空の機嫌が悪いから「ごほごほ、けひゅ、ぜ、」
「酷いな……」
龍に連れられてきた天はなるほど救命に運ばれてくるわけだ、と納得してしまうほどの顔色をしていて、吸入器を乱用していたということもあってか、聴診器を通して聞こえる音にどうしても険しい顔をしてしまう。
「天、天、聞こえるか?」
「ひゅ、わかる、から、」
「よし。点滴つなげて、モニターもらえるか」
処置用のベッドの周りが一瞬で賑やかに変わって、指先に付けた小さな機械からも、胸元に付けた電極からも警告音が鳴って、渋面を浮かべてしまう。
龍から聞いた話では既に規定量を優に超えているという話だったし、心臓の負荷を考えるとこれ以上薬を使用するのは考えてしまう。
少し考えている間に天の数値はみるみる悪くなっていく。取れる手段があまりないのだから、悩んでいる時間はない。
「挿管する。準備してくれ」
「はい!」
嫌がるだろうとわかっていたから、敢えて天の方は見なかった。やめてやれるわけではないけれど、あの顔を見たら気持ちにためらいが生じると思ったのだ。
グローブを付け替えようと歩き出すと、くん、と抵抗がある。仕方なしに振り返れば、涙を流した天がスクラブを掴んでいた。
光を失ったように見えた瞳が、これから自身を襲うだろう侵襲に怯えて、涙を流していた。
「楽になるからな」
「っ、」
嫌だと口が動いたけれど、その口から実際に出ているのは喘鳴と微かな二酸化炭素だけだ。
「悪いな、その嫌だは聞いてやれない」
必要なものが揃ったカートを届けられて、抗議するように腕を掴まれる。それだけの元気があれば抜管だってきっとすぐにできるだろう。
「鎮静頼む」
「はい。九条先生、失礼しますね」
すみません、と小声で謝りながら、馴染みの看護師は楽が指示を出すより先に準備をしてくれていたらしい。素早く側管から鎮静を入れてくれて、天の手が僅かに緩む。
小さくない喘鳴も、低下したまま上がらない血中酸素濃度への警告音も、これで楽にしてやれるのだ。
そこまでの経過が、苦痛を伴うものだったとしても。
「すぐ、楽にしてやるから」
咽頭鏡を手に取ると、鎮静で濁った天の瞳が水分を増す。入れる時も抜く時も、かなりの苦痛だと聞く。毎度抜く時も抵抗があるから、なるべく寝ている時を狙うのに、まるで狙い澄ましたように天は目を覚ます。お陰で抜管後の天の機嫌は毎度最悪で、しばらくは無言で抵抗してきたり、物理的に当たったりする。
それでも、助けるために躊躇はしてられない。
「ごめんな」
嫌だと口にする前に、小さな口に嘴を入れる。ぴく、と体が跳ねたのが見えたけれど、ここまできて止めることはない。目の端に天の手が動くのが見えたけれど、気にする余裕だってない。ここまで来たら、早く終わらせてやることだけが天の苦痛を取り払ってやれる。
「……よし。安定したな」
酸素が供給されているのを数値と聴診器で確認して、ほとんど意識のないまま涙を流す天の頭を撫でる。
「辛かったろ。……頑張ったな」
口元を固定して、虚な目を閉ざす。毛布を直してやろうとすると、シーツに掴んだような跡があって、胸が苦しくなる。汗で張り付いた前髪を払ってやると、その弾みで長い睫毛に引っかかっていた涙が落ちる。目の下の泣いた赤みが痛々しくて、声にならないごめんな、が胸に浮かぶ。
空の機嫌は変わらず悪いままで、救命の窓には大粒の雨粒が叩きつけられていた。
☆
目が覚めて一番にしたことは、ナースコールで楽を呼びつけることだった。
忌々しい管が口に刺さったままだったから、抜いてもらおうと思ったのだ。呼びつけてやってきた楽は慌ててきたように汗をかいていて、申し訳なくなった。
「天? 何だ」
「っ、……」
動きにくい手足と視線で頼むと、楽は眉を顰める。
「抜けって? 今抜いたら苦しいんじゃないか」
管を入れられてからまだそんなに時間が経っていないこともあってか、楽の目は懐疑的だ。自分でも渋るだろう数値なのはわかっていたけれど、それでも嫌なものは嫌なのだ。
「、!」
「あ~……仕方ねぇな。苦しくなる前に教えろよ」
ぐいぐいと力の入らない腕で主張を続けると、楽が頭を掻きながらため息交じりにそう言ってくれた。
どうやら、戦いには勝利できたらしい。ほっとしていると、楽がグローブをつけて帰ってくる。
「噛むなよ」
「……ッ」
固定されていたテープやなんかが外されていって、空気が遠くなる。
