ハッピーエンドで終わるように 晶には秘密の日課がある。
賢者の書に今日の出来事を記したあと、クローゼットの奥にしまい込んであるリュックサックの中からシステム手帳を取り出して、そこに簡単な日記をつけることだ。
それは、賢者の書に記すほどではない、些細な記録。
今日は城でラーメンを食べたとか、中庭で猫と一緒に遊んだとか。任務中にレノックスの羊が迷子になってみんなで探したとか、ミスラとオーエンが喧嘩して、魔法舎を破壊しそうになったとか。
本当に何気ない日常を、少しずつ。
いつか、元の世界に戻った時に、この世界で過ごした日々を思い返せるように。
晶が魔法舎にやって来たばかりの頃。
あてがわれた部屋には前の賢者のものらしき小物類が、あちこちに残されていた。
それは魔法使い達からの贈り物だったり、ちょっとしたお土産だったり、どこかへ出向いた先で拾ってきたのだろう、ささやかな旅の思い出だったり。
申し訳ないと思いつつ、それらを木箱に詰めて倉庫へ運んでいた時に、ふと気づいたことがある。
(そういえば、前の賢者様の服や荷物は残ってなかったな)
晶が召喚された時に着ていた服や荷物は、クローゼットにしまってある。こちらで着ても奇異の目で見られるだけだし、賢者には所定の制服が支給されているから、私服の類を着る機会もほとんどない。
前の賢者も同じことをしたのなら、彼が着ていた服や荷物が残っているはずだ。
それがないということは、もしかしたら――。
(元の世界に戻る時、服装や持ち物も元に戻る――?)
よくある異世界召喚ものだと、元の世界に戻った時には最初の姿に戻っているのが定番だ。
(もし、そうなら……)
こちらの世界で得たものは、何も持ち帰れないかもしれないけれど。
元の世界から持ち込んだものなら、そのまま持ち帰れるかもしれない。
そんな一縷の望みを抱いて書き始めた一言日記。
元の世界に戻った時に、この世界で過ごした日々を忘れてしまっても。
この日記を読み返すことが出来たなら、思い出せるかもしれないから。
それは希望であり、願望であり。
祈りに似た、何かだった。
「あなた、賢者の書以外にも何か書いてますけど、そんなに書き物が好きなんですか」
今夜もまた寝かしつけをせびりに来たミスラに覗き込まれて、ひえっと小さく悲鳴を上げる。
「いえそのっ、賢者の書に書くほどじゃないことを、手帳にちょこちょこっと書き留めてるんです」
「はあ……マメなんですね」
日記をつけるなどという習慣すらないだろうミスラは、物珍しそうに晶の手元を見つめて、そこに記された文字を指でなぞる。
「これが今日の分ですか? なんて書いてあるんです」
「えっと、『今日の夕飯はネロ特製のチキンカレー』です」
「そんなことを書いてどうするんです?」
心底不思議そうに尋ねてくるミスラに、あははと笑う。
「美味しかったじゃないですか、ネロのカレー。思わず書き残したくなるくらいに」
前の賢者が残していった開発途中のレシピを元に、ネロと二人でどうにか完成させたチキンカレーは、魔法使い達にも好評だった。完成したレシピはネロがしっかり書き起こしてくれたので、きっと魔法舎の定番料理になるだろう。もしかしたらいつかは、ネロの店の看板メニューになるかもしれない。そう思うと、嬉しいような寂しいような、複雑な気持ちになる。
(……感傷に浸ってる暇はない。もう、あまり日がないんだから)
手帳を閉じ、クローゼットを開けてリュックの前ポケットにしまい込む。ついでに寝間着を取り出して手早く着替えた晶は、「お待たせしました」とミスラを振り返った。
「ミスラ?」
「……いえ。何でもありません」
寝台に腰掛けて晶の挙動をじっと見つめていたミスラは、そう言って小さく首を振る。
「さあ、さっさと俺を寝かせてください。晶」
「はい。今日も頑張ります!」
長いようで短かった、かけがえのない日々。
〈大いなる厄災〉との戦いは、もう目前に迫っていた。
――別れの時も、きっと。すぐそこに。
+++++
そして、その時は唐突に――何の前触れもなく訪れた。
二十一人の魔法使い達が、総力を挙げて〈大いなる厄災〉を押し返し、脅威が去ったと安堵した、次の瞬間。
気づけば、晶はエレベーターの中にいた。
「え」
無機質な金属製の扉。規則的な駆動音。扉上の階数表示はゆっくりとカウントアップして、やがて晶の住む7階を示す。
扉が開けば、見慣れた外廊下。弾かれたようにエレベーターを出て、人気のない廊下を歩き出す。
(あれ……俺、さっきまで何をしてたんだっけ……)
混乱する頭をどうにか宥めながら、ポケットを探って鍵を取り出し、自室の玄関ドアを開ければ、真っ暗な部屋と冷え切った空気が晶を出迎えた。
(……なんでこんなに、寂しいんだろう)
一人暮らしも随分長い。無人の部屋に帰る寂しさには、すっかり慣れたはずなのに。
モヤモヤする心を抱えたまま靴を脱ぎ、キッチンを通って洋室に続くドアを開ければ、開けたままだったカーテンの向こうに、大きな満月が見えた。
「綺麗な満月だなあ」
そう言えば、この満月をスマホで撮った――はずだ。ついさっきのことのはずなのに、なんだか随分と前のことのように感じるのは何故だろう。
(疲れてるのかな……)
あとで確認しようと思いつつ、ジャケットを脱いでハンガーに掛け、リュックをベッドの上に放り出す。
ガシャン!
