玄真殿の手合わせヒュン、と空気を切り裂く音がする。
剣先が掠ってすらいないと言うのに、空気の震えを肌で感じた瞬間、対峙する黒衣の神官は真っ青になった。
木剣を振り抜いた玄真将軍の様子に変化は無く、きっと、いつもの冷淡と言われる表情を浮かべている事だろう。
玄真将軍は、その両の目を幅の広い黒い布で覆っていた。
相手の動きが止まった事に気付き、玄真将軍が口を開く。
「構えを解くな。まだ決着していないだろう」
勝負の最中とは思えぬ、淡々とした物言いだった。
決着など、あって無いような物だろうと神官は思った。
周囲には、既に玄真将軍の“軽い”一撃により、意識を飛ばされた仲間が九人程転がっている。
果敢に挑んでは吹き飛ばされる様を、ただ見ている事しか出来なかった。
玄真将軍の間合いに入る事も出来ないのだ。いや、それ以前に、剣筋を見切る事すら出来ない。
自分とて、次に将軍が踏み込んで来たら、呆気なく同じ末路を辿るだろう。
「ま、参りました」
次の一手が放たれようとする気配に、思わず降参する言葉がこぼれた。玄真将軍は嘲るように笑う。
「武神ともあろう者がそう簡単に退くな。だから“玄真殿の神官は前線には出れない腰抜けばかり”だと噂されるんだ」
猪突猛進、考え無しに前線へ突っ込む南陽殿と対比になっている嫌味なのが更に腹立たしい。
が、まぁ、避ける反射速度だけは一流だったな、と褒めているのか貶しているのか分からない一言を投げ、玄真将軍はあっさりと神官の降参を受け入れた。
木剣を担ぎ、号令を飛ばす。
「次の奴ら、出てこい」
「は、はい!」
降参し、撃沈した神官達が隅に運ばれるのと入れ違いに、観客に徹していた黒衣の神官が十人、飛び出してくる。
修練場の周囲には玄真殿の神官達がこぞって集っており、既に玄真将軍に挑み、返り討ちにされた神官達があちらこちらに転がっていた。
十人の配下の神官に取り囲まれ、玄真将軍は木剣を構えもせずに言った。
「来い」
「はい!!」
十人がそれぞれ木剣を構え、地を蹴った。
その瞬間、ふわりと玄真将軍の長袍が舞う。
一閃した木剣が十の切先を跳ね除け、そして黒衣の半数が倒れた。
手応えの多さに、玄真将軍の眉が寄る。
「おい、馬鹿しかいないのか?突っ込むだけじゃ無く、少しは頭を使え」
と言われても、とっくにあらゆる手段を試している。波状攻撃をしようが、何とか隙を作ろうと画策しようが、玄真将軍が全てを瞬殺するのだ。
一応、すごくかなり丁寧なまでに手加減して下さっているのは分かる。
目隠しをしているし、先ほどから片手しか使っていない。
だが、神官達は皆心から叫びたかった。
無理です!!!、と。
理不尽かつ圧倒的に次々と部下を吹き飛ばしていく玄真将軍だが、行われているのはただの訓練である。
玄真殿は上天庭でも筆頭の、有能と言われる武神の一団だ。
後方支援が多い、後始末が得意だなど口ばかりの神官共は何かと陰口を叩くが、安定して成果を上げているのは紛れも無い事実である。
そんな玄真殿を束ねる玄真将軍こと慕情は、色白で細身の、文官のような風体をしている。
同じ武神の南陽将軍と比べると冷淡で物静かな印象が強いせいで、戦闘が不得手なのではと舐められる事もあった。
しかし、玄真殿の統率力は、上天庭において極めて高い。
その理由の一つが、不定期に行われる将軍とその下官の戦闘訓練である。
早い話が、将軍がその実力でもって配下を全て叩きのめし、実力差を見せ付けると言うパフォーマンスだ。
武神と言う存在は単純で、圧倒的な力を前にすると畏怖や憧れ、尊敬を感じるモノなのだ。
玄真将軍はその見た目こそ文官のようだが、身の丈程もある斬馬刀を自在に操るごりごりの武神である。
