弟はなにも欲しがらなかったから 弟は無欲だった。
正確に言えば、物を欲しがらない子供だった。
例えば『強いやつ』と戦いたい、とか。カレーまんが食べたい、とか。そういう刹那的でお手軽な欲求は露わにしてくる。でも、弟はそういう、時間とともに風化しないものや胃酸で溶けないものを好まなかった。だから、何もいらないんだって。
たぶん、自分には必要ないと思っていたんだと思う。そしてそれは、決して卑屈になった結果じゃない。
自分はもうじき消えていなくなってしまう存在だから、あとに残るものはいらないんだって。はっきり言ったわけじゃないけど、たぶん、そう思ってたんだと思う。
*
毎年、だ。あたしはせっかくの誕生日なのに、ものを欲しがらない弟の姿を見てきた。
夏休みの序盤、七月の暮れになると、あたしは入院しがちな弟の見舞いに行くたびに
「誕生日プレゼント、何がいい?」
って聞いてたんだけど、弟は決まって逡巡したのちに淡白に答えた。
「いらね。たかが誕生日だろ」
ちょっと考えたのは「何がいいかな」って遊び道具を頭に並べていたわけじゃない、誕生日自体頭の中からすっぽ抜けていたからだってわかっちゃったから、私は心臓がぎゅっと締めつけられるのを堪えて「あっ、そう」って答えてた。
弟はあまり表情が変わらない、感情の起伏がゆるやかな子だ。
腹の中では本当はどう思ってたのかわかんなかったけど、もうずっとずっと、諦めてるのが伝わってきた。神妙な面持ちで余命を告げてくるお医者さんの言葉とか、日々着々と身体を蝕んでいく持病とか。内外からの情報を受けて、弟は弟なりに思うところがあったんだと思う。
でも、あたしはずっと納得できなかった。
子供が自分にとっての特別な日を大切にしないのって、すっごく寂しいことだって思ってたから。
同じクラスの友達は幸せオーラを纏わせて誕生日会に呼んでくれるし、真っ白で、赤いいちごがいっぱいのった大きなケーキを振る舞ってくれたし、当たり前のようにみんなが用意してきたプレゼントを受け取っていた。
あたしだって、自分の誕生日当日は無条件に無敵になった気がして浮き足立ってて、友達があたしの『特別』に気づいてくれたらめっちゃ嬉しかったよ。
でも、弟はーー勇成はそんな気持ちがわからないんだって思ったら、なんだかめっちゃ遠くにいるような錯覚に陥って、同時にこれ以上彼に触れちゃいけない気分にもなっちゃって、本人がいらないっつーんならいっか、って思って、あたしは特別なものは何も用意しなかったよ。
その代わり、八月三日は絶対に予定を入れなかったし、コンビニでカレーまんを二個買ってた。この季節にカレーまんを売ってるコンビニなんてそうそうなかったから、あたしは茹だるような暑さの中、肌を真っ赤にしながら隣町の小さなコンビニまで行った。潰れちゃうまでの話だけどね。
*
弟は今年もぶっ倒れて病院で缶詰になっていた。ヒーロー活動をはじめてから、なんか肉体も強化された? みたいだけど、やっぱり夏場の暑さは少し身体に堪えるらしい。本当はもう死んでてもおかしくないのに、相変わらずしぶといやつだなと思う。
研修先(あたしは看護学校の学生だ)は別の病院なので、オフの日に八草中央病院に向かう。かんかん照りの太陽の下、日焼けしちゃうじゃないかと脳内で毒づいた。飛び込むように病院に足を踏み入れると、あたしは涼しい院内をかつかつと闊歩して弟が詰め込まれた病室に向かった。
今回は個室じゃないみたいだ。かたく瞼を閉じて眠っているおじいさんとか、つまらなそうに雑誌を読んでいる女の子とかを横目に、あたしは珍しくベッドの上でおとなしくしている弟に声をかけた。
「ゆーせい」
手の中にあるなにかをぼうっと眺めていた勇成は、上目を向けて「おー」と気怠げに返事をした。もう高校三年生だ。背は見上げるほど高くなったし、声は随分低くなった。筋肉もついて、一人前の男らしい身体つきになった。それでもベッドの上では昔と同じ、ただの病人だ。
