久しぶりのオフを過ごす昼下り。クリスは自宅のリビングで新種の魚についての論文に目を通していた。恋人であり同居人でもある雨彦はというと、先程一人での仕事を終えて帰宅してきたところだ。
お互いに最近は仕事が忙しく、プライベートの時間が重ならないことも多かった。けれどプロデューサーがスケジュールを調整してくれたおかげで、明日は二人揃って休みだ。後で明日の予定を確認しようと考えていると、雨彦がリビングにやってきた。
「仕事の方はどうでしたか?」
「問題なく終わったぜ。これでやっと一段落だな」
クリスの隣に腰掛けた雨彦は、その長身をソファの背に預けて大きく息を吐き出す。それからクリスの方を一瞥すると、とん、と肩にもたれかかってきた。
「雨彦?」
「……」
雨彦は呼びかけには答えず、静かに目を閉じる。初めてのことではないが、珍しいのは確かだ。
クリスはなるべく体勢を変えないように、手にしていた紙の束を目の前のテーブルに置いてから、雨彦の方を見る。
「雨彦、お疲れですか?」
クリスがそう尋ねると、雨彦はかろうじて聞こえる程度の声量でああ、と答えた。
最近の雨彦は、メインキャストの一人に抜擢されたドラマの仕事が立て込んでいた。ようやくクランクアップしたというのに、打ち上げに番宣にと駆り出されていたのだ。今日はさらに、掃除屋としても一仕事を終えてきたらしい。こうも働き続けていては、疲れが溜まるのも無理はないだろう。
すっかり沈黙して、目を閉じたまま動かない雨彦を見て、クリスは心配そうに眉尻を下げる。
クリスが雨彦のこんな姿を見ることができるようになったのは、つい最近のことだ。それはきっと、雨彦がクリスになら弱い部分を見せても良い、と思うようになったからなのだろう。
人との深い付き合いに慣れていないクリスは、最初こそどうしたら良いのかわからなかった。コーヒーでも淹れましょうか、少し横になりますか、なんてあれこれ尋ねても、雨彦が首を縦に振ることはなくて。見当違いの提案を繰り広げるクリスに雨彦が伝えたのは、ここにいてほしいというささやかなお願いだった。
雨彦は自分の望みをあまり口に出す方ではない。本人曰く、不得手なのだという。
そんな雨彦が、ただクリスが側にいることを望んでいると知って、クリスは喜んだ。だから時折こうして、疲れた身体を休めている雨彦に、静かに寄り添うようになったのだ。
肩に雨彦の体温を感じながら、クリスは自分にもっとできることはないだろうかと考える。身体を休めるのももちろん大切だが、もっと自分の手で雨彦を癒やすことができないだろうか。
思考を巡らせていると、視界の端に映る淡い色の髪にふと気を引かれる。クリスは身体を雨彦の方へ少し向けて、思いつきのままにその頭を撫でてみた。今日はもう何も予定がないのだから、多少髪型が崩れてしまったって問題はないだろう。
「古論?」
クリスの突然の行動に、少し驚いたような目がクリスを見上げた。そんな雨彦に笑みだけを返して、クリスは雨彦の頭を優しく撫で続ける。
しばらく続けていると、戸惑っていた雨彦の表情から、少しずつ力が抜けていった。クリスの手をただ受け入れて、夜明けの色をした瞳が蕩けていく。安心したような顔でクリスにされるがままになっている雨彦はなんだか可愛くて、愛おしいという感情が増すのがわかった。
そのままする、と頬を撫でると、雨彦はクリスの手のひらに僅かに頬をすり寄せる。そんな雨彦の様子にクリスが微笑むと、雨彦ははっとしたような顔をした。
「……悪い、気が抜けすぎたみたいだ」
真っ直ぐに背筋を伸ばして座り直した雨彦は、クリスから顔を背けてしまう。けれどほんのりと染まった耳は隠すことができていない。どうやら照れているらしい。
「私は雨彦に、私の隣ではもっと気を抜いた姿でいてほしいと思っていますよ」
「流石に今のは抜け過ぎだろう」
「そんなことはありません。それに雨彦だって、いつも私を甘やかしてくださるでしょう?」
そう返すと、雨彦はゆっくりとクリスの方へ向き直る。その顔は、まだほんの少し赤い。
クリスのことは平気な顔でたっぷりと甘やかしてくるのに、自分が甘やかされることには慣れていない。そんな雨彦のことを甘やかしたいという感情が、クリスの中で存在を主張する。
「今日は私が、お疲れのあなたを甘やかしたい気分なんです」
ぽん、と軽く自分の太ももを叩くと、雨彦がクリスの太ももと顔を交互に見る。
「来てください、雨彦」
雨彦をじっと見つめながら呼ぶと、雨彦は迷うように視線を泳がせた。ダメ押しとばかりにもう一度名前を呼ぶと、わかったよ、と雨彦は笑う。こういう時のクリスがなかなか引かないことなんて、雨彦にはお見通しなのだ。
雨彦はソファの上に静かに身体を横たえて、クリスの太ももへ頭を乗せる。
「重くはないかい?」
「いいえ、大丈夫ですよ」
再びゆったりとした手つきで頭を撫でると、雨彦は複雑そうな表情でクリスを見上げる。クリスに完全に身を任せて甘えるには、まだ少し抵抗があるらしい。ならば雨彦が自然と受け入れられるようになるまで甘やかすしかない。
頭を撫で、頬を撫で、顎をくすぐる。そんなスキンシップを続けているうちに、すっかりリラックスした表情になった雨彦は、眠たげに目を細める。
「眠ってしまっても良いですよ」
優しく囁くと、雨彦は微かに返事を返した。うとうとし始めた雨彦を眠らせてあげようと、そっと手を離してみると、微睡む瞳がその手の行き先を追いかける。雨彦は離れていくクリスの手をやんわりと掴むと、くい、と自分に引き寄せた。
「雨彦?」
「……もう少し、続けてくれ」
「……はい、もちろんです」
少したどたどしいその声は、無意識のものだろうか。再び頭を撫でてみると、雨彦はゆっくりと目を閉じる。それから程なくして、雨彦は夢の世界に旅立ったようだった。
「おやすみなさい、雨彦」
身を屈めたクリスは、雨彦の額にそっとキスを落とす。クリスはもうしばらく雨彦の頭を撫でながら、その穏やかな寝顔を眺めることにした。