しんと奇妙なほどに静まり返った、ある日の夜のことだった。
今日のクリスは、一日中単独での撮影の仕事が詰まっていて、帰宅する頃にはすっかり疲れ果ててしまっていた。恋人であり共に暮らしている雨彦は、今日はドラマの打ち上げに参加しているらしい。待っていなくていいから先に寝ていてくれ、という言葉に甘えて、身支度を整えたクリスは早々に一人眠りにつくことにしたわけなのだが。
「……ぅ……んん……」
ベッドに入ってから、どれくらい時間が経っただろう。一向に深い眠りに落ちることができないまま、クリスはごろりと身体の向きを変えた。
寝付きの良さには自信があったはずなのだが、今日はどうにも時間がかかっている。目が冴えているというわけでもなくて、半分は眠っているような、眠れていないような不思議な感覚だ。
それになんだか、妙に身体が重くて、息苦しいような。
いっそ一度起きてしまおうか。雨彦の帰りを待って、それから二人で眠りにつくのも悪くない。
思い立ったクリスは起き上がろうとして、そこで身体がぴくりとも動かなくなっていることに気づいた。
え、という戸惑いの声も、出てこない。先程よりもはっきりと、身体の重さと息苦しさを感じる。身体の感覚はちゃんとあるのに、まるで自分のものではないかのように、ちっとも言うことを聞かなかった。
これは所謂金縛り、というやつだろうか。
金縛りはストレスや疲労を感じている時に起こるものだと、何かで読んだ記憶がある。確かに今日はハードスケジュールだったし、撮影のロケ地も少し変わっていたから、そのせいかもしれない。
冷静に状況を分析してみたところで、どうしたらこの状態から抜け出せるのかはわからないままだ。
どうしたものか、と考えていると、ずる、と何かが身体を這うような感覚がした。何故かそれがひどく不快で、ぞわぞわと鳥肌が立つような感覚がする。
自分の身に何が起こっているのか確かめようにも、目が開かない。動けない。苦しい。
「古論?」
ふと、聞き慣れた小さな声が近くで響いた。クリスの名前を呼ぶその低い声に、少しだけ心が落ち着く。息を呑むような気配がして、きっとクリスの異変を悟ったのだろうということが伝わってきた。
雨彦、と呼ぶ声は出てこない。助けて、と伝えることも、手を伸ばすこともできない。だからクリスは、じっと耐えて待つことしかできない。
不意に、ひやりとした感覚を額に感じた。クリスのよく知る、ほんの少しだけ体温の低い、雨彦の手だ。
それを認識したからか、少しだけ身体が軽くなる。する、と頬を滑るその手は、いつもクリスに優しい。
「古論、大丈夫だ。ゆっくり息をしてごらん」
雨彦に促されるままに、深く息を吸って吐いてみる。先程まで感じていた息苦しさも、軽くなっていることに気づいた。
一つ息をする度に、強張っていた身体の力が抜けて、軽くなっていく感覚。雨彦はそれを手伝うかのように、優しくクリスの頭を撫でている。
それを何度か繰り返していると、ぴくりとも動かなかった目がようやく開いた。
「あ、めひこ……」
霞む視界、暗い部屋の中で、雨彦は穏やかに微笑みながらクリスを見つめている。
「ああ、もう大丈夫だ。このまま眠っちまいな」
その低い声は魔法みたいにクリスを眠りに誘う。ふわふわと暖かくて、幸せな眠気に包まれて、クリスは再びゆっくりと目を閉じた。
「おやすみ、古論」
額に柔らかい感触が降りてくる。それが夢なのか現実なのかは、もうわからなかった。