あの時恵くん達のお父さんにつけられた、頬の傷。
あの傷跡がいまだに残っていることを、私は彼に隠してる。
『秘密』
隠そうと思っていたというよりも、言うきっかけがなかったのだ。
恵くんと会うのはほとんど〈U〉の中だけ。しかも顔に傷が付いていた時期はベルとして〈U〉に行くのもやめていた。
傷が塞がった時点でAsへの傷の反映はされなくなっていたが実際は綺麗に消えた訳ではなく、その部分だけが何年も経った今でも、少し白く盛り上がって残ってしまっている。
そばかすが残るような肌質だったこともあり、きっと綺麗には消えないだろうと覚悟はしていた。少しファンデーションを塗ればしっかり隠れる程度だったので、日常生活にも問題はない。
だから私は、傷跡のことなんてすっかり忘れてしまっていたのだ。恵くんや知くんが知ったら、少なからずあの優しい兄弟は責任を感じてしまうんじゃないかって、そう思っていたから。
「鈴さん、この傷跡って…」
油断、していた。
上京してきて、久しぶりに恵くんと会えたから。突然雨が降ってきてしまったから。一人暮らしの家が近いから。びしょ濡れのままだと風邪を引いてしまうから。部屋は少し散らかっているけど、恵くんに見せられないようなものは何もないはず、だから。
そんな自分の油断が、この傷跡を彼の目にさらしてしまった。
「あの時の傷、だよね」
少しだけ盛り上がった皮膚に、恵くんの指先が触れる。
まずいと思った時にはもう遅かった。
目の前の男の子、いや、もう高校生になり随分と大人になった彼は、ぐしゃりと顔を歪める。痛々しいその表情に、私の心まで押しつぶされてしまうようだった。
「け、恵くん。違うの、これは…」
あの時の傷じゃないよ。そう嘘を付いてしまおうかと一瞬思ったけど、この人には誠実でいたいという自分の心が、言葉が溢れるのを押し留める。
こんな顔をさせたくなくて隠していた、私の秘密。
雨に濡れてしまったからとシャワーを浴びたのがいけなかった。普段からメイクはそこまで濃くしていないし、恵くんは高校生の頃の私を知ってるから、すっぴんを見られても平気だと思ってしまったのだ。
「まだ、残ってるんだね」
低い声が部屋に響く。とても静かで、悲し気で、少しだけ怒りのようなものを感じる声だ。
「……ファンデーションで隠れるし、すっぴんだった時も気付いた人なんていなかったよ。自分でも忘れてたくらい」
明るく声を出しても、恵くんの顔はさらに苦しげになるばかりだ。
やっぱりこの秘密は、優しいこの人を苦しめてしまった。
記憶が過去に引きずられるように、恵くんの目が怒りに染まっていくのが分かる。
初めて会った時の、『竜』のように。
「鈴さんに、消えない傷をつけたのは、僕だ」
「…え?」
「僕が、ベルに会いに来てほしいって、思ったから。あの生活に耐えられなくなって、あなたに助けを求めたから」
頬を撫でる恵くんの指に、少し力がこもる。あの頃の恵くんは、自分が耐えれば。と口癖のように言っていた。
きっとそうしないと、そう思わないと、生きていけなかったから。そしてその考え方は、おそらく今でも心に根付いている。
「あなたを、巻き込んだ」
痣にもがき苦しんでいた竜の姿がそこに見えた気がした。
優しい彼は、私の傷跡一つなんかでここまで心を震わせてしまう。
そんな人には、ごまかしたり嘘をついたりしたらいけない。ちゃんと真正面から自分の気持ちを伝えたい。
こっそりと、恵くんに悟られないよう深呼吸をする。
高校生の時に、ヒロちゃんが言っていた。
『人は秘密の奥に、もっとすごい秘密を隠してるものだ』って。
私の傷跡もきっとそれと同じ。
「恵くん」
しっかりと恵くんの目を見据える。覚悟は決まった。
「私ね、出会ってからずっと、恵くんのことが好きだったんだ」
恵くんの目が驚きで見開かれた。伝えるつもりはなかった、本当の私の秘密。
「この傷跡はね、誇りなの。大事なあなたを守れた、私の勲章なんだよ」
歌以外で気持ちを伝えるのは下手くそだけど、どうか伝わってほしい。
自分の気持ちを伝えて、恵くんとの関係が変わることが怖かった。秘密は心の奥底に沈めておくはずだった。
だけど。
「私が恵くん達を助けたかった。傷なんてどうでもいい。恵くん達を、守りたかったの」
頬に添えられた恵くんの手に、そっと自分の手を重ねた。もしかしたら緊張で震えていたかもしれない。
雨の音が、静かになった部屋に響く。
(ずっと秘密にしておくつもりだったけど、恵くんの傷ついた顔は、もう見たくない)
私たちの関係は、ここから変わってしまう。
『秘密』
歌姫の本当の秘密は、野獣への恋心。