抱擁/君だけの特別な会いたくなったきっかけはガチャガチャだった。
鈴さんが好きなグッとこらえ丸の新しいガチャガチャが駅構内のお店に配置されていたのだ。
仕事帰り、業界にしては割とホワイトな職場を選んだつもりだったが、それでも帰りが終電になってしまう日もある。もちろん連日徹夜をしなければいけない時だってある。年に二、三回くらいある。その時期を『祭り』と呼ぶのだが、まさに今日、そのありがたくもなければ楽しくもない『祭り』が終わった。祭りの後に残ったのはいい歳をした大人達の屍と大量のエナジードリンクの空き瓶だけだった。一つの祭りがようやく終わったのは夜の10時。体力も眠気も限界だった僕とその仲間たちはゾンビのように会社から這い出し、お互いの健闘を讃え合って帰路についた。
疲れと眠気に身体が蝕まれているのを感じながら自宅の最寄駅に着く。そこでふと目に入ってきたのだ。グッとこらえ丸の新しいガチャガチャが。
(新しいの出たんだ…鈴さん知ってるかな)
ぐっとこらえ丸とひとかわむい太郎のファンだとベルが公言してから、2人の人気は一時期社会現象になるまで上り詰めた。ベルを招いた配信は神回と呼ばれ、数年前のものでも未だに動画の再生回数を伸ばしているらしい。人気が出てからもぐっとこらえ丸たちはユルいスタンスを変えなかったのがさらに世間に好印象を与えたようで、こうしてガチャガチャやグッズを当たり前に見るようになった。
ぼんやりとしたままガチャガチャに近付く。内容としてはぐっとこらえ丸とひとかわむい太郎がコップのフチにひっかかるぞ!というものだったが、レアが一種類だけシルエットで描かれている。鈴さんはもう持っているだろうか?そんなことを考えていたせいか、頭と体の回線が疲れで途切れているせいなのか、気がつくとお金を入れてガチャガチャを回していた。コロンと出てきた赤い色のカプセル。モヤがかかったままの頭でそれを手に取る。カポッと音を立てて蓋が開いた。そしてそこに出てきたのは、一種類だけシルエットで描かれていたレアの人形だった。
「あ…」
思わず立ち上がってスマホを取り出す。この写真を鈴さんに送ろう。きっと鈴さんは「すごい」とか「いいなあ」なんて言いながら、笑顔になってくれるに違いない。
鈴さんの花ひらいたような笑顔を思い出し、少しだけ体が軽くなるような、疲弊した心が癒される感覚を覚えた。そして次に感じたのは、居ても立ってもいられなくなる衝動だった。
(会いたい)
気がつくと、踵を返して電車に乗り込んでいた。鈴さんに会いたい。その衝動に体が突き動かされた。時間は夜の11時前。乗り換えで一時間かからない鈴さんの一人暮らしの部屋を思い出す。鈴さんが上京してきて2個目の部屋。1個目はベルが住むマンションだと噂がたってしまったため、セキュリティがしっかりしているマンションに引っ越した。しのぶさんと知くんと僕で引っ越しを手伝って、大学受験のための勉強はたいてい鈴さんの家でやっていた気がする。高校生の卒業式の日には鈴さんの家で知くんと、東京まで遊びに来てくれたヒロさんと4人でパーティーをした。大学生になってからは知君と二人暮らしを始めて、鈴さんもたまに遊びに来てくれていた。みんなでご飯を作ったり、映画を見たり、鈴さんの歌を聞いたり、〈U〉で遊びまわったり。
(最後に声を聞いたのは、いつだっけ)
鈴さんに告白をしたのは、鈴さんの就職が決まったお祝いパーティーの日だった。僕たちの部屋で3人でご飯を作ってお祝いをした。知君は鈴さんがこれまでのように遊べなくなるかもしれないからと、たくさんはしゃぎ回って一足先に眠ってしまった後、2人で後片付けをしているときに自分の気持ちを伝えた。誰かに自分の気持ちを伝えるというのは恐ろしいものだ。伝えた先に待っているのが肯定とは限らないし、伝える相手が鈴さんならば尚更、心地が良い関係は終わってしまうかもしれない。食器を洗う僕の手は震えていて、声だって普段通りだったかは分からない。鈴さんは驚いて「ええ?!」「え、え」「い、言い間違い?」などと一通り騒いだ後に、一度持ち帰らせていただきます!失礼します!と社会人らしい言葉を叫んで帰ってしまった。その後は、告白して吹っ切れた僕の猛追によってなんとかお付き合いに進むことができたのだが、手を繋いだり、体を繋ぎ合わせたりするまでには世間の平均より長い時間をかけた気がする。僕等は幸せだった。そして僕も就職し、知君も一人暮らしを始めて、そこから少しずつ会う時間が減ってしまった。
仕事が忙しくなり会えないことを鈴さんは責めなかった。寂しいということも鈴さんは僕に言わなかった。そういうところに気を使って、我慢をしてしまう人だと分かっていた。なのに。
(全然、連絡できてなかったな)
スマホをいじって最後に送ったメッセージを表示する。送信したのは三日前、丁度『祭り』がピークで忙しくなった日だ。鈴さんからの返信には僕の体を心配する言葉と、頑張れというスタンプが送られてきている。時間は11時半を過ぎた。電車内を見渡せば疲れ切った顔をした大人達がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。好きな人と過ごすために仕事をしているのに、自分は何をしているんだろうと深い溜息をついた。電車は迷うことなく鈴さんのいる土地まで僕を運んでくれる。徹夜明けの眠気も疲れも、気が付くと消えていた。早く鈴さんに会いたい。鈴さんのことを考えるだけで元気になってしまう自分を実感して、もう鈴さんがいない人生を考えることができないなと目を閉じる。
