正しい形 リムグレイブは天気が変わりやすい。とはいえ、こうも沛然とした暴雨に見えるのは珍しいことだった。
「あーあ、絞っても絞っても出てくる……」
ロジェールが軒先で服の裾を握り、ギリギリと捩りながら言う。防水加工のされていない帽子と靴では浸水を凌げるわけもなく、頭の先から足の先までずぶ濡れだ。夜更け前に屋根のある廃屋を見繕えたのは幸運だったが、水ずくめの衣服がべったりと肌に張り付いているのは不幸という他なかった。
相棒を見やれば、室内で重たい鎧を脱いでいる。現れた体はある程度の水気を感じさせたが、濡れているというより湿っていると表現する方が近い。鎧の下に着ていた布の服も、そこまで水分を含んでいる風ではなかった。
「いっそのこと脱いだらどうだ。替えの服があるだろう」
懸命に排水作業を続けていれば、Dから声が掛かる。
「そうしたいところですが、私の鞄、中までダメかも」
「なら俺の服を貸す。早く入ってこい」
彼はそう言うなり鞄を漁りだした。二人はそれなりの時を共に過ごしているが、衣服の貸し借りは経験がない。少々気難しいところのある相棒が、一切の躊躇もせず素肌に触れる服を差し出そうとは。Dは時折毒気なく優しくなる。ロジェールはそんなぶっきらぼうな友人の柔らかいところに触れると、いつも彼に目を合わせることが出来なくなった。だから彼は礼を述べつつも、視線を遣ることなく屋内へ入る。後ろ手に扉を閉めても、轟々と雨の音が響いていた。
部屋の隅を陣取ったロジェールがさっさと肌着姿になれば、無言で乾いた服が投げられる。濡れ鼠のまま着るわけにもいかないので、ありがたく受け取った貴重な布を一旦安全な場所へ避難させた。己の鞄を引っ掴んで毛布を取り出すが、案の定湿っている。仕方がないので水を吸った毛布で体を拭けば幾分かマシにはなったが、肌は潤んだままだった。それでも袖を通せば、素寒貧でいるより億倍良い。若干のオーバーサイズだが、この廃屋に見てくれを評価する者などいない。
「……冷えるな」
埃をかぶった暖炉はあったが、生憎乾いた薪もなければ火種もない。特に先ほどまでぐっしょりと濡れていたロジェールは、平時よりも体温を失っていた。普段であれば毛布にくるまるところだが、替えの服同様むしろ体温を奪うがらくたと成り下がっている。
「毛布も死んでいるのか」
Dの問いに肯定しながらどうしたものかと考えていれば、今度は乾いた毛布がDの手から飛んでくる。
「え、これ貴方の分でしょ。ありがたいですけど、服のお恵みだけで充分」
放り返せば、相棒の顔は明らかに不機嫌になっていた。眉間に寄った皺から淡い慈愛を感じ、ロジェールはまた彼の目を見れなくなる。落ち着いて、慎重にならないと。この感情を間違った姿に育ててはいけないのだから。
「だってD、先の戦闘で傷を負ったでしょう。体を労わるべきです。それに、ほら、私は水も滴るいい男ということで……ね?」
ロジェールは人好きのする笑顔を見せてから己の抜け殻……帽子や手袋、一つ一つを拾っては木組みの椅子に引っ掛けていく。Dはいつもの溜息を落とし、それ以上何も言わなかった。
幾刻が経ったが、夜空は相変わらず大粒の涙を流している。Dは西の壁に背を預け、全身を毛布でくるみ入眠姿勢を取っていた。一方ロジェールは南の壁にもたれ、山なりに折った脚を両腕で抱えた姿勢で小さく丸まっている。
二人の距離は離れているが、身じろぎの音はなんとか拾えるし、視線が投げられようものならすぐに気付ける程度だった。つまりロジェールは、不器用な相棒が息をひそめながらこちらを観察していることに気付いている。身を案じているのは明白だった。ロジェールは大丈夫だと言い聞かせるように己の両手を合わせ、握り、祈りの姿勢を取る。しかし触れた指先は思いのほか冷えており、いよいよ自分の体温がまずい認識を得るだけだった。
