優しく溶かして飲み干してはあ、と息を吐けば、それはあっという間に真っ白な雪の中に紛れていった。
山を登れば登るほど、しんしんと降っていた雪は表情を変えて、びゅうびゅうと頬に刺さる。呼吸をすると気管さえ凍る気がして、少年はつい着物で口元を覆った。
少年は生来、変わった力を持っていた。人間から向けられる感情を、肌で感じることが出来たのである。
一見便利なそれだが、本人が被る負担は大きく、また人間離れした特性のせいで村の人々からは嫌煙されていた。
少年の実家は町の食事処である。しかしその食事処が気味の悪い少年を抱えていると知れれば、きっと経営が傾いてしまう。
また少年には兄がいた。その兄は勤勉で、食事処を継ぐために日々勉学に励んでいた。誰にでも優しく朗らかな兄は、無論少年にも優しく、友人も多かった。しかしそんな兄の弟が"これ"では、きっと兄の交友関係に支障が出る。
少年は家族が大好きだ。こんな不可思議な力を持つ自分を、心から愛してくれている家族が大好きだ。
だから少年は、全てを捨てて雪山に来た。家族を、不幸にさせないために。
(…こんな寒いんじゃ、死体も腐らねぇな。)
袂には、町の薬屋から買った睡眠薬が入っている。精神病の母がいるのだと嘘をつくのは心苦しかったが、これも家族のためだと胸の痛みに堪えた。
どこか適当な山小屋に入ってこれを飲めば、自分はこの世からいなくなる。この辺りの山は冬の間ずっと雪が降っているから、遺体が見つかることはないだろう。遺体が見つからなければ、この金が必要な時期に葬式をさせることもない。
(……ああ、あそこにすっか。)
そうして歩いていると、ようやく一軒の山小屋を見つけた。灯りも点っていない、今にも崩れそうな、草臥れた山小屋だった。
少年─影浦は建付けの悪い扉を四苦八苦しながら開けて、ふぅ、と息をつく。
山小屋の中には小さな囲炉裏がひとつあるだけで、他には何も無い。冷たい空気とがらんどうが、我が物顔で居座っているだけであった。
影浦はどさっと座ると、慣れた手つきで囲炉裏に火をつける。そして降り積もったばかりの新雪を優しく掬ってきて、小さな器に入れて弱い火にかけた。
やがて新雪は春を知る前に溶けていき、透明よりも透明な雪解け水が出来る。影浦はその器を手に取ると、薬を口の中に放り込み、そして水を静かに啜った。
(…甘ぇな。)
─新雪を溶かした水は甘いのだと、教えてくれたのは兄だった。理屈は知らない。けれど兄が甘いというのなら、きっとこれは甘いのだ。
面白がって雪を口に入れる幼い兄弟を、呆れながらも叱ってくれたのは両親だった。それでも強く怒らなかったのは、自由な発想力や好奇心を阻害したくなかったからだろう。
雪一つとっても、思い出は絶えず浮かんでくる。それなのに自分は、この世に全てを置いて旅立っていけるのだろうか。
影浦は仰向けに寝転がり、近づいてくる睡魔に身を任せる。旅立っていけずとも、旅立たなくてはならないのだ。
(……もう、俺は帰れねえ。)
雪は、影浦の足跡をとうに消してしまった。今からでは、山を下りることもままならない。
それならば、当初の目的を全うしよう。家族のために、この身を屠ろう。
(帰れるとこなんて、もう、ねえ。)
─そうして、影浦の意識は吹雪に消えた。
◇◆◇
びゅうびゅうと言った吹雪の音、それに震わされている建付けの悪い扉の音、その音の合間に響く何かを焼いているような音。
その音たちに、影浦の意識がゆっくりと浮上していく。
(…なんだ?地獄って、こんな音すんのか?)
