鳥の影「今日は天気がいいから、布団と服がよく乾きそうだ」
とある安アパートの一室で、茶髪の青年は空を見ながらそう呟いた。
突き抜けるような青空には、鳥たちが自由に飛んでいる。それを見て青年──二宮はつい目を細めてしまった。今の“自分たち”には、もう得ることの出来ないものだったから。
一人分の少ない洗濯物を干していると、不意にピンポンとインターホンが鳴った。
二宮は手を止めてから一つ溜息をつき、そしてそこに“在る”ことを確かめるように背中につけたナイフホルダーのようなものに触れる。
「……怖がらなくていい。お前は、俺が必ず守る」
そう呟いてから、二宮はゆっくり玄関へと近づいていく。そしてドアスコープを覗くことなく、扉の施錠を解除した。どうせ、客は限られている。
「どーも、お久しぶりです、二宮さん」
薄い扉の向こう側。そこにいたのは、才能に溢れた優秀な部下──だった男だ。
「……犬飼」
「ゾエじゃなくて安心したって顔してますね」
「まあな」
二宮は扉を開け、犬飼を部屋の中へと誘う。犬飼は会釈をしてから靴を脱いで揃え、迷いなくリビングへと向かった。
へらりとした笑顔は相変わらずで、真意は図りづらい。そういうところが“彼”も苦手だったのだろうと、二宮は今になって思った。
「相変わらず人の気配のしない部屋ですねぇ、ココ」
犬飼がこの部屋を訪れるのは、今回で三回目である。前の部屋を見ても、その前の部屋の部屋を見ても、犬飼はいつも決まってこう言った。
このセリフが本心なのか、皮肉なのか、それとも軽蔑なのか──二宮はもう推し量ることは出来ない。
昔は誤解されやすい部下のことも理解出来ていた。彼女のことがあってから、隊員のことはよく見るようにしていたから。
それなのに今は、もう、誰の気持ちもわからなくなっている。
「ねえ二宮さん。二宮さんは一体、何がしたいんですか?」
──自分の、気持ちさえも。
「今日は、最終通告をしに来ました」
二人がけのソファにも、二脚用意されたダイニングの椅子にも腰掛けることはせず、犬飼は立ったままそう言った。
その声は少し震えていて、平気な顔をしながらも犬飼は何かを押さえ込んでいるように聞こえる。
「……この通告から一週間以内に“それ”を持って本部に出頭すれば、監視付きではあるものの、隊員としての席を残す。処分としては減給と降格、二宮隊の解散で済ませるそうです。しかし出頭しない場合は貴方を捕捉した後、二宮隊の各隊員をそれぞれ減給、降格、個人ポイントの没収。それに加えて……貴方の記憶封印措置を採る、とのことでした」
「……………………」
犬飼の言葉に、二宮は押し黙る。その手は無意識に、背中のナイフホルダーに触れていた。
「ねえ、二宮さん。いい加減やめません?こんな茶番、何にもならないじゃないですか」
張り付いた笑顔から発せられる声が震えて、スカイブルーが揺れる。飄々としていて冷静なこの男でも、こんなに感情が表出してしまうものなのだと、遠くで理性が他人事のように感心していた。
近頃、ずっとそうだ。
魂や心が身体から抜けてしまったような、そんな感覚に苛まれ続けている。
「どれだけ二宮さんがボーダーから逃げても」
その、理由は。
「カゲはもう、帰ってきませんよ」
とっくのとうに、わかっていた。
「……か、げ、うら……?」
接近してきた近界への偵察──その短期遠征中の事故だった。
今でも鮮明に覚えている。
二宮よりも華奢なのに、頑丈で、素早く、しなやかなあの肉体が、サラサラと砂のように崩れていく様子を。
『……なさけねーかお、してんなよな』
最期に二宮の頬を撫でながらそう言った、あの時の泣きそうな笑顔を。
「二宮さんがどれだけ悲しんでるのか、どれだけ絶望してるのかは、二宮さんにしかわかりません」
最期の力を振り絞り、影浦はブラックトリガーとなった。
事故であろうとただでは死ぬまい。そんな彼の決意が伝わってくるようだった。
死してなお、自分に出来ることをしたい。そんな彼の願望が伝わってくるようだった。
だから、彼の遺体は残っていない。骨すらもない。
あるのは、無骨な黒いトリガーだけ。
「けど、だからって言って“カゲだった”そのトリガーを持ってボーダーから逃げて、一体何になるって言うんです?そのトリガーは確かにカゲだ。けど、もう話すことも、笑うこともない。皮肉なことに、SEに苦しまされることもない。それを、二宮さんはカゲだと思えるんですか?同じように愛せるんですか?」
遠征艇の中でも、二宮はずっとそのブラックトリガーを握っていた。
そして三門市に帰ってきて、遠征艇から降りた瞬間──二宮は本部を飛び出して、行方を眩ませた。
影浦だったものを握りしめて。
「二宮さんが辛いのは知ってます。けど、だからってこんな茶番を許せるほど、俺はカゲに無関心じゃないんです。もちろん、二宮さんにも」
犬飼はそう言ってからしばらく沈黙して、玄関の方へ踵を返す。
「今日から一週間、本部で待ってます。辻ちゃんとひゃみちゃんと、それから、貴方とカゲを慕っている隊員、全員で」
──犬飼が去って“一人きり”になった部屋で、二宮はブラックトリガーをそっと取り出した。
これは唯一の影浦の形見。唯一の影浦を感じられるもの。唯一の影浦の生命の残滓。
「……かげうら」
その真っ黒のトリガーの上に、雨が降った。
その雨は留まることを知らず、トリガーを握る手すらもしとどに濡らしていく。
「お前の記憶を持ったまま、隊員であり続けるか……お前の記憶を失くして、普通の人間に戻るか……そんなの、もう、どちらでも変わらない」
あの日から、身体が空洞になったようだった。
不思議なものだ。自分はまだこの世に生きていて、話すことも、笑うことも、苦しむことも出来るのに。もう、この世の何もかもに、何も感じない。
身体の中にある、何も無い空洞に漂っているのは、影浦を亡くした悲しみと、喪失感だけ。
「…………お前がこの世にいないのに、俺は、どうやって生きていけばいい。いっそ、記憶を失くしちまった方が、幸せかもしれねえ」
自嘲すると、雨がさらに散って座り込んだ床にも降りかかった。でも、その雨に傘を差し出してくれる愛しい人の影は、もうどこを探しても見つからない。
「……そんな幸せなんざいらねえ。俺がほしいのは、お前との幸せだったのに」
──なあ、かげうら。
そう力なく呟く声は、孤独な安アパートに虚しく響いた。