朝の身支度 ぱっと目が覚める。
脳が揺らぎ、視界がぼんやり霞む。朝なのだ、と感じたのはぴったり閉じたカーテンから光が漏れているからだった。鉛のように重たい身体をのっそりと起こした。手を組み、腕を前に伸ばしてうんと筋肉を引っ張る。ふわあ、と欠伸をした。夢を見ていた気がするが、あまり覚えていない。おそらくたいして良い夢ではなかったし、特に嫌な気分になっていないので悪夢でもなかった。ああ、微妙に設定が現実離れしていた気もする。でも身近に自称宇宙人がいるせいだろうか、目を閉じたままじっとして「何があったっけ」と思い返していると、それは特に変な状況ではなかったように思えてきた。
(麻痺してきてるかも)
しょぼしょぼする目をぎゅっと閉じたり、開けたり。そうすると、目がじんわりと熱くなってくる。なんとなく血流が良くなった気がしてきたら、ようやく布団を剥いで床に足をつけた。裸足だったので、足の裏がひんやりと冷たくなる。眉を顰めつつ、そのまま立ち上がった。
昨夜はバーのアルバイトから帰ってきて、シャワーを浴びてすぐ布団に潜ってしまった。
バーを出た時、確実に0時は回っていた。なら、家に帰ってきたのは1時くらいだろうか。そして、布団に入ったのは2時前くらい。
ベッド脇で充電していたスマホからプラグを抜き、画面を点灯して時間を確認する。7時48分。身体が気怠くて、眠れた気がしていない感覚にも納得だ。というか、時間を確認してしまったことでどっと疲れが増した気がする。
ともあれ、起きてしまったからには行動を起こさなければならない。今日も朝から大学の講義にスタジオ練習に、イベントが目白押しだ。幸いアルバイトはオフだから、夜に軽くトレーニングをしたらさっさと寝てしまうか。
二限に講義がある。とりあえず着替えて、洗顔をして……と朝のルーティンを頭に思い浮かべながらクローゼットを開くと、ふっと妙な違和感が脳裡を過ぎる。無造作に折り畳まれた衣服の塊。しばしそれを眺めて、頭を掻いた。思い当たる節があり、引き出しを引いた状態のまま、部屋の外へ顔を出す。
「涼ちん、いるー?」
シェアハウス全体に呼びかけると、どこからかなーにー? と間伸びした返答が聞こえた。声は、何かに阻まれたようにくぐもっている。耳を澄ませて声のする方向をたどり、自分の部屋か、と得心がいって、涼の部屋の前まで歩いた。
「涼ちんさぁ、俺のニット取っていった?」
「ニット〜?」
んー、と思案するように唸る声とともに扉が開かれた。眠たそうな涼の顔を前にして、「おはよう」と言った。
「うん。おはよう、深幸くん」
にっこりとやわらかく笑う涼が纏う衣服を見て、ああやっぱり、と思った。
「もー、勝手に取っていったらびっくりするでしょ」
「あ。ごめんね。着たいなって思って、夜入っちゃった。あったかかったよ」
「そりゃ良かったけどさ」
オーバーサイズの深いブラウンのニットは、涼によく似合っている。深幸は涼の手首をすっぽり包む袖の辺りをくいっと引っ張り、口を尖らせた。
骨格や体格が似ているからだろうか、涼にはたびたび深幸の服をくすねる癖があった。それは盗癖というには程遠く、純粋な好奇心や一種のコミュニケーションに近いと思った。勝手に部屋に侵入されるのは困りものだが、涼は本当にまずいものは取っていかないし、気が済んだらちゃんと返してくれるので、自然と暗黙の了解としていた。
「参ったな。それ、今日着ようかなって思ってたのに」
「そっか。ごめんね。脱ぐ?」
「いいよ、似合ってるし。そのまま着てて」
「そう? 深幸くんがいいなら、いいけど。ありがとう」
「ていうか、それに合わせるなら涼ちんが持ってるあのダボっとしたパンツのほうが似合うんじゃない? ほら、あの色がちょっと明るめのやつ」
「ん〜? ……どれだろ」
「えーっと、この間履いてたと思うんだけど……探そっか。部屋、入っていい?」
「いいよー」
いらっしゃいませ。とちょっと畏まった言い方をする涼に苦笑して、促されるままに彼の部屋に入る。相変わらず、涼の無駄遣いで増えたがらくたで床が埋まっている。一応足の踏み場はあるので、慎重に避けながら足をすすめた。
「深幸くんもオレの服着ていいよ」
「えぇ? うーん……でも、賢汰の趣味になっちゃうだろ? なんかやだな」
涼は普段からバンドメンバー兼同居人の賢汰に服を選んでもらっているので、『ジャイロに相応しい服を』という大義名分を掲げつつも、多少は彼の独断と偏見……ないし、趣味も含まれているだろう。そんな服を着て一日を過ごすのは、少し具合が悪い気がした。
「取り替えっこしたら面白そうなのに〜」
残念そうに漏らす涼に対して、はいはいと笑ってお茶を濁した。提案そのものは面白いが、涼が持っている服のおそらく9割近くは賢汰があてがったものなのだ。素直に着てしまったら、なんとなく彼に負けた気がする。
朝ごはん食べた? まだ〜。お、じゃあ一緒に食べようぜ、パンとご飯どっちがいい? 深幸くんが好きなほうでいいよ。じゃあパンかな。という他愛もない会話をだらだらと繰り広げながら、件のイージーパンツを引っ張り出してきて涼にあてがった。涼は律儀に両手を広げてみせる。
「あ、やっぱり。良いじゃん。かわいいよ」
「地球人っぽい?」
「ぽい、ぽい。どこからどう見ても地球人」
「じゃあそっちにする」
深幸くんが選んでくれたから、幸せも二倍だねぇ。と言いながら、にこやかに着替えはじめる涼。そんなものかねぇと頭を掻いて、ご機嫌な涼を眺めていると、ハッととある事実に気づく。
「やば。俺、まだ着替えてねーじゃん! 涼ちんの服決めて満足してる暇なかったわ」
「オレが選ぼうか〜?」
「えっ。う〜ん」反射的に頷きそうになって、寸でのところでやめた。涼に髪型を弄られたことも、一緒にアパレルを見にいったこともあるが、涼は『他にはないような』非常に独創的なセンスを披露してくれた。そのことを思い出した。「……今日はやめておこうかな」
「えー。また?」
不満そうにむくれる涼。その様子を見て、少しにべもなさすぎたかなと慌てた。
「ごめんって。また今度時間がある時にやろうよ。な?」
そう言って、横髪をかき上げるようにして頭を撫でた。
「じゃあ、今度お出かけする時は、深幸くんを全身コーディネート、してあげるね。テーマは幸福な宇宙」
一瞬で機嫌を治してそんなことをのたまう涼に何も言えず、深幸は苦笑いをした。