酒の肴「ふふ、あめひこ」
ふにゃり、という効果音がつきそうな笑顔で、クリスが雨彦のことを見つめている。ほんのりと頬を染めた恋人を前にして、雨彦はこんなになるまで酒を飲ませたのは誰だ、と先程目にした事務所の仲間の顔を思い浮かべた。
一人仕事の打ち上げに参加していた雨彦は、帰路につこうと店を出たところで、みのりから連絡が入っていることに気づいた。曰く、話が盛り上がるあまり、ついクリスに飲ませすぎてしまったのだとか。
事務所の一部のメンバーで集まり飲んでいたのだという居酒屋は、幸いにもそう遠くない場所だった。雨彦が居酒屋にたどり着いたのが一時間ほど前。クリスを無事に回収したものの、埼玉まで帰すには時間が遅いとアヤカシ清掃社に連れ帰ったのが十五分ほど前のことだ。
雨彦の自室のソファに座るクリスは、帰り道にコンビニで買ってきた水を少し飲むと、ご機嫌な様子で雨彦の名前を呼んだ。
「呼んだかい、古論?」
「はい」
近寄ってみると、クリスはぽんぽん、と自分の隣に座るよう手で促してくる。
クリスの酒癖は悪い方ではない。どちらかというと気分が良くなってしまうタイプのようで、ニコニコしながら話している姿を雨彦もよく見ている。今日もみのりたちと楽しく過ごしたのだろう。
時刻はそろそろ日付が変わろうという頃合いだが、もう少しくらい恋人に付き合ってやるのも悪くない。呼ばれるままに雨彦はクリスの隣に腰を下ろす。
「あめひこ、雨彦」
「うん?」
少し舌足らずな声が雨彦を呼ぶ。今すぐに何か伝えたくて仕方がない、というクリスの様子は、海スイッチが入った時と似ていた。
今夜はどんな海洋生物が飛び出すだろうか。クリスの海トークにもすっかり慣れてしまった雨彦は、おとなしく続きを待つ。
「私は、雨彦のことを可愛いと思っていますよ」
「……は」
思いもよらないクリスの言葉に、雨彦は目を瞬かせた。雨彦の動揺に気づいていないのか、クリスは少し前のめりに話を続ける。
「特に二人きりの時の雨彦は、例えるとしたらツバメウオのようで」
「ツバメウオ」
クリスと過ごすうちにかなり海の知識が増えたはずの雨彦でも、今回の例えはなんとなくしかわからなかった。それでもこれがクリスなりの賛辞であることはわかる。
「そのツバメウオってのも、可愛い、のかい?」
「はい!懐っこく愛らしいところがそっくりなんです」
元気にそう答えたクリスは、いつになく良い笑顔をしていた。クリスは日頃から思ったことをストレートに言葉に出してくるタイプではあるが、こうも可愛いという言葉が向けられることはあまりない。
そもそもこれまで生きてきて、可愛いと評されること自体がそうなかったのだ。慣れていない雨彦は、だんだん照れくさくなってくる。
「可愛い、可愛いです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、古論」
よしよし、と満足そうに雨彦の頭を撫でているクリスは、やんわりとした制止では止まらないだろう。こんなにご機嫌なのだから好きなようにさせてやりたい、という思いと恥ずかしさが、雨彦の中で熾烈な争いを繰り広げる。体温がどんどん上がっているような感覚がするのは、酒のせいではないだろう。
「ふふ、アコウダイのようになってしまいましたね」
「お前さん……」
今度の例えは、雨彦も理解することができた。自分がどんな状態かなんて、火を見るよりも明らかなのだ。
どこか愛おしそうに目を細めたクリスは、ゆったりとした動きで雨彦に抱きつくと、ぽすりと胸元に顔を埋める。
「だいすきです、雨彦」
ぽつりと呟いたクリスは、それからぱったりと口を閉ざしてしまった。
「古論?」
身体に加わる重みが少し増す。小さな寝息が聞こえてきて、クリスが眠ってしまったことを察した。
「……お前さんには驚かされてばかりだな」
やれやれと苦笑した雨彦は、そっとクリスの頭を撫でる。
クリスの様子から、飲み会で盛り上がったという話題も察することができてしまった。雨彦が普段煙に巻いてばかりだから、みのり辺りが雨彦が参加できないタイミングでクリスを狙ったのかもしれない。
「……俺の方が、お前さんのことが可愛くて仕方がないんだがな」
けれどどんなに聞かれたって、雨彦はクリスの可愛いところを教えるなんてできそうにない。だってそれは、雨彦だけが知っていれば良い、雨彦だけが知っていたいことなのだ。
少し身じろぎをしたことで見えるようになったクリスの表情は、安らかで幸せそうだ。
今夜のことを、明日のクリスは覚えているだろうか。明日のクリスがどんな反応をするかを想像して、自然と笑みが浮かんだ。
ともあれ、今夜はゆっくりと休ませてやりたい。クリスを起こしてしまわないように優しく抱き上げた雨彦は、静かに部屋を後にした。