久しぶりに鈴さんの歌が聴きたくなった。
*
鈴さんの最寄駅に着いた。鈴さんの家は防犯の面から駅近を選んでいたので、歩いて数分の場所にある。1番近いコンビニで飲み物と鈴さんが好きなスイーツ、その他諸々も購入し、いざ行かんと足を踏み出して、まだ鈴さんに連絡してないことを思い出してしまった。
会いたいという自分の気持ちばかり昂っていたが、もう夜12時を回ろうとしている。鈴さんだって明日も仕事があるだろう。疲れて寝ているかもしれない。急に来られても困るだろうが、優しい鈴さんはそれを咎めることもしないだろう。昂っていた気持ちが空気が抜ける風船のように萎んでいく。職場の女性が『彼氏が急に夜に来たんだけど、せめて連絡くれって思わない?』という話をしていた記憶が蘇り、『彼氏 急な訪問 迷惑』でググると、付き合って数年の彼氏がいつも急に家に来て困る、という知恵袋が出てきてしまって心の風船は完全に萎んでしまった。せめてアポはほしいですよね、というベストアンサーの慰めも心に刺さった。
迷惑な彼氏になりたくないという気持ちと、今すぐ会いたいという気持ちが天秤の上でグラグラとバランスを取り、結局会いたいの気持ちにしっかりと傾いてしまったため、とりあえず鈴さんの家に急いだ。もし鈴さんが迷惑そうならすぐに退散する。一目だけでも鈴さんを見たい、鈴さんを補給したいだけなんだ、とブツブツ呟きながら歩いていたら、すれ違ったカップルに横目で見られた。起きているかだけ確認しようと〈U〉へログインすると、鈴さんもつい数分前までログインしていたようで、ベルが笑ってこちらを見ている。もしかしたらまだ起きているかもしてないと一抹の希望を抱き、ベルを画面に出したままマンションの自動ドアを抜けてオートロックの前に立った。チャイムを押すのに5分ほどためらっていたら、他の住人の人が不審そうに僕を見て、慌ててオートロックを解除し中へと入って行った。開いたままの自動ドアの誘惑に少しだけ揺れつつ、勝手に入ることはできないという理性をなんとか保ち、鈴さんの部屋のチャイムを押した。迷惑だと思われてしまうのではという恐怖から心臓が暴れている。数十秒、いや数秒だったかもしれない応答までの空白の時間が、とても長く感じた。
『け、恵君?!』
なんで?!と驚愕の声をあげて鈴さんはロックを解除してくれた。起きてくれてて良かったと胸を撫で下ろし、急に来てごめんねとだけ伝えてエレベーターに駆け込む。ポツポツと一定のスピードで登っていくエレベーターがやけに遅く感じた。
僕が鈴さんの部屋に着く前に、鈴さんはパジャマ姿のままドアを開けて待ってくれていた。無防備な姿のまま驚いた顔で僕を見ている鈴さん。本当に眠る前だったんだろう。ようやく会えた嬉しさで、僕の頭は茹で上がったかのように熱を持って思考を止めた。体だけが素直に動く。夜遅くにごめんね、連絡返せずにごめん、寝るところだったよね、すぐに帰るから。ここに来るまでに何度も考えた謝罪や取り繕った言葉たちは、鈴さんの姿を見た瞬間に消え去った。足が勝手に走り出す。腕が伸びる。鈴さんはもう目の前だ。見開かれた目が綺麗で、驚いている顔がただただ愛おしかった。
「鈴さん」
両腕で鈴さんを抱きしめた。僕の腕にすっぽりと収まってしまう鈴さんのサイズさえも可愛い。存在が可愛い。髪の毛一本から吐き出される息まで、全てが隅々まで可愛さと尊さでできている唯一無二の存在。僕だけの特別な人。
「会いたかった」
腕の中に鈴さんを閉じ込めたまま、ドアの中に体を押し込んだ。背中でドアが閉まるのを感じながら、腕の中でパタパタと慌てている久しぶりの鈴さんを全身で感じ取る。恵くんどうしたの?!と慌てながらも体を離そうとする鈴さんの動きを静止するように、腕にさらに力を込めた。痛くないように、だけど僕の気持ちが伝わるようにギュッと鈴さんを抱きしめる。シャンプーのいい匂いがする髪の毛に顔を埋めて、額を鈴さんの肩に擦り付けた。ああ、鈴さんだ、ようやく会えた。
「会いたかった、鈴さん」
僕のこのどうしようもない衝動が伝わったのか、鈴さんは静かになって、そっと腕を背中に回してくれた。彼女の手はとても暖かくて、仕事で忙殺された体がどんどん癒やされていくのを感じる。鈴さんは歌を歌う時とはほんの少し違う、優しく柔らかい声で私も会いたかった、と呟いた。
抱きしめた体が離れないよう、顔だけをそっと離して鈴さんを見つめる。綺麗な目が少しだけ潤んでいる。可愛いそばかすがある顔は、驚いたせいかほんのりと赤く染まっていた。可愛い、可愛い、鈴さん。
「大好き」
言葉は口からこぼれ落ち、返事を待たずに僕は鈴さんに口付けた。口付けと呼べる穏やかなものではなかったかもしれないが、その荒々しさごと鈴さんは受け止め、応えてくれた。
恋人達の特別な抱擁は、今夜は解かれることはないだろう。
【抱擁/君だけの特別な】
特別な抱擁が解かれた次の日の朝、鈴さんにぐっとこらえ丸たちのレアを当てたことを伝えると、僕が部屋にやってきたときくらい目を輝かせていた。朝日に照らされて笑う彼女があまりに美しくて、同棲しようと言葉が勝手に口から出てきたのは、仕方のないことだと思う。