溺れるもの、浮かぶもの(後編)「ミスラ、もう大丈夫ですから下ろしてくださいよう」
どんなに抗議の声をあげても、ミスラは耳を傾けてもくれない。
「駄目です。どうせあなた、ふらふらなんでしょう」
「ふらふらというか、ぐらぐらします」
ただでさえ酔いが回っているのに、この揺れは頭と胃に来る。
「ほら、着きましたよ」
幸いにも、気分が悪くなる一歩手前でミスラは足を止めてくれ――たと思ったら、まるで荷物のようにぽい、と放り投げられた。
「うわああああ――!」
結果、寝台に顔から突っ込む羽目になり、ぎゃあと情けない声をあげてしまったら、「無様ですね」と楽しそうに笑われてしまう。
「猫じゃないんですから! 投げないでください!」
至極まっとうな抗議だと思ったのだけど、なぜかミスラはまたむすっとして、その不機嫌な顔をぐいと近づけてきた。
「――そんなにあの毛玉が好きなんですか」
「え?」
唐突な言葉に、一瞬理解が追い付かなかった。よほどキョトンとした顔をしていたのだろう、苛ついた様子で、ミスラはさらに凄んでくる。
「口を開けば猫の話ばかりしますよね、あなた」
「そ、そうですか?」
俺自身にそんな自覚はなかったけれど、何かとすぐ猫に例えてしまうのは俺の悪い癖だと、かつて友人にも言われたことがある。猫好きじゃないと共感しにくい、とも。
「えっと……ミスラは猫が嫌いですか?」
「好きも嫌いもありませんよ。興味がありません」
想像通りの答えが返ってきて、そうですよねーと指をつつき合わせる。興味がないものの話を延々とされても困るだけだろう。
「すいません。ミスラの前ではあまり話題に出さないようにするので――」
「そういうことじゃありません……いや、違うな」
勢いよく遮っておきながら、ミスラの声からは戸惑いが感じられた。まるで、自分が何を言おうとしているのか分かっていないのに喋り始めてしまったような――。
「猫のことはどうでもいいんです」
急に体を引いて、ミスラはぷい、と顔を逸らす。その横顔が拗ねた子供のように見えるのは、俺が酔っているからだろうか。
「あの、ミスラ……。もしかして、拗ねてます?」
「拗ねてなんかいません。子供じゃあるまいし」
すっぱり否定されたけれど、これは明らかに拗ねている。というか、不貞腐れている?
「何だろうな。あなたが猫の話ばかりしていると、こう……モヤッとするんですよね」
自身の感情を持て余しているらしいミスラは、そのまま寝台の端に腰かけて、うーんと小首を傾げている。そんな仕草も、何だか幼子のようにあどけない。
「今日のミスラは、なんだか可愛いですね」
思わずそんなことを口走ってしまったら、信じられない物を見るような目で見られた。
「はあ? あなた、俺に向かって可愛いとかいうんですか」
「す、すいません」
さすがに、千年以上生きている魔法使いに「可愛い」は失礼だった。慌てて謝ったけれど、ミスラの機嫌はどん底まで落ちてしまったようだ。
「……あなた、誰彼構わず『可愛い』とか『好き』とか言いますよね。気が多いにもほどがあるんじゃないですか」
呆れ果てた、と言わんばかりのミスラに、ぶんぶんと顔を横に振る。
「そんなことないです! 心底そう思った時しか言いませんよ!」
何を見ても「カワイイ」「カッコイイ」を連呼するような歳はとうに過ぎている。そんな浮気性みたいな表現は心外だ。大体、俺はこの魔法舎にいるみんなのことだって、猫と同じくらいに大好きなんだから――。
「あ」
思わず、気の抜けた声が口から漏れた。もしかして、ミスラがさっきから拗ねていた理由は――猫のことばかり『好き』だと連呼していたから?
