朱い夏今年の夏は特に暑い。
毎年そう思う気がするけど、今年は絶対史上最高に暑い。
それを毎日確認する地下鉄のホームに電車が滑り込んでくる。
朝の通勤電車に慣れることは別に嬉しいことでもなんでもない。
でも、こうやって朝晩通っていればいつの間にか体も勝手に線路のカーブを憶えて勝手に左右の足に力を入れ、ぎゅうぎゅうと押されて身動きできないまま目を閉じれば短い夢を見ることもある。
今朝は目を閉じると富士山が目の裏に映った。
朝、支度をするときテレビを点けるのは時間を確認するためだから音は切ってある。
だからなぜ、画面に富士山が映ってたのかわからないけど、支度の手を止めて何十秒かその映像をぼうっと突っ立ったまま見ていた。
俺は静岡を離れて横浜に戻って五年になる。
金城は洋南大学に残って博士課程を進み、教授に「このまま大学に残る気はないか」と勧められるくらいに師弟としての絆も深いようで今でも洋南大学の研究室にポスドクとして残っている。
俺は、洋南大学で修士課程を終えて就職することに決めて、その年の春、横浜の実家へ戻った。
今は、主に人工関節のトライポロジーに関する研究をしてる。
きっかけになった理由はいろいろあるけど、人に聞かれてよく思い出すのはまだ大学生だった頃、金城の実家に一緒に行ったときのことだ。
寒咲さんという先輩に会った。家は寒咲自転車店を営んでる。
金城の尊敬する先輩だったそうで、久しぶりに会ったせいか緊張して話してた。高校時代の話とか地元に残った同級生がどうしてるとかそんな話で盛り上がってたから俺は店内に並ぶ自転車を見てた。
小さいけどいい店だなって。近所の人も気軽に立ち寄れる自転車が好きな人がやってる店だった。
賑やかに話していた二人の会話が少し静かになった。寒咲さんが「金城は膝、大丈夫か」と聞いた。
金城は頷き「寒咲さんは」と聞き返す。
「まあ、変わり映えしねえよ」
金城が言葉を選ぶのに黙ってしまうと、それを察したように
「まあ、大丈夫だ。心配すんな。まだまだ休む訳にはいかねえしな」と笑った。
そのときちょうど自転車直しにきた人がいて、俺は金城を促し、少し離れたところから二人で挨拶すると寒咲さんが手を振った。
ちょっと先には田んぼとか畑とが残る千葉の住宅街を歩きながら金城は寒咲さんがどんな選手だったかを話した。
選手の体は全部消耗品で、いくら丁寧にメンテしても限界値を超えれば壊れてしまう。
それがなんとかなったなら、もっと長く走れた人がいたことを知っていた。先輩にも後輩にも。プロでも。
生きているだけで痛みの伴う人生というものがどれだけつらいか俺は知っているつもりだった。
金城の膝も、俺の肘も。
そうやって理由をあげていけばキリがない。でもそうやって自分が進路の選択が必要になるたび、それに関わる研究を続けられたらいいなァって思うようになった。そして今はこうやって満員電車で運ばれてる。
成果を期待される仕事はしんどいときのほうが多いかもしれない。でも性に合ってる。負けず嫌いなところはいつも妙なところで活きた。
ただよくモノは壊す。いつもポケットにシャチハタ入れてるのは壊したものの報告書にハンコ押すためだ。
だから今日、部長に呼ばれたときもチームの後輩が「今度はなに壊したんすか」って笑ってたから、アイツあとで一発殴ろうと決めて慌てて記憶の糸を手繰った。
ため息吐きながら部長室のドアを開けたら、部長を含めて三人が待ってた。
一人だけ妙にスーツが似合わない。似合わないっていうよりも着慣れない感じっていうか。
その人が名乗って右手を差し出した。握手しながらその名前を思い出した。
「論文読みました」って言うと「そのことできました」って言われた。