斬馬刀の半分も無い木剣を持ち、更に目隠しで視覚を封じ、一対十での戦闘と言うハンデを課されても、玄真殿の神官達の剣先は掠りもしなかった。
玄真将軍の格の違いを骨の髄まで味わった神官達は、格の差をその魂に刻み直されるのだ。
玄真将軍も実は大概脳筋だな、などと、口が裂けても言えないが。
またスパパパパーンッッと気持ちの良い音が響き、黒衣の神官達が吹き飛ばされる。
「せめて一人くらい、斬り結んでみせろ」
玄真将軍は木剣を担ぎ、やれやれと首を振って見せた。
連続して百もの神官を相手にしたと言うのに、疲れた様子は微塵も無い。
「クソッ…………無理だろ」
誰とも無く、思わずボヤいた。
玄真将軍は次の犠牲者………もとい挑戦者の一団が来るのを待っている。
では散らされて来るかと、次の神官達が踏み出した、その時。
神官の肩を、厚い手の平がそっと叩いた。
気配など微塵も感じなかった。
振り返った神官達の目が、驚愕に見開かれる。
手の主は口元に人差し指を当てると、神官の手から木剣を取り上げた。
気配を消したまま、その人は木剣を携え悠々と進み出る。
狙いに気付き、神官達は声を殺したまま興奮に目の色を変え、顔を見合わせた。
乱入者は地を蹴り一気に玄真将軍の間合いへと踏み込んだ。
中々挑んで来ようとしない事に訝しげにしていた玄真将軍に、サッと緊張が過ぎる。
バシィィィィィン!!!
玄真殿中を震わせるような、鋭い音が響き渡った。
それまで片手で木剣を扱っていた玄真将軍が、初めて両の手で剣を構えて振り下ろされた刀身を受け止めていた。
剣を振るった主は、玄真将軍が反撃する前に更なる追い討ちをかける。
カン、カカンッと軽快な音が立て続けに響いた。
目隠しをしているとは言え、玄真将軍が防御に回る姿を神官達は初めて見た。
目隠しの下で、あの涼やかな目は困惑に揺れているだろう。
しかし、流石は玄真将軍だ。ジリジリと後退りしつつも、目隠しをしたままで全ての斬撃を受け止めた。
「………………風信?」
怒涛の攻撃をいなしながら、玄真将軍が呟く。
猛攻を仕掛けていた南陽将軍は、剣を振う手を止めぬまま、悪戯が見つかったかのようににやりとした。
「バレたか」
「バレるもクソも、あるか!!!」
ぐっと玄真将軍の手に力が篭る。
カァァァンッッと鋭い音が響き、南陽将軍の剣が弾かれた。
「クッ……………」
南陽将軍の眉が寄る。
剣が手から弾き飛ばされる事は無かったが、攻撃の手は止まった。
その隙をつき、玄真将軍は自身から目隠しをむしり取った。
「何の真似だ、南陽将軍!?」
「通りかかったら、面白そうな事をしてたんでな」
ビリビリと痺れた手を振りながら南陽将軍が笑った。
「面白く無い。訓練の最中だ。邪魔をするな」
「“訓練にもならない”と、顔に書いてるぞ」
南陽将軍は手の平を握ったり開いたりして痺れが治った事を確かめると、木剣を握り直した。
「要するに、玄真殿の部下達に玄真将軍の実力を知らしめれば良いんだろう?」
交戦の構えを見せる南陽将軍に、玄真将軍は訝しげに目を細めた。
「お前が、私の剣の相手をするのか?」
「役不足か?」
南陽将軍は気軽な様子で笑う。
周りで見ていた神官達は、今度こそざわめいた。
南陽将軍の武神としての実力が、玄真将軍に劣るとは思わない。
しかし、剣の勝負となると状況は変わってくる。
南陽将軍は弓を得意とする武神であり、対する玄真将軍は刀を得意とする武神である。
刀と剣では多少使い勝手は違うだろうが、それでも玄真将軍が剣術に秀でている事に変わりは無い。
それに、誰も南陽将軍が剣を振るう姿は見た事が無かった。
殴り合いならいざしらず、玄真将軍の得手である剣術で挑むなど、いくら南陽将軍と言えど無謀ではなかろうか。
