愛に恋を混ぜ込んで①『…すみません、オーナー。』
「いや、家庭の事情なら仕方ない。気にするな。」
営業が始まる夕刻より少し前─電話の向こうで申し訳なさそうにするアルバイトの少年に、二宮は至極冷静に声をかけた。
彼は比較的長く務めてくれたのが、何でも親の体調が思わしくないということで、急遽アルバイトを辞めなくてはならなくなったという。
それ自体はなんら問題ないのだが、彼の今後のシフトが問題であった。フリーターだったこともあり、ほぼフルタイムでシフトを組んでいたのだ。こうなってくると、彼が抜けた穴はなかなかに大きい。
(代わりをどうするかが問題だな…。)
平謝りをする彼に、再度気にしないように告げ、体調を気をつけるようにと添えて電話を切った。そしてそのまま、別の人間へとコールをする。
「…お疲れ様です、二宮です。」
「少し、アルバイトを探していまして─」
◇◆◇
「お待たせ。」
「待っていませんよ。こちらこそ、急にお呼び立てして申し訳ありません。東さん。」
「そんなに畏まるなよ。とりあえず入ろうか。」
「はい。」
二宮が電話をかけたのは、自身が勤めていたバーの店長である東であった。言わば東は、二宮の元上司ということになる。二宮に、バーテンダーになるためのいろはを叩き込み、自分の店を開けるまでに仕込んだのは、間違いなく東である。
二人は店に入り、予約しておいた個室の席に腰を据える。天ぷらが絶品のこの店は東のお気に入りだ。
「それで?」
「実は、欠員が出てシフトに大穴が開きまして。すぐに働ける人員が欲しいんです。」
「なるほど。」
ビールとジンジャエール、それから数品酒の肴を注文し、東は顎に指を当てる。いかにも悩んでいます、というようなジェスチャーであるが、この仕草をする時はさして困っていないことばかりであることを、二宮は知っていた。つまり東には、それなりに宛があるということだ。
「まあ、いなくはないな。」
「はい。」
「けどちょっと……いや、かなり難しい子なんだよ。」
「難しい?」
言葉の意味がわからず、二宮は首を傾げる。すぐに働き始められる人材なのであれば、何も難しいことはないはずだ。ともすれば東の言う「難しい」は、一体何を指す言葉なのだろうか。
「その子…影浦というんだが。」
「かげうら。」
「ああ、実家がお好み焼き屋を経営してるんだ。そこの次男坊でな。駅から少し離れたところにあるんだが、地元じゃ有名なんだよ。」
「実家が飲食店なら、接客経験もありますね。」
「経験があるどころか、今はその実家で働いてるよ。まあ客層の違いはあれど、接客態度は申し分ないと思う。」
「?何の問題もないように思えますが。」
影浦という少年のことを聞けば聞くほど、今回の件に適任に思える。むしろ二宮としては、今すぐにでも連絡を取りたいくらいだった。
しかし東は苦笑しながら、そう簡単な問題じゃないんだ、とジョッキを手に取る。
「少し…というか、かなりプライベートでは問題のあった子でな。高校時代に後輩を殴ったことがある。大事にはならなかったが…どうもコミュニケーション面で問題を抱えてるみたいなんだ。」
「…暴行は素行不良を超えているように思えますが。」
「二宮はそんな同級生とは無縁だったから、余計にそう思うだろうな。」
ビールを一口飲んで、優しく卓上へジョッキを戻す。そう言いながらも東の目は柔らかく、影浦を非難するようなものではなかった。東と影浦の関係は知らないが、どうも東は彼に対してどうにかしてやりたいと思っているらしい。
「とりあえず一週間でいい。試用期間として影浦を店に置いてやってくれないか?今のところだけ聞けば粗野なやつに思えるが、仕事ぶりは本当にいいんだ。」
「…まあ、東さんがそう言うのであれば。」
「ありがとう。」
「けど、お客様を不快にさせるようであれば、即刻放り出しますよ。」
