない感情を抱きながら、ルギーはクー・フーリンと繋いだ手に力をこめた。

    「ずいぶん熱烈な告白を受けたんじゃないか?」
     馬たちを御しながら、ロイグは面白そうに言った。クー・フーリンも口角を上げる。
    「一国の王妃になりそこなったぜ」
    「やめとけやめとけ。おまえは王妃なんて柄じゃないから」
    「コノヤロ」
     軽く御者の背中を叩けば、ロイグは軽やかな笑い声をあげた。つられて、クー・フーリンも笑い出す。
     その胸元には、赤い花が揺れていた。

    緑の兜
     クー・フーリンは夢を見ていた。ああ、これは夢だとわかっている。
     だって、こんなことが本当に起こるわけがない。
    「約束だ。約束だぞ!」
     ぐわっと恐ろしげに口を開き、そいつは不気味な笑い声をあげた。クー・フーリンは斧を握ったまま、足が竦んで動けない。
    「貴様は俺の首を斬った! 俺は死ななかった! 次は貴様の番だ、貴様の番だ。約束どおり、貴様の首をもらおうか!」
     地面に転がった男の首からドクドクと血が溢れている。それでも、男は笑い続ける。
     濁った黄色い瞳がぎょろりとクー・フーリンを見据える。彼女は悲鳴をあげた。
     手から斧がぼとりと落ちる。じり、と思わず後ずさる。
    「逃げても無駄だ……逃げても無駄だぞ……」
     男の嘲笑は止まらない。首のない胴体がむくりと起き上がる。
     巨人のように大きな手が、こちらに向かって伸ばされる。
    「約束だ。貴様の首を、首を寄越せ!!」

    「!」
     クー・フーリンは目を開けた。汗の玉がつうと首元を伝う。自分の激しい息づかいが聞こえる。
     目に入ったのは見慣れた天井。そうだ、ここは自分の寝室だ。
     部屋は薄暗い。まだ夜明け前なのだろう。
     クー・フーリンは深々とため息をついた。隣では、エメルが目をこすりながら起き上がっていた。
    「どうしたの……?」
     クー・フーリンは急いで汗をぬぐい、妻の安眠を妨げたことを小さく詫びた。
    「悪い。起こしちまったな」
     エメルが眉をひそめる。
    「大丈夫? 顔色が悪いわ」 
    「何でもねえ。変な夢見ちまって。昨日、酒を飲みすぎたかな、はは……」
     姫を心配させまいと笑ってみせる。エメルはクー・フーリンの頰に優しく触れた。
     不意に、どうにもたまらなく怖くなり、その手を取って頰をすり寄せる。
     エメルが抱き寄せてくれるのに身を任せながら、クー・フーリンは己の内に湧き上がる得体の知れない恐怖と戦った。


     コンホヴォルは、未だに片付かない英雄争いに頭を悩ませていた。
     頼みの綱だったクー・ロイ王も、結局沙汰を寄越してこない。
     ロイガレ、コナル、クー・フーリンの三人は目立った諍いこそしなかったものの、互いを見る目には不信があり、ぎこちなさがあった。
     赤枝の騎士団の中でも輝かしい三人の空気は全体に伝播し、騎士団全体の士気まで下がっていた。
     まったく、ブリクリウはとことん余計なことをしてくれたものだ。
     コンホヴォルはため息をついた。いずれにせよ、今夜の晩餐会も、無事に終わることを祈るしかない。

     日が暮れ、王の広間に戦士たちがやってきた。クー・フーリンたちも妻を伴って入ってくる。
     コンホヴォルは、おやと思った。心なしか、三人ともどこか青ざめた顔をしている。
     騎士達が自分の座につくと、酒と馳走が供された。
     コンホヴォルは一段高い席に座りながら、ぐびりとエール酒を口に含む。飲み慣れたはずの酒は、いつもより苦い味がした。
     宴もたけなわになった頃、風も無いのに松明が大きく揺らめいた。広間が一瞬暗くなる。
     何事かと皆が顔を見合わせた。そのとき──。
    「キャアア!」
     侍女が叫んだ。見れば、広間の入り口をふさぐように、巨大な影が立っている。
     男たちはざわめき、自分の剣や槍を掴んだ。クー・フーリンもエメルを背後にかばい、すぐに自分の槍を握る。
     影は広間の中をぐるりと見回し、ずしん、ずしんと足音を響かせながら入ってきた。
     召使いたちが怯えて部屋の隅に逃げ込む。
     そいつの姿を見た瞬間、クー・フーリンの顔が恐怖に引きつった。
     焔のように真っ赤な髪。
     重々しい緑色の兜。
     濁った血の色をした外套。
     人間ではありえないほど大きな身体つき。
     ぎらぎらと獰猛に光る黄色い瞳。
     あいつは、まさか。

     ──首を寄越せ!!

