「なんか、ちょっと緊張するかもー」
駅を出て歩き始めること約5分。スマートフォン上に表示した地図では、目的地まであと4分と出ている。
そわそわと気分が落ち着かない想楽は、手にした紙袋の中をちらりと覗き見た。
想楽は今日、雨彦とクリスが暮らすマンションを訪れる約束をしていた。
恋仲である二人が共に暮らすべく引っ越したのは一ヶ月ほど前。ようやく荷解きや家具の搬入などが落ち着いたと聞いたのが先週のことだ。
クリスが想楽を一番に招きたいのだと言い、雨彦もそれに賛同した。そんな二人の誘いに、想楽は少し照れくささを感じながらも頷いて、オフである今日二人の部屋を訪れることになったのだ。
思い返すと、こうして二人が恋仲になり、共に暮らすようになるまでには、いろいろなことがあった。
本心が素直に言動に現れやすいクリスが、雨彦を意識するようになったことに、想楽は早々に気づいてしまった。そして本心を隠すのが上手い雨彦のことだって、ずっと側で見ていればある程度わかってしまうものだ。
そんな二人を見守る想楽は、時にクリスの相談に乗り、時に雨彦をせっついてみせた。
二人は想楽よりもずっと大人だ。だからこそいろいろなことを考えて、二人の関係はなかなか進展しない。それが想楽にはもどかしくて、できるだけ早く、二人が何にも縛られず結ばれる日が来てほしいと願っていた。
だから、二人がついに恋人同士になったのだと聞いた時には、素直に良かった、という言葉が口をついて出たのをハッキリと覚えている。まるで自分のことみたいに嬉しくて、少しだけ目の奥が熱くなるような感覚がしたことは、二人には話していない。
想楽にとっても、雨彦とクリスは大切な存在だ。もちろん想楽の想いは、雨彦とクリスが互いに向けるものとは形が違うけれど。
だから二人には、幸せになってほしいと思う。二人にもそう告げた。
ただ、二人の関係にほんの少しだけ、寂しさのようなものを感じるのも事実だった。
マンションまでの道のりは、思っていた以上にあっという間だった。エントランスで一つ深呼吸した想楽は、事前に聞いていた部屋番号を操作盤に入力する。
『想楽!お待ちしていました』
カメラ越しにこちらの姿が見えたのだろう。想楽が名乗る前に、聞き慣れた声が操作盤を通じてエントランスに響く。その声を聞いただけで、ふっと力が抜けるようにさっきまでの緊張がどこかに飛んでいってしまうのだから、不思議なものだ。
すぐにオートロックが解除されて、想楽はエレベーターで二人の部屋がある階へ向かった。
「想楽、ようこそ」
インターフォンを押すとパタパタという音と共にすぐにドアが開き、明るい表情をしたクリスが出迎えてくれる。
「さあ入ってください」
「お邪魔しますー。クリスさん、これどうぞ。引っ越し祝いだよー」
「おや、気を遣わせてしまいましたね。ありがとうございます、想楽」
手にしていた紙袋をクリスに手渡すと、クリスは少しだけ申し訳なさそうに、それでいて嬉しそうに笑った。
「コーヒーですか?」
「二人ともよく飲むでしょー?」
散々悩んだ末に想楽が選んだのは、何の変哲もないコーヒーギフトだ。引っ越し祝いといえば食器や日用品なんかも定番のようだが、そこは二人にもこだわりがあるだろうと考えてやめた。
「ええ、夕食の後によく淹れるんですよ。ありがたくいただきますね。さあ想楽、座ってください」
クリスに案内されるままリビングに足を運ぶと、ダイニングチェアに腰掛けた雨彦がこちらを見てくる。
「雨彦、想楽が来ましたよ」
「ああ、よく来たな」
クリスの言葉に答え、想楽を迎えた雨彦は、すっかり家に馴染んだ様子だ。
想楽が雨彦の向かいの席に腰掛けると、クリスはキッチンの方へ姿を消した。
「……何か、新居って感じだねー」
改めて部屋を見渡すと、新品の家具と物の少なさが相まって、まだあまり生活感は感じられない。綺麗好きの雨彦が暮らしている以上、この綺麗さは今後も保たれていきそうだが、これから少しずつこの部屋は、二人の生活に色づいていくのだろう。