自分が天国に行けるような生き方をしていないと信じて疑わない影浦は、未だ泥濘に浸かっている意識の傍らでそう思った。
しかしその音たちは、あまりに眠る前と似通っていて、影浦は恐る恐る目を開ける。
「…起きたか。」
─するとそこには、美しい男がいた。
「………俺は、死んでねえのか。」
「あんなもんを飲んで死ぬ気だったのか。めでてえ頭をしてるみてえだな。」
「はぁ?…あんなもんって、」
その、この世のものとは思えないほどに美しい男は、薬を顎でしゃくって鼻で笑う。
影浦が飲んだのは、正真正銘、薬屋から買った睡眠薬のはずだった。嘘の悲劇に店主が胸打たれ、破格で売ってもらった、睡眠薬─
「あれは漢方の一種で、睡眠薬なんかより数倍効き目の弱い、言わば睡眠導入剤だ。効果時間も効き目も軽く、安い値段で購入出来る。おおかた、病気の親がいるとか言って売ってもらったんだろうが、そんなんはろくでもねえことを考えてる子供がつく嘘の鉄板なんだよ。だから薬屋はそういう時、効き目の弱い薬を掴ませる。間違いがねえようにな。」
男が矢継ぎ早に紡ぐ言葉に、影浦は唇を噛んだ。
なるほど、自分は騙されたのだ。結局、全てを見通されている、馬鹿な子供だったのだ。
「……………。」
「どこへ行くつもりだ。」
「どこって、外だけど。」
「……どうしてそんなに死にたがる。人間の寿命は、たかが五十かそこらだろう。短い生を、どうして棒に振りたがるんだ。」
男はそう言って、至極真面目な顔で首を傾げた。どうやら本当に、死にたい人間の気持ちがわからないらしい。
男は先程影浦に「めでたい頭だ」と言った。けれど今の影浦にとっては、男の方が「めでたい頭だ」と思う。
「…俺が生きてっと、家族に迷惑がかかる。そんだけだ。」
「お前は、家族のために死ぬのか。」
「そうだっつってんだろ。」
「家族のために死ぬと家を出て、家族の元に戻れなくなっているのなら、死ぬ意味なんてねえだろ。」
その言葉に、影浦は口を閉じた。手をかけた扉はやはり開かなくて、上手く外に出られない。
「…ここは俺の小屋だ。勝手に人は死なせねえ。」
「っ………!」
─男の声が耳元から聞こえて、影浦は思わず振り返った。すれば眼前には、この世のものとは思えぬほどの整った顔がある。
(今こいつ、足音したか…!?)
影浦の背中にぞわぞわしたものが這い上がり、唇が震える。そんなことも構わず、男は影浦の顎を掴み、ずい、と顔を寄せた。
「…死ぬのは許さねえ、だが、外に出ることも許さねえ。外に出たところでこの雪じゃ死ぬのが落ちだからな。そんなことされたら夢見が悪ぃ。」
「……なら、どうしろって、」
鼻と鼻、唇と唇が触れ合いそうになる。その至近距離でかち合った焦げ茶の瞳から、影浦は何故か目が離せない。
「…お前、名前は?」
「………影浦、」
「そうか。」
─その瞬間だけは、吹雪の音も扉の音もしなかったことを、よく覚えている。
雪空の下のようにひどく静かで耳鳴りがしていた。不自然なほど静かなのに、自分は目の前の男の瞳から目が離せなくて。いつもみたいに、口で抵抗することも叶わなくて。
「なら影浦、」
「ここで、俺のために生きろ。」
─気づいた時には、その傍若無人な言葉に、影浦は静かに頷いていた。
◇◆◇
「…お前、他の食材とか知らねえの。」
出された焼いただけの動物の肉に、影浦はいい加減辟易した、といったような顔でそう言った。
あの日から数日─影浦は男とこの山小屋に住むことに決めて、日々を過ごしている。