「なにしてんの」
あたしは汗で頬にはりついた髪の毛を耳にかけて、持ってきた着替えが入ったトートバッグをどさりと床に置いた。
勇成はちゃんと答えずに、「ん」とさっき見ていたものを見せつけてくる。あたしは目を細めて凝視した。弟が差し出してきたのは、浅瀬のような青みがかったビー玉だった。信じられないくらい透きとおっていて、ビー玉をとおして手のしわが見えた。
「は、ビー玉? どーしたの、それ」
「伊勢崎に押しつけられた。もうすぐたんじょーびだから、って」
「伊勢崎って、あのヒーローの?」
「そう」
伊勢崎敬のことは、わかる。外国人めいた目が醒めるような美貌で、職場でもかっこいい、目の保養、ってたびたび黄色い声をあげられているヒーローの男の子だ。
「ビー玉集めるような子なの?」
「あいつならやるだろ」
「へえ。なんか、意外ね」
勇成は「はぁ?」と顔をしかめた。
「あたしはその子のこと、顔しか知らないのよ。仕方ないでしょ」
「あー……」勇成はなるほどね、という顔をする。「伊勢崎は、バカだよ」
「バカって、……あんたに言われても、説得力がないわ」
「あ、そ」
ちょっと機嫌を損ねてしまったみたい。勇成は寝返りを打って、またビー玉を眺めはじめた。
「気に入ってんだ」
「別に」
ずっと見ているのに?
あたしは肩をすくめた。
「でも、なんでビー玉よ」
「あー、なんとなくラムネのビー玉集めてる、つったら、持ってきた。言うんじゃなかったわ」
「えっ。あんた、そんな趣味持ってたの?」
びっくりして勇成を見ると、迷惑そうな顔で舌打ちされた。
「ンなんじゃねーよ。なんとなく、つったろ」
「趣味って意外とそんなもんよ」
「なんでもいーけど、愛莉沙は持ってくんなよ」
「なんでよ」
「明日は透野が持ってくるっつってたから。いっぱい」
透野っていうのは、また別のヒーローの子かな。
しらけた目をする弟を見て、あたしはふーん、と口角を上げた。
「あんだよ」
「よかったね、勇成。いっぱいお友達できて」
「は、何? 皮肉?」
「違うわ。オネエサマのありがたいお言葉くらい素直に受け取れよ、バカ」
頭を小突くと、眉間にしわを寄せて睨まれた。
「……。あ、そーだ」
「ん? なによ」
「まだいんの?」
じっと見つめられて、あたしは記憶をまさぐった。決まった予定はなかった。時間があれば、気晴らしに南エリアにでもショッピングに行こうかなと思ってたくらいで。
「そうね、もう少しいようかな」
「へえ。じゃ、俺寝るから、久森が来たらこれ渡しといて」
そう言って、あたしの手にコロンとビー玉を転がしてくる勇成。
「はぁ? あんた、これ貰いもんでしょ。持ってなくていーの?」
「るっせーなー。ここで持ったままにしてたら、なくす、だろ……」
相変わらず、バカだけど入眠だけは優秀だ。ため息が出るほどに。
脱力しきって泥のようになった弟は死んだように見えるけれど、かすかにすうすうと寝息を立てている。あたしはビー玉をなくさないようにポーチの中に入れて、蹴飛ばされて足元でぐちゃぐちゃになっていたガーゼケットを胸のあたりまでかけてやった。
ベッド傍にパイプ椅子を広げて腰掛け、足を組んだ。
「おめでと、勇成。まだ早いけどね」
今年の七月も、もう終わりだ。八月がはじまると、この子はまた誕生日を迎える。
誕生日にはなにが欲しい? なんて、もう弟にとっては野暮でしかないかなと思うから、あたしは久森くんにビー玉を託したら帰ろうと思う。
あたしがわざわざ言わなくたって、この子の『特別』を覚えて、大切にしてくれる人たちができたみたいだからさ。
今年の八月三日は研修先の病院にいる予定だ。
だからせめて、朝までにチャットくらいは送ってやろうと思う。
寿命更新おめでとう、って。