「そうしてくれ。」
二宮の言葉が大袈裟なものでは無いというのは、東が一番よくわかっている。来店してくださるお客様を第一に─その精神さえも、二宮は東の元で培ったのだから。だからこそ東は、二宮がその時が来れば必ず影浦をつまみ出す気でいることを弁えている。その上で、影浦を雇ってくれと頼んだのだ。
きっとこの時既に、東には彼らの未来が見えていたのだろう。それこそ、人知を超えた不思議な力を持ち合わせていなくても。
◇◆◇
翌日。
昼過ぎに出勤してきた二宮はまず、店先の掃除をしていた。スタッフやアルバイトに任せてもいいのだが、何となくここから始めるのがルーティンになっているのだ。
掃き掃除をしていると、コツン、と後ろで分厚い靴音がした。振り返った先に居たのは、癖のある黒髪を携えた少年。
「?すみません、開店はまだ─」
「いや、東のおっさんに言われてきたんすけど。」
─東の、おっさん。
それを聞いて、二宮の明晰な頭は一瞬フリーズした。東といえばあの東であろう。バーテンダーとして数々の賞を欲しいままにした末に、若くして後継の育成に力を注ぐために表舞台から退き、多くのバーを手掛けているあの東春秋を指しているに違いない。
そんな東をおっさん呼ばわりする人間など、東の傍に長く居た二宮の周りにすら居なかったと言うのに。
二宮の混乱を他所に、少年は「あれ?連絡いってねぇのか?」と首を傾げている。その姿を見て、点と点が線になっていく─少々問題のある少年。彼の名は。
(…影浦、か。)
ダルっと着られたオーバーサイズのパーカー、くたびれたダメージジーンズに、顎にずり下げられたマスク、跳ねに跳ねた黒髪─そして、その間から覗く爬虫類を彷彿とさせる金色の瞳と、鮫のような白いギザ歯。
身体的な特徴は聞いていなかった。それでも断定出来たのは、二宮のイメージと影浦の姿があまりにマッチし過ぎていたからだ。
特に瞳と歯が彼の内なる凶暴性を物語っているような気がして、二宮は顔にこそ出さなかったが、かなり驚いた。
「影浦雅人…デス。一応成人もしてるし、接客経験もある。けど酒出す専門の店ってわけじゃねーから、あんま期待しないでもらえると助かるっす。」
「…ああ。」
自己紹介を受け、二宮はようやく我に返り、それから一つ咳払いをした。
「二宮匡貴だ。ここのオーナーをしている。東さんとは古くからの知り合いで、欠員が出たので来てもらった…というのは、聞いているな。」
「軽くは。」
「そうか、まあ、軽くでも構わん。」
箒とちりとりを仕舞い、二宮は店の扉を開ける。欠員云々は別に詳しく話さなくともいいものだし、二宮としては何より、早く彼の働く姿を見たい─そして、東が寄越した男を見定めたかった。
二宮が店の中に入ったのを見て、影浦もそれに続く。どうやら、場の空気を読む力はあるようだった。
「ここが俺の店だ。席数は少ないがそれなりにお客様も来る。常連様も多いから、最初は苦労するかもしれないが、徐々にメニューを覚えてもらうことになる。」
「メニューってどんくらいあんの?……デスカ。」
「…………………。」
まだ言葉を交わして数回だが、彼が敬語というものに慣れていないことは火を見るより明らかだった。こんな調子で接客は大丈夫なのかと心配になるくらいには、影浦の敬語は片言だ。
「…影浦、とりあえず俺にはタメ口でも構わん。」
「え、いいのかよ。」
「そう言いながらもうタメ口になってるだろう…俺にはいいが、お客様に失礼な真似はするなよ。バーというのはな、」
「わぁってるよ、その辺はちゃんとする。」
「……言質は取ったからな。」
このままでは埒が明かないと二宮がした提案に、影浦は食い気味で賛成のようだった。これは甘やかしに入るかとも思ったが、影浦の件は東の頼みでもあるゆえに、無下にはできない。