「?肉と米と酒以外に食えるものがあるのか。」
「まじかよ…。」
二宮と名乗った男は、何もかもを知っているような顔をしているくせに、時折浮世離れした一面を見せた。
あの日影浦に説いたような薬の種類や、生物の特性に対する造詣は深いが、それに反して食生活などの生命活動に関してはめっぽう知識が乏しかった。どうやって人として生きてきたのだ、と問いただしたくなるほどに、二宮は人間離れしている。きっと諸事情あって、この山で一人で生きてきたのだろうと、影浦は自分を納得させた。
吹雪がひどいからと影浦は外に出ることを禁じられており、その代わりに二宮が動物を狩ってくる。二人の食事は、その動物の肉が主だった。
しかし二宮は肉に火を通して塩をかけるのみで、調理らしい調理はしない。さすがに焼いただけの肉をずっと食べていられないと思った影浦が食材について尋ねたところ、上のように返されたのだった。
「しゃーねぇなぁ……。」
影浦は"紙"と"筆"を取ると、何やらさらさらと書き始めた。そしてそれを、二宮にん、と手渡す。
「なんだこの珍妙なもんは。」
「左から『ノビル』『フキノトウ』『カキドオシ』だ。冬に採れる山菜だから、この山の南側に行きゃ、二人分くらいは余裕で採れる。」
「詳しいな。」
「まあ、よく採りに行ってたからな。」
二宮は野菜の絵が描かれたその紙をじっと見つめた後、わかった、と呟いて上着を羽織る。そして扉をすーっと滞りなく開けて、雪の中へ躊躇なく出て行った。
(この前二宮が獲ってきた肉を干し肉にしてあるから、それと塩で煮込めば多少ましな味になんだろ。)
"座布団"に寝転んで、影浦は天井を見つめる。未だ吹雪の音がするから、雪はあの日から絶えず降り続いているのだろう。
住んでいた町にはあまり雪が降らなかったため知らないが、こんなに長いこと雪が降ることもあるのだなと、影浦は欠伸をひとつした。
どうもこの山小屋に来てから、やたらと眠たくなる気がする。それがあの日飲んだ薬のせいなのか、寒さからなのかはわからない。
けれどここでは、どれだけ眠っていても怒られることも、起こされることもない。
─それが心地よくもあり、寂しくもあった。
「…浦、おい、影浦、起きろ。」
「……ぁ…?」
自分を呼ぶ声と、身体を揺さぶられる感覚に、影浦は目を覚ます。
目を開けると、また至近距離に二宮の顔があった。
「……近ぇよ。」
「悪ぃ。」
「…そう思ってんなら離れろや。」
二宮は、どうも対人距離がおかしいらしいと気づいたのは、比較的出会ってすぐのことだ。
影浦を起こすときだって、こうして唇が触れ合うくらいの距離に顔を寄せるし、食事をする時も拳一つ分開けたくらいの距離に座っている。
しかし影浦も、近いと言ってみるものの、その距離感に文句がある訳でもない。ひとまず言っておくか、くらいの理由で、影浦は律儀にそう呟いていた。
「これでいいのか。」
「あ?…あー、そういやこんなん頼んだか。」
二宮が風呂敷から出してきたのは、影浦が絵に描いた通りの山菜たちだ。
それもずいぶん具合の良いものを採ってきたらしく、立派なものばかりだった。
「これは食えんのか。」
「あたりめぇだろ。お前ほんと何も知らねえのな。」
影浦はこれ見よがしに溜息をついて、それから"包丁"で山菜たちの下拵えをしていく。調味料も器具も乏しいが、焼いただけの肉よりは美味いものが作れるだろう。