    「何者だ!」
     コンホヴォルが立ち上がり、招かれざる客を睨んだ。
    「無礼者め。ここを何処だと心得る」
     大男は王を見据え、にたりと笑った。並びの悪い黄色い歯がむき出しになる。
    「そういきり立つな、アルスターの国王よ。俺は約束を果たしてもらいに来ただけだ」
    「約束だと?」
    「そうだ」
     大男はゆっくりと広間を見渡した。その手に、夢で見たのと同じ戦斧が握られているのを、クー・フーリンは確かに見とめた。
    「おお、いたいた」
     大男は口元を歪めた。その視線が、ロイガレ、コナル、そしてクー・フーリンに向けられる。
    「さあさあ、勇ましき戦士ども。約束どおり、貴様らの首をいただきに来たぞ」
     コンホヴォルは困惑の表情を浮かべた。見れば、三人は三人とも、顔から色を失っている。
    「そんな、馬鹿な……」
     ロイガレが震える声でつぶやいた。
    「おい、待て。一体どういうことだ」
     さっぱり事態が飲み込めず、王は自分の戦士たちを見下ろした。
    「お客人。そなたとこやつらの間で、いったい何があったのだ」
    「なに、ちょっとした賭けをしたまで」
     大男はゆっくりと戦斧を持ち上げ、その刃の背で手のひらを叩く。
    「この斧で俺の首を刎ねてみろとな。もし俺が死ねばそちらの勝ち。俺が死なずば──」
     野獣のような目がゆっくりと細まる。
    「代わりに、そちらの首を刎ねるとな」
    「なんだと!?」
     フェルグスが驚いて声を上げた。焦ったように、ロイガレたちに向かって叫ぶ。
    「おまえたち、いつの間にそんな賭けをしていたんだ!」
    「違う。あれは、あれは夢で──」
     コナルが熱に浮かされたようにつぶやいた。その言葉に、クー・フーリンは慌てて振り向く。
    「おい、コナル。おまえもあいつの夢を見たってのか?」
     乳兄弟は、驚いた顔で妹分を見た。
    「まさか、クー。おまえも?」
     二人が一斉に振り向けば、ロイガレも蒼白な表情で二人を見返した。
    「くだらん!」
     ドンと大槍を床に叩きつけ、コンホヴォルは叫んだ。
    「そんなたわごとに付き合っていられるか! お客人、悪いことは言わぬ。速やかにここから出ていけ」
    「ほう」
     大男はゆっくりと自分のあごをさすった。
    「アルスターの戦士は、交わした約束も守れぬ不誠実者だということか」
    「挑発しても無駄だ、あやかしめ」
     コンホヴォルはキッと大男を睨む。
    「だいたい、貴様のいう賭けとやらも夢か現かわからぬではないか。そんないい加減な勝負事に騎士たちを巻き込むことは、私が許さぬ」
    「なるほど、立派な名君らしい言葉だ。ならば、この場でもう一度試してくれても構わんぞ」
     大男は、戦斧を手の中でくるりと回した。
    「これには魔術がかっていてな。国一番の戦士であれば、たとえ首を切られても死ぬことはない。それはタラの聖石にかけて誓おう。だが、そうでなければ──」
     大男は斧を振り上げると、そばにあった石造りのテーブルに勢いよく振り下ろした。
     頑丈なテーブルは生肉のようにすっぱりと切れ、大きな音を立てて崩れ落ちた。
    「こういうことになる」
     トン、と斧を肩に乗せ、大男は振り返った。
    「さあ、どうだ。勇ましい戦士ども。もう一度俺に挑戦してみるか?」
     ロイガレもコナルもクー・フーリンも、凍りついたように立ち尽くしていた。
     今や、三人は三人ともが夢であの男に挑戦し、そして敗北したことがわかっていた。
     ──いや、あれは本当に夢だったのだろうか?
    「さあ、どうした!」
     招かれざる客人は斧を高く掲げた。
    「アルスターの戦士は皆が名誉と誠を重んじる強者たちだと聞いていたが、見込み違いだったか? 名乗り出る戦士が一人もおらんとは!」
     大男は雷鳴のような声でがなりたてる。
    「どうやら、ここには名誉のために命を賭けられる勇者は一人もいないようだな。アルスターの戦士はそろいもそろって腰抜けばかり。勇気の欠片もない臆病者だとアイルランド中の吟唱詩人に歌わせるとしよう!」
     せせら笑う大男に、ついにクー・フーリンが切れた。
    「いい加減にしやがれ! ふざけやがって!」
     瞳に怒りの炎を燃やし、大男をびしりと指差す。
    「アルスターの戦士が臆病者だと? 聞き捨てならねえ。撤回しやがれ!」
    「クー・フーリンか。フン。俺の首を見てガタガタ震えていた小娘が、偉そうな口を」
    「うるせえ! 黙れ!」
     真っ赤になってクー・フーリンが叫ぶ。大男は嘲りの表情で彼女を見下ろした。
    「ならば、貴様がもう一度挑戦するか?」
    「おう、いいぜ。やってやろうじゃねえか!」
     クー・フーリンはいきり立ち、ずかずか歩いていこうとした。コナルは思わず妹分の肩を掴む。
    「おい、やめろ!」
    「なんだよ。離せよ!」
    「冷静になれ! 戦場ならまだしも、こんなところで死ぬ気か?」
    「アルスターの戦士を馬鹿にされて、おめおめ引き下がっていられるか!」
    「よせ、クー! あいつは本当に底が知れないんだぞ」
     ロイガレまでもが止めに来る。二人に押さえられて、クー・フーリンはますます逆上した。
    「おまえら、こんなに侮辱されて腹立たねえのかよ!」
    「それは……だが」
     コナルが言いよどむ。クー・フーリンは激しく身をよじって二人の手を振りほどくと、大男を睨みつけた。
    「オレが挑戦する。約束も守る。そうしたら、金輪際アルスターの戦士は臆病者だなんて口にするな」
    「よかろう」
     大男はうなずき、斧をクー・フーリンに差し出した。そしてそのまま膝を折り、樫の木のように太い首を彼女の前にさらす。
    「さあ、一思いにやってみろ」
     クー・フーリンは、ふうっと詰めていた息を吐き出した。柄を掴んだ手に、ドクドクと打つ脈を感じる。
     ぐっと柄を握りしめ、クー・フーリンは、大男の首に向かって勢いよく斧を振り下ろした。
     ぱっと鮮やかな赤が噴き上がり、大きな首がゴトリと落ちる。女たちが悲鳴をあげた。
     クー・フーリンは息を荒げていたが、ぎくりと身体を震わせた。
     首のない胴体が、いきなり立ち上がったのだ。
     胴体は転がっている自分の首を拾い上げると、まるで槍の穂先を太刀打ちにはめるがごとく、自分の身体にはめこんだ。
     まるで何事もなかったかのように、大男はクー・フーリンを見下ろした。
     傷口からは血が滴り落ちていたが、外套が赤いせいで目立たない。大男は低い声で告げる。
    「俺の勝ちだ」
     クー・フーリンは斧を握ったまま立ち尽くしていた。
     頭の芯が麻痺してしまったかのようだった。
     いや、どこかではわかっていたのだ。この大男が強大な魔力を持っていること。自分ではこいつを殺せないこと。
     けれど、我慢ができなかったのだ。どうしても。
     クー・フーリンは一瞬視線を落としたが、すぐに顔を上げ、大男に戦斧を差し出した。
    「わかった。オレの首をやる」
    「いや!」
     エメルが叫んだ。走り寄ろうとするエメルを、フェデルマとレンダウィルが必死に抑える。
    「ダメよ、エメル!」
    「危ないわ!」
    「離して! いやよ、クー、クー!」
     クー・フーリンは、ぼんやりと霞み始めた目でエメルを見つめた。大好きな顔は悲愴に歪み、美しい瞳が絶望に揺らいでいる。
    「ごめんな、姫さん」
     小さな声でつぶやく。そして、コンホヴォルやフェルグス、ロイグにもゆっくりと目を移していった。
     誰もが立ち上がり、蒼白な顔でこちらを見つめている。コナルやロイガレも、恐怖に目を見開いていた。
    「やめ……」
     思わず踏み出しかけたコナルに「来るな!」と叫ぶ。
     喉に突き上げてくるものを必死に飲みくだし、クー・フーリンは床にひざまずいた。
    「やってくれ」
    「見上げた根性だ。おまえのおかげで、アルスターは名誉を取り戻したと言えような」
    「ごちゃごちゃうるせえ。とっとと殺せ」
    「これは失礼した。では、その首、貰い受ける」
     大男が戦斧を振り上げる。エメルが悲鳴をあげた。
     クー・フーリンはぐっと目を閉じる。世界が闇に閉ざされる。

