ヤング・クロウリー ~始まりの物語~ 第二部⑬話「無垢ゆえに……」 グリムヒルデが女王となってから数年が過ぎた。
その歳月は、ディアヴァルにとって幸福なものだった。女王はディアヴァルを「愛しい子」と呼んで可愛がり、どこへゆくにも連れて歩くようになった。彼女の美貌と調薬の腕前の噂は遠い国々にまで広まり、その彼女がカラスを連れ歩くと聞いた人々は「使い魔に違いあるまい」と噂して畏怖の念を深めるのだった。
もともとカラスは賢い生き物として知られており、民話にもその賢さを伝える物語が多くある。その一方でカラスは死体を漁る不吉で不浄な生き物とも見られており、何かと小賢しい悪戯をすることもあって厭われることも多かった。
ディアヴァルは自分の経験から、人間たちがカラスをどう見ているかをよく知っていた。だから最初は女王のお側に付き従うことに抵抗があった。自分の存在が女王の評判を落とすことを恐れたのだ。
しかし女王が堂々とその杖にディアヴァルを載せて連れ歩くようになると、不思議と人間たちの間でのカラスの扱いも賢さに注目した言説が多くなり、不吉さを言うものは減っていった。中には女王の戴冠の演説を引き合いに出して、あのカラスは冥府にいる亡き主君との連絡係に違いあるまい、という者まであらわれたのだ。
……同じ「死」を連想するにしても、こんなにも解釈が変わるのか。人間の考えなんていい加減なものだな。とディアヴァルは思うのだった。
女王に降りかかる困難も多かったとは言え、女王はいつも賢明に判断し、全力で取り組み、問題を解決に導いた。国民からの信頼も厚く、尊敬される君主。いつしか彼女は、国の内外で「美しき女王」と呼ばれるようになっていた。その一方で、彼女の政敵たちは機会をうかがいながら身を潜めていた。彼らは女王のことを「魔女だ」と陰口を叩いたが、今のところはその声が世間へと広まることはなかった。
しかし、ここに一つ、根深い問題があった。
女王とスノーホワイト姫。二人の間には次第に亀裂が生まれ、深まっていたのだ。
スノーホワイト姫は美しい少女に成長していた。顔立ちや仕草、言葉の端々にはまだあどけなさを残していたが、それすらも魅力のうち。もうすぐ類稀なる美貌へと花開くだろう美の蕾がそこにあった。
女王はもう姫を子ども扱いはしなかった。明日の王国を背負って立つ君主としてふさわしい人材に育てるために、優秀な教師を招き、自らも勉強や作法を教え、そして何よりも人々の心の裏を読み、近隣の国々の情勢を読む技を叩き込もうと苦心していた。
だが、そこに問題があった。姫はあまりにも純真で、疑うことを知らず、誰にでもすぐに心を開いてしまうのだ。
それは姫に大きな魅力とカリスマ性を与えていたが、政を考えるときには危険な無分別と同じことだった。
ある日、女王はディアヴァルにこう言った。
「愛しい子、姫には困ったものだわ……。あの子はあまりにも無垢過ぎる。あの子には人の心の裏がわからないのよ。政治の世界は無垢に無垢で返してくれる相手ばかりではないわ。無垢を食い物にする輩が大きな顔をしてのさばる弱肉強食の世界よ。この国の長になって、そのことは身にしみたわ。私だって闇の鏡の助けがなければ、何度足をすくわれていたか……。あのままでは駄目なのよ。とてもこの国を任せるなど出来ないわ。どうしたらあの子にわかってもらえるのかしらね……」
女王の目には深い憂いの色が浮かんでいた。ディアヴァルは、ただ頭を女王の手に押し付けて慰めることしか出来なかった……。
その会話の後、女王の姫への指導は日に日に厳しさを増して行った。
姫はどれほど厳しくされても、いつも笑顔を絶やさず、精一杯課題に取り組んだ。女王もそのことについては感心した。だが、あっさりと、しかも本心から他人を信用してしまうことについては、どうにも改めることが出来ない。学業は人並みで、特に秀でるでも劣るでもない。凡庸と言えた。
この子の無垢さは武器にもなるが、つけこまれれば致命傷にもなるだろう。むしろ裏目に出たときの危うさの方が問題だ……。かといってその弱点を補えるほどに賢いわけでもない。どうしたものか……。
女王の心労は深まるばかりだった。
懸念と亀裂を隠したまま更に年月が流れ、姫は美しい乙女へと成長した。
幼い頃からすでに抜きん出ていた美しさが本格的に花開き、誰が見てもひと目で魅了されるような素晴らしい美人になっていた。
しかし、その無垢さは変わらぬまま。警戒心のなさもまた、変わらぬままだった。
姫には人の心の闇が読めない。それどころか、他人の悪しき心が垣間見えたときですら、姫はそれを赦し受け入れてしまう。そのことが何より、女王の心を曇らせた。
大抵の小悪党は、姫にうっかり悪心を見せてしまっても赦されると、あっさりと姫の心の広さに打たれ心酔した。だが、女王の目から見れば、そんな安い心酔ぶりは、何かあればすぐ手のひら返しされる危ういものに見えたのだ。
まったくもって安心できたものではない。こんなに無警戒では、この子は、否、この国の未来はどうなってしまうのか。本当になんとかしなくては。もうすぐ姫は成人する。そうなったら、この子がこの国を継がねばならぬ。しかし、姫にはまだその準備が出来ておらぬ……。
そんなある日、ついに恐れていた時がきた。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」
「それはスノーホワイト姫です」
その答えを聞いた女王は青ざめた。そして椅子に座ると、しばらくの間こめかみを揉んでいた。
ディアヴァルが女王の前に回り込み、怪訝な顔で女王を見上げると、彼女はいつものようにその美しく細い指でディアヴァルの喉を撫でてくれた。
沈黙のときが流れた。
しばし後。ふっと手を下ろすと、女王は語り始めた。
「ねぇ、愛しい子。私、どうしたらいいの……? 姫には、まだ準備が出来ていない。それなのに世界一の美女になってしまったなんて……。うかうかとどこぞの馬の骨に見初められ言い寄られたら、あの子のことよ、簡単に恋に堕ちてしまうわ。そうなったら、この国の未来はどうなるの……? あの子にはこの国が安泰であるために最も有利な婿を迎えねばならないというのに! ああ!」
そして女王は両手で顔を覆い、鏡の前に突っ伏した。
ディアヴァルは、そんな女王の腕にひたすら寄り添って、せめてもの慰めになればと体温を伝えるしか出来ないのだった。
女王は苦悩の末に、姫に更に厳しい試練を課することにした。
姫を使用人の地位に落としたのだ。
人間は相手の地位や立場でころころと態度を変える生き物だ。もちろんそうではない者もいるが、それは見つけたらけっして手放してはならぬ宝玉のように稀な宝物。人々の尊敬を集め続けるためには自らを厳しく律し、その敬意に見合うだけの上位者としての威厳を示し続けなくてはならない。この子が使用人の地位に落ちたなら、ここぞとばかり馬鹿にしたり粗略に扱う者が出るだろう。そうなれば姫も人間という生き物の現実に目覚めるだろう。ついでに姫への反逆の芽も洗い出せると言うものだ……。
こうして、姫は「修行のため」といってボロボロの服を着せられ、使用人の仕事の中でも最も卑しい仕事を任されることになったのだった。