「…雪、まだやんでねえのか。」
「ああ、ずっと降っているな。」
「……そーかよ。」
ということは二宮は、吹雪を抜けて山の南側へと行き、寒い中山菜を探して歩いたということになる。その割に彼は小屋を出る前と全く変わらぬ姿で、疲れすらも滲ませていない。指先すら霜焼けになっていないところを見ると、手袋でもして行ったのだろう。
影浦は"鍋"で干し肉と共にノビルとカキドオシを煮込みつつ、フキノトウにも火を通す。フキノトウはおひたしにする予定だ。
「……ん、及第点ってとこだな。本当はもっと調味料がありゃいいけど。」
影浦が料理をして、こうして味見をしている時も、二宮はぴと、と傍にいる。鬱陶しさももちろんあるが、なんか忠犬みたいで面白いな、とすら思い始めていた。
「ほい、お待ちどう。」
出来上がった汁物もどきを二宮に出すと、二宮は恐る恐る"お椀"に口をつけた。そして汁を一口飲んだ二宮は、驚いた顔で影浦を見る。その様子が子どもみたいで、ひどく愉快だ。
「…これは…なんだ、初めて食ったぞ。」
「だろうな。」
「……なるほど、これが美味い、ってことか。」
美味い、美味いなと、二宮は嬉しそうに食べ進めていく。その様子を見て、影浦は"珍しく人間味のある顔をしているな"と楽しそうに笑うのだった。
それから二宮は料理というものに関心を持ったのか、わざわざ町におりて調味料を用意するようになった。段々と揃っていく調理器具に、影浦も少しだけ気分が高揚していた。
塩、胡椒、山椒や唐辛子─それらがあれば様々な料理が作れる。最近では二宮が"魚"などを獲ってきたり、"茸"や"栗"を拾ってくるため、影浦は腕を振るうのが楽しくなっていた。
だが料理を作れば作るほど、影浦は「昔」が懐かしくなった。
しかし不思議なことに、影浦は段々と町にいた頃のことが思い出せなくなっていた。それに加えて、それ自体に対する悲しみも薄れてきていた。
「じゃあ、行ってくる。」
「おー、気ぃつけて。」
いつものように町へ降りていった二宮を見送った後、影浦はゆっくりと立ち上がる。
そして、小屋の扉に手をかけた─とあることを、確かめるために。
この山小屋に来た吹雪の日、小屋の扉は立て付けが悪く、なかなか開けることが出来なかった。
「………………。」
指に力を入れ、すぅ、と扉を横に引く。すれば、扉は"なんの抵抗もなくすんなりと開いた"。
「………は…?」
─そしてその扉の先には、信じられない光景が広がっていたのだ。
小屋の周りは、たしかに吹雪であった。でも、吹雪なのは、"小屋の周りだけ"であった。
小屋を中心とした、半径三尺ほどの区画だけが、あの日と同じように吹雪いている。しかしその向こう側は、久方振りに見る真っ青な晴天なのである。まるで、吹雪の簾が掛かっているようであった。
「これは………、」
「俺の結界だ。」
─耳元で聞こえた二宮の声に、影浦はもう驚かなかった。
感じえない気配も、聞こえない足音についても、もう、全てが繋がったから。
「……二宮、お前、やっぱり、」
「…人間じゃ、ねえんだな。」
◇◆◇
小さな町を麓に抱えるその山には、雪を司る神が宿っていた。
古くより日本は山岳信仰が篤く、山と神を同一視していたという。
そのため、そこに宿る神は山の全てを把握していた。人間が自分の四肢を操れるように、神もその山を操ることが出来たし、人間が自分の身体の感覚を把握しているように、神もその山の状態を把握していた。
(…ん?)