     ガッ!!

     硬いものが砕ける凄まじい音。クー・フーリンは必死で目を閉じ続けていた。だが。
    「ん……?」
     覚悟していた衝撃は、いつまで立っても襲ってこない。
    「あれ……?」
     クー・フーリンはおそるおそる目を開けた。
     目の前には、床に深く食い込んだ斧。さっきの大きな音はこれか。
     ……ん? 斧が床に?
    「うわっはっはっはっは!」
     大きな笑い声が響き渡った。クー・フーリンは驚いて後ろを振り返る。
     大男が体を揺らしながら、いかにも愉快そうに笑っていた。
     次第に、体がまるで陽炎のように揺らぎ始める。やがて大男の姿は消え、そこに現れたのは──。
     コンホヴォルが叫んだ。
    「クー・ロイ王……!」
     そこに立っていたのは、偉大なる魔術師であり、マンスター国の主、クー・ロイ王その人だった。
    「見事なり。さあ立て、勇敢な娘」
     クー・ロイは、クー・フーリンに大きな手を差し出してきた。
     何が何やらわからないまま、クー・フーリンはその手を取る。王は恭しく彼女を立ち上がらせた。
    「ごきげんよう、コンホヴォル王」
     呆気にとられているアルスター王に向かって、マンスター王は兜に触れて挨拶をした。
    「ク、クー・ロイ王……なぜ、あなたが」
     野蛮な闖入者のふりをしていた王は、茶目っ気たっぷりに大きな瞳をくるりと動かす。
    「あなたが私に裁定を依頼したのだろう? その役目を果たしに来たまで」
     王は被っていた緑の兜を脱ぐと、戸惑いの表情を浮かべているクー・フーリンに差し出した。
     だが、彼女は目を丸くしたまま動かない。
     やがて王は痺れを切らし、無理やり兜をその手に押し付けた。
     兜はずっしりと重く、クー・フーリンは慌ててそれを抱え直した。クー・ロイは背筋を伸ばし、朗々と声を張り上げた。
    「裁定は下された。アルスター1の英雄は、この若き娘、クー・フーリン。彼女だけが己の命をも顧みず、名誉のために私に挑んだ。もはや疑いようがなく、彼女が最も偉大な戦士だ」
     クー・ロイはにっこり笑った。
    「今後全ての宴において、『英雄の取り分』は彼女のもの。そしてエメル姫においては、高貴な女たちに先立って宴席に入る名誉を与えよう。これが我が裁定なり。文句がある者は?」
     腕を広げ、マンスター王がゆっくりと広間中を見渡す。誰も声をあげなかった。
     クー・ロイは満足そうにうなずき、にこやかにコンホヴォルに向き直った。
    「さて、コンホヴォル王。これで私の役目は終わりだ。謝礼はもちろんいただけるのだろうな?」
    「あ、ああ……もちろんだ」
    「僥倖、僥倖。それでは、詳しいことについては、また後ほど」
     髭をなでて笑うクー・ロイの姿がどんどん薄くなっていく。
     やがて光の粒子が舞い散り、王の姿は空気に溶けるように消えてしまった。