特大の疑問符が頭の中を占拠している俺に向かって、部長が資料を渡し説明を始めた。よく話が見えないまま俺も資料を捲る。
部長は東海岸にある大学の名前を告げ、共同研究者として一年間君にチームに参加してもらいたいと言った。
さっき俺に握手を求めたのは研究チームの責任者である教授で、うちの社長とは大学時代ラボが一緒だったことが今でも深い縁になっているんだそうだ。
投資案件でもあるから行くからにはそれなりの成果が求められることは覚悟しなくちゃなァ。
二、三日中に返事が欲しいと言われて話は終わり部屋を辞した。出番のなかったシャチハタをポケットから取り出して意味もなく握りしめた。
帰りも混みあった電車に運ばれて自宅の最寄り駅まで帰る。
就職してすぐは一度、横浜の実家へ戻った。
自分の家ではあるけど、俺は十六歳から一人で暮らしてたからこうやって家族と暮らすことがどれくらい大変かってことを忘れていた。
金城とは一年の大半を一緒に過ごした。一緒に暮らしてたと言ってもいいと思う。
いろいろと思い出してみても、お互いのペースを掴んでしまってからはあんまり気になったことも苛立ったこともなかった。
だからまあ今回も暮らしてるうちになんとかなんだろ、くらいの気持ちでいた。けどただ苛立ち、俺は金城と暮らすことにだけ慣れていたんだって気がついた。
ひと月の間実家の客間で過ごし、あるとき、上の妹とケンカになってそれが拗れ、結果的にそれがきっかけになって家を出た。
妹は「そこまでしなくたっていいじゃん」って怒ってるくせにちょっと泣いた。
「バーカ、お前のせいじゃないっての。離れてたほうが上手くいくことだってあンだヨ」
もう怒ってんだか泣いてんだかよくわかんない妹は黙ってる。
その言葉の本当の意味は理解できないかもしれない。でもなんとなくわかんだろ?
お前がまだ会ったこともないようなヤツかもしれないヨ?そいつが一緒に暮らしてみて誰よりも心地よくて離れがたく思うこと。
俺はここじゃない。それだけだヨ。
引っ越したのは実家からさほど離れていない場所にある四階建てのマンションだったけど、大学時代ほとんどをそこで過ごしていた金城のアパートくらいの広さだった。
狭いけどどうせ寝に帰るだけの場所だった。
最寄り駅からひと駅先には新幹線が停まる。
自宅までの帰り道には桜並木があって、あんま言いたくないけど、春先はいつも金城のことを想った。
自分がやりたいことを続けるには関東に戻る必要があることがわかった日、金城にそのことを話した。金城は迷うことなく「そうすることが一番いい」と背を押した。
立場が逆だったとしたら俺もそう言うと思う。
何回思い出してみても、あの頃から今まで金城は「寂しい」とかそういう類の言葉を口にしたことがない。
就職した年の春先は新しい生活に慣れることに精一杯で会いたくてもなかなかそれが叶わなかった。
だから初めて金城が俺の家にきたのは夏になる頃だったと思う。
玄関を入ってすぐ金城が立ち止まる。
「狭えだろ」って笑うと「荒北と部屋に二人でいることが嬉しい」って真面目な顔して言って、しばらく黙り「会いたかった」と呟いた。
その短い連休を久しぶりに一緒に過ごした。
そっちのほうが自然で、なんで離れて暮らしてるのか疑問に思うくらいだった。あの日は蒸し暑く、初めて部屋でクーラーをつけたくらいだった。
実家の母から桃が届いた。四個入った小ぶりな箱だった。
腹が減っていた俺たちはぬるい桃を取り出して食べることにした。
二人ともうまく皮を剥くことができなくて、果物ナイフででたらめに皮を剥いた。
白い果肉は水気が多く、とても甘い匂いがした。
金城が強く握った果肉からぽたりとテーブルに滴り落ちる果汁を横目で見ながら「ヘッタクソだなァ」って最初は笑った。
