夜明けは訪れる ひゅう、と穴に落ちたような浮遊感とともに、脳みそが一瞬青白くなる。反射的に瞼をひらく。次の瞬間には、視界いっぱいに見慣れた自室の光景が広がっていて、思わず安堵の息を吐くと、浅かった呼吸が次第に落ち着くのがわかった。
重たい身体をゆっくりと起こした。シーツが自分の体温で生ぬるい。下を向くと、頭が脳震盪でも起こしたかのようにぐわんぐわんと揺れて吐きそうになった。ドクドクと喉の奥が脈打つ。ひゅう、と喉が鳴った。
無音の部屋を見渡す。たまに猫用の扉から入り込んだにゃんこたろうが寝ている間にベッドの隅で丸まっていることがあるのだが、今日は彼女の気分ではなかったらしい。
――嫌な夢を見た気がする。
寝覚めが最悪だったのでそう確信したのだが、内容が思い出せなかった。無理矢理思い出そうとすると傷つけて擦り切れたVHSのごとく、モザイクがかかった映像がプツプツと途切れて頭の中で再生される。その不気味さをただただ不快に思った。スウェットと肌の間に熱気がたまっていて、じっとりと汗を搔いているのがわかった。指で少し襟元を開けると冷たい空気が直接入ってきて、ぶるりと震えた。
感覚を失っていた足を下ろした。フローリングの床が冷たくて、足の裏が細かい針に刺されたようにちくちくと痛かった。その痛みでふと「暦の上では冬になったのだろうか?」という疑問が脳裡を過る。そういえば、ここのところは大学の課題が一気に増えた気がする。作曲やバンド練習に忙殺されていたせいか、まったく気に掛けることなく日常が過ぎ去っていた。
喉が異常に乾いていた。何度と唾を飲み込んでも砂漠のように干上がっていく。水分が足りない。とにかく水が欲しくて堪らなくなった。
重たるい身体を引きずるように動かして、扉を開けた。廊下の空気に触れた指先が、じんわりと温かくなった。
ふいに、出汁の香りが鼻腔をかすめた。コトコトとかすかな音が遠くから聞こえる。いざなわれるように足を運ぶと、既に身支度を整えた里塚がキッチンで調理中だった。
窓からさしこんだ、白くやわらかな光で目がくらむ。その光で、今が朝なのだと知った。
優しいくせに容赦ないまばゆさに目を擦ると、気配に気がついた里塚がさっと振り向いた。
「おはよう、那由多」
ふわりと微笑む里塚。声が枯れているのがわかっていたので、彼の瞳や眼鏡の縁に目を遣って返事はしなかった。
薄く唇を開きかけた里塚は、一瞬眉を顰めて考える様子を見せた。しなやかな緋色の髪を揺らした彼は
「コーヒーでも飲むか?」
と首を傾げた。いつもは「よく眠れたか?」と訊ねてくる気がしていたが、今日はそれがないのだなと思った。聞くまでもなくひどい顔をしていたのだろう。
いや、水を飲みにきた。
そう言うはずだったのに、次の瞬間には「ああ」と頷いていた。なんとなく、彼が淹れたコーヒーが飲みたいと思ってしまった。
里塚は「そうか」と短く言って頷き、棚からコーヒー豆とコーヒーミルを取り出して粛々と準備をはじめた。
「レモンは要るか?」
「……ああ」
ソファで待っているように促されて、腰を下ろした。まだ心臓がドクドクと鳴っていた。ソファの周りをうろついていたにゃんこたろうが、那由多が腰かけてほどなくして「なー」とひと鳴き、膝に飛び乗ってきた。いわゆる香箱座りをする彼女の背中に手を置いた。ぽうっと灯りが燈るようなあたたかさが伝わってくる。小さく深呼吸をした。
出汁や白米の香りに混ざって、コーヒーの香りが漂ってくる。もう一度空気を吸い込んで、吐き出した。そうして天を仰ぐと、ずっと不安定だった呼吸が徐々に落ち着いてくるような気がしてきた。
*