それでも強情な魔術師は知らんふりを続けたが、一際強い風が小屋に打ち付けたタイミングで転機が訪れる。
「……ッくしゅ!」
すきま風に身を震わせたロジェールが、小さなくしゃみをした。彼があっと思った頃にはDが立ち上がり、毛布片手にこちらを見ている。
「えーっと、D」
有無を言わせぬけんもほろろな視線が無遠慮に突き刺さるが、ロジェールは諦めなかった。むすくれた顔の男を緩く見つめながら言う。
「私、指先が特に凍っちゃってて。毛布より手を貸してほしいなあと」
座ったまま痺れ始めている両手をDへ向けてゆっくりとグーパーさせれば、剣呑な顔が困惑に揺らいだ。手を握って温めろというのは、二人の関係性からすれば一線を越える行為。いくら世話を焼いてくれるとはいえ、旅の道連れにそこまでの情は寄越さないだろう。呆れたDが溜息と共に元の位置に戻る、そう計算しての道化だった。
「……そうか」
予想通り彼はロジェールに毛布を渡すのを諦め、肩に羽織りなおす。なんとか誘惑を凌げた――安堵したのも束の間だった。
「んっ……!?」
両手に触れる生ぬるい熱。正面には無表情の男。Dの指が、己の指にぎゅっと絡みついている。
「冷え過ぎだ。魔術師とは痩せ我慢を押し通す愚者を指した言葉だったか」
ロジェールは両手を握られたまま視線をさまよわせた。普段であればおどけて有耶無耶に出来たが、指先から伝わる友の体温がじわじわと仮面を溶かしていく。それは魔術師にとって感覚を麻痺させる毒であり、標でもあった。迷っているのなら、着いてこい。そう書かれている。
導きを得た男は、迷子の視線を鎧を脱いだ無防備な騎士へ注ぐ。そしてゆっくりと、握られるままの手を同じように握り返した。Dは素気無い顔のまま眉一つ動かさない。生ぬるいと感じた体温は自分の冷えた肌に侵され更に下がったろうが、肌馴染みは良くなっていく。そんなはずがないのに、段々と融けて混じってしまうようだった。
戯れに握る力を強めれば、同じだけ握り返される。穢れ無き真っ白な指と焦げっぽい指が織り成すストライプ模様は、正しい形をしていた。斜陽を受けた鉄格子の影と同じ。相変わらず外は大荒れだが、二人の間は夜半の深雪のように静かだった。
「……ありがとうございます。もう大丈夫」
ロジェールが終わりを告げるが、節くれだった光は帰らない。
「体が温まる物を持っているのを思い出しました。持ってきても?」
「心当たりが無いのだが」
「研究がてら内緒で作っていたので。ほらほら」
それらしい理由を得て、ようやく二人の結び目が解ける。熱源が離れても、ロジェールは火照ったままだった。
彼は冷えてるのか温かいのかよく分からない感覚に混乱しつつも、ゆるりと立ち、自分の鞄を漁りに行く。ややもしてDの元へ戻って来た魔術師の手には、細長い筒状の瓶と小さなカップが握られていた。瓶の中には琥珀色の液体が満ちており、何らかの肉と丸い粒、中ぶりの花弁が漬けられている。なんだそれは、とDが問えば、持ち主は酒ですと簡潔に返した。
「たまには製法書に頼らない独創性を磨かなきゃと思いまして。試したのかなり前なのですっかり忘れてました」
「材料は」
「変な物は入れてないですよ? 以前手に入れた安酒にロアの実と落葉花、あと亀首漬けを浸したものです。テーマは滋養強壮」
ロジェールがDの正面に座り瓶のコルクを抜けば、甘いとも苦いとも取れぬ、存外馥郁な香りが二人の鼻腔をくすぐる。
「…………食える物しか入っていないなら無問題か……?」
「心配しなくても私が毒見しますから!」
カップにトクトクと注げば、液体は軽いとろみがついていた。ロアの実が一粒入ったが、ロジェールは気にせずクイッと一息に飲み干す。