     ──まるで、全てが夢だったような気もする。
     だが、クー・フーリンの両手には、マンスター王が残していった緑の兜があった。
    「クー・フーリン!」
     弾かれたように顔をあげる。フェルグスがこちらにやってきて、クー・フーリンの肩をぐいっと抱いた。
     やがて、他の騎士たちも彼女に駆け寄り、口々に賞賛の言葉を投げてくる。
     ロイガレもコナルも、クー・フーリンのそばにやってきた。
     二人は気まずそうな顔をしていたが、クー・フーリンがじっと見つめると、小さくうなずいた。
     その瞬間、クー・フーリンの胸につかえていたものが、一気にほどけて消えていった。
     ロイガレに肩を叩かれ、コナルに髪をもみくちゃにかき回されながら、クー・フーリンは朗らかな笑い声をあげた。
     久しぶりに見た妹分の晴れ晴れとした笑顔に、ロイガレとコナルは、くやしそうな、しかし、どこかほっとしたような表情を浮かべた。
     ふと、クー・フーリンは、エメルが少し離れたところでじっと立っていることに気づいた。
     なんてことだ! 大事な彼女に真っ先に言葉をかけるべきなのに!
    「エメル!」
     クー・フーリンは、その手に緑の兜を掲げ、喜び勇んで妻の元へ走り寄った。
    「ほら、見ろよこれ! やっぱりこのオレがアルスター1の戦士だって証明できたぜ!」
     子どものように顔を輝かせ、クー・フーリンはわくわくと叫んだ。
    「最高の名誉だろ? これで姫さんの名声も上がるし、本当に良かっ」
     パン!
     鋭い音が鳴り響いた。広間が水を打ったように静かになる。
     頰を押さえ、クー・フーリンはぽかんとした顔で妻を見た。エメルは瞳を潤ませ、真っ赤な顔でわなわなと身体を震わせている。
    「私は名誉と結婚したんじゃないの。あなたと結婚したのよ!」
     激しい声で叫ぶと、エメルはさっと身を翻し、広間から出ていってしまった。
     棒のように突っ立っている妹分の肩を、コナルは強く小突いた。
    「バカ、早く追いかけろ!」
     クー・フーリンは間抜けな顔で乳兄弟を見上げた。コナルは急かすように激しく手を振る。クー・フーリンは兜を放り投げ、慌てて妻を追いかけた。
    「エ、エメル〜!」
     どたばたと出ていったクランの猛犬を見送り、コナルとロイガレは顔を見合わせた。
    「世話が焼ける」
    「まったくだ」
     広間の空気が緩み始める。笑い声や話し声がさざ波のように戻ってきた。
    「はてさて、これで一件落着、ですかな?」
     フェルグスは、床に転がっていた緑の兜を拾い上げ、王に向かって高く掲げた。
    「これはいかがしますか? 王よ」
    「倉庫にでも放り込んでおけ」
     コンホヴォルはうんざりしたように言った。
    「金輪際、こんな馬鹿げた争いはごめんだ」

    御者王
     チチチ、と鳥のさえずりが聞こえる。窓から差し込む白い光は、立ち働くエメルの横顔を、やわらかく照らし出す。
     遠くでバタンと扉が開く音がして、パタパタと足音が聞こえてくる。エメルは唇に笑みを浮かべた。
    「よっ! 姫さん」
     クー・フーリンが部屋に入ってきて、エメルと軽い口づけを交わした。
    「あら、猛犬さん。お仕事は終わり?」
    「おう。ん? なんだそれ。ケーキ?」
     妻の手元を見ながら、クー・フーリンはくるりと大きな瞳を動かした。
    「ええ、まだ時間がかかるけど。そうね、あと……」
     エメルが言い終わらないうちにクー・フーリンはさっと手を伸ばし、蜂蜜がたっぷりつまった蜂の巣の欠片をつまみあげると、ひょいと口に入れた。
    「ん、うめー!」
    「あ、ちょっと、クー!」
     満面の笑みで指を舐めた妻の腕を、エメルは呆れ顔で軽く叩いた。
    「もう! お腹空いてるの? 麦粥ならすぐに作れるけど」
    「いや。これからまた出かけるから」
    「あら、どこへ?」
    「市。ちょうど商人の一団が来てるんだ。必要なもん仕入れてくる」
    「あ、じゃあもし使い勝手のよさそうな鍋があったら買ってきてくれない? ほら、この前取っ手が割れちゃったから」
    「鍋ぇ?」
     クー・フーリンは流し目をエメルに送ると、きょとんとした姫の肩を抱き寄せた。
    「姫さん、もっと欲しいものねだってくれていいんだぜ?」
    「欲しいもの?」
    「おう。新しい服とか、首飾りとかさ」
     エメルはくすくす笑って首を振った。
    「別にいいわ。必要なものは十分持ってるし。それより、鍋! 欲しいのは鍋よ。壊れた鍋じゃスープが作れないもの」
     妻のくるくるとした後れ毛を指でもてあそんでいたクー・フーリンは、ふわりと相好を崩した。
    「はいよ。任せな」
     音を立ててエメルのやわらかな頬に口づけ、クー・フーリンは妻に手を振って外に出た。
     庭先では、すでにロイグが普段使いの馬車に乗って待っていた。
     主人がひらりと飛び乗れば、すぐに出発する。
     あぐらをかいて座り、袋に入った貨幣を頭の中で数えながら、クー・フーリンは思案した。
     さて買うものは、と。新しい穂先と盾、予備の鞍も欲しい。姫さんに頼まれた鍋は忘れずに。ええと、それから。
    「なんだか楽しそうだな、おまえ」
     御者台からロイグが声をかけた。
    「そうか?」
    「おう。そんなに市が楽しみだったのか?」
    「ん、まあな」
     ふふふとクー・フーリンは意味深な笑い声を漏らす。ロイグは肩をすくめ、馬を走らせることに集中した。