下手な自分に照れたように笑って果汁に塗れた人差し指を金城の赤い舌が舐め取った。
果汁は金城の長い指を濡らし続け、また滴り落ちる。
グローブ焼けした手のひらはそこだけ白く、それはひどく艶めかしい光景で、俺は思わず目を逸らした。
金城は俺を見て、それに気がついた。
金城の口角が小さく上がり、それを見せつけるように手首のあたりまで濡らした果汁を舐めとった。
「お前、人と桃食うな」
金城は全てをわかった顔で笑い「なんでだ」と問う。
腹が立ったのか我慢できなかったのかはもう今は思い出せない。俺は金城の濡れた手を掴んで舐めた。
それを見てた金城の喉が鳴って、お互いの濡れた手をめちゃくちゃに絡めて引っ張り合い、倒れこんだ床はひんやりとして冷たかった。
金城の赤い舌が俺の唇から果汁を舐め取り、ベタベタで甘いニオイのする手のひらが頬に触れ、よく知っている体温と余裕のない顔を見上げた。
外からは蝉の鳴き声がして、窓からは朱く強い日射しが差してた。
あれから俺は人前で桃を食べられない。金城もそんなことを言ってた。
帰り道、遅くまでやってるスーパーで売れ残った弁当を買っていると、頭の中で金城が「野菜も食べろ」って言う。とりあえずサラダもカゴに放り込む。
野菜の陳列棚の先には果物が並んでて、桃は今年も甘い香りを放ってた。
スーパーを出て、ポケットに突っ込んであったスマホを取り出して履歴から金城を見つける。
登録してある写真は大学の頃のもののままで、今よりほんの少し痩せてる。
何度か呼び出して聞き慣れた声が「荒北」と言うまでの間、金城が部屋でどうしてたかわかる気がする。
例えばうたた寝していて、着信音に気がついて眼鏡を探して、鞄を漁って、画面に俺の名前を見るまでのことを全部想像することができた。
俺たちはそれくらい長い間一緒に過ごした。
「寝てたァ?」
「ちょっとうたた寝してたみたいだ」
「起こした?ゴメン」
「いや、もう起きないといけなかったし腹も減った」
「話、あってサ」
電話越しに金城が座り直したのがわかる。
「アメリカ行かないかって今日言われて」
「共同研究かなにかか」
「うん、そう」
「行くべきだ」
即答だった。
あの夏もそうだった。
電話切って、胸の奥から息を吐いた。
『そんだけかヨ』
口にしない問いは胸の奥に溜まる。
言葉にしなければ壊さずに済むかもしれないっていう大切なものだから、曖昧なまま丸ごと飲み込んで、ゆっくり自分の中だけで消化していくつもりだった。
引き止められたとしても俺は行くし、なにかが変わるわけじゃない。
でもなぜか、腹が立ってる。もしかしたら怖いのかもしれなかった。
今度は「時間あったからきた」なんてことはできない距離だ。
それでも金城はなにも変わらない。
それって、どうでもいいってことなのか。
それなら、物理的にそれだけ離れたならどうでもよくなっちまうんじゃねえのかなァって。
十九歳のときからよくわからないくらい自然に一緒にいる未来を思い描いた。
それだけでこの先も続けられるのかって不安になることがある。
金城は思ったことをあまり口にしないし。
自分の世界は前に向かって細くかすかな道筋を描いてあるような気がする。
目を細めてやっと見えるくらいのものだけど俺はそこを歩いていきたい。
そのかすかな線のような未来。
不安と期待で走り出しそうなときもあれば、立ち止まって身を潜めていたいようなときだってある。
そんなとき、隣に誰かいたならと思う。
通ってきた道を振り返ると道ははっきり見える。
でも奥のほうから少しずつ色褪せてこうやって思い出に変わってくんだ。
そこにはずっと一緒にいた、今もいる筈の金城の姿がある。
こいつも褪せちゃうのかって。『大学時代』の『思い出』に?
