抱擁と匂い残業4日目、さすがに疲れてきた。
疲れた脳では効率が悪い。これは帰った方がいい。でも、そうもしていられないのはこの残務量・・・これはいけない。私では出来ることは限られているけど、係長も課長も昨日倒れた。そしてアルミンもわけの分からないことを言い始めたので、アニに連絡して強制的に連れ帰ってもらった。
朝は4時に起きて5時半には出社、残務に取りかかる。昼休憩はなぜか定時のはずの午後5時。きっちり1時間休憩を取って、そこから22時の強制シャットダウンまでが勝負。
私は強い、けど、疲れた。
リヴァイ部長が一緒にいるはずだが、視界もぼやけてきているのか、あのチビの顔をちゃんと認識できない。
「俺が見る。お前はもう帰れ」
何を言っているんだろう、ここにいるのは本当にリヴァイ課、部長か。
ここに配属されたとき、彼は鬼だと聞いていた。顔も口調も言い方も悪く、付いて来れない者は容赦なく転属させられる。どんな奴かと内心緊張しながら挨拶に向かうと、そこにいたのは人相の悪いチビ。思っていた「顔が悪い」とはちょっと違った。そして、コミュニケーション能力が低いのか(人のこと言えない)、最初は言っていることがよく伝わらなかった。
『・・・結局私は何をすればよろしいのですか』
『・・・・・』
イラつき、眉間に皺を寄せてそう尋ねれば、エルドさんが困った顔をしながら通訳に来てくれる。そしてオルオさんとペトラさんには睨まれる、そんな日々だった。
「なら、そこは貴方に任せて、私は次の書類に手を付ける」
「帰り仕度しろ」
ああ、もう、どっちの意味でも帰れるわけなんてない。迫りくる書類の山に、削られ切った体力。
休めというなら、このままこの床で明日の朝まで倒れさせてほしい。ストレスも限界。
・・・ストレス?
「リヴァイさん」
「ああ?」
アルミンが言っていた、ハグの効力。聞いたときアルミンに抱き着こうとしたら、真っ青な顔をして拒絶された。「アニに殺される」とか言っていたけど、相手が私なら納得してくれる、のに、あれはちょっと傷ついた。
だから、まだ検証していないストレス解消法。
カラオケに行く体力はないし、目が疲れていて動画なんて観られないし、睡眠が一番取りたいストレス解消法。
だけど、それが出来ない今、早急に出来ることは・・・
あぁ、温かい。それに適度な弾力。私より小さいから、肩に顔をこてんと乗せられてちょうどいい。
それに・・・いい匂い。
胸いっぱいにその匂いを吸いこみ、ゆっくりと吐き出す。
とても癒される。
もう少し強くと力を入れ、深呼吸を繰り返す。
このまま眠れたらどれだけいいだろう。
でもここは会社だ、それは分かっている。もう少しだけこうして、落ち着いたら帰ろう。
「・・・ねえ、ミカサ?それはなに、かな?」
「枕」
安定の定時過ぎ、私が机に座って枕を抱きかかえていると、コーヒーカップを持ったアルミンが現れた。
「どうしてそんな物がここに、って聞いても?」
「リヴァイ部長に渡された」
「なぜ!?」
ハグの効力は意外とあった。疲れは取れないけど、どこか少しホッとしている部分がある。
ベッドに入ったとき、もう一度と思う程に。
翌日、金曜20時過ぎ、再び部長を抱きしめようと近寄ったが、何度トライしても邪魔が入った。私が席を立つと課長を呼び、次は内線をかけ(恐らくエルヴィン戦略部長だ)、その次はお手洗いに。意図的に邪魔をしている。
ぶすっとしたまま区切りのいいところまで終わらせると、その日はコニーとしぶしぶ帰った。
そして週明け、部長から突然渡された物が、これだ。
『なんですか、これ』
『クッションを探したんだか、小さくてな』
『いや、そうじゃなくて、何に使うんですか』
『ハグ用だ。ストレス溜まったらそれに抱きついてろ』
要は、「俺に近寄るな」。その意を察して睨みつければ、ハラスメントで減給されたいか、と。
『私が?』
『お前も俺もだ』
『部長は嫌なんですか?』
『…っ、そういう、問題じゃねえだろ』
歯切れの悪い言い方、どっちなんだ。
でも仕方なく、ありがたく受け取れば、これは安い割にお値段以上の品。この大きさの抱き心地、弾力、枕としては高さがありすぎて私は使えないが、ハグ用としては最高なのでは?