とある冬の日、人のいるはずのない区画に、人の気配がした。
そこは二宮が普段住処としている神域の一つで、"普通の人間"であれば立ち入ることの出来ないところである。
そこは雪の神の神域であるがゆえに、吹雪がひどく、並の人間であれば生きていられない空間である。それ以上に、並の人間には認識出来ない空間であるはずだった。
(…行ってみるか。)
雪の神がそこでそれを無視しなかった理由はただ一つ─その神は、才能のある者がめっぽう好きだったのだ。
人間であるにも関わらず、神域を認識し、あまつさえ立ち入った者がどんな人間なのか、それを神は自分の目で見てみたかった。
小屋に入り、ぐるりと見渡すと、何も無い小屋に少年が一人横たわっていた。その少年の手元には人間が使う薬とやらがあった。
見るに、それは眠りにつきやすくするためのものである。少年も死んでいる訳ではなく、ただ眠っているだけのようだ。
神は一つ息を吐いて、その才能のある者をじっと観察する。
─その少年は特徴的な髪をしており、唇の隙間からは鰐のような歯が覗いていた。しかし乱暴そうな見た目に反し、何かから自分を守るかのごとく、自分の肩を抱きしめて身体を丸めて横たわっていた。
「…………ん、」
見ていると、やがて少年が少し身動ぎをした。そして、何やら小さく呟いている。
神は少年の口元に耳を寄せる─すれば。
「…ごめ、ん、ごめん、ごめん、」
─少年は、何かにひたすら謝っていた。
「っ…………。」
その瞬間、神は急に人間という存在が愛おしくなった。いや、人間というより、その少年自身が愛おしく感じられた。
神域を認識するほどの強い"何か"を持っているにも関わらず、こんなものを飲んで、この吹雪の中眠っている─それが意味するのは恐らく、自らで旅立ちの道を選んだということ。
代変わりはあっても死ぬ事の無い神にとって、自死という概念は理解が出来ない。理解が出来ないからこそ、神にとってそれは愛おしかった。
神はその少年を抱き上げ、それから凍死しかかっている少年の体に力を込めた。
この少年を死なせる訳にはいかない─この愛おしい少年を生かさねばなるまいと思ったのだ。
「俺が生きてっと、家族に迷惑がかかる。」
それなのに少年は、生き返ってもなおそう言って、自ら旅立とうとする姿勢をやめなかった。
神はそれが気に入らなくて、少年を逃がさぬよう術をかけた。本来であれば遣いに用いる侍従の術をかけ、少年が自分と共に生きるよう仕向けたのだ。
しかし少年はその才能からか、並の人間と比べると術の効力が弱かった。そのため、雪がやめば町に戻っていくか、新たな旅立ちの方法を考えてしまうだろうことは容易に想像がついた。
─だから神は、その小屋を吹雪の中に押し込めた。現実の時間と小屋の時間を乖離させ、吹雪が収まる間は出られない、という空間を作り出し、少年に信じ込ませることにした。
神は、神であるから神なのだ。人の知りえないことを知り、人の成し得ないことを成すから神なのだ。
そんなことをすれば、いつかは少年に気づかれる。それは、神でなくてもわかることだ。
それでもそうすることを選んだのは─
◇◆◇
「…最初は何も気づかなかった。ここがお前の言うシンイキってやつだってことも、お前がカミサマだってことも。」
すっかり物が増えた小屋の中で、二人は肩を並べて座る。吹雪の音は、もうやんでいた。
「でもだんだん、なんか変じゃねえかって思い始めた。山小屋に来た時、ここには囲炉裏しかなかったのに、お前が町へ行き始める前から、ここにはあるはずのないもんがあった。紙、筆、座布団、包丁、食器─そんな日用品は、ここにあるはずがねえ。」
影浦の声に、二宮は何も言わない。二宮が何も言わないことに、影浦も何も言わない。
