「……こんなところか」
愛用の掃除道具を手に、雨彦はふう、と息を吐いた。
新年を間近に控えた年内最後のオフ。雨彦は自宅の掃除に精を出していた。
今年の汚れは今年のうちに。掃除屋の性分に従い、朝から掃除を始めた雨彦に、共に暮らす恋人であるクリスも参戦した。
二人がかりの掃除によって、部屋の中はみるみるうちに綺麗になっていく。ある程度のところで一度昼食にして、午後も続きに取り掛かる。水回り以外が一段落したところで、残りは雨彦が引き受けることにした。掃除の難所は、雨彦の腕の見せ所なのだ。
そんなこんなで熱中することさらに一時間ほど。水回りの掃除を終えた雨彦は、ようやく満足したのだった。
そんなことをしていると、一日なんてあっという間だ。少し気が早いかもしれないが、夕食のことが気になり始める。
まずはクリスに声を掛けようと、雨彦はリビングへと足を運んだ。
「古論」
ソファに座る後ろ姿を見つけて、雨彦はクリスの名前を呼ぶ。けれどクリスは呼びかけに答えない。
「古論?」
やはりクリスからの返答はなかった。回り込んで様子を伺うと、ソファの背にくたりともたれかかり、静かに目を閉じている。すうすうと小さな寝息が聞こえてきて、どうやら夢の世界を冒険中らしいことに気づいた。
膝の上には海洋学の論文と思しき書類が置かれている。おそらくは論文を読んでいたものの、部屋の暖かさに眠気を誘われてしまった、といったところだろうか。
先程まで換気によってひんやりとしていたリビングが、雨彦が掃除に夢中になっている間に暖かさを取り戻したことに気づく。
雨彦と同じくらい大掃除に張り切っていたクリスは、朝早くから随分と頑張っていた。程よい疲労と暖かな部屋には、海への好奇心も敵わなかったらしい。
「古論」
もう一度呼びかけてみても、クリスからの返事はない。気持ち良さそうに寝ているのだから、このままもう少し寝かせてやろうと考え直した。
雨彦はクリスを起こしてしまわないように、静かに論文をテーブルへと移動させて、空いた膝にブランケットを掛ける。それから隣に腰掛けて、顔に掛かる髪をそっと避けてやった。そのまま優しく頬を撫でると、クリスの口元がゆっくりと笑みの形を作る。
リラックスした状態のクリスは、すっかり緩みきった表情をしている。それなのに窓から差し込む夕陽に包まれて眠るその姿も、ひどく絵になってしまうのだから末恐ろしい。
出会ってから長いこと共に過ごしているはずなのに、雨彦は未だにそんなクリスに目を奪われてしまう。このままずっと眺めていたって、飽きることなんてないのだろう。来年も、再来年も、その先もきっと。
けれど海のこととなるとよく回るその口が閉ざされていると、なんだか部屋が静かに思えてしまう。
目を覚ましたクリスが、いつものように自分の名前を呼んで、海の話を聞かせてくれるのが待ち遠しい。そんなことを考えながら、雨彦は眠るクリスを静かに見守った。
ー
「……彦、雨彦」
呼びかける声が聞こえて、雨彦はゆっくりと目を開いた。ぼんやりとした視界に、雨彦の顔を覗き込むクリスが映る。
「……っと、俺も眠っちまったみたいだな」
「ふふ、おはようございます、雨彦」
外を見ると、日が沈みかけている。クリスの方はすっかり目が覚めたようで、すっきりとした表情だ。
「論文を読んでいる間に眠ってしまったようですね」
「ああ、気持ち良さそうに寝ていたから、起こすのも悪いと思ってな。良い夢は見られたかい?」
「ええ、新種のヒトデを発見する夢だったのですが、もう少しでその生態を解明できる、というところで目が覚めてしまいました」
読んでいた論文のせいでしょうか、とクリスはテーブルに置かれた論文を見て微笑む。けれど次の瞬間には、夢が終わってしまったこと惜しむような、がっかりした表情に変わってしまった。
そんなクリスの笑顔を取り戻す方法を、雨彦は熟知している。
「ヒトデの新種が見つかったってのは、実際にあった話なのかい?」
「はい!スナヒトデ属の新種が約百年ぶりに日本で発見されたようなのです。スナヒトデ属というのは世界各地で見ることができるヒトデの一種なのですが……」
ヒトデの解説が始まった瞬間、クリスの表情がぱっと明るくなり、声もワントーン高くなる。いつも通りのそれが、何だかとても愛おしい。
徐にクリスを引き寄せて、至近距離で目を合わせる。少し驚いた顔をしたクリスは、そのまま見つめているとじわじわと頬を染めていった。よく回っていたはずの口はいつの間にか閉ざされて、じっと雨彦を見上げている。
戸惑うクリスの口が開かれる前に、触れるだけのキスをすると、クリスの身体がぴくりと揺れた。
「雨彦……?」
「いやなに、お前さんはそうしているのが一番だと思ってね」
雨彦の言葉に、クリスは不思議そうな顔をする。クリスが真っ直ぐ自由に海を愛している姿を、雨彦がどれだけ眩しく、愛おしく思っているかなんて、きっとクリスは気づいていないのだろう。
「だから古論、来年も俺の隣で海の話を聞かせてくれ」
「……はい。来年もよろしくお願いしますね、雨彦」
嬉しそうに微笑むクリスが、今は自分だけを見つめていることに喜びを感じる。これだけは、誰にだって譲ってやることはできない。
このままずっと独り占めさせてほしい、なんて。そんな雨彦の胸の内は、クリスには内緒の話だ。