悔しい。これではリヴァイ部長に抱きつけない。なんてもの贈りやがったのか。
「ミカサ?」
「リヴァイ部長に抱きついたら、抱きつくなとこれを渡された」
「はあ!?抱き着いた!?なぜ!」
「アルミンが言った。ストレスが軽減されるって」
「言っ........た、けど、でも、なんでそれで部長!?それも寄りにもよってリヴァイ部長だなんて!」
なぜってそこにいたのが彼だったから。
何をしても許してくれる感じだった。あの時は無意識だったけど、たぶんタメ口きいていた。それでも部長は咎めることなく、「帰れ」とだけ。このまま抱きついてもたぶん彼は突き放さない、なんとなくそう思った。
まさかハラスメントとか考えてたなんて。
「あ~このまま寝たい」
「ならさっさと帰れ」
枕を抱きしめながら机に突っ伏せば、そこに鬼と謳われる部長の声が。
「週明け早々倒れられても困る。帰って寝ろ」
「リヴァイ部長はもう帰るのですか?」
突っ伏した姿勢のまま顔だけ部長を見上げれば、「帰れるわけねえだろ」と言った表情。
「なら私も残るべき」
「べきじゃねえよ」
そんなやり取りをしていると、いつの間にかアルミンはいなくなっていた。席に戻ったのかと室内を見渡しても、いなさそう。コーヒーを持っていたし、休憩室にでも行ったのか。
「リヴァイ部長、香水、何つけてます?」
「は?香水なんて付けてねぇが」
「? なら柔軟剤は?」
「いつもパッケージで買っているからな…どこの何かは忘れたが、石鹸の匂いのだ」
石鹸、確かに近い香りだったかもしれない。でも、あの匂いはそれだけじゃない。
「この枕、とてもいいのですが、足りないんです。あなたに抱き着いたとき、とてもいい匂いがした。それと同じものをこれに付けたいんですが」
そう言った瞬間、ガンっ、と頭を机に押さえられた。
「いっっっっったっ!」
「バカな事言ってねえでさっさと帰れ!」
「香水を聞いただけじゃないですか!」
「人の匂いに興味持ってんじゃねえよ!」
「いいじゃないですか!いい匂いだったんだから!」
「…っ、まだ言うか!」
何が気に入らないのか全く分からないけど、珍しく真っ赤な顔をして対抗してくるリヴァイ部長。
あれはリヴァイ部長からは想像できない匂いだった。
上のボタンを外し、ネクタイを緩めた首筋から香った、甘い匂い。花のような、でも甘ったるくはない、確かに石鹸に近い清楚な香り。
でも普段の彼からは柔軟剤の匂いさえしない。
「なら、なんだったっていうの」
「知るか。よし、分かった。今週末飲みに連れて行ってやる。それでこの話は終わりだ」
「飲みより癒し、」
「カラネスビール園。少し遠いからな、1時間前上がりで行くか。ワンランク上の肉も付けるぞ」
「ビールは苦手」
「良さを教えてやる」
「味覚と好みは人それぞれ。教えてもらうものではない」
とは言いつつ、わくわくしている自分がいる。
リヴァイ部長と二人で出かけるのは初めて。最初は絶対に二人きりになりたくないと、残業も何もかも、すべて避けていたのに、今はそれどころか、二人で食事に行くことが楽しみで仕方ない。
きっとこの心はバレている。だって頬が勝手に緩んでいるし、早く仕事に取りかかろうと枕を机下のロッカーに収めている。
耳に届いたのは「ふっ」と息を吐くような笑い声。顔を上げた時には、部長は自分の席に戻ろうと歩いて行っていた。
当日、汗をかいたリヴァイがミカサのいう匂いを発し、ミカサの抱きつき癖が悪化することを、この時はまだ知らない。