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「ねえ、伊作くん」
保健委員会委員長、善法寺伊作がひとりきりで医務室にこもって薬を煎じていると、真夜中すぎに不意の客人が訪れることがあった。
「はい、雑渡さん。今日はどちらからおいででしょう」
勝手知ったる相手なので伊作も起ち上がったりはしない。作業を続けながら返事だけを返す。
相手の声は聞こえるけれど姿は見えない。気配だけが少し感じられる程度だ。
「ねえ、伊作くん」
答えの代わりに、天上の板が少しだけぐらついたのが目の端に見える。はっと顔を上げると、そこにはもう闇で染め抜いたような大きな姿があった。音もなく床に降り立ち、そのまま伊作のすぐそばへと寄ってくる。
「――はい」
ほんの少しだけ、返事をためらった。見た目も気配もいままでやってきていた雑渡昆奈門とまったくおなじだけれど、わずかに伊作を慎重にさせるなにかを感じたのだ。
墨染めの忍装束に包まれた間から、ひとつだけ見える目が光った。ほかが黒いから白目が際立って見える。
いつも世の中のできごとを斜に見ながら、それでも楽しげに伊作を映していた目がどこか遠く、ぼんやりとしているのが気になった。
「あのね……たとえば私の体を切って」
「はぁ!?」
思わず大きな声が出て、はっと口を塞いだ。
雑渡はちらりと伊作を見ながら、体の表側の肩から胸を通って腰までを人差し指で指し示しながら、ゆっくりとおろす。
「そして」
「……」
これはすべてを聞き終わるまで口を差し挟むのは無理だろうな、と作業の手を止め――もっとも薬研を碾くのはとうにやめていたのだけれど――伊作は雑渡に向き直った。
「伊作くんのここからここも」
近寄ってこられたのさえわからないままに、肩に手を置かれ、背中を――肩甲骨から尻まで――指でそっとなぞられた。ふるん、と体が震えたのがわかったのか、なだめるみたいに引き寄せられた。大きな腕の中はそれだけで安心できる。けれど、
「縫い合わせて繋げてみたりできる?」
「……は!?」
続いてでた言葉に、今度こそ伊作は絶句した。
濃厚な煎じ薬の匂いが部屋中に満ちている。鉄瓶から控えめに湯が沸き立つ音がしゅんしゅんとたった。
伊作は無言で湯飲みにそれを注ぎ、盆の上にいったん置いた。
「お熱いので、どうかお気をつけて」
慇懃に言って、目の前に座る相手に盆ごと差し出した。普段ならつけている麦わらもないし、吸い上げるときにちょうどいい温度にも調整していない。それは伊作の怒りの表明でもある。
「……」
それを見下ろして、うつろな目をしながらもなんとなく面白くない顔を雑渡は浮かべていた。
あきらかに、おかしい。
こんなわかりやすい嫌がらせ、常ならばいやみのひとつ――ふたつやみっつ、あるいはそれ以上――あるはずだ。
雑渡昆奈門は鷹揚な男だが、笑えない冗談を黙って許す性質ではないのを伊作は一番よく知っている。
それはそれで――それでもだ!
伊作は内心の憤怒を明らかにせぬよう、細心の注意を払った。おのれの心の内をまざまざ晒してしまうのは下の下の下の下忍だけだ。
仮にも忍術学園の最終学年にしがみついている身なのだから、その矜持は守りたい。
「……善法寺どの」
ささやかに訴え出る気配が、先ほど雑渡が現れた天井からこそりと湧いた。伊作は肩を落とし、大きく息を吐いた。
気がつかなかった自分も情けないが、それよりもタソガレドキ忍軍の練度がすさまじいのだ。
「いらっしゃるなら全員出てきてください」
「――本日は私だけです」
そ、とタソガレドキ忍軍の狼隊小頭である山本陣内が音もなく降りてきた。雑渡の斜め後ろに控えて軽く一礼してくる。
「夜半に忍んでおいでのこの御仁をどうぞお引き取りください」
いささか乱暴に指し示すと、ぼんやりしているがさすがに自分のことだと分かったのか、雑渡は心なしか小さくなった。元々が大きいので、無駄な努力である。
「どうかお話しを――」
年もずいぶん上で、忍びとしての実力もはるかに格上の相手に下手に出られて、意固地をはれる性格はしておらぬ。伊作は一度だけ奥歯をかみしめると、軽く頭を振って山本を見た。
「まずは大変なご迷惑をおかけし、大変に申し訳なかった」
「……いえ、僕も取り乱してしまってお恥ずかしい限りです」
「組頭にも事情が――ありまして」