    「おー! すっげー!」
     砦の庭には敷物が引かれ、商人たちがそれぞれの商品を一面に広げていた。
     座所には、すでに王たちがそろっている。商人は品物を一つ一つ手に取りながら、コンホヴォルやフェルグスに説明を始めた。
    「これは最高級品の毛皮です。どうぞお試しください、この手触りも最高で……」
    「悪くない。ああ、あちらの布も見せてくれぬか」
    「美しいですな。王妃様へですか?」
    「ああ。もうすぐ大仕事だからな。せめてこれくらいは──」
     給仕の女がやってきて、クー・フーリンにワインを勧めた。ロイグと共に一つずつ杯を取る。
     酒に口をつけながら、クー・フーリンはわくわくとあたりを見回した。
     商人たちが集った庭は賑やかだった。遠方から運ばれてきた武具や馬、色とりどりの皮や布、きらびやかな装飾品などがずらりと並んでいる。
     クー・フーリンは目を輝かせ、装飾品を並べている男の元へ向かった。
    「なあ、店主! 何かこれぞという一品はあるか?」
     商人の男は、びっくりしたように顔を上げた。男のような喋り方をする彼女に驚いたのだ。
     だが、その表情を一瞬で消すと、すぐに人好きのする笑みを浮かべた。
    「これはこれは、美しいご婦人。ここにはアルバから大陸から、あちこちで集めた名品を用意してございますよ。どんなものをご所望ですかな?」
    「うーん、まだはっきりと決めちゃいないんだが……」
    「このトルクはいかがですか? あなたの首元によく似合いましょう。こちらの腕輪も装飾が見事で──」
    「いや、オレ用じゃないんだ。贈り物にしたい」
    「は、贈り物ですか?」
     商人はきょとんとした顔をした。後ろに控えているロイグも、不思議そうに主人を見つめる。
    「ええと、贈られる方はどんな方ですか?」
    「すっごい美人!」
    「いや、それじゃわからんだろ」
     即座にロイグが突っ込みを入れる。クー・フーリンは「えーと」と宙を見上げた。
    「オレより小柄で、肌は牝牛の乳みたいに白くて、目は大きくてハヤブサみたいにつぶらで、声が可愛くて……」
     商人は腕組みをし、小刻みにうなずいている。
    「あと、髪がすっごく綺麗なんだ。その美髪っぷりで歌が作られるくらいなんだから」
    「なるほど」
     腕を解き、商人はぽんと丸太のような膝を叩いた。
    「そんなお方にぴったりのものがありますよ。こちらです」
     そう言いながら、一つの装身具を取り上げ、差し出してくる。クー・フーリンは身を乗り出した。
     それは、黄金の髪飾りだった。真ん中には大きな琥珀がはめ込まれている。
     クー・フーリンは、今までこんなに見事な琥珀を見たことがなかった。細かな装飾も華やかで、見ただけで一級品だとわかる。
    「ローマから仕入れたものでしてな。一流の職人が手がけたものです。これならば、お贈りされる方の髪をいっそう美しく飾ってくれるものと思いますよ」
     クー・フーリンは目を輝かせた。
    「買う! いくらだ?」
     商人に告げられた価格に、ロイグは目が飛び出しそうになった。
     だが、クー・フーリンは気にもせずにさっさと金を払ってしまう。忠実な御者は慌てて主人の肩をつついた。
    「おい! おまえ、いくらなんでも」
    「平気平気。ちゃんと持ち合わせはあるから」
    「う、む……」
    「お待たせいたしました。高貴なお方、いいものを買われましたな」
     ロイグがうなっている横で、商人は愛想のいい笑顔を浮かべ、布で包んだ髪飾りをクー・フーリンに手渡した。
     商人に礼を言い、うきうきと歩き出す彼女と並んで歩きながら、ロイグは呆れたように言った。
    「ほんと、おまえは姫様のことになると思いきりがいいよな」
    「当然だろ。大事な日用なんだし」
    「大事な日?」
     目をぱちくりさせる青年に、クー・フーリンは大きくうなずいて見せる。
    「そ。オレと姫さんが初めて会った日」
     ロイグは幼なじみの横顔を見た。クー・フーリンは、髪飾りの包みを宝物のように抱えている。その頰は子どものように紅潮し、きらきらと光って見えた。
    「あー、そういうことな」
    「おう。気に入ってくれるといいけどなぁ。何が欲しいって聞いても、姫さん『鍋』しか言わないし……まあそういうところがいいんだけど……」
     でれでれと惚気始めた主人を見ながら、ロイグはぼりぼりと頭をかいた。
    「お幸せなこって」
    「おう。結婚はいいぞー。おまえもしろよ」
     締まりのない顔で笑うクー・フーリンを一瞥し、御者は軽く首を振った。
    「俺はいいわ。仕事が俺の恋人ってことで」
    「ええー? なんだよそれー。そんなんでいいのかよー」
    「いーのいーの。だいたい、俺みたいなのを気に入ってくれるキトクなご婦人なんていやしませんって」
    「は? そんなことねえよ」
     すっとんきょうな声を上げ、クー・フーリンはロイグの腕を引っ張った。その力の強さに、思わず青年はたたらを踏む。
    「エメルの姉さん。あの人、おまえに気があったんだぞ」
     ロイグは一瞬、クー・フーリンを見た。だが、すぐに前を向く。
    「フィアル様か? そりゃ一時の気の迷いだ」
    「そんなことねえよ。エメルから聞いたんだぞ。炎の中から救ってくれた私の英雄! って。かなり本気だったみたいだし」
     クー・フーリンが熱をこめて言いつのる横で、ロイグはうるさそうに手を振った。
    「もう過去の話だろ。それに、フィアル様と俺みたいな御者じゃ吊り合わねえよ」
     それで話を終わらせようとしたが、がっちりと掴まれた腕に力がこもるのがわかり、ロイグは嫌な予感がした。
    「……おまえ、そんなつまんねえこと言う男だったわけ?」
     低い声でクー・フーリンが言う。これは面倒なことになりそうだ。
     ロイグは内心の思いを顔に出さないようにしながら、なるべく軽い調子で言った。
    「事実なんだから仕方ないだろ。何そんなムキになってんだよ」
    「でも、おまえだって貴族なのに」
    「ま、一応はな。でも、おまえも知ってるだろ。俺は王のお情けで身分を引き継いだって」
    「だけど!」
    「だー、いいんだって。貴族は貴族でも、結局は元捕虜だ。フィアル様は美人で気立てもいいし、俺なんかより絶対いい炉ばたが見つかるさ。それに、俺は」
     ロイグは笑顔で振り返る。そこで彼は自分がしくじったことを悟った。 
     髪飾りの包みを握りしめながら、クー・フーリンは真っ赤になって震えていた。その両目は爛々と光り、こちらを睨みつけている。
    「あー、あの、クー?」
    「ロイグのばかっ!」
     大声で叫ぶと、クー・フーリンはばたばたと走っていってしまった。ぶつかりそうになった商人たちが「うおっ!?」と声をあげて避けていく。
     暴れ馬もかくやという勢いで、幼なじみはあっという間に人混みの向こうに消えてしまった。
    「あー……」
     ロイグは思わず伸ばした腕をぱたりと下ろした。周りの商人や騎士たちの目線を感じる。ぽりぽりと首をかき、ロイグは宙を仰いだ。
    「くそ」
     見上げた空は、憎らしいほど青かった。