――熱い。酒が舌に触れた瞬間からビリビリとした刺激があり、こくんと飲み干せば喉元を液体が通るのが分かる。香りは良かったが、味はかなり苦い。それでも亀首漬けをそのまま食すよりはマシな程度だが。ほどなくして、胸の辺りからぽかぽかと体が暖まってくる感じがする。
「けっこういけるかも。Dもほら、ぐびっと」
「……舌が回っていないぞ」
Dはロジェールから瓶とカップを受け取り、毒見役と同じ量を口に含む。顔を顰めはしたが、酒も文句も吐き出さなかった。悪くはなかったのだろう。
「ふふ、つづきはまたさむい夜に。かばんに戻してきますね」
ふらりと立ち上がったロジェールが、未だ湿る鞄へとゆっくり向かった。奥底へ液量の減った瓶を適当に押し込んでいれば、背後から物音がする。
振り返れば、Dが元いた場所へ戻っていた。肩にかけていた毛布を手に取り、腰を下ろしながらくるくると丸めている。きっと今ならロジェールが素直に受け取ると踏んで、投げて寄越す気なのだ。
それではいけない、とほろ酔いの男は思案する。しかし受け取らないでいれば平行線だ。自分より体温が残っているとはいえ、Dも同様に冷えているし、傷だって癒えていない。相棒の身を案じているのはお互い様だった。
いよいよ大きな毛布が丸みを帯びたフォルムに近づいている。大雑把に形をまとめては、白い指が薄茶色の布に沈む――その様子を見て、ロジェールははたと解決策を思いついた。実行には理由が必要だが、酒という誂え向きの手段を得たところだった。
ふらふらと、深く酔った風に小屋を闊歩する。聡明な魔術師の予想通り、Dは球状の布を投げてこなかった。万が一受け取りに失敗すれば悲惨という他ない。座り込んだDは無関心を装いながら、こちらをうかがい見ている。ロジェールは相棒の柔らかいところに怖気づくが、歩みを止めなかった。
そうして彼はDの元へ辿り着く。隣へゆっくりと腰を下ろしても、咎める声は無かった。ロジェールは一息つき、顔を俯けて秘め事のように囁く。
「……毛布、ふたりで使いませんか」
穏やかな廃屋に、ロジェールの声は良く響いた。言葉にするのがもう少し早ければ、雨の音にかき消されていただろう。いつの間にかあれだけ騒がしかった空は、しんと寝静まっていた。
すぐ右隣にDがいる。呼吸が聞こえるくらいの傍。いつもの仮面は指の抱擁で溶かされてしまったので、顔を上げれば素顔を晒すことになる。それはロジェールがずっと避けてきたことだった。
しかし今の彼には理由がある。雨が、冷えた体が、毒が、標が、酒が、ようやく始まった星の齢が。ようは、何だって良かったのだ。
ゆるゆると首を動かせば、潤びた薄氷の瞳に射抜かれる。目が合うと同時に、体に柔らかい物が触れた。丸められていた毛布が、本来の形を取り戻している。Dの左腕がロジェールの背に回され、脇腹を通った手が表に出て、二人を一つにする枷の端を掴んでいた。
白い指は茶色い毛布を握り寄せ、逞しい腕は同じ服を着た小麦色の腰を抱いている。ぎゅっと力を込められるので、寄れということだ。ロジェールは隣の体温へにじり寄り、肩に首を添わせてしなだれかかる。静かに目を閉じれば、密心に相応しいまこと正しい形だった。
ドクドクと胸が鳴っている。アルコールか、亀の首か、高揚の原因はいくらでもあった。正しい形を前に、全ては肯定される。だから今ならこの高鳴りを、間違った形に育ちつつある感情を拠所としても誰も咎めなかった。寄り添う二人に誤ちなどないのだと、絶対的な赦しが壊れた世界から与えられている。
「あたら夜、という言葉をごぞんじですか」
「……知らん。どういう意味だ」
「今日みたいな夜のことです」
