おやすみ、また明日 窓の外は、静かな夜だった。
薄暗い部屋の中に、すうすうと小さな寝息だけが響いている。隣でぐっすりと眠る恋人の頬をそっと撫でて、雨彦は柔らかく微笑んだ。
久しぶりのオフを明日に控えた雨彦は、無事に一日の仕事を終えて夕食をとると、クリスを自宅に連れ帰ってきた。
クリスと恋人という関係に収まってから、それなりに時間が経つ。プライベートな空間にクリスがいることも、そこでクリスと肌を合わせることも、自分のベッドでクリスが眠っていることも、今ではすっかり日常の一部になってしまった。
日頃どこまでも海に夢中なクリスは、自分の色恋よりも魚たちの繁殖行動に興味を示すような男だった。だから雨彦とこういう関係にならなければ、クリスは当面こんな風に過ごす夜を知らないままだったのかもしれない。
そんなクリスが雨彦を求めて、健気に雨彦の欲望を受け入れてくれることに、雨彦は言い知れない喜びを感じていた。
大切にしたい。傷つけたくない。そのままでいてほしい。
そんな理性が訴える感情とは裏腹に、この純粋で美しい男を思うまま暴いてしまいたい、染め上げてしまいたい、なんて凶悪な感情が、僅かに芽生えてしまうくらいに。
想楽には知られたくないものだ、と雨彦は内心苦笑する。可愛い最年少は二人の関係を知ってはいるが、彼はなんだかんだでクリスに甘い。雨彦がクリスにこんなにも邪な感情を抱いているなんて知られてしまえば、じっとりと非難の目で見られることは想像がつく。
そんなことを考えながらクリスの長い髪を梳いていると、クリスが小さく声を上げた。
「あめひこ……?」
「起こしちまったかい?」
たどたどしく雨彦の名を呼ぶその声は、少し掠れている。先程まで散々鳴かされていたのだから、無理もないだろう。
眠たげに目を開いたクリスは、雨彦を視界に捉えると、ふわりと穏やかに微笑んだ。
「眠れないのですか?」
「いや、お前さんを眺めるのに夢中になっちまっただけさ」
顔を寄せて頬に口づけると、クリスはくすぐったそうに笑う。
「お前さんがこうして俺の隣で眠っているのが嬉しくてね」
「ふふ、そろそろ見慣れても良い頃なのでは?」
「そんな日は来ないかもしれないな」
軽口を叩きながら、雨彦はクリスとベッドの中で戯れる。長身の男二人で並んで眠るには、雨彦のベッドはやや手狭だ。ぴたりと寄り添っている分、触れあった素肌からクリスの体温が伝わってくる。
ひどく暑がりの雨彦も、このぬくもりだけは手放したくなかった。
「雨彦」
「うん?」
「明日はどう過ごしましょうか」
そうクリスに問われて、雨彦は目を瞬かせた。そこで初めて、明日の話ができていなかったことに気づく。
クリスを連れ帰ってきて早々に、寝室になだれ込んでしまったのだ。我ながらがっつきすぎだ、とらしくもない自分の行動に呆れてしまう。
「お前さん、どこか行きたいところはあるのかい?」
「実は、期間限定の深海生物の展示を行っている水族館があるんです。ラブカの標本に触る体験もできるようで」
そう話すクリスは、うずうずと好奇心が抑えきれない様子だ。わかりやすいその表情を曇らせるような真似を、雨彦がするはずもない。
「ラブカか……前に三人でポーズをとって撮影したな」
「はい!あの、それでぜひ、その水族館に雨彦と行ってみたくて」
「ああ、一緒に行こうか」
一瞬たりとも迷うことなく頷いてやると、クリスの表情がぱっと嬉しそうに綻んだ。
クリスが雨彦と共に過ごしたいと望んでくれるだけで、雨彦にとっては十分だ。海だろうが水族館だろうが、クリスが望むところに連れて行ってやりたい。
そうしてクリスが隣で喜んでくれることが、雨彦にとっても何よりも嬉しいのだ。
「それから」
続きがある、というように口を開いたクリスは、じっと雨彦を見上げる。ほんの少し恥ずかしそうなその表情は、雨彦だけが知っているものだ。
「それから……水族館の後は、またこうして二人で過ごしたい、です」
「ああ、もちろん」
こういうお誘いにはまだまだ慣れない様子のクリスが、可愛くて仕方がない。そして、クリスの中に海以外の選択肢として、雨彦と二人で過ごす時間が存在していることも、雨彦を喜ばせた。
「ふふ、明日は雨彦のことを独り占めですね」
上機嫌なクリスは雨彦にきゅっと抱きついて、胸元に頬を擦り寄せてくる。そんなクリスの頭を撫でてやると、再び睡魔が帰って来たのか、クリスはとろんと目を細めた。
「それじゃあ、明日のためにも今夜はしっかり眠らないとだな」
「そうですね……」
背中を優しくとんとんとしてやると、クリスはうつらうつらと船を漕ぎ始める。そんなクリスを見守りながら、雨彦は耳元で囁く。
「おやすみ、古論」
「おやすみ、なさい、雨彦……」
ゆっくりと目を閉じたクリスは、程なくして再び夢の世界に旅立ったようだ。雨彦は安らかな表情で眠るクリスの額に、口づけを落とす。
「また明日な」
腕の中にそっとクリスを引き寄せて、雨彦も静かに目を瞑った。クリスと共に迎え、過ごすことができる明日が、既に待ち遠しい。
満ち足りたような心地がして、今夜はよく眠れそうな気がした。