     さやさやと葉が風にそよぐ音が聞こえる。
     クー・フーリンは両膝を立ててうずくまったまま、目の前の草花が風に身を任せるのを見つめていた。
    「おい」
     ドサッと音がして、彼女の目の前に大きな袋が落ちる。びくっと体を震わせて、クー・フーリンは声がしたほうを見上げた。
     立石の影に隠れるように座っていた彼女を、しかめっ面の青年が見下ろしていた。
    「それ、穂先と盾。あと適当になめし皮。売り切れそうだったから買っといた」
     立て替えておいたから後で払えよとロイグが続ける。
     クー・フーリンはくやしそうに唇を噛んだが、買い物をすっぽかしていたのは自分である。
     袋の中を覗き込めば、買う予定だったものがしっかり入っていた。それがまた、妙にくやしい。
    「……ありがと」
     小さな声でぼそぼそと礼を言う。
    「ん」
     ロイグもうなずいた。そして再び黙り込む。
     二人の間を、午後の風が吹き抜ける。市の喧騒はかすかに聞こえてきたが、城砦のこちら側にやってくる人間はおらず、目の前には放牧された家畜と見張り番が遠くに見えるだけだった。
    「おまえな、すぐカッとなるの悪い癖だぞ」
    「うっせ」
     ぶすくれて、クー・フーリンはロイグに背を向けた。気に入らないとすぐにむくれるところは、セタンタと呼ばれていた頃から変わらない。
     ロイグは立石にもたれながら、のどかな昼下がりの風景を眺めた。
    「おまえはなんか勝手に怒ってるけどな」
     青年の声にクー・フーリンは頰をふくらませ、膝に乗せた両腕にあごを埋める。
    「俺は今の生活で十分なんだ。ほんとに」
    「…………」
    「おまえが御者に選んでくれて、エメル様や馬たちや仲間と毎日楽しく過ごせてさ」
     ロイグは切れ長の目を細めた。 
    「レンスターからこの国に来た俺は、本当に何もできないくらいガキで、蟻みたいに無力で、踏み潰されてもおかしくなかった。けど、今の俺は、ありえないくらい幸せだ」
     視線を向ければ、クー・フーリンがこちらを見つめていた。その表情は曇っている。
     ロイグは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
    「ああ、別にアルスターを恨んでるとかは一切ないから安心しろよ。裏切ったりしないから」
    「そんなこと思ってねえ」
    「はは。よかった」
     軽やかな笑い声が風に舞う。クー・フーリンはわずかにうつむいた。
    「おまえは、このまま誰とも一緒にならないのか?」
     かすかな声でぽつりとこぼす。
    「捕虜だったから?」
     ロイグは答えるかわりに、手を伸ばして小さな頭をなでた。
    「何すんだよ」と抵抗されるが、構わずに髪の毛をぐしゃぐしゃにしてやる。
     とても主人にするようなことではないが、今、彼の目の前にいるのは、ただの一人の幼なじみだった。
    「やめろって」
    「はいはい」
     笑って手を離せば、クー・フーリンは不満そうな顔で見上げてきた。さくらんぼのような唇を尖らせている。
    「オレさ」
    「うん?」
    「おまえが『俺なんか』って言うの、すごくイヤだ」
     目を丸くしたロイグを睨んだまま、クー・フーリンは立ち上がる。
    「レンスター人だろうがなんだろうが、今のおまえは『オレの』御者なんだぞ。このアルスター1の英雄の! クー・フーリンの御者だ!」
     胸を張り、びしりと指を突き立てながら、クー・フーリンは叫んだ。
    「捕虜だったからなんだ! おまえはこのオレの、偉大な戦士の御者なんだぞ! だから自分も偉大な御者だって、いや、もう『御者の王だ!』くらい言ってみやがれ!」
     つばを飛ばしながら幼なじみはまくしたてた。威勢よく啖呵を切ると息が切れたのか、ぜえぜえと肩を上下させる。
     ロイグは呆気にとられてクー・フーリンの顔を見つめた。
     不意に、妙なくすぐったさが腹の底からこみ上げてくる。くっくっと漏れ出る笑い声を噛み殺しながら、ロイグは言った。
    「御者の王って……なんだ、それ」
    「うっせ! それくらい誇れって言ってんの!」
     顔を真っ赤にして怒鳴るクー・フーリンをなだめながら、ロイグは自然とほころぶ口元を覆い隠す。
    「御者の王──御者王か。うん、悪くない響きだな」
    「……バカにしてる?」
    「なんでだよ。おまえが言い出したんだろ」
     晴れ晴れとした表情でロイグは笑った。頰をふくらませていたクー・フーリンも、青年の顔を見て身体の力を抜く。
    「俺が御者の王なら、さながらマハとセングレンは『馬の王』ってところか?」
    「え、と。うん、そうだな。そうこなくっちゃな!」
     クー・フーリンは興奮した様子で叫んだ。もうすっかり機嫌は治ったらしい。
     ロイグは笑いながら、地面に投げ出されたままの袋を拾い上げた。
    「そろそろ戻ろうぜ。買い物も途中だしな。っていうか、エメル姫の鍋はおまえが選べよ」
    「あっ、お、おう! そうだな!」
     ロイグが歩き出せば、クー・フーリンも後ろをちょこちょこついてくる。
     これではどちらが主従かわからないが、今の青年にとって、この距離感は心地がよかった。
    「それにしても、御者の王と馬の王が引く戦車に乗るなら、おまえも何かの王じゃなきゃおかしくないか?」
    「え? 王様って窮屈そうだからヤダ」
    「いやいやいや、おまえが嫌なものを俺たちにやらせるなよ。おまえも何かやれよ。槍の王とか」
    「えー? なんかもっとすごいやつがいい……あ、英雄の王とかどうだ?」
    「王様は嫌とかいうわりに大きく出るよなおまえ」
    「どうせだったらでかいこと言いたいだろ?」
     和やかな談笑はだんだん遠のき、やがて喧騒の中に溶けていった。