これが二人がやっと手にした生活なのだと思うと、想楽はつい感慨深くなってしまう。
「随分と嬉しそうな顔だな」
「まあ、ここまで来るのに僕も苦労したからねー」
想楽がにやりと笑ってそう返すと、雨彦はそうだな、と穏やかに笑った。
クリスとの関係を巡って、雨彦の核心に踏み込むようなやりとりをしたのも一度や二度ではない。だが、今となっては少し懐かしさすら感じるそれらを、わざわざ言葉にして蒸し返す必要はなかった。
雨彦と雑談を交わしていると、程なくしてマグカップを両手に持ったクリスがキッチンから戻ってくる。
「想楽はミルクと砂糖が必要ですよね?」
「うん、ありがとうー」
差し出されたマグカップを受け取ると、マグカップにはシンプルな色使いのペンギンのイラストがプリントされていた。
よく見れば、雨彦の隣に座ったクリスの手にはクジラのイラストが描かれたマグカップ。そして既に雨彦の前に置かれているマグカップには、キツネのイラストが描かれている。どのイラストもテイストが同じで、同じ店で購入されたものであることは明らかだった。
クリスは時折、想楽のことをペンギンに例えることがある。それを考えると、このマグカップは。
「クリスさん、このマグカップもしかして……」
「ええ、想楽用に購入したものです!実は、食器も三組用意してあるんですよ」
想楽が尋ねきる前に、クリスはにこやかにそう答えた。
「これからは、想楽がこの家に来てくれることも、きっとたくさんあるんじゃないかと思いまして」
「えっ、そ、そうなるのかなー?」
思いもよらないクリスの言葉に、想楽は戸惑ってしまう。
元々想楽は頻繁に友人宅に入り浸るようなタイプではない。ましてや恋人同士仲睦まじく暮らす家に何度も押しかけるなど、想像したこともなかった。
どう考えても邪魔になってしまうだろうと思うのに、クリスはそんなことは微塵も考えていない様子だ。
「古論、いきなりすぎて北村が驚いてるぜ?」
想楽の混乱を見抜いたのか、見かねた雨彦が苦笑しながら助け舟を出してくれた。雨彦の言葉に、クリスははっとしたように想楽の様子を伺ってくる。
「す、すみません想楽……迷惑でしたか?」
「ううん、そんなことないし嬉しいけどー。でも、僕があんまりここに来たら、二人の邪魔になっちゃうでしょー?」
二人と過ごす時間は想楽にとっても特別だ。きっとこの家で三人で過ごす時間は楽しいものになるのだろう。
だがそれと二人の時間を邪魔してしまうのは別だ。仕事中だって、外でだって二人には会える。だから想楽がわざわざこの家で二人の時間に入り込む必要はないはずだ。
だが想楽の言葉を受けたクリスは、まさか!と驚いたように声を上げた。
「想楽が邪魔になるだなんて、考えたこともありません。想楽だって私にとっては大切な、家族のような存在です。確かにここは雨彦と二人で暮らす家ですが、想楽にだって我が家のように過ごしてほしいんです」
「まあそういうことだ、北村」
言葉少ない雨彦もクリスと同意見だというのは、表情を見ていればわかる。
これではまるで、最初からこの家に想楽の居場所も用意されていたかのようだ。
「想楽は私に、幸せになってほしいと言ってくれましたよね?」
「うん、そうだねー」
雨彦と無事想いを通わせたのだと聞いた時、想楽は確かにクリスにそう告げた。二人が幸せなら想楽も嬉しいと、心から思う。
「私の……いえ、私と雨彦の幸せには、貴方の存在も必要なんですよ、想楽」
まだ少し戸惑っている想楽に、クリスはそう言って柔らかく微笑んだ。雨彦も想楽を真っ直ぐに見て頷いてくる。
「クリスさん……雨彦さん……」
想楽は二人の顔を交互に見た。照れくささと、それを上回る嬉しさが押し寄せてきて、どうしたらいいかわからない。
この家に来るまでに抱いていたほんの少しの寂しさも、どこかへ消えてなくなってしまった。
二人の幸せを外から見守っていたはずの想楽は、本当はずっと二人の幸せの内側にいたのだと初めて気づく。
「……二人とも、ありがとうー」
いっぱいいっぱいの今の想楽には、それだけ伝えるので精一杯だった。