里塚が淹れたコーヒーを初めて飲んだのは、確か大学受験期真っただ中のことだった。たまたま部屋の掃除をしに来ていた里塚を横目に問題を解いていると、気を利かせたつもりなのか、そっとマグカップを差し出してきた。その時の彼は「気に入らなかったらそう言ってくれ」と、なぜか申し訳なさそうな表情をしていた。
香りからしてコーヒーだろうとは思っていたが、その完成形の様子が見慣れないものだったため、思わずじっと見てしまったことは今でも覚えている。紅茶にレモンを浮かべた代物があるのは知っていたが、コーヒーにもそういったものがあるのは知らなかった。とにかく差し出されたものに口をつけると、酸味と甘味とコーヒー特有の苦味とが交互に味蕾を襲い、……つまり今までに味わったことのない味覚に、那由多は衝撃を受けた。一体なにが起こったのか? 何もわからないまま流し込んだ液体を食道に通すと、靄がかった脳が心なしかスッキリと晴れたような気がした。
飲み干してから、あの感覚が忘れられずもう一杯欲しいと促すと、心底安堵した顔をした里塚が「わかった」と空のマグカップを受け取っていたのが印象的だった。
後日、その謎の飲み物を『夜明けのコーヒー』と呼ぶのだと知った。それ以来、何も言わずとも彼が淹れるコーヒーはだいたいが『夜明けのコーヒー』になった。那由多にとっても特に不満はなかったので、その彼ら特有の暗黙の了解が根付いたまま数年が過ぎることとなる。
*
スタジオを延長可能ギリギリの時間まで利用するのも、当たり前のように同じ空間に里塚が居座るのも、すっかり見慣れたシチュエーションになった。
とっぷりと更けた冬の夜、室内から外に出ると、風は冷たく、肌に触れるとぴりぴりと電流のような痛みが走った。
意味もなく息を吐くと、白い靄があらわれて、先端からふうっと消える。指先の感覚がなくなりはじめたことに気がつき、手のひらを握っては大きく開き、という動作を繰り返していると、背後から「那由多」と声を掛けられる。振り向くと、スタジオから出てきた里塚が手袋と缶コーヒーを持ってこちらに向かってきていた。左手で手袋、右手で缶を受け取ると、じゅわっと溶けるように手のひら――特に右手――に芯からぬくもりが広がる。
「待たせてすまない。中で待っていてもよかったのに」
里塚はそう言いながら首に巻いたマフラーを整え、白い息を吐いた。そもそもお前こそ先に帰っていてもよかったのに。とはこれまでに何度か思ったことはあるが、口に出したことはなかったなと思った。里塚がそうしたいと思うなら、わざわざ無用な押し問答をする必要はない。自分にとっても特に不都合はなく、むしろ自分の手でやらなければならないことが大幅に減る分、効率が良い。結局は彼のやりたいようにやらせればいいという結論に帰着するので、こういった場合は「帰っていてもよかったのに」と思うこと自体がナンセンスなのだろう。
「…………お前は」
「なんだ? 那由多」
声に出してしまっていたらしい。しかし、里塚はどんなにか細くとも那由多の声をしっかりと聴き留める。どうでもいい話だ。決して言葉を続ける必要はない。なんでもない。と会話を切ることもできたが、気が向いたので話を続けることにした。
「お前は、…………本当に、馬鹿だ」
一見すると、罵倒とも捉えられる言葉だ。
里塚は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに何事もなかったかのようにフフ、と普段通りの涼やかな笑みを浮かべた。
「お前のためなら、いくらでも馬鹿になれるさ」
里塚を横目で見たまま、体感一拍分の静寂が訪れる。
「そうか」
缶コーヒーをコートのポケットに入れて、手袋を嵌めた。やはり不要な会話だったなと思った。