文學少年の恋毎年中学校の卒業式に、桜は間に合わない。
生徒会室から見える桜並木を見ながら、鶴丸は書類を整えた。
「桜、今日が満開だな」
校庭の向こうは一面の薄紅色だ。帰りはあの桜並木を通ろうと、密かに決めた。
「入学式までには散ってしまうのだから、何とも勿体ないことだなぁ」
隣で三日月がのんびりとした調子で言う。
「とはいえ、桜はやっぱり気持ちを奮い立たせてくれるよな」
「ふむ。言いたいことはなんとなくわかるぞ」
先週、俺たちは中学を卒業した。
と言っても中高一貫校だから、泣いているのは保護者ばかりで生徒には大した感慨も生まれなかった。
俺にしろ三日月にしろ、校長の話がちょっと面白かったくらいで、特に涙ぐむようなこともなかった。親しい友人もみな内部進学組だ。
「鶴や。この書類は必要かのぅ」
春休みだってのに俺がこんなところで作業しているのは、生徒会長だった三日月のせいだ。書類整理が終わらないと泣きつかれ、文化部長だった俺まで登校して片付けている。毎年のクラス替えにもかかわらず、3年間同じだった三日月とは、いわゆる腐れ縁だ。
「そんなもん自分で考えろ、って。きみ、これ入学式の挨拶文の草案だろ!!」
「あなや」
「ごまかしたって駄目だぞ!光坊が引き継いで困るだろ」
次年度の生徒会を率いるのは、燭台切光忠という伊達男だ。街を歩けば10人が10人振り向くような顔面兵器ぶりだが、その実、人懐こくて大型犬のようで、憎めない一面もある。
「随分と燭台切には甘いことよの」
三日月の言葉に僅かな棘を感じる。鷹揚なこの男には珍しいことだ。
「そうかい?なにせ付き合いが長いもんでね」
燭台切光忠ー光坊は家が近所で、俺の小学校からの付き合いだ。そういえば幼馴染だと言ったら三日月が酷く驚いていたな。
「俺には厳しいのに」
完全に拗ねた口調の三日月に、半ば呆れてしまう。
「いや、きみな。それはきみが悪いだろ。きみに付き合う俺の身にもなってくれ」
「うむ。早く終わらせて花見がしたいなぁ」
にこり、と微笑む三日月に、焦る様子は全くない。
結局三日月が溜めこんだ書類の山が新たに見つかり、帰りは夜桜になってしまった。もちろんこっぴどく叱った。
「すまなかったなぁ。遅くまで」
「きみ、次はないと思えよ」
「それは困るなぁ」
俺の文句にも三日月はどこ吹く風だ。我ながら趣味が悪い。
この捉えようもない人物に、俺は恋をしている。気づいたのは去年の今頃だ。同じように桜並木を歩く道すがら、この男が好きだと気づいてしまった。
「そういえば。研究、進んでおるのか?」
唐突な話題に反応が遅れる。
「あ?あぁ。誰かさんのせいで、最近は全く進んでないさ」
高校卒業の論文にと、俺は少し前から近代の文豪研究を始めた。文学が好きだったわけではないが、先人たちが心の内をどう言葉にするのかに興味が湧いた。
「やっぱりここからが絶景だな」
桜並木の坂を下りきった歩道で立ち止まる。ここから見上げると桜と夜空を一望できる。今夜は半月だ。
「星が綺麗だな」
「月ではないのか?下弦も過ぎたとはいえ、綺麗な月だぞ?」
「きみにはわからんさ」
月がなんて、口にはできない。手が届かないのは星も同じだ。
桜は間に合わない。卒業式で告白するか、迷った俺の気持ちは宙ぶらりんだ。
「知ってるぞ。文学少年が己ばかりだと思わんことだな」
立ち止まって空を見上げたままの俺に、三日月が笑う。
「月が綺麗だな、鶴」
「………っ!」
漱石は本当にそんな風に訳したのか。今となっては確かめようもない。
でもーー
「して答えは?」
してやったり、と言わんばかりの表情の男から、悔しくて目を逸らす。
そういうところが狡いんだ。
ザァァッと一陣の風が吹き、周囲の花弁を散らしていく。
「死んでもいいわ…」
呟いた言葉は、桜吹雪の並木道に吸い込まれた。