「いくぞ」
「うぇ、……! げほ、っごほ、ぉえ」
「落ち着け」
ずるずると喉を滑っていく感覚も、空気を遮断されてしまう苦しさも、咽頭反射も大嫌いだ。生理的にあふれた涙で視界がゆがんで、咳き込んで上手く呼吸ができなくなる。ベッドを起こされて強く背を摩ってもらって、ようやく吐き気や咳は落ち着いた。いつの間にか酸素マスクをつけられていたからアラームが鳴ることはなかったけれど、もう体力は微塵も残っていなかった。
「ん、もう大丈夫か?」
「ん……」
肩で息をしていると大丈夫かと再度問われてしまって、声を出すのはまだ怖くて頷きを返すと、楽は信用していないとでもいうように聴診器を忍ばせてくる。
「……まぁ、吸えてるならいいか。大人しくしてろよ」
酸素マスクが白く濁って、ほっとする。やはり、喉に異物が刺さっていると言うのは精神的にも身体的にもよろしくはない。
なんとか駄々を捏ねて抜管してもらったけど、まだ呼吸状態はお世辞にもいいとは言えない。多分、次に発作が起きたら今度こそ入院だって言われてまた挿管されてしまうだろう。うつらうつらした意識のまま、落ちることだけはなくて、天気のせいか切れることのない人の波で落ち着かない。
またざわざわと騒がしくなったと思えば、自身のものではない喘鳴が聞こえてきて、心配になる。職業病だと笑うしかなかったけれど、苦しそうな呼吸音は自分だって変わらないけれど、落ち着いた今ひどい呼吸をしているその人が心配だった。
「大丈夫だからな」
「聞こえますかー」
聞き覚えのある声掛けや、看護師の持っているもので大体の見当がつく。かなりひどい発作らしい。
耳を澄ましていると、少しずつ呼吸音が落ち着いていく。ほっとしながら空気を伺っていると、からからとベッドが動く音がする。
どうやら、自身の横にいわゆるお隣さんができるらしい。
喘息患者なら知り合いかも、と閉じていた目を開くと、角度をつけられたベッドに黒髪が散っているのが見えて、目を見開く。
「ぃ、おり?」
「くじょー、せんせ」
「ったく。仲良く二人がかりで悪化しやがって」
自身同様酸素マスクで顔の半分を覆われた一織は、なんとか挿管を逃れたらしい。とは言っても、つけられたモニターに表示されている値は些か悪い。苦しそうだな、というのが正直な感想だ。
「だいじょうぶ?」
「せんせぇ、こそ」
「おい、こら。喋るな」
ぺちりと軽く額を弾かれて、一織には荒く頭を撫でている。扱いの差に憤りつつ、一織の様子を診るだけで帰ろうとする楽を引き止める。
「あ? どうした。苦しくなったか」
言い終わる前に聴診器を忍び込まされて、音を確認される。信用がないことに苦い顔を返しながら、まだ苦しそうだな、と酸素をいじるその手を掴む。
「なんだ」
「これ、外して」
「はぁ?」
声の通り何を言ってるんだお前は、という顔をした楽は、他の患者さんにはしないだろう顔でこちらを見る。
「何言ってんだ、肩で息して。外せるわけないだろ。それがあるから今普通に息できてるんだからな。それとももう一回挿管してやろうか」
「……」
「和泉弟も、我慢はすんなよ」
「は、っひゅ、」
「ああ、いい。喋らなくていいから。わかったな?」
さらりと衣擦れの音がして、楽が自分達に背を向けていく。
「は、……こふ」
「だいじょぶ、ですか」
「うん」
まだまだ気管支が狭いようで、息をするたびに笛のような音が聞こえる。自分だって苦しいはずなのにこうして気にしてくるところは相変わらずというか、生きづらそうだなと思う。
「ごほ……」
「せなか、さすってあげようか」
「へー、き、です。せんせも、つらそう」
半分ほど瞼が閉じているのは、時間のせいでも忙しさのせいでもあるのだろう。
うとうとしている一織は、それでもまだ睡魔と戦っているようだったから、ベッドから少し身を乗り出してその頭を撫でてやる。
「いいこいいこ。おやすみ」
「ん、……ぅ」
す、と眠りについた一織を見て安堵すると、天自身も眠くなる。揺れる視界の中楽が歩いてきていたけれど、相手をする元気もなくて、そのまま眠りに落ちた。
☆
救命で天を挿管してから数日経った今日、この間ほどではないが、二階堂が偏頭痛で潰れるほどの低気圧がやってきていた。鎮痛の点滴を二階堂に施して、仮眠室に転がすと、薄ピンク色の頭を探して病棟へ向かう。