何より、影浦の存在が貴重な人材であることに変わりは無いのだ。
「ここが更衣室だ。あっちは女子更衣室だから間違えるなよ。」
「間違えねーだろ。」
「…寝ぼけているとそういうこともある。」
「実体験か?」
「黙秘だ。」
更衣室を案内しがてら、予備の制服を影浦に渡す。白いワイシャツの黒のベストという鉄板の組み合わせだが、二宮の店では蝶ネクタイではなく普通のネクタイで統一していた。
「蝶ネクタイじゃねーの?」
「東さんの店では蝶ネクタイをしてなかったから、馴染みがないんだ。だから蝶ネクタイはコスプレみたいに思えて、ネクタイにした。」
「ふーん…。」
「不満か?」
「不満とかじゃねーけど…」
「なんだ、はっきり言え。」
そう言うと、影浦は目を逸らしながら「ネクタイとか、結び方わかんねえ。」と小さな声で呟いた。大方、わからないと言うのが恥ずかしかったのだろうが、二宮はいちいちそれを気に止めるような男ではない。わからないのならば、教えるのみだ。
「そうか、なら教えるから覚えろ。」
私服からシャツに着替えた影浦の襟を立て、そこにするりとネクタイを通す。そして慣れた手つきで結んでいけば、あっという間に形のいいタイが出来上がった。
「わかったか。」
「いやわかんねえよ。」
「…自分が結ぶ方向から見た方が良かったか。」
向かい側から結ばれても自分で結べるようにはならない。そう気づいた二宮は影浦のネクタイをしゅる、と解き、それを持って影浦の背後へと回る。そして、影浦を鏡の前へと立たせた。
「こうしたらわかるだろう。何度かやるから、しっかりと覚えろよ。」
「…おー。」
二宮はネクタイを手に、影浦の後ろから前へと手を回す。影浦もそれなりに身長が高いため、普通であれば困難なアクションだが、その影浦の身長を優に上回っている二宮であれば、何の造作もない。
鏡を見ながらゆっくりネクタイを結んでやる。影浦がしっかりと覚えられるように一つずつ口で説明しながら結んでいけば、影浦から律儀に相槌が入った。
無事に結び終わり、二宮は満足気に息を吐いた。そして全体のバランスを確かめるために二宮も鏡へ目を向けた。
「……っ、」
すれば、真っ直ぐこちらを向く金色と、目が合った。
「……ンだよ。」
二宮が息を呑んだのを聞いていたのか、はたまた"別の何か"を感じ取ったのか─影浦はすぐに二宮に目を向けて、顔を歪ませる。言いたいことがあるなら言え、とでも言いたげな顔だ。
そんな顔を向けられ、二宮は少しだけ目を逸らす。そして、今自分が思ったことを影浦に伝えるか伝えまいか、といえことを逡巡した。
(…でも、)
東は影浦のことを『コミュニケーション面で問題を抱えている。』と言っていた。それがどんな問題かは定かではないが、コミュニケーションでの問題など、言葉の行き違いや、認識の差異が大部分を占めるだろう。
それならば、思ったことは真っ直ぐ伝えるのがいいのではないか─二宮はそう結論づけた。
「気を悪くするかもしれねえが、」
「?おー。」
「お前の瞳が綺麗だなと、そう思った。」
「………は…、」
店の前で出会った時から、二宮はそう感じていた─獰猛だが、美しい瞳だと。そして先程鏡越しに真っ直ぐ目を合わせて、それが思い過ごしでないことを再確認した。
面食らう影浦を他所に、言いたいことを伝えられて気が済んだ二宮は「お前のロッカーはこれだ、ここを使え。」と言い残し、「着替えが完全に終わったらホールに出てこい、仕事の説明をする。」と告げて更衣室を出ていってしまった。
更衣室にいるのは、未だ時間の止まった影浦のみ。
「…なんなんだよ、あいつ………」
何もかも耐えられなくて、影浦は頭を抱えてしゃがみこむ。二宮が結んでくれたネクタイが、ぶら、と垂れ下がった。
「………気持ちわりー…」
そう呟いていた影浦の耳が少し赤く染っていたのは、誰も─当の影浦でさえも知らなかった。