花城は執務室の大きな机に肘を付いて、ぼんやりと遠くを見ていた。
本来ならば肘の下にある縒れた報告書や嘆願書を読み漁り、不在だった間の仕事を片付けなければならない。
普段から意欲的に物事を処理するわけではないが、今日は全くと言っていい程食指が動かず、右手で筆を回すと、呼吸を忘れてから何百年も経っているのに、思わずため息が溢れそうになる。
簡単に言えば、ここしばらく花城はそれはそれは忙しかったのだ。
鬼界を統べる絶境鬼王。絶でもない鬼は話す価値も無いと豪語しているが、相手もそう思っているとは限らない。自分の実力を勘違いした莫迦は往々にして厄介だし、ましてやそんな輩は一人や二人ではない。またそれらが嫌に狡猾だったりすることがある。
きっかけの相手は凶程度の分際で鬼市にちょっかいを掛けてきておいて、報復を恐れ中々尻尾を出さなかった。だが、花城は逃がさないとばかりに徹底的に相手を調べ上げ、単身本拠地まで乗り込み、塵も残さず骨灰までしっかりと燃やし報復を成功させた。
しかし、非常に用心深い相手に自分が動いていることを悟らせないよう、謝憐と数日会うことも出来なかった。それにより余計な精神的疲労が蓄積され、八つ当たりの様にかの鬼のすべてを切り刻んでやったが、廃物をいくら葬ったところで花城の気分が一向に良くならないまま、現在に至っている。
もちろん謝憐の方も天界の諸用でしばらく鬼市を空けており、都合が良かったと言えばそうなのだが、彼の脳内は愛おしい妻のことでいっぱいだ。
哥哥・・・
今にも手元にある報告書に謝憐の絵を描いてしまいそうになっているとき、執務室の扉が開いた。
「三郎!ただいま!」
鬼市から離れる前に聞いていた予定よりも早い戻りに、花城は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに破顔する。
「おかえりなさい、哥哥!」
急いで椅子から立ち上がって笑顔で出迎えたはずだが、愛妻は腕を広げて近づいてくる花城の顔を見ると少し眉を顰めた。
「三郎、体調がすぐれないのか?」
「いいえ、そんなことはありません」
「じゃあ、疲れてる?」
腕の中に閉じ込めた謝憐は心配そうに見上げてくる。
花城は大丈夫と頬に軽く唇を寄せた。
「哥哥こそ、天界でアイツらの仕事を手伝わされて疲れているんじゃない?」
「私の仕事を手伝って貰ったんだよ。それに、思ったより早く事が片付いたから・・・」
言い終わらないうちに、謝憐の目が花城の黒い瞳を映す。
「もう、君はいつも強がるんだから」
それだけ言うと、謝憐は花城の冷たい手を取り執務室を出て、勝手知ったる極楽坊の寝室に入り、広い寝台の上に座った。
「哥哥?」
「私の留守中に何があったかはわからないけど、疲れてるならまず休息!」
此処にこいと敷布を二回ほど叩くと、困惑しながら立っていた花城は素直に頷いて、横に腰掛けた。
「ごめんなさい。・・・・少しだけ・・・疲れているかも」
嘘を吐いたつもりはないが、無理をしたことを叱られるかもしれないと、眉を下げる花城に、謝憐は優しく笑かける。
「私に心配をかけさせまいとしたんだろう」
いい子と謝憐は花城の形の良い頭を何度も撫でた。
「何があったんだ?」
普段から花城は謝憐に弱音を吐くのを良しとしないきらいがある。自分が7つも年下だからと不貞腐れる姿は、いつも謝憐の心をときめかせている。
でも、この可愛すぎる年下の夫はそれが分かっていても強がるものだから、彼の本音を聞くときはいつも必ず言いたくなければ言わなくてもいいと、言葉を添えるようにしている。そうしないと、花城は謝憐の言葉をすべて叶えてしまうから。
今度も言いたくなけばいいよと伝えると、花城は首を横に振った。
「・・・実は、」
謝憐の留守中に起こったことをしながら、自分を撫でる手のぬくもりと優しさに、ささくれ立っていた心が急速に癒されていくのを花城は感じていた。神聖な気が全身を廻っていくようで、うっとりと目を細める。
・・・最高の癒しだ。なんという贅沢だ。
死んでいる筈の細胞一つ一つが歓喜し、力を取り戻していく。
「そうか。骨灰まで消滅させたなら、もう心配はないな。大変だったね、お疲れ様」
「そんな大層なことじゃない。けど・・・哥哥がいなくて寂しかった」
甘えるように肩に額を擦り付けると、頭を撫でていた手が背中の後ろに回る。
「私もきみに会えなくて寂しかった」
ぎゅっと強く抱きしめられて、花城は動かないはずの心臓がドクリと音を立てたように感じた。
「三郎も疲れているのに、弱音を言ってすまない」
「ううん、哥哥が寂しがってくれてて、嬉しい。疲れも忘れてしまった」
「・・・三郎」
お互いの唇を寄せようと体を動かしたとき、謝憐の太ももに覚えのある硬いものが押し当たった。
「え?」
思わず下を向くと、花城のそこが布を押し上げていた。
「・・・すみません。すぐに治るから」
気恥ずかしそうに目を逸らした花城に、謝憐は頬を染めながらも、待ってと離れようとする大きな体を押し止める。そして自分から花城の口に口づけると、驚きで開いた口に躊躇いがちに舌を差し入れた。
「んっ、ふっ」
どちらからか分からない水音と息が上がる音が広がる。
口づけに夢中になって、気がつけば謝憐は花城を跨いで寝台に膝を付いていた。ちょうど、彼の膝に乗ってしまうような格好だ。
「・・・元気になった?」
「哥哥のおかげでね」
ニヤリとわざと意地悪く笑った花城に、謝憐は余裕のある笑みを浮かべ仕返す。
「ふふっ、じゃあ、私がもっと癒してあげよう」
「え・・・」
榛色の瞳が悪戯に弧を描いて、彼の滾っている熱を人差し指で撫で上げる。
ビクリと花城の体が強張った。
「哥哥ッ、」
「さぁ、どうやって癒して欲しい?」
美しい神様に翻弄されて、完全復活までもう少し。