     その夜、二人が館に帰れば、エメルがご馳走を用意して待っていた。彼女も、クー・フーリンと初めて会った日のことを覚えていたのだ。
     それだけでなく、エメルが妻へ差し出したのは、見事な刺繍が入った上着だった。刺繍はもちろん、エメル自身の手で縫ったものだ。
     感極まったクー・フーリンは姫を抱き上げ、くるくる回りながら何度も何度も口づけをした。
     あまりに激しく回るので、ついにはエメルが目を回し、途中でロイグが止めに入らなければならなかったほどだ。
     その後、主人が照れながらエメルに髪飾りを差し出すのを、ロイグは猟犬をなでながら見守っていた。
     両手で口を覆っていたエメルがクー・フーリンに抱きつき、主人が天井を見上げて幸せを噛み締めている様子を見ているのは愉快だった。
     主人の手によって姫の髪につけられた琥珀の髪飾りはきらりと輝き、とても美しく見えた。
    「じゃあ、私はこれで失礼しますよ」
     ロイグが立ち上がって出ていこうとすると、エメルは急いで彼を引き止めた。
    「待って、ロイグ。あなたにも渡すものがあるの」
    「私に?」
     不思議に思って立ち止まると、エメルは折りたたまれた布のようなものを差し出してきた。
    「これは……?」
    「マントよ」
    「マント? 私にですか?」
    「なんだなんだ?」
     驚きに固まっていれば、クー・フーリンもそばに寄ってくる。目を細め、エメルはふわりと笑った。
    「ロイグ。いつも私たちを支えてくれてありがとう。私からの感謝の気持ちです」
     一瞬、声が出なかった。ロイグは、そっと受け取ったマントを広げてみる。
     そこには、やはりエメルの手による美しい刺繍が施されていた。胸いっぱいに、温かいものが満ちていく。
    「ありがとう、エメル様。大切にします」
    「ええ」
     そばでは、クー・フーリンがどこか面白くなさそうに、また、ちょっぴり居心地が悪そうに立っていた。
    「姫さん、ロイグにまで……」
    「あら、お世話になってるんだから当然でしょ。彼には本当にいろいろ助けてもらっているし」
    「そうだけどさー」
     クー・フーリンはちらりとロイグを見上げた。
    「オレ、何にも用意してない……」
     思わずロイグは吹き出した。「な、なんで笑うんだよ」と主人が焦ったように声をあげる。
     ますます可笑しくなって、ロイグは腹を抱えて笑ってしまった。笑いすぎて、目にじわりと涙が滲む。
    「いいんだよ、クー。今日は俺じゃなくて、おまえと姫様にとって特別な日なんだし。それに」
     涙をぬぐいながら、ロイグは白い歯を見せた。
    「おまえからは、これ以上ないほど良いものをもらってるからな」
    「?」
     クー・フーリンは訝しげな顔をした。だが、それ以上何かを問われる前に、ロイグはエメルに一礼した。クー・フーリンにも軽くうなずくと、マントを抱えて部屋を辞した。
     ふと思いついて館の外に出れば、銀砂をまぶしたような夜空が広がっていた。
     白銀の星々がきらめき、自分に優しく語りかけてくれている気がした。

     ──オレの御者になってくれないか?

     幼い少女の笑顔がよみがえる。ロイグは一度目を閉じ、再び開く。
     一つの星が流れ、尾を引いて山の向こうへ消えていく。
    「最後までつきあうよ、クー」
     小さな声でつぶやき、あの日の少年は微笑んだ。

    ムギン王妃の死
     ムギン王妃が不義の罪で捕らえられたと聞いたとき、クー・フーリンは信じられなかった。
     王妃は義理の姪であるクー・フーリンを娘のようにかわいがっていた。
     いまや母が遠くにいるクー・フーリンにとって、王妃は母のような存在だった。薄紅色の野ばらのように美しく、優しい王妃のことが、クー・フーリンは好きだった。
     セングレンに乗って駆けながらも、脳裏には仲睦まじく寄り添うコンホヴォルとムギンの姿がよみがえる。
     どうして、どうして……。
     その問いばかりが頭の中をぐるぐる巡る。
     逸る心を抑えながら、クー・フーリンはセングレンに鞭を入れた。

