「撮影の後に少し時間があったので、海に行ってきたのです」
静かな昼下り。人の少ない事務所の隅っこで、クリスは雨彦と二人、テーブルを挟んで向かい合っている。
大学で学業に勤しむ想楽を待つ、二人だけの時間。今日の話題は、クリスが昨日まで一人で行っていた、地方ロケの土産話だ。
ふと顔を上げると、穏やかな瞳と目が合う。視線が絡み合うのが、なんだか少し照れくさい。
だからクリスはそれを誤魔化すように、手にしたスマートフォンに目を落とす。小さな端末に収められた広大な海の写真を探し出して、目の前の特別な人へと差し出した。
「特に夕暮れ時は一段と美しかったので、雨彦にも見ていただきたくて」
「確かに、綺麗なもんだな」
画面を覗き込むその目が、ふ、と細められる。そんな些細な反応の一つ一つを、クリスはひっそりと伺っている。
海のこととなると、つい熱が入り話しすぎてしまうのは、クリスの悪い癖だ。この人も海を愛する同志になってくれるのでは、なんて勝手な期待をして、失敗した経験が数え切れないほどある。
幼い頃からずっと、そんなことを繰り返していた。だから目の前でクリスの話を聞いている相手の反応が、好意的かそうでないかなんて、ちゃんと意識を向けてみれば自然とわかってしまう。
話し続けるクリスを見る目、向けられる声音、ちょっとした仕草や表情。どれだけこちらに気を遣ってくれていたとしても、その全てを完璧に取り繕うことができる人なんてそういない。
けれど雨彦はいつだってクリスの話を聞いて、受け止めてくれる。時折興味深そうに瞬く瞳や、ふと綻ぶ表情を見るのが嬉しくて、そこに嫌悪の感情がないことに安堵した。
だからクリスはつい、雨彦に対しては話しすぎてしまう。その反面、この人が離れていってほしくない、とも考えてしまうのだ。
クリスの不安をよそに、雨彦はいつも穏やかにクリスの話を聞いてくれた。さらにはクリスが楽しそうに話している姿を見ているのが好きだ、なんて言うのだ。そう話す雨彦があんまり眩しそうに笑うものだから、なんだか胸が苦しくなってしまったのを覚えている。
きっと今のクリスは、海の話がしたいというだけではなくて、雨彦と話をしていたい。この時間ができるだけ長く続いてほしいと思っている。それはクリスの中に初めて芽生えた、特別な感情だ。
夜明けの色をした瞳が、クリスを見つめる。柔らかな笑みが浮かんで、とくりと心臓が跳ねた。この『好き』は、やはり海へ向けるものとは形が違う。
「古論?どうかしたのかい?」
考え込んでいる間に、よく回っていたはずの口は動きを止めてしまっていたようだ。不思議そうな顔をする雨彦に小さく首を振って、クリスは再び口を開く。
「あの、雨彦」
「うん?」
「今日は、あなたの話が聞きたいです」
そう告げると、雨彦は少し驚いたように目を瞬かせた。
「海はもういいのかい?」
「はい。今日は語るよりも、知りたい気分なのです」
自分の好きな相手のことを、とは言えなかった。けれど雨彦は何か察したように小さく笑って、わかったと頷く。
「そうだな、それじゃあ何から話そうか」
落ち着いた低い声が、クリスが不在の間の出来事を紡ぎ始める。その表情はどこか楽しげで、自然と視線が惹きつけられた。
クリスの感情を表すように、とくとくと鼓動が存在を主張している。それをどこか心地よく感じながら、クリスは静かに雨彦の話に耳を傾けた。