一緒にいけるって思ってたし、今だってそれは変わらない。
でももしかしたら、そう思ってんの俺だけかもしれない。
そんな思いが心の中を過ぎったとき、自分の鼓動が速くなるのがわかった。
そんなふうに心が揺れていても、アメリカ行きを受諾したあと話は順調に進み、二ヶ月後には向こうにいるっていうスケジュールが決まった。
チームの後輩は泣いたヤツもいたりして意外だった。
お前より泣かれたい奴もいるんだけどって思いながらも毎週末送別会。チームとか同期とか、あんまいなかったけど会社の友人とか。
惜しまれたり羨まれたり、泣かれたり、花もらったりして。
実家に言うの忘れてて、母さんに怒られた。親父はなんかすげえ喜んでたなァ。
二日酔いでも日曜日は荷物の選別してた。
持ってくもんなんかあんまりないけど、写真とか出てくれば見ちゃうしなかなか進まない。
金城とはあの後、出発の日が決まったことと送別会の話とかしたけどそれ以外は話さなかった。
大学の頃の写真とか出てきて、待宮が撮ったんだろう。なんだか二人ですげえ笑ってるやつ。向こうに送る本に挟んで付箋貼った。
あとは実家に送ろう。段ボールの何箱かくらいは物置にでも入れといてくれんだろうから。
「暑いってェの!」
誰に言うわけでもなく悪態をついて、ポカリのキャップを捻った。
スマホが震えてるのに気付いたのはそのとき。表示には金城真護。慌てて出るとザワザワと騒がしい場所から金城が申し訳なさそうに言う。
「荒北、よかった。今、羽田空港にいて」
「ハァ?」
「すまない、静岡に帰る金がなくて」
「まったく話が見えねえんだけど」
「スマホの電池切れそうで」
「え?」
「国際線ターミナルの…」まで聞こえて切れた。
なんだってんだよまったく、と汗だくのTシャツを脱ぎ、干した洗濯物の中から乾いてるやつを探して着替え、鞄に充電器とケーブル。財布を突っ込んで家を出た。
横浜へ出るルートなら一時間かからないだろうと考えながら、金城との短いやり取りを反芻して首を捻る。
国際線ターミナル駅の改札を出ると、一番近くの椅子にぼんやり座っている金城を見つけた。
俺の顔を見つけると安心したように息を吐き、小さく手を上げた。
近所に買い物に出るような格好をしてた。
黙ってる金城を促してエスカレーターを上り、休憩できるスペースまで移動した。
国際線のターミナルはガラスで囲われていて、大きな一枚ガラスの向こうでは飛行機が離発着しているのが見える。
どんな人がどこへ行くんだろうって子どもの頃は思ってた。
日射しは強く刺さるように朱く、ロビーにいくつも斜めの線を引いた。
「コーヒーでも飲む?」って聞いたけど金城は要らないって言う。
空港内にあるコーヒーショップの大きなポスターに期間限定と書かれていた甘そうなフラペチーノを買った。金城は普段甘いものを飲まない。
しんみりした顔してるから、呆れてでもいいから笑ったらいいって思ってバニラクリームも足した。
「今だけだってサ」
桃のフラペチーノ。少し人工的な桃の香りがした。
金城はそれを見て笑ったから俺は満足だった。
二人とも黙ったままだった。
俺が日本にいられる時間はもうあまりない。
だからこうやって一緒にいられるのは貴重だって二人ともわかってる。
黙ってるのは贅沢な、今まで当たり前みたいに思ってたことだけどすごく贅沢な時間の使い方だった。
朱い日射しが引いた線が少し動き、桃の香りがして、金城が体温を感じるくらい近くにいる。記憶に焼き付けたい。何度も一緒に過ごした夏の記憶のその先に。
そして叶うならまた次の夏を焼き付けたい。
「で、お前なにしにきたの」
「情けない話なんだが」
そう言って覚悟したように息を吐き、続けた。
「荒北に会いたいと思って、駅前まできたら丁度十分後くらいに東京へいく新幹線があって、そのまま乗ってしまった」
あんまりしょぼくれていてなんか可笑しくて、ちょっと笑ってしまった。
「新横浜で降りて、駅前を少し歩いてお前に電話しようと思ってたんだ。そしたら羽田空港行きの高速バスが停まってて。あと少しでお前を見送らなきゃいけないんだなって思って見てたんだ。そうしたら運転手が『乗るんですか』って聞くから」
「乗っちゃったワケ」
金城が頷く。
「財布しか持ってなくて、運賃払ったらもう移動できなかった。スマホも電池切れそうだったし、荒北の電話番号わからなくなったらもうどうしようもないって思って覚悟して電話した」
ひとしきり笑った俺をむうっとした表情で見ていた金城が甘いフラペチーノを啜る。
「意外と美味いな」って真面目な顔で言うからまたひと笑いした。