     城は重苦しい雰囲気に包まれていた。忙しなく行き交う騎士たちの中にロイガレの姿を見つけ、クー・フーリンは駆け寄った。
    「ロイガレ、王は?」
    「王は会議中だ。今は会えんぞ」
    「なあ、いったい何があったんだよ?」
     ロイガレはわずかに太い片眉をあげた。
    「ムギン王妃が、王お抱えの吟唱詩人と通じていたんだ。召使いが密告してな。王妃の処遇についてはまだ決定していない」
    「じゃあ今、王妃は……?」
    「牢に入っておられる」
    「牢だと!?」
     思わずクー・フーリンは叫び、友の服を掴んだ。
    「でも……王妃は臨月なんだぞ!」
     まるで責めるような高い声に、ロイガレは顔をしかめる。
    「仕方ないだろ。臨月だろうがなんだろうが、罪人は罪人だ。王だって喜んでやったわけじゃない」
     普段から無愛想な男の顔に、苦々しげな表情が浮かぶ。
    「それに、こんなこと言いたくはないが……腹の子だって、本当は誰の子だかわかったもんじゃない」
    「──!」
     乱暴にロイガレから手を離し、クー・フーリンは走り出した。「おい!」と呼び止める声が聞こえたが、足を止めることはなかった。

     ばたばたと牢に飛び込んできたクー・フーリンを衛兵たちは止めようとしたが、彼女は容易に彼らをはねつけた。
     あちこち見回しながら歩き、広い独房の中にその姿を見つける。
    「王妃様!」
     呼びかければ、ムギンはゆっくりと顔を上げた。
     青白い顔はひどくやつれて、あごが鋭く尖っている。その姿に、クー・フーリンはひどくショックを受けた。
    「まあ、猛犬」
     しわがれた声で王妃は笑う。
    「まさか、あなたがこんなところに来るとは思わなかったわ」
     クー・フーリンは独房に駆け寄り、格子戸にすがりついた。
    「王妃様、どうして……」
    「あらまあ、他人行儀だこと。前みたいに伯母上、と呼んでくれて構わないのよ」
     王妃はくすくすと笑う。粗末な寝台に腰かけている彼女の腹は大きくせり出ていた。
     クー・フーリンは唇を噛み、格子を握りしめる。
    「どうして、王を裏切ったんです」
     ムギンは微笑んだまま、遠くを見るような目つきになった。
     柔らかな眼差しは、幼いクー・フーリンを抱き上げ、子守唄を歌ってくれたときと同じだった。
    「呼吸がしたかったから」
     この場には不釣り合いなほど愉しげに王妃は言った。まるで、幼子をからかうように。
    「ムギン様!」
     激しいクー・フーリンの声に、ムギンはふっと表情を消した。
     色を喪った髪が一筋、ぱらりと落ちる。
    「あの人は、とても苛烈な人」
     ひび割れた唇からこぼれた言葉に、クー・フーリンは眉をひそめる。
     だが、すぐに王妃がコンホヴォルのことを語っていると気づき、「何を」とつぶやく。
    「あの人は優しいけれど、でもそれ以上に激しい人。とても怖い人」
    「……王は、立派に国を治めておられる」
     クー・フーリンの言葉に、ムギンの唇が虚ろな弧を描く。
     王妃は寝台から立ち上がろうとして、よろめいた。クー・フーリンははっと身を乗り出すが、こちら側からではどうしようもない。
     ムギンはなんとかこらえると、大きな腹を支えながら、ゆっくりとこちら側に歩いてくる。
     動くたびに、白いガウンがふわりふわりと揺れる。その姿は、まるで影の国で見た亡霊のようだった。
     格子を挟んで、二人は向かい合った。
    「王は、あなたのことを愛していた」
     クー・フーリンは絞り出すような声で言った。
    「私だって、あの人のことを愛している。これは本当よ。信じてもらえないかもしれないけれど」
     ムギンの落ちくぼんだ目は井戸穴のように暗く深く、吸い込まれそうだった。
    「あの人が胸の奥底に暗い何かを抱えていることは気づいていたわ。そしてそれはどんどん大きくなっていく。一緒に支えられればよかったけれど、私には支えきれなかった」
    「……あなたが何を言ってるのかわからない」
     骨のように痩せた指が隙間から伸びてきて、クー・フーリンの頰をなでた。ぞっとして、思わずクー・フーリンは格子から手を離す。
    「あの人は偉大な名君で、恐ろしい暴君よ。いつかあなたにもわかるわ、光の御子」
    「そんなことはない! あの人は立派な王だ!」
     クー・フーリンは怒鳴った。そんな彼女を、王妃はどこか哀れんだ目で見つめていた。
    「あの人にとってあなたが特別なように、あなたにとってもあの人は特別なのね」
     ムギンは格子を掴み、やわらかな視線でクー・フーリンを見た。
    「私はあなたが好きよ、クランの猛犬。本当の娘のように愛してるわ。あなたのことが心配なのよ」
    「黙ってください!」
     クー・フーリンはじり、と後ずさった。
    「オレはあなたとは違う」
     燃えるような目で、クー・フーリンは王妃を睨みつけた。
    「何があっても、オレは絶対に王を裏切ったりしない」
     ムギンはそれ以上何も言わなかった。だが、その瞳の奥に憐憫の色を見つけ、クー・フーリンは急激な不安に襲われた。
     これ以上、ここにいてはいけない。
     ぱっと王妃に背を向けると、クー・フーリンはその場から走り去った。

     結局、子を孕んでいたこともあり、ムギン王妃が死刑になることはなかった。
     ただ、それ以降、彼女は陽の当たらない部屋に閉じ込められ、数人の侍女だけが出入りすることを許された。
     何日か経ったある日、ムギンは赤ん坊を産んだ。そしてそのまま、産褥の中で息を引き取った。
     嘆きの叫びがあたりに響き渡る中、血だらけの子どもを抱いて、コンホヴォル王はただぼんやりと立っていた。
     窓の外には黒雲が立ち込め、激しい雨は幾万もの鋭い矢となり、国中に降り注いでいた。
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