「え?」
リュックの中に、こんな音を立てるようなものが入っていただろうか?
訝しげにリュックを取り上げ、ファスナーを開ける。まず転がり出てきたのは、先日買ったばかりのシステム手帳――のはずなのに、なぜか随分と使い古されたような形跡があった。
パラパラと中身をめくると、やはりほとんどのページに何か書き込みがある。明らかに自分の文字なのに、書いた記憶のない――これは、日記だろうか。
(気味が悪いな……)
あとで目を通すことにして、更にリュックの奥を探る。
すると――。
「……ええ?」
リュックの奥から出てきたのは、分厚い本や押し花の栞、綺麗な刺繍の入ったスカーフに小さなオルゴール。ピカピカの木の実や光る小石、それに――。
「トカゲ……?」
まるで炎のように赤い、精巧なトカゲの――フィギュアだろうか? 恐る恐る手に乗せると、それは急にぎょろりと目を動かして、くわっと口を開いた。
「ええっ!?」
驚く晶の目の前で、トカゲが不思議な言葉を紡ぐ。
聞いたことなどないはずなのに、何故か懐かしいような――とても短い、呪文。
次の瞬間、晶の目の前に、重厚な作りの扉が出現した。
「――!!」
ギイィ、と軋んだ音を響かせて、ゆっくりと扉が開いていく。その隙間から溢れ出す、懐かしい夜の匂い。
(ああ……ああ、そうだ!)
蘇る記憶。溢れ出す思い。そして――止めどなく流れ落ちる涙。
(俺は――俺は――!)
「こんばんは、晶」
扉の向こう、夜空を背に佇むその人は、気怠げに微笑んだ。
「……ミスラ……!」
「ちゃんと動きましたね、そのトカゲ」
「これ、ミスラが……?」
「はい。あなたが何かこそこそやっていたので、もしかしたらと思って、あなたの荷物に媒介を仕込んでおきました。そうしたら他の連中も便乗してきて」
(だからこんなに色んなものが入ってたのか……!)
「まあ、そのおかげで気配が辿りやすかったですけどね。それにしても、こんな遠くまで扉を繋げたのは初めてですよ。準備に半年もかかるし、結局は他の魔法使い達の手も借りることになって。ものすごく大変でした」
やれやれと頭を振って、そして当たり前のようにすい、と手を差し出す。
「ほら、さっさと帰りますよ。俺は疲れてるんです。早く寝かせてください」
昨日まで毎日のように聞いていた――もう二度と聞くことはないと思っていた、聞き慣れた台詞。
それでも――晶は素直に頷くことは出来なかった。
「……俺はもう、賢者じゃありません。あなたを眠らせる力も、きっと――」
「〈厄災の傷〉ならもう消えましたよ」
あっけらかんと答えるミスラに、呆然と立ち尽くす。
「消えた――?」
「というよりは、〈大いなる厄災〉自体を浄化しきったので、『賢者の魔法使い』という役目自体が消滅したみたいですね。もう紋章もありません」
「そ、それなら……ミスラはもう、俺がいなくても眠れるじゃないですか」
賢者も、賢者の魔法使いも、もう存在しない。それならば――晶が添い寝する意味も、理由も、永遠に失われてしまったのだ。
(でも、なんでだろう。ちょっと、ほっとしている)
ミスラが〈厄災の傷〉を癒やすため、次の賢者に添い寝をせびることはない。そのことが、少しだけ嬉しい。
「それはそうなんですけど。あなたが隣にいないと、なんだかよく眠れないんですよ」
おかげでこの半年、あんまり寝ていなくて、と欠伸を漏らすミスラの顔には、確かにクマが貼り付いたままだった。
「俺にはあなたが必要なので。あなたもそうでしょう?」
自信に満ちた表情に、思わず笑みを零す。
「……はい! 俺には、ミスラが必要です」
あんなにも希求していた、現実世界への帰還。
それが叶った喜びも、彼らとの思い出が過去のものになっていく不安も。
こうして、時空を超えて迎えに来たミスラの前には、何もかも吹き飛んで。
今はただ、この手を再び取ることが出来る、その喜びだけが、胸を満たしていく。
「この扉、維持するのも大変なので。さっさと帰りましょう」
改めて差し伸べられた手を、迷いなく握り返す。
「はい、ミスラ!」