幸いすぐに見つかって、声をかけると不機嫌そうな顔で振り向く。まだ何もしてないぞ、と言いたくなる口を引き結んで、足早に天の方へ向かう。やや顔色が青く見えるが、大丈夫だろうか。
「……何?」
「いや、無理してないかって心配になって。吸入器、今日は使ったのか」
「過保護」
「そうならざるを得ないことをしたのは誰だ?」
「ッ……」
黙り込んだのをいいことに、持ってきていた聴診器をワイシャツの上から当ててやる。
「ちょっと、」
「静かにしろ」
やめてと言うように踠く天を抑えつけて、気管支の音を聞く。吸入が必要、と言うわけではないが、注意して見ていたほうがよさそうだ。
「もういいでしょ」
「っと、」
焦れたのか、天が手を振り払ってくる。
「患者さんの前で、やめて」
「そりゃ悪かった。次からは呼んだら診察室に来るってことだな」
「!」
「あんま、無理すんなよ」
抵抗する元気があるならいい。あとで龍にも連絡を入れて、時々様子を見に行ってもらうことにしよう。
そっと撫でた頭はいつも通りで、安心しながら来た道を戻る。天が背後でどんな顔をしているか知ることはなかった。
*
「一織ー」
「? 兄さん?」
キョトンとした目を向けてくる弟は何かありましたか、と問いかけてくる。何かあったのは俺じゃないだろ、と言いたくなりながら、一織の背後へ静かに回る。
「あのっ?」
「ん〜……。一織、今時間あるか?」
「今、ですか? 一応。何かありました?」
「ん、じゃあちょっとついてきてくれ」
「、? わかりました」
きょとんとした顔をしている弟は、どうやらまだ自分自身の状態に気がついていないらしい。大人しく着いてくる弟を情け容赦なく先輩医師の待つ診察室へ連れ込む。流石におかしいと気がついたらしく、後ろからは不安げな声で呼び止められる。
「すみません、十先生」
「ううん。ネブライザーだけだったらすぐ出せるから。一織くん、大丈夫?」
「っ? えっと、あの」
「ほい、座って。あースクラブ捲るぞ」
「ちょっと冷たいかも。ごめんね」
「ひゃっ!?」
頭に? を大量に飛ばしている弟に苦笑いしつつ、真剣な顔で音を聞く十さんの顔色を伺う。
「うーん。そうだね、生食でいいから軽くネブライザーした方がいいかも。息苦しくない?」
「大丈夫、ですけど……」
特に強がっているようにも見えないその表情は、ようやく何のために引き留められたか理解したらしい。
じわじわと逃げ腰になるのを見て、逃げられないよう出口を塞ぎながら、いつものように冷たい指先にspO2をつける。
「ちょっと低いぞ」
「兄さん!?」
「待ってて、今持ってくるね」
「あ、すみません。ありがとうございます」
もともと準備していたこともあってか、十さんはすぐに帰ってきた。マスクがちゃんと成人用なのも、さすがだ。
「はい。これで楽になると思うけど、ダメそうだったら一本点滴落とした方がいいかな。一織くん、今指導の先生誰?」
「ひゅ、もも、先生です」
「あぁ、じゃあ大丈夫かな」
「今許可とってます」
「うん、じゃあしばらくこのまま吸っててね。終わったらもう一回音聞くから」
不本意そうな顔をしているが、一織は昔から集中すると息を忘れる癖がある。おそらく今日もそうだったのだろうが、天気がひどい日は心配になる。
少し荒い息をする弟の背中を、静かに摩った。
おまけ
「ぜひゅ、ごほごほ、っげほ」
「しんどいなぁ……」
珍しく自分から辛いと口にした一織は、研修を早めに終わらせてもらったらしい。ネブライザーもして帰ってきた、と聞いていたけれど、自身が帰宅した時から一織の顔色は優れなかった。息苦しさは一織自身感じてたみたいで、いつもより早めに部屋に帰ります、って言った背中はいつもよりも丸まっていた。
夜半から聞こえてきていた咳き込みは少しずつ大きくなってきていて、心配になって部屋を訪ねると、返事もできないほどに咳き込んでいた。
「よいしょ、あぁ、つらいな……」
声も音もなく涙を流す一織は、細くなった気管支からなんとか酸素を吸い込もうともがいていた。
「もう一回吸入して、ダメだったら急外いこうな」
「す、ひゅ、ませ」
「一織は悪くないだろ〜?」
子どもの頃から幾度となくした姿勢をとって、呼吸を助けてやる。少しは楽になっただろうか。
吹き付けてくる雨の音が嫌いで、一織を連れ去ってしまいそうで、苦手だ。
夜はまだ、明けない。