Dはそれきり返事を寄越さなかった。ただ、ぴったりと触れている肩の力が少しだけ抜けた。
彼は未知の言葉をどのように解釈したのだろう。気にはなったが、ロジェールもまた口を閉じた。なにせ今問うては全てが正しくなってしまう。せめて夜のほどろまでは己が律を通せたらと、小さく願ったところで魔術師の意識は途切れた。
「……ん」
深い微睡みからの覚醒はいつだって曖昧だ。ロジェールはとろとろとまぶたを開け、ぼやけた視界の輪郭を一つ一つ合わせていく。どうにも世界が傾いているが、自分は何かにもたれて眠ってしまったらしい。数度の瞬きを経て、ようやく彼の瞳は捉えた。切れ長のアイスブルーが、つまらなそうにこちらを覗き見ているのを。
「うわっ、D!?」
ロジェールの脳裏に昨夜の光景が駆け抜けていく。ああ、酒の勢いに任せて、柄にもなく幼い姿を晒してしまった。ひどい羞恥に彼は体を離そうとしたが、何やら動けない。右手が床に縫いとめられていた。毛布に隠されて見えないが、恐らくDの左手が絡んでいる。朝を迎えようと、二人の均衡は崩れていなかった。
「寝姿まで隙の無い男だ。いびきの一つでもあれば笑い飛ばしてやったものを」
隙が無いどころか、隙だらけである。何せ鋭い視線に貫かれるどころか、指を絡められても一切の覚醒を果たさなかったのだから。ロジェールは警戒心が高いことを自負していたが、たった今、一人の男の手によって打ち砕かれたのである。
昨夜、己の仮面を溶かしたのは確かにDだった。しかし、それで露出した柔らかいところをしまい忘れたのは紛れもない自分の落ち度である。その上厄介なことに、二人の形は未だ正しい。
「強いて言うなら、服のサイズが合っていないのはお前であろうと格好がつかないな。悪くない眺めだ」
「……貴方が朝からこんなに喋るの、珍しい」
ロジェールが唇を尖らせれば、Dの仏頂面がほのかに緩んだ。ふっと小さく息を漏らし、眦を下げている。黄金の下に相応しい、清く柔らかい顔だった。直視するには眩しすぎる。
「服も毛布もお恵み下さった優しい騎士様のおかげで、もうひとつも寒くありません。さあ、朝支度を始めましょうよ」
目を反らしながら言えば、魔術師の要求とは真逆に指の抱擁が強まった。ロジェールはありったけの力を右手に込めるが、抜け出せる気配は微塵も無い。
「まだ空は白み始めた具合だ。活動するには早い」
「でも、もうお互い目が覚めたことですし」
「昨夜はこの時間が惜しいとのたまっていたのにな」
「…………ッ!!」
ロジェールの全身に熱が駆け巡る。なんと、Dはカマを掛けていたのだ。彼は自分のような搦め手など使用しないという傲慢な思い込みを魔術師は悔やむ。Dは可惜夜という言葉の意味を知っていた上で、きっちりとロジェールの口から真意を吐かせたのだ。理由無き上機嫌など存在しない。
「俺はもう少し寝る」
Dはそう言うや否や、ロジェールに体重を掛けてきた。遠慮のない力の掛け方に、枕役が潰れた声を上げる。サラサラとした金の髪が鼻腔をくすぐり、ロジェールは思わずすんと鼻を鳴らした。そうすれば落ち着く匂いが駆け抜けていき、途端眠気が襲ってくる。肩口にぬるい体温が隙間なく触れているのも、甘い微睡みへの誘いだった。
「……なるほど。なるほど、なるほど」
きっと、愛しいとはこういう感情の事を指している。無防備なこめかみに唇を落とし大きく息を吸えば、体の中から満たされていく心地だった。Dも同様の行いを自分にしたのだと、根拠のない自信が湧いてくる。恋人の真似事というよりは、まるで血の繋がった家族のようだった。
これを愛と呼ばなければ、それこそ間違いというもの。ロジェールもまた目を閉じれば、なんびとたりとも犯せない、真正なる形がそこにはあるのだった。