玄真将軍は目をしばたくと、にまりと笑った。
「役不足だと言わせるなよ?」
玄真将軍が木剣を構える。刃が霊光を纏い、淡く光った。
「努力はする」
南陽将軍の木剣も霊光で包まれる。
いくら木剣とは言え、霊光を帯びた剣は殺傷能力が格段に上がる。
これなら、むしろ本物の刀剣で斬り合った方がまだ安全であろう。
神官達が固唾を呑んだ、次の瞬間。
二人の将軍は同時に地を蹴った。
剣がぶつかり合う音すら遅れて聞こえる程の、激しい攻防だった。
先程まで、玄真将軍がどれ程手を抜いていたのか痛感した。
南陽将軍は玄真将軍の猛攻を躱し続け、思い出したように攻めに回る。
南陽将軍は速さこそ劣るが、その分一撃一撃が重いのが分かった。
受け止める度、玄真将軍の眉が寄る。
「馬鹿力め」
玄真将軍が吐き捨てると、南陽将軍も唸る。
「お前こそ、急所ばかり狙いやがって」
「ハ、南陽将軍はお育ちがよろしいようだな!急所も狙わないぬるい戦いしかした事がないと見える!」
「玄真将軍こそ、随分と野蛮な戦術を好むものだな!!」
叫びながら、ぶつかり合う剣の動きは益々速さを増していく。
周りの神官達には、どこが“ぬるく”てどこが“野蛮”なのかさっぱり分からない。分かるのは、どちらも正に“神がかった”力量を持っていると言うことだけだ。
舞うように戦う玄真将軍は美しく、鬼をも吹き飛ばす玄真将軍の猛攻を全て真正面から受け止める南陽将軍は猛々しい。
二人の剣の唸りは周囲まで及び、神官達は肌でその凄まじい剣圧を感じる事となった。
少しはまともについていける神官の目には、やはり玄真将軍の方が攻め入る速さも手数も勝っている事が見て取れていた。
玄真将軍が十の斬撃を仕掛けると南陽将軍が一つ反撃する。しかしその一撃は極めて重く、さしもの玄真将軍も防御に回らざるを得ない。
どちらが優勢かなど、一介の神官には判断出来る筈も無い。
永遠に続くのではと思われた戦いは、唐突に終わりを迎えた。
真正面から打ち合った瞬間、二本の木剣は真っ二つに折れて弾け飛んだ。
むしろ、よくここまで保ったと言える。
玄真将軍と南陽将軍は同時に動きを止めた。
二人とも、服が重く濡れる程汗をかいており、息を切らしていた。
“凶”の鬼を相手にした時ですら、ここまで疲弊した姿は見せた事は無い。
「あー、クソ。やっぱりお前は強いな」
柄だけになった木剣を投げ捨てながら、南陽将軍がからからと笑った。
それを心底煩わしげに睨み、玄真将軍が吐き捨てる。
「お前のせいで無駄に消耗した」
「良い肩慣らしにはなっただろう?」
先程より余程殺気じみた目を向けられても、南陽将軍は動じる事もなく満足げに問いかける。
「……………………フン」
玄真将軍は緊張感を失った顔を暫く睨んでいたが、鼻を鳴らすのみで否定はしなかった。
周囲で唖然としている神官達をぐるりと見回すと、普段通り冷ややかに聞こえる声で呼びかける。
「ほら、さっさと引き上げるぞ」
「は、はい!!」
将軍達の熱気にあてられていた神官達は、慌てて玄真殿へと引き上げ始めた。
玄真将軍も歩き出そうとした、その時。
「慕情」
呼びかけに、踏み出そうとした足が止まった。
横目で見れば、南陽将軍が流れる汗を手の甲で拭いながら呑気に笑っていた。
「またやろうな」
「………………腕が鈍って無ければな」
素っ気なく言い捨て、玄真将軍は今度こそ歩き出す。
その口元が楽しげに緩んでいたのは、南陽将軍の目にしか映らなかった。
その日、玄真殿の神官達は将軍達への畏敬の念を改めて抱く事となった。
しかし、すぐに辛辣な態度になる二人の関係が本当の所どうなのか、知るには至らない。