「? なんです?」
「俺、ミスラのこと大好きですよ」
おずおずと告げた途端、深緑の瞳が見開かれる。
「……そうなんですか?」
「そうですよ。ミスラのことも、魔法舎の皆さんのことも、俺は大好きです。とても大切です!」
心の丈を素直に吐露したつもりだったのに、ミスラは虚を突かれたように口を閉ざした後、地の底から漏れ出たような、深い溜息を吐いた。
「そうでしょうね」
あまりにもやる気のない相槌に、思わずムッとして言い返す。
「ひどいです、俺はこんなにも真剣なのに!」
「そういや酔っ払いでしたね、あなた。どうせ明日の朝になったら、今何を言ったのかも綺麗さっぱり忘れてるんでしょう」
「そんなことは――ないとは言い切れませんけど」
今だって半分夢の中にいるようだ。頭も体もふわふわしていて、だけど、だからこそ――いつもより素直に、思っていることが言えている、ような気もする。
「本当に、大好きですよ。大体、苦手だったり嫌いだったりする人と、毎晩のように隣で寝ようなんて思いませんから!」
「どうでしょう。あなたは人が良すぎるし、情に絆されやすいし。ちょっと顔のいい相手に迫られたら、コロッといきそうですよね」
「そ、そんなにチョロくないですよ俺!」
じっと見つめてくる瞳には、はっきりと「本当かな」と書かれている。
他人に興味のないミスラがそう思っているということは、他の魔法使い達からもそう評されていたりするんだろうか。もしそうだとしたらちょっと立ち直れない。
「……俺、そんなに信用ないんですね……」
「誰彼構わず愛想を振りまくからじゃないですか」
おもむろに伸びてきた手が、俺の腕を掴む。そのまま引っ張られて、勢いのまま寝台に倒れ込む形になってしまった。
「ちょっ、ミスラ……!」
「何だか色々どうでもよくなりました。毛玉風情と同格に思われているのは気に入りませんが、まあいいでしょう」
ほらもう寝ますよ、と布団に押し込まれて、掌で瞼をそうっと撫でられる。
「酔っ払いはさっさと寝てください」
「はあい……」
一度目を閉じてしまうと、押し寄せる眠気に抗えなくて、意識が急速に沈んでいく。
「おやすみなさい、晶」
耳元で囁かれた声は、なぜだかとても優しい響きがした。
+++
「うわあ、どうしたの賢者様、凄い顔」
「ううっ、すみませんクロエ、声を抑えてもらえると……」
慣れない酒を飲んでしまった翌朝、俺は案の定、二日酔いに苦しめられていた。
「ほんの一口飲んだだけでそれか。哀れだなあ」
豪快な笑い声が、まるで教会の鐘のようにガンガンと頭に響く。
「ブラッドリー、声を……」
「おっと悪かった。二日酔いなら南のちっこいのに薬でも調合してもらったらどうだ?」
フィガロ用に特製の酔い覚ましを開発したって言ってたぜ、という追加情報に、思わず笑い声を上げてしまい、慌てて頭を押さえる。
「うう……こんな風にならなければ、お酒も楽しいなって思えるんでしょうけど」
ムル特製カクテルを飲んだ後の記憶はおぼろげにしか残っていなくて、それもまた悔やまれる。何だか楽しい話で盛り上がったような気がするし、その後ミスラに強制連行されたような気もするが、朝起きたらちゃんと自分の部屋にいて、いつも隣にいるはずのミスラは影も形もなかったから、それもまた夢なのかもしれない。
「こればっかりは体質だからな。まあ、一時的に酔わなくする魔法薬もあるらしいが」
「それはそれで、酒を飲む楽しみがなくなってしまいますけどね」
マグカップを片手に現れたシャイロックが、「昨日は申し訳ありませんでした」と丁寧に頭を下げてきたので、慌てて両手を振ってそれを押しとどめた。
「とんでもありません。俺がちゃんと確認しなかったのが悪かったんですから」
ムルは悪くないし、ましてシャイロックが誤る必要なんてどこにもないのに、それでも彼はいいえ、と首を振る。
「バーの責任者は私ですし、ムルの躾も私の役目ですから。監督不行き届きをお詫びします。せめてものお詫びにこちらを。二日酔いに効く薬草茶です」
差し出されたマグカップには、鮮やかな薄緑色のお茶がなみなみと入っていた。爽やかな薬草の香りを嗅ぐだけで、ムカムカしていた胃が少し落ち着く気がする。
「ありがとうございます。いただきます」
