過去を未来へ繋ぐ電車は愚か、バスすら停まらない山道をどれくらい歩いただろう。
蔓に埋もれ、今にも崩れそうな白い廃屋を前に、風信と謝憐は顔を見合わせた。
「本当にこんな所に住んでいるのか?」
風信は流れ出る汗を手の甲で拭いながら、思わずボヤいた。
謝憐は地図と見比べ、「そうらしい」と頷く。
真っ当な人間ならばこんな場所には住まないだろうが、家主が“真っ当な人間”かと言われれば違うとしか言いようが無い。
インターホンを押そうとして、それすらも無い事に気付く。
とりあえず風信が今にも朽ちそうなドアをゴンゴンと叩くと、「開いてる」と素っ気ない声がした。
頭の中で。
そうだ。通霊すれば良かったのだ。
人界暮らしが長くなると、そんな基本的な事も忘れてしまう。
木の戸には鍵もかかって居なかった。
謝憐と風信はそっと中に入る。
玄関はそのまま狭い階段に繋がっており、その先は広い部屋へと繋がっていた。
窓は開け放たれており、生温い風が通り抜ける。
エアコンどころか扇風機も無い。
生活感も薄く、小さなテーブルと本棚、揺り椅子があるばかりだ。
到底人が住んでいるとは思えない殺風景な部屋で、壁には素朴な絵が一つ飾られている。
どこか懐かしいような、楓林の風景だ。
それを見ていたら、窓の外から声がした。
「こっちだ」
窓の向こうには、広いテラスが広がっていた。
庭の代わりなのだろう。
プランターが並び、ピーマンや枝豆、トマトといった物が植えられ小さな家庭菜園が出来ている。
家主は、物干し竿から洗濯物を取り込んでいた。
「元気だったか?慕情」
謝憐が微笑むと、慕情は眉を寄せた。
「元気に決まってるでしょう。少し前に、通例陣で武神会議をしたばかりなんですから」
千を超える時が流れた。
廟の数は減り、神官への祈願も少なくなった。
仙楽太子や南陽真君、玄真真君の信徒は今でも存在し、廟も至る所に存在するが、昔に比べればずっと少ない。
神が派遣されるような事柄も減り、上天庭に常駐する意味も無くなった。
妖魔鬼怪による騒ぎも、成りを潜めて久しい。
それには、二人の鬼王の存在が大きいだろう。妖魔鬼怪を統べる赤の王と黒の王は、どちらも絶境鬼王の身で有りながら、無駄な虐殺や世を乱すような謀略を好まず、むしろ目に余る鬼を潰している。
特に青鬼のような苛烈で気狂いな鬼は即座に粛正され、皮肉にも、鬼界は三界一統率がとれた世界とすら言われるようになった。
それはそうだろう。鬼王もまた、この現代を楽しんでいる。
黒水は食べ放題の店を行脚する事に忙しいし、花城ときたら、今度は世界中の絶景と観光に勤しんでいる。
勿論、謝憐と共にだ。
神官を……謝憐を煩わせるようなトラブルを起こす度胸がある鬼など、もはやこの世に存在しまい。
そんな激変した世界を、神官達もまた好きに楽しんでいた。
神官の減った上天庭は広いばかりで使い勝手が悪くなり、普段は人界に降りたままの神官も多い。
そして慕情は、この30年程行方をくらませていた。
くらませた、と言ったら語弊がある。少なくとも、定期的な神官の集まりには出席しているし、上天庭の玄真殿にも時折顔を見せていた。
ただ、いつからか多くの時間を人界で過ごすようになり、どこで何をしているのか、誰も知らなかった。
そんな慕情から家に招かれた時には、謝憐も風信も大層驚いた。
そして辿り着いたのが、この都市化していく時代から数十年置いて行かれたかのような山奥の廃屋………のような場所なのだったから余計にだ。
しかし、余計な人付き合いを疎う慕情らしくもある。
年を取らない神官は、いくら繕っても人と共に生きるのは難しい。
ならば、最初から人と関わらないよう生きると言うのは、なんとも慕情らしいと言えた。
だが、
「こんな………何も無い場所で本当に暮らしてるのか?」
風信が思わず唖然と呟いた。その声は、不可解を通り越して“狂気じみてる”と言わんばかりだった。
慕情は風信を睨み、鼻を鳴らした。
「ここが生活空間なわけないだろ。それに、立地は関係無い。大抵の事は法力で何とかなるし、縮地千里の陣はお前よりはまともに使える」
「俺だって陣くらい書ける!」
憤慨する風信を横目に、慕情はさっさと部屋の中へと入って行った。
「こちらに」
慕情が示した先にはラグが敷かれており、洒落た模様が描かれていた。
神官である謝憐と風信はすぐにピンときた。
その“洒落た模様”は、正に縮地の陣であった。
ラグに乗ると、霊力に反応して模様が淡く光る。
そして、次の瞬間には、広い空間にいた。
ひんやりとした人口の涼しさが肌に染みる。
クーラーの効いた部屋に、謝憐は何故か無性に安堵した。
良かった!