「あとは、お前が採ってくる食材だ。最近採ってきた魚とか茸とか栗は、吹雪が起こるような冬じゃまず手に入らねぇ。お前、食生活には詳しくねぇみたいだったから、秋に紅葉することは知ってても、そこから採れるもんとかは知らなかったんだろ。食材に季節が関係するっていう、人間なら誰しもわかることを、お前は知らなかった。」
山の状況を把握しようと、そこに実るものが何なのかは知らない。葉が色づくことを知っていても、木の根元に生える物を人間が食べていることを知らなければ、影浦を騙し切ることは出来なかった。
「……そんで極めつけは、お前の感情だ。」
影浦の口から出た言葉に、二宮は初めて首を傾げた。感情で影浦は一体何を判断していたというのだろうか。
「…お前はさっき、俺には才能があるって言ったよな。」
「ああ。」
「それは事実だ。俺には才能、なんて呼ぶに値しねぇような、クソみたいな能力がある。」
影浦は言葉を区切ると、もう随分とその感覚はねえけど、と言ってから、袖を捲り細い腕を見せた。
「俺には、人間に向けられた感情を肌で感じるっつー能力がある。負の感情ならより嫌な感じがするし、正の感情からより優しい感じがする…まあ、うまく説明は出来ねぇんだけど。」
「構わん、続けろ。」
もう"幾年も"日光を浴びていない肌は白く、まるで雪のようだった。影浦はその肌を指でつぅ、となぞり、肘あたりで指を止める。
「…人間に向けられた感情を感じるはずの能力は、お前の感情に反応しなかった。そんなことは、お前が全く俺に無関心か、もしくはお前が人間じゃねえかしかありえねえ。」
「……なるほど、それで、俺の場合は…」
「後者だったってワケだな。全く感情が刺さんねえなんて、神か仏しか考えらんねえから。」
着物の袖を直し、影浦は口を噤んだ。
影浦側の種明かしは終わった。残すは、ただ一人だけ。
「…この小屋が吹雪に見舞われていると思わせるために、俺は結界を張った…この結界の中では、時間は遅く流れている。現実の時間とここの時間では、大きな差が生じているんだ。だからお前の言う、季節の移り変わりがあった。」
「ここに来て、半年くらいだと思ってんだけど?」
「…結界の中の時間は、お前の言う通り半年経過した。」
「……結界の、外は?」
黙り込む二宮に、影浦は唾を飲み込み、それから二宮の右手を優しく包み込んだ。あまり触れることの無いその手は、まるで雪のように冷たい。
「…怒って出てったりしねえから、言えよ。俺が出てくのが不安なら、この手、ちゃんと掴んでろ。」
そう言えば、二宮は恐る恐る影浦の手を握り返す。その手は影浦を捕まえておくというよりも、影浦に縋るかのように弱々しかった。
「……結界の外では、四年の時が経った。およそ、内側の八倍の時が流れている。」
「四年っつーことは……」
影浦がこの山に足を踏み入れたのは、元服前の十四歳の時─そこから四年ということは、今の影浦は十八歳になっているということだ。
「……お前、俺に興味があったんだよな?」
「ああ、神域に侵入してみせるほどの人間がどんな奴なのか、この目で確認したかった。」
「…その程度の目的だけならよぉ、俺を八年もここに置いとくことねえんじゃねえの。」
「………………。」
結界の内側で過ごす時が半年だったとしても、外側では優に四年の時が過ぎている。結界の外に出て、買い物や狩りに出ていた二宮にとって、そう短い時間ではない。
にも関わらず、二宮は影浦に嘘をつき続け、この小屋に影浦を閉じ込めておいた。
「…なあ二宮、お前は、なんで俺をここに置いとくんだよ。なんで四年も、俺みてえな人間の世話をしてんだよ。興味本位なら、とっくに飽きてんだろうが。」
─影浦の言う通りであった。
二宮の築いた嘘の小屋は、砂上の楼閣である。
閉じ込められている影浦だって、特別な力がなくともそのうち二宮を怪しんだだろうし、二宮が影浦を閉じ込めている理由だって、信じ込ませるには些か弱すぎた。