いつも果断な山本が見せたためらいに伊作はひとつため息をつき、水をつぎ足して適温にした煎じ薬を山本の分の茶碗に入れて差し出した。
「雑渡さんが、婚姻を!?」
「いえ、打診されたということです」
山本が語った事情とは雑渡昆奈門に持ちかけられた縁談にあった。
「黄昏甚兵衛さまよりのお話しでしょうか?」
「いえ、それが違いまして――」
主からの話ならば、雑渡がなにをどう言おうが相手が人間でなくても縁組みしなければならないだろう。
伊作は山本が口を開くのを待った。
「今の世はとかく忍の地位が低いのはご存じでしょうか?」
つと山本が決心したように口を開いた。山本は伊作にいつも丁寧に話す。親子よりも離れているのに、申し訳ないといつも感じている。その山本が伊作の返事も待たずに続けた。
「忍びは手段を選ばず、面目を立てず名誉を重んじないというのがその理由です」
「……」
「侍と我らは違う――それでもタソガレドキ忍軍は殿のおかげもあって、世の常の忍びとは一線を画しております。存在を認められ、重要な戦には影よりもそばに置いて頂ける……どうやらそれが、殿の真意を理解せぬ者が我々を敵視する理由になっているようです」
伊作はうなずいた。
忍びの地位は低い。忍術学園にいると気がつきにくいが、ひとたび外の世界に出ると風当たりの厳しさに戸惑うこともある。
――我々はただ、殿の持ち物なのです。
人としても扱われず、それでも仕える主のために命を惜しまぬもの。山本の口から出たひと言が伊作の身にのし掛かった。
「言うなれば嫌がらせ。良くて組頭の首に縄をつけようと画策しておられるようです。下手に格のある家に縁づかせれば力関係に不調和が起こる。そこで選ばれたのが……」
地位も名もなく、ましてや後ろ盾にもならない下級武士の娘に白羽の矢が立ったのだという。
「たとえ下級といえども侍と縁組みすれば、家格が上がるというのがさきさまのお考えです」
「そんな……」
伊作は言葉を失った。
「そう。我らを人にあらずとさげすみながら、侍も非道をなさる」
「あの……黄昏甚兵衛さまはどうお考えに?」
「殿は何も――」
「……」
最後の砦であるタソガレドキ城主にもすがる余地がないことを知って、伊作は今度こそ押し黙った。
風もないのに、ろうそくの灯りが揺れた。いままでじっと座っていた雑渡が大きくため息を吐いたのだ。
「その娘に泣かれたよ……伊作くんより少し年上で、あまり豊かでもなさそうだった」
じっ、とろうそくの芯が油を吸う音が聞こえるほどに静かな部屋の中、雑渡の言葉が響く。
「おびえて顔も上げられないようすだった。親御さんも同席していたけど私より若くて、いたたまれなかったよ」
「……もう、お会いに」
「話が来たその日の午後には場が用意されていたよ」
「それでは――」
もはや断るどころの話ではない。喉が詰まったようになって、伊作は息を飲んだ。
「だから、伊作くんと物理的に繋がっちゃえば、一緒にいられると思ったんだけど」
「組頭……」
「そんな理由がおありだったんですね」
雑渡の突然の言い条、定まらぬ目線に普段の背筋の伸びるような威厳が消え果てているわけを知って、伊作は深いため息を吐いた。
「事情も知らないのに、雑渡さんの物言いがあんまりだと感情的になってしまいました」
「保健委員長のきみに、切って縫い付けてくれと言うのはまずかったね」
顔を上げると、すぐそばに雑渡の顔があった。さきほどまでのうつろなようすは消えている。ひとつしかない雑渡の目は、いま力強い光を浮かべて伊作を射た。
「できれば破談にしたい。できるだけ穏便に――娘の評判に傷がつかない形なら多少の泥はかぶろう」
「それは、この忍術学園に対するご依頼ということでお間違いありませんか」
雑渡は力強くうなずいた。それに合わせるように山本が深く頭を下げる。
「選ばれた娘は来春――幼馴染みの若者と添う約束をしていたそうです」
山本の言葉に、伊作は一瞬目を閉じて唇を引き結んだ。
「――確かに承りました」
ゆっくりと平伏し、三秒待った。頭を上げると、ふたりの姿は消えていた。
部屋の中央には、墨痕鮮やかに雑渡の名前ひと文字を記した割り符がひとつ。それだけが、一連の話が夢ではない証左だった。
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