慕情は世捨て人になったわけでも、仙人然とした暮らしをしていたわけでも無かった!
窓は無いが、空調がしっかりしているのか、息苦しさは無い。
LEDの電灯に照らされた部屋はとても明るく、大きなテーブルにはノートパソコンやタブレット端末、そして大量の本や書類が置かれていた。
いや、部屋の全方位、古い書物から真新しい書籍で埋め尽くされていた。
霊文殿のようだ。
「ここは………」
「家の地下です」
慕情は何て事も無いように言った。
風信も唖然と呟く。
「お前はいつから文神になったんだ?」
「そうだな、武神も飽和状態だ。俺が文神になる位で丁度良いかもな」
ハッと吐き捨て、慕情は手元の書類を手にした。
「これは、副業みたいな物だ。無数に有る神の逸話に関する書を解読し、まとめ直す手伝いをしている」
謝憐と風信は思わず顔を見合わせた。
それなら、彼以上の適任は居無いだろう!
なんと言っても、この世を筆頭する神官から鬼に至るまで全て顔見知りなのだから。
神の存在と逸話が語り継がれなければ、神官はその存在自体が危ぶまれる。
その点、神官自らが監修するのならば確実だ。
「お前が……逸話を?」
訝しげな顔をした風信に、慕情は微笑んだ。
「安心しろ。南陽真君が巨陽将軍である事は、未来永劫語り継がれるようにしてやる」
「真っ先に抹消しろ!!!」
風信の罵声が部屋を震わせた。
ちゃっかり耳を塞いでいた謝憐は、感嘆を漏らしながらも首を傾げる。
「それで、何年も居場所もしている事も誰にも悟らせなかった君が、突然私達にそれを教える気になったのは何故なんだ?」
慕情の表情が歪んだ。
友人に教えるのに理由が必要なのか、と言いたげにも見えるが、『友人だから教える』性格では無い事は、それこそ千と数百年の付き合いから嫌と言う程理解している。
慕情は暫く言い淀んだ後、渋々と言った表情で口を開いた。
「………これは単なる足掛かりです。ようやく、本来の目的に取り掛かれるので、報告と……………協力の依頼に」
「協力?」
慕情から助力を求めるとは珍しい。謝憐が目を丸くする。風信も腕を組んで眉を寄せた。
「目的なんてあったのか?」
慕情は二人の顔をじとりと見る。余程言いづらいのか口籠り、暫くしてようやく口を開いた。
「……………………歴史学者です」
「学者?」
お前がか?それこそ文神の領域だろう。しかも、歴史?
人界の歴史に関心があるとは思えない。
唖然とする二人に、慕情は緊張しているのか、白い顔で言った。
「………………仙楽国の歴史をまとめて世に残すんです」
謝憐と風信はそれ以上、揶揄出来なくなった。
ただ、呆然と言葉を失うばかりだ。
そんな二人の反応を見ながら、慕情はぼそりと続ける。
「仙楽国が存在した事は、私が……………私達が語り継がなければ、それこそ幻になってしまいます」
幸い、調度品から流行りの音楽、咲いていた花から装飾まで、慕情は記憶している。
「しかし、流石に私一人で全てを編集する事は出来ない。特に、皇城に関してはお前や謝憐しか知らない事が沢山あるからな」
まぁ、覚えていたらの話だが。
とって付けたような皮肉を溢す慕情の耳は赤く染まっていた。
そっぽを向いた慕情に、謝憐が無言で飛びついた。
「………………っ」
「わっ、ちょ、謝憐!?」
危ない!と叫ぶ慕情に構わず、謝憐はぎゅうぎゅうと慕情を抱き締める。
「うん…………、そうだな。それは………私もそうしたい。仙楽国の太子殿下として、まだやれる事があるとは…………考えもしなかった………!」
ありがとう、と涙声で囁く謝憐に、慕情は大きくため息を吐いて引き剥がすのをやめた。
代わりに、慕情の手が謝憐の背を優しく撫でる。
「大袈裟です」
「お前もたまにはまともな事を言うじゃないか」
風信も満面の笑みで、珍しく慕情を誉めた。
「もちろん、俺も手伝う。手伝わせてくれ」
慕情はフンと鼻を鳴らした。
「当然だ。無い記憶を絞り出して貰うからな」
まだまだ、この世でやる事は尽きないようだ。