「教えろよ、二宮。お前はなんで、そんなに長い間俺をこの小屋に閉じ込めてんだ。」
─問い詰めるような口調のくせに、影浦の声はひどく優しかった。
いっそ、怒鳴って、叫んで、罵倒してくれたら楽なのに、影浦の声は優しくて、柔らかい。
そうだ、この少年は、あの日からずっと変わらない。家族のために自分を犠牲にしてしまうような、不器用な優しさを内包した─
暖かい、人間だ。
二宮にないものを持った、不器用で、ひ弱で、粗野な、人間なのだ。
そんな人間を、二宮は、どうしようもなく。
「…愛して、しまったからだ。」
「お前を……人の子であるお前を、離したくないと思うほどに、愛しているからだ。弱く、脆く、儚いお前を、守りたいと思ったからだ。」
「だから俺は、お前をここに、閉じ込めた。」
日頃平坦な二宮の声が歪み、影浦の手を握る手に力が篭もる。その歪みを生んでいるのはきっと、人の時間を奪ってしまったという、自責の念。
「…謝っても許されることじゃねえ。悔やんでも時間は戻らねえ。けど、影浦、謝らせてくれ。悪かった。お前の自由と時間を奪って、すまない。」
そう言って、二宮は影浦の手を離した。
触れる資格すらないと、その自分と違う暖かみを持った手を、ゆっくりと離した。
「……お前、神のくせに馬鹿なんじゃねーの。」
─その離された手を、今度は、影浦が掴む。
「俺が、黙ってこんなとこに閉じ込められる性質に見えっかよ。俺が、逃げ出さねえようなお利口さんに見えっかよ。見えねえだろうが。」
二宮の雪のように冷たい手を握り、自分より細く長い指に、自分の暖かい指を絡める。
「…最初はお前の術にかかって、この小屋でじっとしてた。けどお前、ちゃんと掛けなかったろ。最悪俺が逃げられるように、中途半端にしといたろ。」
「……それは、」
「なあ、わかんだろ?わかってんだろ?俺は、俺の意思で半年…いや、四年間ここに居たんだよ。お前が何か隠してるってわかってて、俺はここにいたんだよ。」
二宮は、影浦を閉じ込めてはいなかった。
今日、小屋の扉が難なく開いたように、小屋からはいつでも出られるようにしてあった。
もし影浦が出て行きたくなった時に、自分の足で帰って行けるように。
「それなのにお前は、自分を悪者にして、俺が被害者みてえな面してる。お前自身が後ろめたく思ってっから、それを満たすためにこうやって、俺が小屋を出るのを待ってた。俺が小屋を出たら、全部、種明かししようと思ってたんだろ。」
影浦を自分のものにしたい─そう思いながらも、二宮は影浦を帰すべきなのでは無いかと揺れていた。
その揺れの表れが、簡単に開く扉と、中途半端な侍従の術だった。
「いい加減わかれよ二宮…!…俺は、自分の意思でここにいる。お前のせいじゃねえ。俺はここにいたいと思ったからいる……お前の傍にいたいと望んで、ここにいんだよ。」
「…影浦……。」
「…それは、お前と同じ理由だ。」
揺れる瞳を携える二宮を、影浦は優しく抱きしめた。
こんなことなら、もっと小屋を早く出ればよかったとすら思う。
─そうすれば、この、何も知らない全知全能の神を、不安にさせることもなかったのに。
「俺だって、お前に惚れてる。それをちゃんとわかれよ。そんでもって、全部教えろ、お前のこと。」
「……ああ、教えるさ、包み隠さず。」
自分を抱きしめる小さな身体を、二宮は力強く抱き締め返した。
願わくば、もうすれ違わないように、もう離さないように。
「…顔が赤いな。」
「うっせ、ンなこと言うんじゃねぇよ。」
「いつもより熱いぞ。」
「嫌なら離しやがれ。」
真っ赤に染まった影浦の顔に、二宮は目を細めた。
ああ、触れる手も、胸の内も、全部が全部暖かくて。
「…溶けるまで、離さねえよ。」
凍っていた時間は、溶けて、進み出した。