「俺はさァ、お前がいつも落ち着いてんなァって思って腹立ってた」
「別に落ち着いてなんかない」
「そう?」」
「じゃああれか?送別会のときのお前の後輩の子が泣いたって言ってたけど、彼女みたいに『寂しくなりますう』って泣けばいいのか」
「なに逆ギレてんだよ、そういうこと言ってんじゃねえよ」
「じゃあ、なんだ」
「東京戻ったときも、今回のこともいつも『良かったな』だけじゃねえか」
良かったな、は俺としては精一杯金城の声色を真似たつもりだったけど、軽く流された。
「泣いて喚いたって曲がるような意思の持ち主じゃないし、研究を続けていくなら最良の道を選んだんだ。なにも言うことはないサ」
「だとしてもなんかもっとあんだろ」
うまく伝わらない。
そんな顔をして珍しく苛立たしげにストローを噛む金城を見ていてわかった。お前も俺と同じだ。不安だったんだってことが。
離発着する飛行機を眺めながら金城が口を開く。
「昔、大学時代よく一緒にレース見ながらサンフランシスコへ行こうとかスペインに行こうとかそんな話よくしたよな」
一緒に行こう、知らない土地で見たこともないようなものを飲んだり食べたりしながら、風を裂くように走る彼らを目の前で見ようって話した。
出てくる地名は見ているレースのたびに違う場所だったけれど、いつか叶う予定の約束だった。
実験してレポート書いて、論文をまとめた。毎日をそうやって繰り返し、バイトもままならないくらい必死だった。
就職して、休みがあっても大学に残った金城とはなかなかスケジュールが合わなかった。それぞれが出張や学会で海外に行くことはあったが、二人で行ったことはなかった。
「研究のことや仕事のことを抜きにしたなら、一年は短いようで長い。正直に言えば寂しい。もっと正直に言えばお前が東京に帰ったときからずっとそう思ってる」
「もう五年も前じゃねえか」
「そうだな」
「もっと早く言えヨ」
「引き止めたりしたいわけじゃなかったんだ。でも思ったよりも割り切れなかったな」
「俺は、お前がどうでもいいのかと思ってた」
「そんなこと、あるわけない」
昔みたいに簡単に口にできないことがあるってことを金城が俺に教える。
約束が『叶わない』じゃなく『嘘』になってしまう可能性をはらむ歳になった。それがとても怖かったこと。
十九歳の冬、二人で交わしたのはなんの保証もない口約束かもしれない。
今よりもずっと幼くて、物事もよくわからない歳だったかもしれない。
それでも俺は金城と生きる未来を信じていた。
「俺は、お前とした約束を忘れたことないんだヨ」
「俺だってない」
口約束でなにも証明できるものもないが、と金城が自嘲気味に笑う。
俺は自分の腕時計を外して金城のポケットに突っ込んだ。
「だいぶくたびれてっけどそれやる」
金城は自分の腕時計を外し「俺の安物だぞ」って俺に渡した。
時間がわかればどうでもいいヨって言いながらそれを自分の腕につけてみたら緩かった。それがなんかムカついた。
金城は「お前は相変わらず腕が細いな」って言ってる。
「これでもう口約束とかいうのナシ」
二人ともわかってる。お互いの体に名前を掘り合っても、指輪を交換してもダメなときはダメだし、なにもなくたって続くものは続く。
ただ続けたいと思うなら、今よりもう少しお互い努力ってもンが必要で、お互いを尊重し合うだけじゃなくてもう少しわがまま言ったり、それがどうしようもなくても。
そうやってもっと二人で、二人の未来の話をしようぜ。
「荒北」
「んー?」
「お前が帰ってきたら一緒に住まないか」
「もう十分かなァって思ってたとこ」
「なにが」
「一人の部屋で夜、お前こと考えること」
「それはお互い様だ」
なにか方法がある。今は漠然としてるけど、きっとはっきりとした線にできるはず。
「アメリカは遠いな」
「一年いんだから一度くらい来いよ。待ってっから」
黙ったままでいる金城がどんな表情をしているのかって顔を上げて、目の下にクマのある無精髭を生やした横顔を見た。
「あ、突然来んなヨ、連絡してから来いよ?」
「あ、はい」
「あと大事なことは黙ってないで早く言え」
なんだかしょぼくれて座ってたときとは別人みたいに穏やかな顔をした金城の横顔を見ながら、もう十年の間、俺はこいつを好きでいたんだって気付く。
金城は俺の視線に気がついて、笑った。
こっちがちょっと不本意にも泣いちまうんじゃねえかってときに、こいつは笑って俺を見た。
感傷的な自分がバカバカしくなってきて、その髭面が小首を傾げるまでしばらく俺はその顔を眺めていた。