紫紺、あるいはディープスカイ集会所を入って奥、滝と川を望む淺敷にアヤメは今日も佇んでいる。
「おはようございます。アヤメさん」
狩人の乙女は持参してきた小さな道具入れの中身を、アヤメに声をかけながら木目の卓に広げ始める。
「ああ、おはよう。ええと、ウツシ教官は朝から出払ってるみたいよ」
「いえいえ、今日は教官ではなくアヤメさんとお話しに来たんですよ。さぁさぁお掛けになってくださいな」
何か相談事なのかしら、と珍しくはない様子でアヤメは乙女の向かいに座った。
「アヤメさん、この爪を見てください」
乙女は卓の上に手をかざす。光の当てようによっては深い紫が浮かび上がるカムラの里特有の紺色に染まった爪が並んでいる。
「教官が一昨日ここで塗ってくれたんでしょう?欠けちゃったの?塗り足しを手伝えばいいのね」
アヤメは目の前に並ぶ刷毛を取ろうとしたが乙女が先に刷毛を掴む。
「この色は、教官がカムラノ装の色によく似ているって見付けてくれたんですけど」
教官がこの子に化粧をするって事で納得させて、この子の化粧を解禁させたのよね。何で里が教官から許可を得ないといけないんだか。化粧道具を乙女が所持しても、彼女を彩るのは師匠であり許婚の男という歪な状況となった里のいきさつを思い出し、アヤメは眉をひそめる。
「アヤメさん?」
「あっ、ごめんね。どうしたんだっけ?」
乙女は卓に広げた色の容器に目を移した。
「この色は1回塗るだけだと濃い紫色に見えて、2回塗ると紺色に見えるんです。教官が私の好きなマガイマガドの紫からカムラの紫紺になるんだよって」
「なーんだ、惚気か。フフッ安心したよって、なんで私の手を掴んでいるの?」
狩人の乙女は迅竜の淑女の手を掴み、その爪の形を整え始めた。猛き焔たる乙女の握力はアヤメの手を逃がさない。
「実は教官が任務でいない時に自分の足の指で色々試してるんです。それでこの塗料は爪の下地の色で色味が少し違ってくるって気付いたんですよ」
師匠が許婚でもある乙女に稀に発揮する強引さを今、目の前の乙女が自分に発揮している。爪からはみ出してしまう刷毛が爪の周りの皮膚をヒヤッと撫でながら、そうこうしているうちにアヤメの爪は全て白く塗られてしまった。
「下地が白いと紫色がもっと明るく見えて……それで何かの色に似ているなって」
爪の根本を少し白く残し、乙女は繊細に紫色を薄く乗せ始めた。アヤメの手はなすがまま、まな板の上のナルガクルガである。
「……ここに差し色で黄色をちょっと乗せたら……あっアヤメさん動かしちゃダメ。えっと、そう、白を少し見えるように黄色を引いて……」
『猛き焔』『カムラの英雄』『戦乙女』と異名を持ち、ごく稀に、極々稀に覗かせる苛烈さや大胆さと大雑把さを怨虎竜と例えられる乙女は、精密にアヤメの爪を染め描いていく。珍しい光景にオテマエさんや闘技場が休みなのを知らずに来てしまった外部のハンターまで寄ってきて固唾を飲んで見守っていた。
「……(ゴクリ)。できました!アヤメさん、指を開いたままゆっくり手を振ってください」
肩で息を吐きながら乙女は刷毛を置いた。オテマエさんと外部のハンターも肩で息を吐いた。
それはマガイマガドの紫でもカムラノ装の紫紺でもなく、菖蒲の花だった。
「教官だったらもっと文目の模様っぽく描けると思うんですけど、でも初めてにしては綺麗に塗れたと思いません?」
腕を大きく回したり座ったまま縦に伸びる乙女は、満足げに口の片側をニヤリと上げた。
「あぁ、うん。ありがとう……」
アヤメは半ば放心しながら指を開いて手の甲から伸びる指を眺めたり、手の平を自分に向けては指を曲げるを繰り返す。
「いつも教官が私の爪を塗ってるのを見てたら、私も人に塗ってみたくなっちゃったんです。この事は教官には内緒ですよ?」
乙女は人差し指を鼻先に立てて唇を軽くすぼめた。彼女の恋人が塗り染めた紫紺の爪先が、いたずらっぽく秘密だと迫る唇を彩る。
狩りでも料理でもない事で珍しく自信たっぷりにぐいぐい来る乙女の爪と瞳にアヤメはたじたじだ。……と、ハッと我に返り不安を覚えて周りを見回した。すぐ傍で見守っていたオテマエと外部のハンターがしぃーっと息を吐いて人差し指を立てた。集会所の中では受付から身を乗り出したミノトとマイドが微笑んで人差し指を立てた。ゴコクもハナモリも、ハナモリの隣に座っていたナカゴとコジリも微笑んで人差し指を立てた。ドンとドコはバチを立てている。
ふと視線を感じ顔を上げると、なんと屋根の上からカメラを構えたウツシ教官がこちら側を覗き込んでいた。教官は静かに拳を握り親指を天に向け立てる。そして拳を握り替え、鼻の前に人差し指を立てた。
ウツシ教官、あれ、多分連写してるわよね。見えた?この子のイケメンな表情はちゃんと撮れた?
帰還が間に合ってしまっていたウツシ教官と乙女と集会所の様子はさておいて、少し気恥しくなってしまったアヤメは出来立てのウサ団子をゆっくりしっかり頬張るとゆっくり煎れたてのお茶を飲んだ。そうして改めて乙女にお礼を言うと、数歩離れているだけの定位置の欄干の前に戻った。
集会所の面々から見えるのは迅竜の淑女の背中。しかしよくよく見つめれば耳たぶが薄紅色に染まっており、欄干から小さく手を伸ばしては乙女が咲かせた菖蒲の爪を眺める姿がたいそう微笑ましかったという。