まだ熱いそれをちびちびと味わっていると、背後から「おはようございます」と気怠げな声が響いた。
「ミスラ――」
「酷い有様ですね」
ばっさり一刀両断されて、ぐうの音も出ない。
「昨日のこと、どうせ覚えてないんでしょう」
はあ、と溜息をつかれる。何だろう、この意味ありげな溜息は。
「えっと……俺、昨日何か……したんですね」
クロエやシャイロックが顔を見合わせて笑っているところを見ると、やはり酔った勢いで何か恥ずかしいことでも言ったのかもしれない。
「昨日の賢者様はとっても情熱的だったよ!」
「そうですね。愛について語る貴方は、とても魅力的でした」
「待って待って、俺ホントに何をやらかしたんですか――!?」
折角シャイロックのお茶で酔いが醒めてきたというのに、今度は羞恥で頭を抱える羽目になった。
「本当に覚えてないんですね。……俺に言ったことも、全部」
後半はほとんど囁くような声で、きっと俺の耳にしか届かなかったのだろう。どこか寂しそうな声音に思わず顔を上げたら、意外にも穏やかな瞳と目が合った。
「えっと、ミスラ……。すいません、よく覚えてはいないんですけど、ミスラが部屋まで連れて行ってくれたんですよね?」
「そこは覚えてたんですか。ええ、下ろせとか自分で歩けるとか散々ごねられましたね」
「ううっ、すみません……お手数をお掛けしました……。それであの……俺、何を――」
酔った俺がやりそうなことと言えば、ミスラを猫扱いして撫で回すとか、猫に変身してほしいと懇願するとか、そういう類のことだとは思うのだが。まさか、うざ絡みしたり泣き喚いたりしたんだろうか。
「覚えていないなんて、本当に酷い人だな」
「ちょ、ちょっとミスラ、気になるのでちゃんと教えてくださいってば!」
「ここで言っていいんですか?」
「――ここで言えないようなことなんですかああああ!?」
慌てる俺を面白そうに見つめて、ふっと笑う。その鮮やかさに、一瞬目を奪われた。
「冗談です」
「もおおおお! 心臓に悪い!」
はあ、と息をついて、すっかり冷めてしまったお茶を一気に飲み干す。
そういえば、さっきから驚いたり叫んだり忙しくて忘れていたけど、頭の痛みも胸のムカムカも、随分と和らいでいる気がする。
「賢者様、お代わりをお持ちしましょうか」
「ありがとうございます。もうだいぶ楽になりましたけど、このお茶とっても美味しいです」
「そう言って頂けると嬉しいですね。ではもう一杯、今度は少し趣向を変えてお持ちしましょう」
俺の手からマグカップを抜き取り、軽やかに踵を返すシャイロック。
「あ、俺はラスティカを手伝いに行かなきゃいけないんだった。またね!」
「おっと、俺はまた奉仕活動だな。ったく、めんどくせえ」
クロエとブラッドリーも談話室を去っていき、広い談話室に俺とミスラだけが残される。
「ミスラ、昨日は寝かしつけが出来なくてすみませんでした」
改めて謝ると、先ほどまでブラッドリーが座っていたソファにどっかりと腰を下ろしたミスラは「別に一晩くらい構いませんよ」と答えた。
何だろう、今日のミスラは随分と機嫌がいい気がする。
「それであの……本当に俺、変なことしたり言ったりしてない……ですよね?」
ミスラは滅多に冗談を言わないから、周囲にみんながいる状況では言いづらかっただけなのかもしれない。……その場合、俺は相当に恥ずかしい言動をしたことになるけど。
「酔っている時のあなたは、いつもより素直に、思ったことをぺらぺらと喋りますよね」
「やっぱり変なこと言ったんじゃないですか!」
思わず手で顔を覆う。一体何を言ったんだ、昨日の俺!
「教えてくださいよ、ミスラ!」
「いやです。素面の時に聞かせて欲しいので」
「え?」
「それと、猫だとか他のみんなだとか、そういうのと同列に扱われるのは気に食わないので、俺にだけ言ってください」
「だから! 俺は昨日、何を言ったんですかああああ」
「教えません」
結局、丸一日粘ってもミスラは教えてくれず。
散々つきまとって騒いだせいか、それとも昨日バーに居合わせた魔法使い達から広がったのか、「賢者は酔うと面白い」という話が魔法舎中に知れ渡ってしまい、しばらくあちこちから酒に誘われる日々が続いたのは、言うまでもない。